第9話

「本当に申し訳ありませんでしたー。ありがとうございます」


 丁重にお礼を言われ、私たちは、母親に引きずられるようにして、連れて行かれる少年を見送った。

 言い過ぎでは? と思うほどに、もの凄い剣幕で母親に叱られていたけど、あの調子だから仕方のないことなのだろう。少しばかり姿が小さくなっても、「またなー」と声を張り上げている。

 鳴海君の顔には、まだお面が付いたままだ。

 母親のあまりの勢いに押され、あの子が落としたというお面を返す隙すらなかった。少年は「やる!」と言っていた。

 何で、お面を被ってきたのかはわからないけど。ずっと付けてきたのかな? 想像するとおかしかった。

 それに、お面を付けた鳴海君の様子からは、何となく中学生の頃と同じ懐かしさが漂っていた。私が好きだった、子供っぽくて、イタズラっぽい、柔らかい空気。


「鳴海君。はぐれちゃって、ごめんね」


 私も少しは昔に戻れたかな?

 ゆっくりと振り向いた姿は、お祭りで分け合って二人で食べた、たこ焼きの記憶を再び蘇らせる。鳴海君は、街灯の光の中に溶け込んでいるように見えた。

 大好きだった、たこ焼き。また、喜んでくれるかな?


「これ買ってたんだ。鳴海君に、と思って……」


 私は、ゆっくりと歩み寄る。一歩、二歩と噛み締めるように。

 そして、手にしていた、たこ焼きを渡そうとした瞬間だった。え、やばい、と思った。お面の上からでも、彼の顔が驚きに染まり、透明の容器に詰められた、たこ焼きに釘付けなのがわかった。

 私は足を滑らせてしまった。部活の練習から酷使し続けたツケが今きた。よりによって、こんなときに——。


 たこ焼きが宙を舞う。


 容器から飛び出す最悪の事態が容易に想像できた。何とかしたいけど、私の体勢は、ままならない。


 でも——


 だめだ、と半ばあきらめかけたとき、ヒーローは登場するのだ。

 鳴海君の長い腕が、私の頭上を越えて、見事に大きな手の中に、たこ焼きが収まる。もちろん中身も無事だ。


 ——た、助かった。

 心の底から安堵した。


 下手したら、鳴海君の頭の上に、たこ焼きをぶちけるところだった。

 ほっと肩をなでおろして、私は体勢を整える。


「大丈夫か?」


 表情はわからないけど、鳴海君の穏やかな声に、なお私の心は落ち着いた。


「あ、平気。心配してくれてありがとう」

「この、たこ焼き、俺がもらっちゃっていいの?」

「あ、大丈夫だよっ。鳴海君、食べたいかな、と思って買ったやつだから」


 本当は一緒に食べたかったけど、これ以上、こじらせる訳にはいかない、と思って諦めた。

 そう、それでいい、今日はこれでいいんだ。今日はこれで無事に終わる、きっと、今日は最初からそういうシナリオだった……


 の、はずだったのに……


 神さまは、何でか私に、いたずらばかりする。


 急に大きく鳴り響いた祭囃子の太鼓の音に、近くにいた犬が驚いて突然吠え、その声にびっくりした私は再び体勢を大きく崩してしまう。膝がカクンと曲がった。

 そして、やばい、と思ったときには、もう鳴海君にもたれかかって、ゆっくりと二人で、そのまま後ろに倒れる。

 二人が倒れた瞬間、世界がスローモーションに感じられた。

 ああ、またやってしまった。私は頭の中で叫んでいた。

 これ以上、鳴海君に迷惑をかけるわけにはいかないと思っていたのに。なんでこうなるのかと、自分に苛立ちすら覚える。なのに、何でいつもこうやって失敗してしまうんだろう。


 彼の体温が伝わってくる。そして恥ずかしさと申し訳なさで、私は顔が真っ赤になっていることを自覚していた。倒れた勢いで付けていたお面も外れてしまっている。

 鼓動が速くなり、頭の中はぐるぐると混乱した感情でいっぱいだ。

 今の状況を、どうやって説明すればいいんだろう。何かを言わなければいけないのに、頭が真っ白で何も思いつかない。


「ご、ごめんなさい……!」


 ようやく口から出たのは、それだけだった。

 彼の反応をうかがうために、少しだけ顔を上げる。けれど、表情はどこか曖昧で、何を考えているのかはわからなかった。

 ただ、手が私の肩にそっと触れているのを感じる。たこ焼きも、どうやら無事なようで、少しだけほっとした。


 それなのに、まだ神さまは試練を与える。


 ぎこちなく、お互いに距離を取ろうとしたその瞬間だった。

 突然、強烈な光が私たちを一瞬だけ照らし出した。

 目の前が真っ白になり、思わず目を閉じる。心臓がドキドキと跳ねるのが自分でもわかる。何が起こったのか、一瞬理解できなかったけど、車が走り去って、ヘッドライトだったのだと理解した。

