第33話
慌ててスマホの画面に目を落とすと、そこに浮かんだ文字を見た瞬間に、張り詰めていたものが一気に緩んだ。
——よかった。
思わず息を吐き、テーブルに力が抜けるように身を預けた。
結衣からの、安心させるメッセージ。『二、三日で復帰するから!』それと、心配させてごめん、のスタンプ。
「何? どうしたの? ひょっとしてコーチでも怒らせたんじゃないでしょうね?」
「違うって。そもそも、うちのコーチ。昔の指導者みたいに怒鳴る人じゃないし」
「そうなの? 良いわね。令和っぽいじゃないっ。最先端って感じ!」
お母さんの無邪気な言葉に呆れて笑ってしまった。
最先端——たしかに、そうかもしれない。
今日、コーチは皆んなの前で謝っていた。結衣の怪我はコーチのせいじゃないのに、自分の熱量が伝わりすぎたせいだと言っていた。士気を上げるタイミングを誤ったことで、オーバーワークを招いたと、真剣に反省していた。
そんなコーチを、私は尊敬している。
常にアメリカなどの新しい戦術やトレーニングを学んで取り入れていると聞いたし、教え方も理論的でわかりやすい。何となく、鳴海君に似ている気がする。
3ポイントシュートの成功率の波が激しいことも、私のメンタルからきているのだと見抜いているのか、何も言ってこないし——。
翌朝、学校の昇降口で、当然のごとく沙織んにすぐ捕まった。
「結衣、ほんとよかったー。どうなることかと思ったよぉー」
勢いよく顔を覗き込まれ、私も胸を撫で下ろす。
「うん、ほんとに」
口から出た言葉に、改めて本当によかった、と思った。
「今日と明日。回復のために結衣休むって聞いてる?」
「うん」
「まあ、結衣は成績優秀だし、授業出なくても全然平気だからなー」
いつもの明るい調子で言う沙織んの笑顔を見て、私も靴を履き替えながら、だね、と相槌を打った。
昇降口を上がると、沙織んは肩を回しながら、澄んだ朝の空気を吸い込みリラックスした様子で軽やかに言った。
「よぉーーし。うちらも今日は練習休んで、明日っから本番に向けて気合い入れていきますかぁーー!」
そんな沙織んの余熱を感じつつ、私も少しだけ再びギアを入れるのである。
+
校舎を出ると、頬に柔らかな風が触れた。今日は寒さはそれほどでもないが、空には雲が広がっていて、昼間だというのに薄暗い。
——滝本、今日休みだったな。
風邪……本当だったんだな。
ぼんやりとそんなことを思いながら、校門を一人で出ると、昼ごはん——どうしようか、とも思う。
「いらっしゃいませ——」
パン屋の扉を開けると、チリンと軽い音が響き、友希さんがにこやかに迎えてくれた。店内に漂う、焼きたてのパンの香りがふんわりと広がる。
「あれ? 純君、今日は早いんだね?」
「昼ごはん、買いに来ました」
*
授業が終わり、クラスメイトと軽く言葉を交わしてから時計に目をやる。針の位置に帰る時間を察し、そのまま教室を後にした。
短縮授業は、あっという間だった。
そのせいか、今日は鳴海君を見かけなかった。
バイトだろうか。
また帰りに、ばったりと一緒にならないかな? そんな思いにふけながら靴を履き替えていると、また沙織んとばったり会った。
「桃ー、お疲れー」
声をかけられ、軽く手を振りながら「お疲れー」と返すと、沙織んに訊かれる。
「今日、帰り何か用事あるの?」
おそらく、練習をしないか心配しているんだろうと、私は内心で思う。
「一つ用事あるけど、そしたらすぐ帰るよ」
言うと、沙織んはじっと見つめて『絶対、練習するなよ』と目でプレッシャーをかけてきた。
私は軽笑いで返す。
「ほんと、大した用事じゃないから、大丈夫だってっ」
沙織んは少し安心したように息をつきながら、「頼むぞ、桃まで怪我されたら困っちゃうから」と言う。
「ありがと、今日はしっかり休むから」
両手でグーを作り、私がしっかりと宣言すると、沙織んは「おう、頼むぞ!」と頷いて、お互いに笑顔を交わした。
