DIGITAL SINGLE「Bride」
五十嵐璃乃
01. Bride(2025 Mix)
上
闇の中をこそこそと泥棒のように通り抜けて、夫が待つ自宅に辿り着いた時は、なんとも言い難い気分になるものです。
すっかり夜が更けて、どこの家も灯りが消えているというのに、あの人は心配性だから、こんな夜遅くまで他の男と一緒にいた私のことを長い間待っていてくれて、私たちのお家にだけ、居間の電燈が点いていました。
私が「帰りました」と少し大きな声で言うと、あの人は玄関まで飛び出してきて、「ああ、お帰りなさい」と、安堵の表情を浮かべました。
「作り置きしていたおむすびがあったんですが、ご飯は外で召し上がりました?」
「ああ、いや、家で食べたよ。いつもすまないね」
また、嘘を言っていらっしゃる。本当は、好きな女の人と一緒に食事をしてきたのだから、お皿だけ残して、食べ終わったかのように見せかけた上で、自分の部屋まで持っていって、後でこっそり召し上がるつもりなのだ。それを私も分かっていましたから、その時は知らないふりをして、翌日の朝食は少なめに作っておくと、あの人の胃袋には丁度いいのです。
こんな風に互いに気を遣うような生活を続けて、もう一年が経っています。どちらが先だったかなんて憶えていませんが、結婚して数年が経って、私もあの人も、好きな人のもとに出掛けるようになっていました。
お互い、不満があった訳じゃありません。夫婦である以上、特別な感情を抱いています。世間では、それを「夫婦愛」だなんて云うらしいですが、私たちが互いに「愛」を感じているのなら、不義の相手には「恋」をしているのでしょう。勿論、罪悪感はあります。こんなことは、あってはならないことだと、分かっています。けど、私たちは、必然的な愛は知っていても、偶然的な恋は知らなかった。だからこそ、そこには好奇心がありました。私たちは知ってみたかったのです。夫婦という関係で結ばれた上で、自由と本能に満ち溢れた行為に触れてみたかったのです!
ですが、正直言って、こんなのは後付けの言い訳ですし、良識のある方々でしたら、そんな馬鹿げたことは止して、とっとと別れてしまえばいいじゃないか、と思われるかも知れません。その方々からすれば、恋は、嫌らしくて、夫婦の絆には到底及ばぬ、許されざるものなのでしょう。ですが、私たちは、気付いた時には、離婚をすることさえ煩わしくなってしまって、相手と卑しい恋愛はするけれど、既存の家庭はそのままでいたいだなんて、いずれ傷付くことが分かっている選択をせずにはいられないんです。
じゃあ、こんな私たちが、どういう馴れ初めで結婚したのかと申しますと、あの人の母と私の母が、歳は離れていましたが、同郷の、しかも同じ女学校の出で、知り合ってから頻繁に茶会を開くようになり、やがて自分たちの子供を紹介したのが事の始まりで、それから物凄い速さで見合いを整えてしまったものですから、流石にそれを断ることは憚られて、まだ若かった私たちは、半ば困惑しながら、結局己の母親に忖度して、それを了承したということなんです。
だから、あの人も私も、お互いの身を委ねるまでには随分と骨が折れて、今でも私のほうでは、敬語交じりの言葉遣いは抜けていなくて、あの人は三十、私は二十六にもなるのに、子供一人だって作らず、互いに後ろめたいことを許すような、へんてこな関係になってしまいました。おまけに、自分たちの母親を含め、この関係は周りには隠しているので、叱ってくれるような人もいません。
きっと私たちは、どっちも同じぐらい、いけないんです。好きな女の人との逢い引きを終えたあの人を、無理に微笑んで迎えに行く私も、不倫に出掛けようと、私が化粧をしている時に、拙い言葉で、私の容姿を沢山褒めてくれるあの人も、悪い子なんです。
それに、私たちは、お互いの相手をちゃんと知っているんです。
あの人が見初めた女の人は、とても綺麗な顔をしている御方で、あの人が勤めている会社の取引先の社員だそうです。また、私が通っているほうは、あの人よりだいぶ若い、新人の小説家で、とあるカフェーで知り合ったことをきっかけに、私が不道徳な恋に落ちてしまい、次第に秘密の逢瀬を重ねていったのです。
そして、あの人も、よその男の存在には気が付いていました。ですが、私たちは、お互いの行為を黙認していました。咎めることなんて、出来るはずもありませんでした。
しかし、私たちが摩訶不思議な夫婦生活を続けている内に、戦争も暗い影を落とし始め、米英を敵に回した頃、夫のもとに赤紙が届きました。南方諸島を押さえている部隊への配属が命じられて、あの人も私も、呑気に自分たちの恋を続ける訳にはいかなくなりました。
会社を辞めて、出立の日まで、あの人はずっとお家にいらっしゃいました。女の人には、召集のことは隠して、それらしいことを言っておいたのでしょう。私も、例の人と逢うのは一旦やめて、夫を見守っていました。けれど、やっぱり二人は悪い子のままで、夫が(自分が)召集を受けても、相手と離縁しようとはせず、こういう時に限って、善人ぶっていました。