 でも、本当の試練はこれではなかったのだと気づくと、血の気が引くのがわかった。


「え、ちょっと!?」


 結衣の声が聞こえる。

 見上げると、驚愕した表情で私たちを見つめている。私と鳴海君は、まだ地面に倒れ込んだままだ。体勢がとても不自然で、誤解されても仕方がない状況に、もう一つ結衣の声が。


「眩しすぎて失目したわ」


 ——さ、最悪だ……。

 できることならば、このまま消え去りたい……

 です。



 二人に手を振って別れを告げると、私は結衣と一緒に駅へ向かって歩き始めた。

 でも、鳴海君の姿が夜の人混みに紛れて見えなくなっていくのを目で追いながら、さっきの出来事が頭から離れない。頬が熱いのは、まだ動揺が収まっていないせいだろう。

 それでも、こうして結衣と並んで歩く時間がどこか心地よくて、気持ちは少しずつ落ち着いていった。



「ねえ、大丈夫? さっき転んでたけど」


 結衣の声が夜の静けさを切り裂くように響いた。


「うん、大丈夫。びっくりしたけど、怪我とかはないから」

「そっか、よかった。でも、まさかほんとに押し倒しちゃうとはね」


 結衣の不敵な笑みが、ちくりと痛い。トイレに行っていた滝本君が、その場にいなかったのが唯一の救いか。

 必死に言い訳をしても、結衣は「へえ~?」と、からかうように微笑むばかりだけど。

 すると次の瞬間、突然勢いよく飛びかかってきた。


「ちょっ、なに!?」


 結衣の腕がぎゅっと巻きつく。その笑顔につられて、つい吹き出してしまう。

 一緒にいると、不思議と心が軽くなる。

 私たちの前には、神社へと続く小道が伸びていた。

 さっきまでの祭りの喧騒は嘘みたいに静まり、遠くで虫の声がかすかに響いている。

 私が訝しげに見つめると、「なんかさ」と結衣は少し拗ねたように唇を尖らせた。


「私の桃が離れていっちゃう気がして、捕まえといた」


 そう言って、さらにぎゅっと抱きついてくる。

 夜空には、ぽっかりと大きな月が浮かんでいた。その月明かりが、道端に淡い影を落としている。

 辺りの木々が風に揺れ、ささやくような音を立てるたびに、どこか幻想的な雰囲気が漂った。

 まるで、小説の一場面に自分が溶け込んでいるような気さえする。

 肌に触れた風は柔らかくて心地よく、ようやく秋の訪れを実感できた気がした。



「んじゃ、また学校でなっ」

「ああ、滝本。また学校で」


 祭りの喧騒を後にし、そのまま祖母の家へ向かうという滝本とは祐天寺駅で別れた。

 一駅、電車に揺られ、改札を抜けると、いつものように川沿いの道へと足を向ける。

 しばらく歩くうちに人の気配が薄れ、自然と足が止まった。

 遊歩道の手すりにそっと触れると、ひんやりとしていて心地いい。何気なく川を眺めながら、都心の喧騒とは対照的な静けさに、そのまま身を委ねたくなった。


 今日は一体、何だったんだ?

 まだ、いまいち気持ちの整理がつかない。

 俺は何んで、今日駆り出されたんだ?


 野々原のドタバタ劇に、俺の平静は見事に刈り取られた。

 たこ焼きが宙を舞って、押し倒されるまでの様子を思い浮かべると、何でか心臓の鼓動が普段より早い。

 危うく唇と唇が触れ合うところだった。せっかく毒霧対策で、お面を被っていたのに、肝心なところで役に立たなかった。

 今でも、あの瞬間が、まるで映画のワンシーンのように脳裏に焼き付いていた。

 そして、そんな物思いにふける俺に、再び予想だにしない出来事が続く。

 ふと、歩いてくる人影に気付いた。それは、野々原だった。


「鳴海君っ⁉︎ どうして?」


 思わず、ああ、と声がこぼれて、木々が揺れた。

 妙なざわつきを感じたのは、俺だけだろうか。


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