16

 ソガシの屋敷ではソガシが、トヨミが新しく妃を迎えることになったと娘トウジに話していた。トウジはトヨミの妃だ。


 話を聞いてトウジが鼻で笑う。

「誰が妃になろうとトヨミが変わると思えない」

ところがその相手がカタブの娘で、しかも妃にできなければ摂政を断るとトヨミが言ったと聞くと顔色を変えた。


「確かクルメトヨミの弟が近ごろ妃に迎えたのもカタブの娘――どうやってカタブはタチバナトヨミの宮の皇子二人に取り入ったの?」

「降って湧いたような話だと驚いて、戸惑っていた。あの男が仕組んだわけではなさそうだ」

「カタブとはどんな男なのです?」


「よく働く男だ。の役にも立ってくれた。だがこれからはタチバナにつくのだろうな」

「良いではありませんか。どうせタチバナだけでなくトヨラヌカタベの宮父親てておやさまの言いなり」

「人聞きの悪いことを言うな。トヨミもヌカタベも、決して言いなりにできるものではないぞ」


「あら、そうでした? トヨミのははさまが自分の夫の息子の妻になったのは、そうなればトヨミもクルメも安泰だと、父親てておやさまがハシヒを脅したからでは?」

ハシヒはトヨミの母の名だ。


 舌打ちしたそうな顔でソガシが答える。

「トヨミもクルメもまだ幼かった。夫の息子なら頼りがいもあるだろうと勧めたまでのこと」


「それを脅しとハシヒが受け止めたって不思議じゃないけど?――まぁ、そんな事より、そのカタブ、まさか父親てておやさまに取って代わろうなんて考えていないわよね?」

に取って代わる?」

「ホキと言う娘がトヨミの子を産み、トヨミが帝位に就けば父親てておやさまと同じ立場になる」


「安心しろ、トヨミが帝になったとして、トヨミの子が次の帝となるならヤマセだ。おまえの産んだ子に決まっている――おまえはカタブの娘とは違う。帝の従妹だ。それを考えればカタブの娘など物の数にも入らない」

「本当にそうかしら?」


「よく考えろ。身分の低い娘など妃とは名ばかり。そして物は考えようだ。カタブの娘が子を産めば、その子はヤマセの従者となる」

「そうなればいいけどね――ヤマセを見てくる」


 トウジが一番気にしていたのはトヨミがどうしてもホキを妃にすると言い張ったことだ。トヨミはトウジが知る限り、我を通したことがない。そのトヨミが無理を通してまでも望んだ女――許せないと思った。トヨミの妃はだけでいい。がものにするためにトヨミの最初の妃、皇女ひめみこカタコに消えて貰ったのに……


 ヤマセの部屋に行くと、眠るヤマセの傍についていた乳母が恭しく頭を下げて場所をトウジに譲った。


 トウジが思う。ヤマセはなんと可愛いことか。愛らしい口元、起きていればトヨミに生き写しの美しい目を見ることもできるのに。でも、寝ている子を起こしてはいけない。せっかく眠っているのだもの。


 息子ヤマセの顔を眺めてトウジが思う。この子がいるのだから他の妃になど子を産ませたくない。


 でもいいわ。トヨミはすぐ飽きるだろう。あの皇子は移り気でなんにでも興味を持つが、ある程度知ると興味を失うのが常。きっとその女に通うのも初めの内だけ。でも、もし長く通うようならばその時は、ホキと言う娘にも消えて貰おう――


 摂政になると同時にアスハナの開拓に着手したトヨミは、都よりアスハナに近いカシワデ、つまりカタブの屋敷からアスハナに赴き、カタブの屋敷に帰る生活を送ることにした。かと言ってタチバナ宮を手放したわけでもない。皇子が婿入りするはずもなく、要するに宿舎代わりと言ったところだ。もちろんその分カタブに謝礼を渡している。カタブは固辞したが、トヨミはそれを許さなかった。


 皇子たるもの、妃の実家に世話になるわけにはいかないとトヨミは言ったが、カタブとしては甘えて欲しいのも本音だった。トヨミの面倒を見ておけば、後々恩恵があるはずだとの打算もあったが、実際のところ娘が可愛いだけだ。


 トヨミもそのあたりを察しているものの、だからと言ってカタブに応じはしなかった。こちらはソガシへの遠慮が本当の理由と言える。妃を何人も持つのは珍しいことではない。だからソガシもそこに文句は言うまい。問題なのはソガシよりもカタブ、いや、トウジよりもホキにことを明白あからさまにし過ぎることだった。ホキよりもトウジのほうが大切だと、表面上だけでも取り繕わなければならない。


 すでにトウジとの間にはヤマセが誕生し、夫としての義務は一応果たしたのだから本音としてはトウジに会いになど行きたくない。だがソガシの手前、切り捨てられないし、が子は可愛い。それに……最初の妃カタコ亡きあと、トヨミを慰めてくれたのは確かにトウジだった。それをトヨミは忘れていない。


 そんなトウジへの思いも愛情なのだとトヨミが気付いていたのなら、あるいはトウジとトヨミの仲もここまでこじれることがなかったかもしれない。トウジもまた、素直に己の思いをトヨミに伝えられる女だったなら、トヨミもまた変わっていたかもしれない。