ですが、今度ばかりは、私が本当に悪くて、あの人の出征の日が近いというのに、流行り病にでもやられてしまったのか、酷い高熱になって、寝込んでしまったんです。
思い出すのさえ難しいほど、病床では苦しい思いをしましたが、私にとって何よりつらかったのは、出征前の夫に心配をかけてしまったことでした。あの人は戦争が嫌いなようでした。人殺しを恐れ、憎んでいたんです。だから、赤紙が来た時の、あの人の漠とした不安が、私には痛いほど染みてきて、御国のため、陛下のためと、あの人は震える手を必死に抑えていました。そんな時に、私が倒れてしまったのですから、あの人にさらに心の負担をかけることは、本当の本当に嫌でした。ただでさえ熱があるのに、情けなさと恥ずかしさで、私の顔は一層赤くなっていきました。
ぼんやり目を覚ますと、私が倒れてから一日ほど経っていて、既に日が暮れていました。朦朧としながら、汗で寝間着や布団がびっしょりと濡れていることに気付いて、どうしようもない気持ち悪さを感じました。
そうしていると、静かに襖が開いて、あの人が私の枕許までやって来ました。
やって来ました、と言っても、襖が開く音と、あの人の足音が、微かに聞こえてきただけで、あの人の顔さえ、私には見えていませんでした。けれど、私は、あの人が隣にいるというだけで、すっかり安心してしまって(安心してしまったからこそ)、無理に体を起こして、あの人と目線を合わせようとしました。だからといって、「無理をするな」と言わないのが、あの人でした。出征が刻一刻と迫ってきているのに、夫は、わがままな妻のために、何度も様子を見に来て、身の回りの世話をしてくれました。
「もう体調はよくなったのかい?」
と、不安げな顔で尋ねてきたので、
「ええ、昨日よりはだいぶ……」
と、私は得意の微笑を浮かべました。
すると、突然、あの人は、私のおでこに自分のおでこを当てて、少しの間そのままでいると、そっと離れて、
「まだ少しあるね。まだ寝ていたほうがいいんじゃないか?」
とおっしゃいました。
その時、私は、思わず「えっ」と声を出していました。思いもよらないことで驚いたからというのもありましたが、それよりかは、あの人が私に触れてきたことに対する、初心な恥ずかしさを感じたからでした。私たちは、世間一般と比べれば、夫婦らしい愛情の交流はさほど出来ていなくて、あの人が私の気持ちや体を大事にしてくれたのがあって、私のほうでも嫌に気を遣ってしまい、そうこうしている内に、四年近くが経って、互いに相手も出来ていたのですから、私は二十六になるおばさんでも、実際は、身も心も未熟な世間知らずの女の子でした。
私がびっくりしていると、あの人は、
「はは、久しぶりに見たよ。君が照れているところなんて」
と微笑んで、私が、恥ずかしさのあまり、
「ね、熱があるだけですよ……」
と、悔しくなって言い返したところで、どちらかが耐えられなくなって、二人で初めて大笑いしました。
ああ、私は幸せだ……。外で男を作っているような自分の隣にも、外で女の人と恋をしている夫がいてくれるのだから。
そして、私に紡いでくれた言葉の数々も、眼鏡を通して私に向けられた眼差しも、額に感じた温とさも、あの人が私に与えてくれた愛情の一部だってことを、私はこんなにも嬉しく思っている。……ああ、やっぱり、私、いくつになっても、不倫をしていても、あの人のことが好きなんだ。あの人のことを愛してるんだ。あの人が好きだったから、不倫をしていて、こんなにも心が苦しかったんだ。
その瞬間、私は、自分の中で絡まっていたものが優しくほどけたような気がして、ようやく、きっぱりと心を決めることが出来ました。
もう、不倫相手とは、お別れしよう。もともと私が悪かったことに変わりはないし、あまりに身勝手だけど、私は、どうしても、あの人の妻として、あの人の側にいることを捨てられない。あの人のお嫁さんとして、今は生きていたい。かと言って、あの人の浮ついた気持ちを責めるつもりはないし、私はそんな資格のある女でもないです。それに、あの人は、私も浮気相手も置いて、遠い南方の戦地に行ってしまうんです。
だから、今は、あの人の不安や苦しさを、私が寄り添うことで少しでも和らげてあげたいし、それが出来なくたって、私は、あの人の側を離れたくない。あの人の苦悩や罪を背負ってでも、私は、やっぱりあの人と夫婦でいたい。
そして、あの時、二人で笑い合った夕方は、夫の出征の前日だったんです。翌朝には、国家のために、死を以てでも戦わされる、一人の兵士として旅立つ宿命を、あの人は負っていたんです。私は、いずれあの人が死んでしまったとしても、後悔のないぐらい、幸せな時間を過ごせたのだと思います。
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