第66話 弁天さんを送る

 朝食を終えて一息をついたタイミングで、

「志朗、送ってくれ」

 弁天さんが帰路をねだった。

 車中、ラジオも音楽もかけなかった。発車直後から窓外を見つめていた弁天さんは、湾曲の海岸線から自宅の巨岩がうすっら見えたところで、

「実はな」

 やはり窓の外を見たまま口を開いた。

「実は、昨日の晩、志朗が夜食の洗い物をしている間に去ろうかと思ったのだ」

 それは俺も懸念していた。可能性はゼロではないと。いた方が驚いたくらいだった。

「眠かったというのもある。がな、今回またお前に何も言わずってのは、あまりにも、そう申し訳ないというかだな」

 ちらと見れば弁天さんの手は腿の上で落ち着きなく動いていた。

「お能登といい、先回の私といいさすがに三回はな」

 ようやく俺の方を見てきた。

「回数は関係ないと思いますが」

「そう、だと思う。確かに。お能登は置いておいても、私は神だからな、それが人に対してあれはさすがに」

「弁天さんのあれはちょっとした外出だったでしょ。ほら、置手紙」

 弁天さんを遮るように早口になった。

「お能登さまの書いたのはさすがに余地なしでしたけど、弁天さんのは、だったでしょ」

「それにしてもだな」

「良心が痛みますか?」

 俺は偽悪的に白い歯を見せた。

「せめてお能登の代わりに私が礼をとは思ったんだ」

「礼なら、桃太郎が鬼が島から帰って来た時よりもふんだんにいただいております」

 弁天さんは要領を得ない顔になった。

「弁天さん、いろいろ話してくれたでしょ。現代はですね、情報が価値なんです。ほら、タブレットとかスマホ買ったでしょ。それを使いこなすようになってくれば分かりますよ。何よりの情報を弁天さんはくれましたから」

 弁天さんはまだ納得いかない顔をしている。それこそ人間への礼はいまだに金銀財宝とか打出の小槌とか思っているのではなかろうな。

「それにお能登さまからも礼、もらってます」

 さらに不思議そうな顔になった。もはや電波なことを言い出した中学男子をいたわる視線である。

「お酌してもらったんですよ。俺、あんな妖艶な人から酒を注いでもらうなんて想像すらしたこともないですし、高級割烹とか行って舞妓さんとかからお酌してもらっても、お能登さまからお酌してもらった時と同じ満たされた感は抱けないと思うです。だから、あれは俺にとってとっても価値のあるお礼だったんだなって、いい思い出です。決して大人なご褒美はありませんでしたけど」

「志朗もやはり男なのだな」

「なんだと思ってたんですか」

「お前はやはり似ている」

「誰にです?」

「あの統領だ」

「いや、散々全然違うって誹謗中傷していたじゃないですか」

「ああ、全然違う。全然な。月とスッポンどころか、太陽と朱鷺の卵くらいに違う」

 もはや比較の原型をとどめてないくらいにさげすむ気ですか。

「それならなんで」

「でも似ているんだ」

 今度は俺が遮られた。

「私が、志朗はあの男と似ていると思うくらいなのだ。だから、お能登ならもっと」

「俺は、なんて答えたらいいですかね。光栄なんでしょうか、『俺は彼の身代わりですか』とか言って駄々こねたらいいですか。てか、お能登さまから好意的な心情はまったく言われてませんが」

「だから、というとそればっかりと聞こえるかもしれないが、小さくはない理由の一つではある。お能登が何も言わずに出て行ったこと。何かのきっかけで一連の事情が分かって、今お前が言ったことを直接言われるのが忍びなかったのだろうな」

「俺は……」

「言わない自信はあるか?」

「……ないですよ。そんなに器大きくないですから」

「知っとるわ。それにそんなことをお前に言わせれば、お前は自分を責める。そうさせたくもなかったのだろう」

「どっちにしろ詰んでいたわけですか」

「だな」

 窓外に見える岩場を打つ波は白く泡立ち、うねりはますます荒々しくなった。ただそれだけの光景だった。俺は冬を実感した。同時に胸の辺りが凍てつく感じがした。開きかけた口をこらえた。

「情けないことも、ガキっぽいことも言って何が変わるかって知りゃしないが、言って楽になるなら言っちまった方がいい、のかもな」

 もう間もなく弁天さんの居城に着く。

「いえ、言わないでおきます。弁天さんの良心を煩わせるのは本意ではありませんし」

「お前ってのは」

 もはや弁天さんはあきれていた。

 着いた。助手席のドアが開かれ弁天さんは颯爽と降りた。閉められたドアの窓を開けた。運転席から覗く。弁天さんはこっちを見てなかった。俺が降りることは弁天さん曰く「まかりならん」そうだ。

「さっさと行け」

「弁天さんがお先に」

「私は神だからな、あんな高さ一足飛びだ。人間はそれに引き替え一瞬であの家に戻れんだろ。ちんたら走って行けばいい」

「そうします。弁天様、ありがとうございました」

 一瞬弁天さんの背が伸びた気がした。ウィンドウを閉め、クラクションを短く鳴らしてアクセルを少し強めに踏んだ。ミラー越しに弁天さんがこちらを見ていた。口が動いていたようだがもう自動車は進んでいたのでなんと言っていたか分からなかった。

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