第32話

 その思いに応えるべく私は、大丈夫だよ、と言いたくてジャージの袖をぐっと捲り上げた。


「ほら、平気っ。ワイルドでしょ?」


 ドヤ顔を作ったつもりなのに、鳴海君と目が合った途端、ぷっと吹き出してしまう。けれど、その笑いも一瞬のうちに冷たい風にさらわれ、またくしゃみがひとつ出た。

 すると鳴海君は、苦笑いを浮かべてから、ゆっくりとブレザーを脱いで、無言のまま、ふわりと私の肩にかけてくれたのだった。


「ジャージだけじゃ寒いんじゃない?」


 その言葉に反射的に首を振る。


「え、悪いよ。鳴海君が風邪引いちゃう……」


 言いかけると、鳴海君は少し目を細め、口元に微かな笑みを浮かべる。


「大丈夫。俺は風邪引いても平気だから」


 その一言が胸に触れて、キュンと音がしたみたいだった。今だけは……鞄の中に入っている制服の存在を消し去ることとした。


「ありがとう」


 そう言いながらブレザーに袖を通すと大きさに驚いた。それと生地から伝わる鳴海君の体温が、まるで小さな焚き火みたいに心まで温める。

 先を歩いていた鳴海君が、ふと立ち止まって振り返った。そしてどこか言いにくそうに視線を落とし、それからゆっくりと口を開く。


「俺もさ……バスケ、応援してるから」


 心がぎゅっと締めつけられるように嬉しくて、思わず足元を見つめる。言葉にならない思いが、胸の中で溢れそうになる。できることならば、その言葉を袋に詰めて持ち帰りたい。

 そのとき、ポツ、ポツ、と冷たい感触が頭に落ちた。顔を上げると、小雨が空から舞い降りてくる。


「たく、天気予報は晴れだったのにな」


 そう呟きながら、鳴海君はためらいもなくニットカーディガンを脱いで、私の頭にそっとかける。湿った空気を遮る柔らかな布が、雨の冷たさを遠ざけた。


「えっ、ありがと」


 鳴海君に寒い思いをさせてしまったことを、心の中で、ごめんねと謝りつつも、私は空に感謝をするのである。



 次の日、授業と授業の合間に、結衣と廊下で話した。他の生徒とすれ違ったりと賑やかな声が飛び交っている。


「そうなんだ。滝本君のおばあちゃん、退院したんだ」

「うん、元気そうだったよ」

 歩きながら、「しかも、占いもしてもらっちゃった」と私が付け加えると、結衣は目を丸くして、「え、何それ? まさかウィンターカップのことじゃないよね? やめてよ、私、そういうの信じない派だから」と口を尖らせた。

 そう言いながらも、どこかそわそわした感じが見え隠れしている、と思うのは私だけだろうか。


「よくわからないけど、私に何か、お試し、みたいなことがあるんだって」

「何それ」


 あっさりと受け答えした結衣はむくれた。


「試合のこと?」

「さあ……」


 本当のところ、よくわからない。でもまあ……少し何か、頭の片隅に引っかかってはいるのだけれども。


「そんなことより、今日も練習付き合ってよね。確認したいことあるから」


 結衣は真剣だ。その瞳から伝わる熱に、私の気持ちも引っ張られる。


(……結衣。絶対、自分の恋愛のことで占いしてもらったな、私に内緒で)


 そう思うと、何だか可愛くて口元が緩んだ。


「ちょっと、何笑ってんの?」


 頬を膨らませる結衣が、つい笑みを誘うのだった。



「は?」


 三限目の授業が終わったときだった。思わず口から出た言葉に、滝本は笑っている。


「あー、俺もう帰るわ」


 鞄を手にした滝本は、いつも通りの軽い調子で言う。元気そうに見えるその顔に、つい聞き返してしまう。


「何かあったのか?」

「あー、昨日、急に寒くなっただろ? たぶんそれだな……鼻がむずむずするから帰るわ。他のやつにうつしたらダメだしな」

「……そういうもんか」


 気の抜けた返事に、滝本は片方の口角をわずかに上げ、軽く笑った。


「それに、今日も明日も短縮授業だろ? 今、帰っても大して変わんねーだろ?」


 そう言うと、滝本は鞄を肩に掛け、さっさと教室を出ていった。


 ……風邪、か。


 心なしか悪寒がするのは、気のせいか?



