14

 夕餉の片付けを終えて自分の部屋に戻るとホキは、暫く庭を眺めていた。すでに椿は花の時期を終え、低い位置に咲くヤマブキもそろそろ散り始めている。風は柔らかく生温なまぬるく、そろそろ雨期が来るぞと告げていた。


 クルメが通い始めてからと言うもの、ヒリは手伝いを一切しなくなった。初夜の翌日は身体が痛むと言って一日中横になっていた。そんなヒリをホキが気遣い、いっさいを引き受けた。それが数日続き、気が付くとヒリは日がな一日己の部屋に引き籠るようになっていた。


 母がヒリをたしなめるが、カタブがヒリを甘やかす。

『ヒリは皇子の妃ぞ。家人が使ってよいはずがない』

確かに一理ある。それでも食い下がろうとする母をホキが止める。

『ヒリの分もが働くから』


あねさま、いつもありがとう』

隣でヒリがホキに頭を下げる。そうなるとカタブの妻も何も言えない。


 クルメは足しげく通ってくるが、ホキを召すことはない。ヒリ一辺倒、ホキのことなど忘れたか? ホキが不憫ふびんでならない。せめて姉妹を分け隔てするのを避けたいのに、状況が母にそれを許さない。謝りたいが、謝ればホキに現実を突きつけるようなものだ。なおさらホキが惨めになる。だから口をつぐんだ。


『よいか、ヒリは皇子からの預かりものと思って大切に扱え』

カタブが妻にそう言い、チラリとホキを見る。


 せっかく部屋を整えたのにトヨミはあれ以来、ホキのところへ来ない。当てが外れたとガッカリしているカタブだった。だが、それをホキに言う気もないし責める気もない。妻同様、ホキが不憫でならない。こうなったらよい相手を探してやろう。


 カタブもその妻も、トヨミが密かにホキに会いに来ていることには気づいていなかった。カシワデの郷の者もホキが都の貴人に捨てられたと思い込んでいる。時おり郷のはずれで見慣れぬ馬を見ることはあっても、ヒリに会いに来た皇子のものだろうと思っていた。黒い立派な馬だ。所有者は皇子に違いない――


 庭を眺めながらホキが思う。妹はクルメが通うようになってますます美しくなった。初めての夜の翌日は元気がなかったものの、その夜クルメが来たと聞いた時は目を輝かせた。体調が思わしくないと横になりっ放しだったのに慌てて身支度を整え、

あねさま、どこか可笑おかしなところはない?』

他者にどう見えるかを気にしていた。ヒリは一夜でクルメに夢中になったのだと、ホキは思った。それともホキに宣言したとおり、幸せになるためにクルメを受け入れる努力をしているだけなのだろうか?


 でもきっとそれだけじゃない。ヒリはクルメが来るのを心待ちにしている。カタブが言っていた。ヒリが急かすものだから、クルメとロクに話もできなかった……クルメが来ると二人きりになりたがるのはヒリのほうらしい。根拠はないものの、ヒリがますます美しくなった理由はそのあたりにあるような気がした。


 昨夜もクルメはヒリの部屋で過ごしていった。朝になり、クルメが去った後にホキはヒリの部屋の片づけを手伝っている。最初の頃と違い身体の痛みを訴えるようなことはなくなったが、クルメの訪れがあった次の日のヒリはいつも気怠そうだ。だから手伝うようにしていた。


 ともにとこを片付けながらヒリを見ると、夜着に顔を埋めてなんとも言えない微笑みを浮かべていた。なぜヒリが微笑んでいたのかは判らない。夜着にクルメの匂いを感じて思う相手を偲んでいたのかもしれないし、昨夜のことを思い出していたのかもしれない。そしてホキは思った。妹は女になった……


 トヨミもクルメに負けないくらいホキに会いに来てくれる。けれどすぐに都に戻って行く。その短い時間はいつも楽しいものだった。


 トヨミは都のことや自身のことを話してくれ、ホキの話を聞きたがった。そして優しく微笑んでホキを抱き締め、好きだよと耳元で囁いてくれる。別れ際には必ず唇を重ね、また来ると言って帰っていく。それだけでホキは充分幸せだと感じていた。


 それなのに、近頃は都に戻るトヨミを引き留めたいと感じている。もっと長くそばに居て欲しい。それに――ねぇ、お願い。もう一度唇を……


 夢の中でトヨミに唇を吸われ、ハッと目覚めるときがある。そんな時は夜の闇を見詰め、トヨミのいない寂しさに震えていた。


 今日は来てくれるだろうか? 月を見上げてホキが思う。前に来てから二日、たった二日でこんなに会いたい。


 開拓するのはアスハナと決まったとトヨミから聞いた。宮を建てるのはアスハナにあるマダラと言う場所だとも聞いた。下見に行った際、まだらな色の鳥が一斉に飛び立った。だからが、その地にマダラと名を付けたと楽しそうに言っていた。宮が建つのが待ち遠しい。でも本当に、トヨミはをそこに住まわせてくれるのだろうか?