校門を出て、沙織んと別れる。その後ろ姿を見送りながら、安堵が胸に広がった。
本人は最初さえ嫌がってはいたけど、沙織んは、厳しさと優しさを絶妙に併せ持つ、頼りになるキャプテンだ。
私の心は清々しい気分だった。
空はどんよりと冴えない灰色で、どこか落ち着かないけれど、今日は平穏な一日だった……の、はずだった。
なのにどうしてだろう、まさかカラスに襲われるなんて。
わずかに「カァ」という声が耳に届いて、何気なく道路の路肩を見ると、黒いカラスが一羽、じっとこちらを見ていた。
車の通りが激しい場所なのに、路肩にいるなんて珍しい。何だか嫌な予感がした。
次の瞬間だった。バサバサッという羽音と同時に、頭に衝撃が走る。
「えっ?」と思う間もなく、もう一度、ガツンと何かが頭を蹴った。反射的に顔を覆う。今の……カラス? まさか。
驚いて見上げると、電線の上に二羽のカラスが並び、こちらを見下ろしている。
心臓がバクバクして、恐怖と混乱で足がすくみ、——え、何で? と思った。私は何もしていない。カラスに恨まれるようなこと、何一つしていない。
仕方なく、もう嫌ーー、と心の中で叫びながら走り出す。鞄を抱えて全力で逃げた。
安全な場所まで走って、ようやく立ち止まってからも心臓に静まる気配はない。
——巣が近くにあったのかもしれない。
でも、毎日通る道なのに……どうして今日だけこんなことになったのだろう。
辺りを見回しても、いつものように並んだ木と電線、そして憎らしいカラスだけ。視線は冷たく、理由なんてわかるはずもない。
「今日はもう、真っ直ぐ帰ろ……」
小さなため息と一緒に、私は足早に歩き出す。
+
「勉強、頑張ってね——」
友希さんの温かい笑顔に見守られながら、会計を済ませて店を後にした。
駅に向かいながら、適当に選んで買った惣菜パンを袋から手に取って食べる。クリームパンも買った。母さんの好きなパンだ。
——親子水入らず。
ばーちゃんの言葉が、ふと頭に浮かんだ。家で二人きり。いつぶりだろう?
そう考えながら、どこかで少し不安がっている自分がいることに気づき、たまらずクリームパンをひと口、頬張ってみた。
すると甘さが強すぎるわけでも、控えめすぎるわけでもない。ただ、何とも言えない味が口の中に広がる。
好きでも嫌いでもない、どこか中途半端な風味が、今の自分にぴったりだと思った。
心の中に、何かを期待しているような、でもその期待が自分でもうまく掴めないまま、ただ空回りしているような……
けれど、もう一度ひと口食べてみると、少しだけその感覚が収まるような気もする。どこか心の奥で、少しだけ甘さが溶けたような気がした。
何となく先に進みながら俺は、そんなどっちつかずな自分に
……今日はセーター一枚で十分だな。
中目黒駅の改札を出てブレザーを脱いだ。
急に冷え込んだかと思えば、この汗ばむほどの暖かさ——
そんな寒暖差に、野々原の姿が思い浮かんだ。
ばたばたと
……そう言えば、今日は顔を合わせなかったな。
そんなことを考えているとき、足が止まる。
「……」
目の前には黒い猫がいる。じっとした視線が、無言で何かを問いかけてくる。まるで見透かされているような、そんな気持ち悪さがあった。
気にせず歩き出そうとすると、小さな足音がついてくる。振り返ると、さっきの猫だ。……何だ、コイツは?
「……何だよ」
猫の視線で何となく察しがついた。おそらく狙いは俺が手にしている袋の中だ。
仕方なく膝を曲げ、ため息をひとつ。そして袋から手に取ったパンを、ほんの少しだけちぎって食べさせた。
すると、あっという間に飲み込んだ猫は、何事もなかったかのように、路地の奥へすっと姿を消した。
何だ?
この気持ちは。
何となく、残された自分だけが、置いてきぼりになったような気分になった。
そう物思いに膝を伸ばしながら立ち上がる。そのときだった。
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