19

 マダラ宮での第一日は目まぐるしいものだった。トヨミはホキが体調を崩したと言ってピリピリして見るからに不機嫌、近寄り難さを漂わせていた。それが妊娠によるものと知ると喜びを抑えきれず、今度は打って変わって誰にでも必要以上に好意的に接してくる。マダラ宮の召使たちはタチバナ宮から連れてきた者がほとんど、トヨミの気が移ろいやすいのは承知しているものの、それでもこれほどとなると戸惑うばかりだ。


 しかし、一日が終わる頃には彼らの顔にも自然と笑みが浮かぶ。皇子はそれほど妃を愛しまれている。なんと微笑ましいことか――気紛れではあってもトヨミは召使たちを粗末に扱うことはなかった。そんな主人あるじを召使たちも慕っていた。


 クルメ夫婦はトヨミたちと祝いの膳を囲んでからハニウ宮クルメの宮に戻って行った。ハシヒが菊を語った話になるとクルメが『夜だろうが寝ている場合ではないな』と笑い、やはり女たちの顰蹙を買った。よく似た兄弟だとヒリが言えば、クルメが『が尊敬する兄者あにじゃに似ているなら嬉しいことだ』と言ってホキを微笑ませた。


 その日の雪は積もることはなかったものの、日に日に寒さは募っていった。大雪となったのは立春目前のこと、トヨミが庭を眺め溜息を吐く。

「この雪、明日には溶けて消えてくれるといいのに」


 寒いなぁと戸を閉める。明日は都に向かう予定だった。オシフル帝が新たに暦を定め、立春を一年の始まりとした。その祝いが立春当日トヨラ宮オシフル帝の宮で催される。トヨミも祝いに参列する。ほかにも都でなければできない仕事がトヨミにはあるらしい。行きたくないと言いつつ、予定通りトヨミは出かけて行った。


 都でなければできない仕事――帝を中心とした政治の体制を整える、それがオシフル帝とトヨミの考えだった。現体制は帝よりもソガシの思いのままと言える。ソガシから実権を取り戻すことを考えていたのだ。


 トヨミとクルメの話し合いに同席することも多かったが、ホキの知らない言葉が飛び交うことも多く理解できずにいた。ホキの視点では、トヨミたちの父母とオシフルの母はソガシの姉、それに加えトヨミはソガシの娘を妃としている――トヨミとオシフル帝がソガシを排除したがる理由がよく判らなかった。


 ちなみにオシフル帝とトヨミたちの父は同母だが、トヨミたちの母はソガシのもう一人の妹の娘だ。同母は禁じられていたが異母の場合、兄弟姉妹の婚姻が許されていた。よく考えてみればトヨミの妃トウジもトヨミと血縁だ。ひょっとしたら、とホキが思う。ホキを正式な妃にしたのは、同族以外の血を己の血筋に入れたかったからではないか? なんとなくそう思った。


 だがそれは、そこそこ当たっていただろう。帝の血こそ尊い。だからこその同族婚だ。だがここ数代、帝になっているのはソガシの血縁、他の皇子・皇女は短命で帝のくらいには就けなかった。それが何を意味するのかを聡明なトヨミが考えないはずはない。だがトヨミとて、確かな答えを見いだせてはいなかっただろう――


 立春を迎えれば時おり戻りはあるものの、あとはどんどん春めいていく。アスハナの造営もほとんど終わり、あとは個々人の裁量次第となっていた。畑は種まきの準備を終え、その日を待つだけだ。


 マダラ宮の庭の池にはいつの間にかカハズの子がうようよと泳ぎ回っていた。池の周囲にはカキツバタが植えられて芽吹きを見せている。

「花が咲くのが楽しみ」

ホキが池を眺めて呟いた。もう随分腹が膨らんでいる。


 昨日よりトヨミは機嫌が悪い。立春前に都に行き十日ばかりでマダラ宮に戻ったがそれ以来、十日ほどおいては都に行き一泊して帰ってくるの繰り返し、トヨミの機嫌の悪さはその十日おきの都から帰ってきてからだ。気が付くとホキを見ているが、ホキがトヨミを見るととソッポを向いてしまう。どうもホキに不満があるようだが身に覚えがない。


