第44話

 そのあと、一つ上がった観客の声が、大きなうねりとなって押し寄せ、大歓声で会場は揺れた。


「ディフェンスーー!」


 沙織んが大声を張り上げ、ベンチからは「プレッシャーー! 前から全員でいけぇーー」と珍しく荒々しいコーチの声が届いた。



 残り三十秒もない。あと一点。2ポイントでもいける。


「ディフェンス、ディフェンスーー! とにかく死守しろーー!」


 身を乗り出して叫ぶ滝本に引っ張られるようにして俺も声援を送っていた。


 とにかくディフェンスだ。ボールを奪うしかない——


 ——頑張れっ。



 相手ゴール近くのエンドラインからボールが入る前に全員でプレッシャーをかけた。

 もう体力は限界で皆んな死に物狂いだった。でも一斉で迫った必死のディフェンスも、相手にかいくぐられ自陣コートまでボールを運ばれる。


 時間がない。どうする——⁉︎


 胸が焼けるような焦りとともに、目の前の現実を突きつけられていた、そのときだ。それは一瞬の出来事だった。

 ふらついていた結衣が、最後の力を振り絞るように四番に飛び込み、ビクトリアへ渡ったパスを沙織んがファウルすれすれで体ごとボールを奪い取る。

 結衣はもう相手ゴールに向かって一直線に走り出していた。沙織んは相手選手をドリブルで抜き去り結衣にパスを通す。


 一秒一秒が止まったように、ゆったりと感じる。


 心臓の音が波打っていて、耳の奥で反響するドリブルの音が心地よかった。


 ……やっぱ、結衣の後ろ姿は格好いい。

 ——私の憧れだ。


 二人の相手選手が懸命に結衣の背中を追っている最中なのに、私の心は呑気のんきに呟いている。

 時間は残り十秒を切っている。結衣は3ポイントラインを越え、すかさずシュート体勢に入っていた。


 ——でも。


 無茶だ、結衣っ。

 ビクトリアともう一人の選手のマークを外しきれてない——


 そう思ったときには、もう私は叫んでいた。昔みたいに力強く。


「——結衣っ! こい!!」


 そして瞬時に振り返って、はっとした結衣のパスを受けた私は、すぐにボールを一つついた。


 もう少し——。


 まだセンターラインの上。もうちょっと——あと一歩、前へ進みたい。

 そうすれば私のシュートレンジだ。その瞬間だった。


 ドリブルを前に突き出そうとしたとき、——野緑⁉︎ 決死の形相で突然、私の前へと割り込んでくる。


 今の私で抜けるか?

 ここから打つべきか?


 条件反射で考えていた。

 それと、隙のないディフェンスからは、私をけっして軽視していない。それが伝わってきていた。全くブレない堅実な動き。きっと、真面目で努力を惜しまない性格なのだろう。


 一秒が迫る中、ふんわりと視界に入った。

 立ち上がって懸命に声援を送ってくれている。


 何でだろ……こんなときに。


 応援席で不安そうな顔をしている鳴海君を目にしたら、ふっと笑みがこぼれてしまった。


 鳴海君……


 今感じた、そのままの言葉が溢れた。


 鳴海君がいてくれたから、私はバスケを続けてこれた。


 心の中で、ありがとう、と呟いたときにはもう体は勝手に動いていた。

 レッグスルーで野緑を抜き去り、一歩前へ出た私は、あの頃の自分に、さよならを告げた。中学最後の試合で、けちょんけちょんにされた私に。


 ——私は大丈夫だから。


 ボールが床をつく音と重なるように、あの時間ときが鮮やかに蘇る。鳴海君の声が……胸の奥で響く。


『シュートが入らないとき?』


 いつだったか、訊ねたこと。


『うーん。そうだなー……』


 ちょっぴり照れくさそうな表情を浮かべて鳴海君は答えた。


『……俺は』


 鳴海君には笑っていてほしい。それは私の勝手な希望だけれども。


『俺は、ゴールの少し向こう側に、好きな人を思い浮かべてる』


 その言葉が、ぽっと心の奥底から浮かび上がると、シュート体勢に入った私の頬は、自然と緩んでいた。

 そのときの、はにかんだ鳴海君の笑顔が思い浮かんだせいで。


 そのまま、ボールは指先から離れていく。


 ゆっくりと描くその軌道は、今までの時間ときを刻むようにして、光の中へと吸い込まれていった。



 伝家の宝刀ディープスリー。


 ボールをキャッチして、手から離れるリリースまでのタイミング。その、しなやかなで洗練された一連の動作一つ一つ。全てが完璧だ。

 ボールは斎名の背中を追い越し、綺麗な放物線を描いていく。

 高さ、軌道、回転。それはまさに俺がイメージするシュートの理想だった。

 そのあまりの美しさに、このままずっと、時間ときが止まっていてくれればいいと思った。



 何だか、ずいぶんと長い夢の中にいたような気分だった。


 何も見えない。


 照明の白い光が、まぶたの奥まで差し込み、視界を奪っている。音も消えて、空気が固まったみたいに静かだった。

 本当に時間が止まってしまったんじゃないかと思った。


 時間は間に合ったの? シュートは入ったの?