 思いのほか早くやってきた。お試しなるものは。


 それがどんな形で訪れるのか、ぼんやり考えていたけれど、まさかこんなに急だなんて……。


「野々原先輩、どうですか?」


 部活の練習の休憩中、キラリ君が息を切らしながら訊いてくる。今日は隣のコートで男バスが練習をしていた。


「ボールキャッチからのリズムが悪いかな。打つまでの時間、ほんのコンマ五秒遅いんだよね。何でもない動作だけど、それを意識するだけでだいぶ変わるよ。そうすればタフショットも減ると思うけど」


 鳴海君に教わったことを思い出しながら伝えると、キラリ君は真剣な顔で「なるほど!」と頷いていた。


「基本が大事ってことですね……ありがとうございますっ。意識してやってみます!」


 キラリ君は元気よく個人練習に戻っていく。その姿を見送りながら、ふと自分たちのコートに目を戻した。

 結衣が、いつになく熱心にドリブルの練習をしていた。本人が言っていた通り、動きはキレがあって、調子が良いのは誰の目にも明らかだった。


 だけど——


 ドリブルからシュートモーションに入ったその瞬間、周囲の空気が凍りついた。

 どたん、と乾いた音が体育館に響き、見ると結衣は足を滑らせて床に倒れ込んでいた。


「結衣っ!」


 周りの皆んなも騒然とする中、足が反射的に動く。けれど、私よりも先に、鋭い声が響いた。


「大丈夫か⁈」


 糸田君だった。結衣の元へ駆け寄ったその焦った表情に、周囲はただ事ではないと悟る。

 私も側に急いで向かうと、結衣は顔を歪めながら笑顔を向ける。


「ごめん、桃。転んだときに足首やっちゃったみたい」


 心配させないように言っているその笑顔が、余計に痛々しかった。


「そんなこと言ってる場合じゃないだろ! 早く処置して病院に行くぞ」


 糸田君が強引なほどの真剣さで、結衣の肩を支えながら立たせる。その背中に、どうしようもない不安が広がった。

 体育館の扉が閉まる音が、いつもより重く感じた瞬間だった。


 ——『お試し』なんて、簡単な言葉で片付けられない現実が、今ここにあるのかもしれない。


 私は、ただ——軽傷であることだけを祈った。



「ただいま」


 玄関の扉を閉め、靴を脱ぐと、ダイニングキッチンからテレビの音と湯気の立つお茶の香りが漂ってくる。テーブルに座っていたばーちゃんが顔を上げた。


「おかえり。あれ、今日は帰り早いんだねえ?」


 ばーちゃんの声には、いつものゆったりした調子と、少しばかりの驚きが混じっていた。


「今日、明日と学校行事で短縮授業だから」


 そう答えながら、リビングを横切り、自分の部屋へと向かう。そして部屋の扉を開けながら、ふと伝えることを思い出した。


「あ、それと、もうすぐテスト期間で、それが終わるまではバイトは休みだから」

「それは良かった。ちょうど明日、純君のお母さんが来るって言ってたから」


 ばーちゃんは穏やかな口調で言いながら、湯飲みを手に取る。


「そうなんだ」


 少し驚いて振り返ると、ばーちゃんはにこにこしながら続けた。


「私は友達と温泉旅行でいないから、たまには親子水入らずで過ごせるねえ」



 夜ご飯を食べていると、テレビから紅葉の旅番組が流れてきた。湯気が立つ味噌汁をすすりながら、向かいに座るお母さんが口を開く。


「桃子がウィンターカップ行けたら、お父さんと温泉旅行でも行こうかしら?」


 思わず私の箸が止まる。


「……なんで旅行に、ウィンターカップの勝ち負けが関係あるの? 意味わかんないけど」

「だって、その方が応援しがいがあるじゃない? 頑張ってよ」


 訊いて損した。——自分のためじゃんか、それ。


百合子ゆりこも心配してたわよ? 怪我には気をつけろって」


 『怪我』——その単語が胸にのしかかって、肩が重く沈む。今、一番聞きたくないワードだ……。

 無言でご飯を口に運ぶけど、頭の中には、結衣の転倒の場面が何度も繰り返し再生される。


「オーバーワーク、大丈夫なの?」


 その言葉が、さらに私の肩を突き落とした。お母さんがオーバーワークとか言うなんて——絶対、お姉ちゃんの受け売りだ。


「……大丈夫。明日は練習休みだし」


 何ともないフリをして口ずさんだときだった。スマホが鳴って、すぐに画面を確認した。


「ちょっと、食事中にスマホはやめなさいって言ってるでしょ?」

「ごめん、今だけ。部活の大事なメールだからっ」

「部活なら仕方ないけど」


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