 マダラ宮での暮らしは決して辛いものではなかったが、ホキにとっては居心地のいいものではなかった。何しろなんでも自分でしていたのに、さっぱりすることが無くなった。何人もの召使いがいて、したくてもさせて貰えない。させなかったのはトヨミだ。皇子みこの妃であることを失念して貰っては困る、と言うことだ。かと言って遊び暮らすのはホキの性に合わない。


 雪が解けてからと言うもの、庭を散策しては、植える草木を召使に指示したりしている。それが気に入らないのだろうか? 召使とあまり親しげに話すなと言われた。それからはトヨミに教わった通り、女官を通して指示を出すようにしている。


 やはりトヨミは皇子なのだと感じた。たかが豪族のとは違う――だからと言ってトヨミへの気持ちが褪せることもない。ますますトヨミが慕わしくて仕方ない。己の腹にトヨミの子がいる、それが誇らしかった。


 トヨミの不機嫌の理由が判ったのは、クルメがハシヒトヨミの母とともにマダラ宮を訪れ、ホキも同席し話している時だった。


 ハシヒはカキツバタが咲く頃とホキを見て言ってから、時おりホキをナカツ宮ハツヒの宮に呼び出すようになった。


 使いの者がマダラ宮を訪れてホキの体調を訊く。最初の頃は悪阻で思わしくないと答えることが多かった。すると使い者は承知したと帰っていく。何しに来たのだろうと思ったものだ。


 体調がよいと言えばナカツ宮に来て欲しいと言われた。隣なのだから歩いて行くと言うが、輿を用意したから使って貰わなくては困ると返答される。徒歩で出歩ける身分ではないと己の女官にも言われ、仕方なく輿で運んで貰った。


 ナカツ宮では部屋に通され菓子などを振るまわれる。ハシヒと二人きり、しかも菓子はホキの分だけ……正面にきっちり座したハシヒはじっとホキを睨みつけている。とても菓子を味わえるものではないが、食べないわけにもいかない。ホキが食べ終わると必ずハツヒはニンマリ笑んだ。が、それだけ。ホキが食べ終わるのを見届けるとハツヒはさっさと退席し、ホキはナカツ宮の女官に案内されて、再び輿でマダラ宮に戻された。


 それが近ごろはなくなっていた。ハシヒの顔を見るのは久々だった。今日もハツヒはきっちりと座し、ホキをじっと睨んでいる。ホキの前にはハツヒが持参した菓子が皿に盛られて置かれていた。


 話の中心はクルメだった。ヒリの妊娠がはっきりしたので母ハシヒに報告に行き、これからトヨミのところに行くと言ったところ、ハシヒも同道すると言い出したらしい。トヨミは良かったなと言ったきり、クルメばかりが話している。話しはそのうちヒリのことから政治に移っていった。身分制度が必要だの、ミマンナの地をニイラが狙っているだの、ホキにはさっぱり判らない話ばかりだ。その間もやっぱりハシヒは何も言わずホキを睨んでいる。


 つい溜息を吐きそうになり、慌てて居住まいを正したホキ、トヨミが気付いて

「どうした? 母者ははじゃがホキにと持ってきたのに、手をつけてもいないな」

と訊いた。菓子のことだ。


「あぁ、はい……食べる機会を逸してしまったと言うか」

睨みつけられていては食べずらいとも、一人で食べるのは気が引けるとも言えない。するとハシヒがトヨミを手招きした。


 トヨミが身を寄せると、口元を手で隠してハシヒがトヨミに何か耳打ちする。トヨミは頷いたり、チラリとホキを見たりしてから元の場に座り直してホキに言った。


「腹の子が健やかに育つよう、ホキのお産が軽いものになるよう、まじないを掛けた菓子だそうだ」

えっ? とホキがハシヒを見る。ハシヒは相変わらず怖い顔でホキを見ていた。


「ナカツ宮に呼んでは食べさせていたが、そろそろ出歩くのも辛いだろうと呼ぶのはやめたそうだ。で、今日はクルメが来てマダラに行くと言うので急遽、拵えて持参した――ナカツ宮ではクルミやクリを練り込んだ餅を喜んだそうだな。今日の餅もクルミ入りだそうだぞ」