 だが、互いに相手の腹を探りあう二人だ。円満な夫婦になるのは土台無理な話だった――


 アスハナの開拓は順調に進んでいた。トヨミに従う豪族は何もカタブに限ったものではない。それら豪族がこぞって協力を申し出、あっという間に集まった工夫たち、彼らの住処がアスハナの片隅にまずは造設される。町割りが出来上がる頃にはトヨミの宮の建造がマダラにて始まり、ほど近い場所にクルメの宮の建造も計画された。さらに宮はもう一つ、これはマダラ宮に隣接する近さ、ハシヒのための宮だ。


 トヨミの母ハシヒは既に二人目の夫も亡くしていた。が、オシフル帝ヌカタベの異母妹であること、また異母姉ヌカタベ同様美貌であったことから夫の座を狙う男も多かった。摂政トヨミに近付けるという思惑も働いていたことだろう。トヨミはそんな母皇女ハシヒを保護するべく、己の傍に置くことを考えていた。かつて、夫を亡くしたばかりのヌカタベオシフルを襲った男がいた。同じことが己の母に起きたらと思うと身の毛が弥立よだつ。


 トヨミがタチバナの実をホキのために持ち帰ったのは、経過報告のため都に出向いた翌日だった。オシフル帝のトヨラ宮に行ったついでにタチバナ宮に足を延ばし、一泊している。母ハシヒの様子を見る目的もあっただろう。


 深まった秋がもうすぐ冬だと告げていた。が、その日は陽が昇るにつけ徐々に気温が上がった。トヨミがカタブの屋敷に戻った昼頃には、その季節にしては穏やかに温かくなっていた。


 タチバナの香りを楽しみながらホキが尋ねた。

「マダラ宮に移ったらタチバナ宮はどうするのですか?」

茣蓙ござに横たわり、立てた肘に頭を乗せてホキを眺めながらトヨミが答えた。

「都での拠点を失するわけにもいかない。そのままにしておく」


「庭のタチバナが見事なのだとか……初めて会った時、トヨミって何かいい匂いがすると思ったの。あれってタチバナの匂いだったんだって、こないだ気付いたわ」

「初めて会った時? 芹を一緒に摘んだ日のことか?」

「一緒じゃなくって、わたしの代わりにトヨミが摘んでくれたのよ」

こだわるようなことか? トヨミが笑う。


「タチバナは花だけでなく実も葉も同じ香りを放つからな。それが装束にでも染みついていたんだろう」

「一年中いい香りのする宮なのね」

「マダラには何を植えたい?」

「あら? の願いを聞いてくれるの?」

「ホキの願いならなんでも叶えると約束したぞ」

ホキがくすぐったそうな顔をしてウフフと笑う。


「タチバナもいい。だけどツバキもいい。冬でも葉が艶々と緑に輝くものがいいわ」

「なるほど。だったらツバキか……」

「マダラの宮に木を植えるのはまだまだ先でしょう? よく考えてから決めてもいいのでは?」

「雪が降り始める前に宮は完成させたい。寒くなってからさえ、タチバナ宮に母者ははじゃを一人にしておくのは気の毒だ……ん-、まぁ、植栽は来春でもいいか?」


義母ははさまは息災で?」

「うん、昨日はヌカタベ……オシフル帝もとともにタチバナ宮に母者ははじゃを訪ねてくれた。二人してを虐めるものだから参ったよ」


「ねぇ、トヨミのははさまってどんなかた? ヒリがね、近くに住むことになるのを怖がってたわ」

「怖い? オシフルならともかく、母者ははじゃは温厚だから怖がらなくてもいい」

「え……帝は怖いかたなの?」

「いや、から見れば、だ。すぐに小言を言う、怖い伯母だ」

これはトヨミの誤魔化しだ。


 オシフルはヌカタベと呼ばれていたころから政敵を闇に葬ることを厭わない冷酷な面も持っていた。テイビの乱の発端は皇子の暗殺、それを命じたのはヌカタベではないか? 暗殺された皇子こそ、未亡人となったヌカタベオシフルを襲った男だ。幸い未遂に終わったもののヌカタベを助けた臣が皇子に虐殺されている。ヌカタベが皇子暗殺を企てても奇怪おかしくない。


 ソウシュン帝謀殺・アヤマ討伐には明らかにヌカタベが関与している。それらを思い、つい『オシフルヌカタベならともかく』と口にした。ホキに言っていいことではない。迂闊だった。


義母ははさまはを気に入ってくれるかしら?」

「己が息子に穏やかな日々を運んでくれているのだ。気に入らないはずがない」

またもホキがウフフと笑う。


「それで、義母ははさまの宮の完成はいつ頃になりそう?」

「あぁ、あと数日で住めるようになる。が宮はもう少しかかるがクルメの宮もそんな感じだ」

「アスハナの街はどんな感じ?」


「町割りが済んで、そろそろ豪族たちの屋敷も建ち始めた――カシワデの郷の者たちが住む地域も決まったからな。そろそろカタブも、己の屋敷の建造に取り掛かるんじゃないかな?」

「あら、これからなのね。がアスハナに移るのはいつになることやら」

するとトヨミがキョトンとする。


「何を言う? ホキはとともに、完成し次第マダラ宮に移るんだぞ?」

「本当に? トヨミがマダラに行ってしまったら寂しいって思ってた……ずっと一緒に居られるのね」

「そうだよ、だから泣くな」

「嬉し泣きだわ、いいじゃないの」

涙ぐむホキ、微笑んだトヨミが何かを思いついて立ち上がった。

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