遂に来た、その朝。



 私はなんとか熱から回復したのですが、あの人はやけにそわそわしている様子でした。正直、これから出征される御方としては、少々似つかわしくありませんでした。



「忘れ物はありませんか?」



「ああ、うん、大丈夫」



「……」



「……」



 しばらく沈黙が続いていると、あの人が独り言のように口を開きました。



「人を殺す時ってのは、一体どんな感覚なんだろう」



 その問いが物凄く残酷に聞こえて、私は焦って答えました。



「こ、怖いのですか? 人を殺すのが」



「いや、そうじゃない。もしかすると、案外、簡単に、料理で肉を切る時みたいに、殺せてしまうのかも知れない」



「嫌なことをおっしゃらないで下さい。私は、あなたが生きて帰ってくれたら、それだけで……」



「もし、帰ってこなかったら?」



「……意地悪なことをお聞きなさるのですね……」



「あ、いや、すまない……。ただ、僕は、帰ってこられる気がしないんだ。君とまた会えることだって、出来ないかも知れない。でも、最後に、君が元気になった姿を見られて、すっかり安心したよ」



 あの人の言葉を聞いた途端、今まで心の奥底に抱えていたものが全部溢れ出してきて、私は、胸が苦しいほどに熱くなっていくのを感じました。そして、自分でも記憶にないほどの速さで、不意に、あの人にキスしてしまいました。その瞬間、私は、再び夫に、妻として、女として、恋に落ちていました。



 唇を離して、色々と考えている内に、はっとなって、あの人の顔をうかがうと、驚くことに、あの人は顔を真っ赤っ赤にしていました。そして、私がまだ何も言っていないのに、



「ちょ、ちょっと熱があるだけだから……」



 と、どこかの誰かの真似をされていました。



 しばらく二人で恥ずかしくなって黙り込んでいましたが、



「じゃあ、行ってくる」



「はい。お気を付けて、いってらっしゃいませ」



 という平凡な会話を残して、私たちは別れを告げました。あの人を見送ると、私は玄関の戸を力強く閉めて、もう誰もいない家の中に入りました。



 あの人が戦地へ行かれたのは、ミッドウェーでの大敗が、新聞では、「太平洋の戰局此一戰に決す」と、勝利の発表に塗り替えられていた頃でした。それから、火薬と血に満ちた永い戦いが繰り広げられて、いつしかB-29による焼夷弾も沛然と降り始めましたが、私は、両親の反対を押し切って、疎開することなく、たった一人で〝私たち〟の家を守りました。



 例の相手とは、決別いたしました。よく一緒に通ったカフェーへ呼び出して、単刀直入に私の気持ちを申し上げました。どうやら男というのは、女のほうから振られてしまうと、ひどく衝撃と苦痛を感じるようで、相手は慌てふためいて、考え直すよう私に迫りました。小説家らしく、詩的な文句を並べ立てていましたが、私は、「やっぱり主人が好きなの」とだけ言って、見向きもしませんでした。何度も私に触れ、私を愛撫してきたその手を振り払って、カフェーから立ち去りました。今では、どこで何をしていらっしゃるのか、少しも存じ上げません。



 国中が戦争で大変な苦労をしているのに、自分だけ置いていかれたように、私は日々をただぼんやりと過ごしていました。退屈を紛らわすために、広いというのに今まで一度も使っていなかった裏庭で、沢山の野菜を育ててみたり、あの人の自室に置いてあった書物を、こっそりお借りして読んでみたり、時には、床の上でだらしなく寝そべってみたりしました。戦時下の厳しい統制の中でも、私は、自分のしたいことを、無邪気でやんちゃな子供みたいに、楽しくやってのけていました。







 久しぶりに来客があったのは、あの人の出征から二ヶ月ほどが経って、連合軍がガダルカナル島への上陸を始め、季節が完全に夏へと移り変わった時分のことでした。玄関の戸を叩いた人物は、夫が恋い慕っていた女の人でした。



 私が驚いてしまって、次に発するべき言葉が浮かばずにいると、



「あのー、すみません、戸山清蔵さんのお宅は、ここで合っていますでしょうか?」



 と、女の人が聞いてきました。



 第一声にあの人の名前が挙げられた途端、私は、まるで背後から鋭い刃物で突き刺されたかのような感覚に陥りました。



 私が小さく震えた声で、



「は、はい……。ここは主人の家で、私は妻のほのかですが、あ、あの、どういったご用件でしょうか……?」



 と尋ねると、



「あ、いえ、大したことでは……。あの、私、昔仕事で清蔵さんとご一緒させていただいた、青木という者なんですが、清蔵さんが、勤めていらっしゃる会社をお辞めになったと聞いて、ご本人に理由を尋ねたら、別のところで働くようになったとおっしゃっていたんです。その時は納得したのですが、後になって、なんだかそれが怪しく思えてきて、非常に気になってしまって、不躾にもこうしてお伺いしたのですが、清蔵さんは今いらっしゃいますか?」



 と、あちらも恐る恐る聞いてきて、女二人で奇妙な構図を描いていました。



 ですが、私は、彼女の問いを反芻している内に、次第に気分が悪くなり、やがて怒りが込み上げてきました。そして、目の前にいる青木さんが、あの人が愛した女性であると分かっているのに、自分の不倫を棚に上げて、私は、