 そう思ってホキが首を横に振る。トヨミを信じるって決めたじゃないの……自分に言い聞かす。


「どうした? 首でも痛むのか?」

耳に飛び込むトヨミの声、うつむいていたホキが顔をあげる。

「トヨミ!」

膝を立てて少しでもトヨミに近付こうと前屈みになるホキを、トヨミが慌てて抱きとめる。


「こら、床から転がり落ちるぞ」

「でも落ちなかった。トヨミが支えてくれた――会いたかったわ」

「嬉しいことを言ってくれる」


「今日は早い時刻なのね」

「時間ができれば真っ先にしたいのは、ホキに会いに行くことだからな」

「少しは忙しさが減った?」


「開拓する地も決まり、あとは人を集め計画を進めるだけだ――そんな事より、庭を見ていたのか?」

ホキを放したトヨミ、ホキの隣に腰かける。

「ヤマブキも終わりだなぁって見てた」


「季節とは言え残念だ。夜目にも黄色く浮き立って美しかった――の屋敷ではタチバナが咲いている。一枝、手折ってくれば良かったな」

のために?」

「ほかの理由が何かあるか?」

嬉しい……トヨミにしな垂れかかるホキ、トヨミがホキの肩に腕を回した。


 そのまま暫くそうしていたが、

「もうじきに雨期になるわ」

ポツンとホキが言った。


「雨が降っても会いに来てくれる?」

「もちろんだ。クロコマは雨を恐れはしない」

「でも、トヨミが濡れるわ」

「ふむ。ならば雨粒にを濡らすことを禁じよう」


「そんなことができるの?」

驚いたホキが身体を起こしてトヨミを見る。トヨミが笑って答える。

「できるとも。だがな、雨粒は数が多い。一度の命令で言うことを訊いてくれるのは一粒だけだ」

「へっ?……」

少し考えこんだホキ、トヨミの冗談と気が付いて笑う。


「そう言えば、トヨミにして欲しいこと、まだ言ってなかったね」

「うん、聞いてない。何か思いついたのか?」

「思いついたような、ついていないような?」

「勿体つけずにはっきり言ったらどうなんだ?」

トヨミが再度、ホキの肩に腕を回す。そして耳元で、

「ホキの願いならなんでも叶えてやる。無理なことを言われたってだ。時間がかかっても必ず叶える」

ささやいた。


「だったら……」

トヨミの胸にホキが顔をうずめる。


 だったら毎晩会いに来て。だけどそれを言ったら嫌われはしないか? できない事じゃないはずだ。だけどトヨミの負担はきっと大きい。

「だったら?」

トヨミが先を催促する。


「だったら……毎晩、夢に出てきて」

「夢?」

「夢の中でもいいの、トヨミに会いたい」

ホキの肩に回したトヨミの腕に力が籠る。


 夢の中でもいい――それは、本当は夢ではなく現実で会いたいということだ。それなのにホキはトヨミに遠慮して『夢で会いたい』と言っている。


 込み上げる愛しさにトヨミがホキを抱き締めて唇を寄せる。なのにホキはトヨミの胸に手を当てて逃れようとした。

「どうした、今日はイヤなのか?」

戸惑うトヨミをホキが見つめる。


「トヨミ、もう帰ってしまうの?」

「えっ?」

ホキの目には涙が浮かんでいる。そうか、このところ帰り際にしていたんだった。


「今夜は都に帰らない……部屋に入ってもいいか?」

一瞬ホキの顔に驚きの色が浮かぶ。けれどすぐにトヨミの胸に縋って言った。

「えぇ、同じとこで休みましょう」

トヨミがひょいっと部屋に入ってくる。静かにホキが戸を閉めた。


 寝そべってぐったりしているホキの身体を後ろから抱き締めているのはトヨミ、首筋に唇を這わせ、三度めにホキをいざなおうとしている。


 もう許してと言いたいのに言えないホキ、行為がイヤなわけじゃない。乱れる自分が恐ろしいのだ。


 ヒリが初夜の翌日ぐったりしていたのも今は実感として判る。身体が痛いと言っていたけれど、それだけじゃない。全身を駆け巡る疼きに衝撃を受けていたのだ。


「ホキ……」

愛撫の手を休ませることなくトヨミが囁く。

「ずっとこうしたかった。一目見た時から……」

そして思う。これはさっきも言った。ずっとホキがその気になるまで待っていた。待たなくてもよくなった今、欲望が止められない。何度も押し寄せてはホキを求める。


「トヨミ……」

ホキが名を呼んだのは、求めに応じるという意味か? それともホキ自身が求めているからか? どちらにしろ切ない声にトヨミがさらに高まっていく。


 が、急にトヨミが手を止めて、庭の方を向いた。そして慌てて起き上がると、ホキに夜着を被せ、自分も身にまとって庭の戸を開けた。


「どうしたユキマル、何かあったのか?」

しゃがみ込んで小声で訊いた。ホキからは見えないが、戸のすぐ下に人の言葉を語る白い犬ユキマルが来ているらしい。


「トヨミ、大変だぞ。すぐに都に戻れ――アヤマがハツベの宮を襲った」

「なんだって?」


 こうしてはいられないと、慌ただしく身支度を始めるトヨミにホキが尋ねる。

「ハツベって誰? アヤマって誰?」

だがトヨミは答えない。


 ハツベと言うのは帝になる前の呼び名、帝としてはソウシュン、ソウシュンと言えばホキにも判るはずだ。だが帝が襲われたなどと軽々しく言えるものではない。


 もし軍を動かすのなら帝のほうだと考えていた。皇子を襲うならともかく、帝を襲うなどあり得ない。

 

しばらく来られないと思う」

立ち去るトヨミをホキは見送るしかなかった――

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