「なんと、ありがたい……」

ホキがハシヒを見る。が、やっぱりハシヒはホキを睨んでいる。それでも気にせずホキは頭を下げ、菓子を手に取ると口に運んだ。柔らかな餅菓子はほんのり甘く、噛むとクルミの風味が口に広がった。


 聞いていたクルメが

「さすが姉妹、ヒリもクルミやクリが好きなのです。母者ははじゃ、次はヒリにも拵えてくれ」

とハシヒに笑顔を向けた。するとハシヒがフンと鼻を鳴らした。


「過ごしやすい気候になったからな、菓子作りもそう苦でもなくなったが」

ハシヒがクルメを見て言った。

「菓子を拵えるのはヒリだけでよいのか?」


 ギョッとするクルメ、逃げ出したそうな顔をしているのはトヨミ、ハシヒが逃がすものかとトヨミにも視線を向ける。

「トヨミ、なんだ、その顔は? おまえの子を産むのはクルメと違ってどちらも妃。情けない顔をするな」


「えっ? って、クルメ?」

言い訳をどうするか考えていたのを忘れるほどトヨミが驚きクルメを見る。クルメは気拙そうにトヨミを見、ホキのことも盗み見る。三人が何を話しているのか判っていないホキは、自分には関係ないと菓子を味わっている。


「いや、いや、ちょっと、まぁなんだ……」

クルメはどう言い逃れをするか思いつかないらしい。するとハシヒが

「トヨミも人のことは言えまい。ユキマルが呆れていたぞ――が、まぁ、ホキを得てからは遊びも治まったと聞いている」

さらりと言った。


 舌打ちするトヨミ、ハシヒが

「クルメ、子の母親には充分手当てするがよい」

言えば、クルメは何も言えず項垂れた。菓子を食べ終わったホキ、ようやくクルメが妃ではない女をはらませたと気づく。


 クルメにはヒリより前にめとった妃が一人いて、子を三人産ませている。その妃とは別の女に子ができたらしい。しかもその女は妃にできない相手のようだ。


 菓子を食べ終わったホキを見て、いつも通りハシヒがニンマリ笑む。と、いきなり立ち上がった。慌ててクルメも立ち戸を開けると、ハシヒは何も言わず出ていった。廊で待っていた女官に案内されて表に向かうのだろう。戸を閉めてから座に戻ったクルメがはぁッと息を吐いた。

「これだから巫女は始末が悪い。なんで判っちまうんだろう?」


 頭を抱えるのはトヨミも同じだ。居た堪れない様子で黙りこくっている。常日ごろからホキに『其方そなただけだ』と囁いているのに、ホキ以外をはらませたのが気まずいのだ。もっともこちらはクルメと違って身籠ったのはトウジ、トヨミの妃、本来なら隠し立てすることではない。だからホキにも告げなくてはと思うが、なかなか思い切れずにいた。それが不機嫌に見えていた。


 ホキにしてみればますますトヨミの不機嫌が判らない。ひょっとしたら、ハシヒの思い違いで妃ではない誰かに子ができた? でも、それにしたって奇怪おかしい。子とは関係ないことなのか? それも違う。ハシヒが皮肉ってから、トヨミはをまともに見ようとしない。ってことは……


 そうか、トヨミはが厭わしくなった。他に思う相手ができた。相手はきっと都の人、都で生まれ育ったトヨミだ。都の女人にょにんは美しいと聞く。トヨミのははさまもあんなに美しい。田舎育ちでさして美しくもないのことなど、最初は物珍しかったかもしれないが飽きてしまった。トヨミが物好きで好奇心旺盛なのは知っている。


 立春以来、十日おきに都に行くのはその人のもとに通うためだ……

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