「主人は、二ヶ月前に、召集を受けて出征しました。あの人は優しいですから、きっとあなたには、嘘をついて、黙っていたのだと思います。いつ帰ってくるかも、生きて帰ってくるかも分かりません。ですから、主人はここにはいません。あなたが会いたがっている、戸山清蔵は、ここにはいません」



 と、無慈悲な言葉を吐き出しました。



 自分でも、無理して声を荒げていたので、はぁはぁと息が乱れました。反対に、青木さんは、私の台詞を受けて、しんみりと黙り込んでしまい、それから、



「そ、そうですか……。分かりました。いきなり押しかけてしまって、すみません。失礼いたします」



 と言い残して、陽の光が能天気に降り注ぐ急坂を、一人下っていきました。



 私は、今更、彼女に悪いことをしてしまったと思い始めて、無気力にその場に座り込んでしまいました。互いに許していたとはいえ、配偶者がいるというのに、よその男に手を出していた私が、あの人と恋仲にあった彼女を非難するなんてことは、あまりにも身の程知らずで、私はとんだ愚か者でした。いくら後悔と反省を繰り返しても、彼女はもう帰ってしまったので、私はどうすることも出来ませんでした。







 あの人がいなくなってから、三年以上の歳月が流れた、昭和二十年の八月十五日、陛下直々によるラジオ放送で、大日本帝国の敗北が知らされました。



 放送を聞き終えると、私はすぐさま玄関へと走り出し、思いっ切り戸を開けて、眼前に広がる青空を眺めました。あの人が出征した日、まだ日本が負けていなかった頃と変わりない、自由で美しい空模様が、そこにはありました。



 ああ、日本が、遥か遠くの外国に敗れたということを、天皇陛下ご自身のお言葉で、国民に伝えさせるなんて、なんと惨めなことだろう……。ひどく呆れてしまった私は、この国の未来を、青空の下で、ただ漠然と憂えているだけでした。



 しかし、私は、最後の最後に、御釈迦様からの慈悲を受けました。



 終戦のおよそ三ヶ月後、あの人の復員の知らせが、私のもとに届いたのです。



 私は、最初、数分もの間、固まってしまいました。そして、いつからか記憶が薄れていった夫の顔に、段々色彩と現実味が蘇ってきて、私はようやく意識を取り戻すことが出来ました。



 あの人を浦賀まで迎えに行った日、私は生き返りました。戦時中の生活は、どんなに楽しかったとしても、いつも近くに不安と死がつきまとっていて、人間として、本質的に楽しく日々を過ごせているようには思えませんでした。あの人が帰ってきてくれるなんて、夢にも思わなかったものですから、私は、柄にもなく、浮かれていました。人間として生きられること、あの人の妻でいられることへの喜びで、私は胸が一杯でした。



 しかし、港に着くと、埠頭は人で埋め尽くされていて、私は、ちょっと歩いただけで疲れてしまい、近くにあった小さな貨物の上に腰を下ろしました。



 考えていたものと違っていて、私はしょんぼりしました。そんな私の前では、再会を果たした数多の家族が、涙を流していました。すると、私は、もらい泣き、ではないけれど、その人たちとの間に壁を感じて、色々と不安になってしまい、顔は伏せていましたが、遂には、ぽろぽろと涙を零してしまいました。



 あの人は、多くの敵を殺めて、果てしない仲間の屍を踏み超えて、私のもとに帰ってきてくれたんです。そして、この無数の群衆の中にも、ちゃんといるはずなんです。それなのに、あの人を見つけられず、一人寂しく座っていると、もしかして、復員したなんてことは、誰かの虚偽か、私の幻覚で、あの人は私から遠く離れて、ここにはやって来ないんじゃないか、という恐怖に駆られて、私は震え上がりました。



 慌てて辺りを見渡しましたが、どこにもあの人の姿はありません。そして、周りの人声や雑音が、少しも掻き消されずに、私の耳を気色悪く通り抜けていきました。耐えられなくなった私は、耳を両手で塞いで、訳の分からぬことを必死に考え込んでいました。




「ただいま」




 その時、他の誰でもない、たった一人の声が、人声とも雑音とも判別されずに、指の隙間から聞こえてきました。



 顔を上げると、目の前に男の人が立っていました。



 軍服は汚い上にぼろぼろで、以前よりだいぶ痩せています。段々剃るのが面倒になったのでしょう、顔には髭がびっしりと生えていました。けれど、どこからどう見たって、初めは自分以上に未熟でぎこちなかった私を、四年も見捨てずに大切にしてくれた、私の夫でした。



 私は、立ち上がると、涙目になりながら、一生懸命笑顔を作って、



「おっ……おかえり、なさい……」



 と答えました。



 私の様子を見て、あの人も、上手く語り尽くせないような笑顔をなさってから、くたくただった私を、いきなり力任せに抱き締めたので、私をさらにくたくたにしてしまいました。ですが、そんな野暮なことは言わずに、私は、あの人の優しい腕の中に、ずっと収まっていられました。三年の孤独の償いなんか要らないぐらい、その時、私は幸せでした。

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