 体は硬直していて、息も詰まる。喉が渇いて、心臓が胸を叩く音だけがやけに響いていた。

 けれどその時間は、試合終了を告げるブザーの音と、それに続いて波のように押し寄せてくる歓声が動かした。大歓声が会場を呑み込み、空気が揺れて床の振動が足元から伝わってきた。


 眩しさの向こうから、チームメイトたちが駆け寄ってくる。


 笑顔で涙を浮かべて皆んなが叫んでいる。


 結衣は泣きながら飛び込んできた。


 両手を広げながら駆け寄ってきた沙織んは、何かを伝えようとしているけど、声になってないせいで聞き取れない。


 ベンチに目をやると、他のメンバーたちも皆んな似たようなものだった。全員の顔がぐしゃぐしゃで、誰もが言葉にならない声を上げながら、飛び上がっている。


 ああ、よかった。

 このとき、わかった。


 私の放ったボールは、ちゃんとリングを通ってくれたのだと。


 最終スコア76対74。


 祐天寺が勝利した。



 じっと祐天寺の歓喜を眺めていた。歓声の渦に包まれた応援席はしばらく収まりそうもない。全国大会出場——


「……」


 さっきから何かが引っかかっていた。


「かあーっ! 全国かー、やったなー純っ!」


 隣の滝本に肩を叩かれた勢いで、一瞬我に返る。けど、やはり何か引っかかる。


 全国。


 その言葉に何か別の感情を抱いた。

 滝本が盛り上がる声は、もはや遠くに聞こえる。


 あの公園で……


 穏やかな光の中で微かに見えた人影。心地のいいボールを地面につく音が、柔らかく響いている。


 俺は誰かとバスケをしていた。

 あの場所で。


 記憶のかけらが胸の内で強く輝きだす気配を感じながら、俺は呟いていた。


「誰と?」



「ごめん。ちょっと私、外に行ってくる」


 気がつくと、そう口にして試合の余韻がまだ会場を包む中、走っていた。

 観客たちは席を立ち、ざわめきながら出口へ向かっている。私の耳には、その喧騒が遠いもののように聞こえていた。

 会場を飛び出すと、もう夕暮れに染まり始めていた。試合が終わって帰っていく観客の人だかりができている。

 私は、ちょっとだけひんやりとした空気で頬を冷まし、息を整えながら辺りを見回した。



 気づけば外へ向かっていた。

 人波を掻き分けながら、足がひとりでに急ぐ。何かに突き動かされるように、俺は前へ進んでいた。


 ——ひょっとして、あの公園でバスケを一緒にしていたのは、野々原なのか?


 どうしても、そう思えてならなかった。

 脳裏に浮かびかけては消えていくその記憶を、何とか掴み取ろうとするけど、はっきりとした姿は思い出せない。光の中でぼんやりと揺れる影のように、形を結ばないままだ。


 全国。


 この言葉が頭の片隅から離れず俺を突き動かす。


 ——俺は、何か約束をした? 何か大事な約束を俺は、忘れているんじゃないか?


 自問するように心の中で繰り返しながら、外へ出る。

 その瞬間、人混みの中から、視界に飛び込んできたのは——


 野々原だった。


 遠くの方で小さくその姿を見た瞬間、足は自然と地面を蹴り人波をかきわけていく。

 心臓が高鳴る。言葉が喉の奥で引っかかり、呼びかけようとする声が出ない。

 彼女の背中に手を伸ばしたくなる衝動に駆られる中、俺はただ声を振り絞った。



 もう帰っちゃったかな……?


 辺りを見回しても、会場を後にするたくさんの人たちのざわめきが耳につくだけだった。音を刻む心臓からは、まだ試合の余韻よいんも感じる。そう思いながら眺めていると、背後から声がした。


「あー桃ー。やっぱここにいたんだ。ほら、表彰式もう始まるってよー」


 振り返ると沙織んだった。


「てか、体冷えるよ。これ羽織りな」

「あ、ごめん、ごめん。ありがと」


 渡されたジャージを羽織ってから軽く息を整えると、どこかまとわりつく寂しさを踏みしめるようにして、私の足は会場の中へと歩き出す。

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