第8話

 ……いて。


 後ろから男の子がぶつかってきて、そのまま目の前を駆け抜けていった。

 ぼんやりとその背中を見送っていると、後を追うように、母親らしき人が現れた。

「ごめんなさい」と頭を下げ、「待ちなさいっ」と声を張り上げながら、嵐のように去っていく。


 小学生の低学年くらいだろうか。


 親子の姿が過去の自分と重なったのせいか、足を踏み出したときに、ふと中学生まで過ごした、鎌倉での記憶をさかのぼった。

 でも、それはとてもぼんやりとした曖昧なもので、ただ、地域のお祭りに家族と来たという事実だけだった。

 さほど気にすることもなく歩き始める。まあ、幼少期の記憶など、そんなものだろう。

 そして、二歩、三歩と進めたとき、何か違和感を覚え、そのまま後ろを振り返って気づいた。


 いない。

 一瞬、状況が飲み込めなかった。

 側にいると思っていたはずの野々原の姿がなかった。

 はぐれた? いつからだ?


 辺りを見回しても、それらしい姿はない。無情にもお祭り気分の人々の声だけが耳に残る。今、見えている光景が、何だか安っぽく感じる。


 咄嗟に頭の中で、探しに行くか、それとも帰るか——二択が浮かんだ。

 どうする? と、前頭前野をちょっとだけ働かせてみた結果、出た答えは思いのほかあっさりしていた。


 帰る、の一択。


 そもそも俺には関係ないことだ。野々原の目的など知る由もない。


 俺が何をしたのか知らんが、懺悔ざんげの毒霧なら後日でもいいだろう。できる限り避けたいところではあるが。


 それに、滝本の邪魔をするのも野暮やぼってもんだ。今ごろは、会話もだいぶ弾んできた頃に違いない。

 あいつの目的は相変わらず不明だが、ここで電話なんてしようものなら、戻ってきかねないし――それはそれで面倒だ。

 あいつは謎に、俺を気にかけるがある。


 まあ……頃合いをみてメールを送っておけばいいだろう。




 ——え。

 居ない⁈

 何で?

 どうして、いつも空回ってしまうのだろう。

 私はただ、一生懸命やっているだけなのに。


 慌てて周囲を必死に探すけど、鳴海君の姿は見当たらない。

 今の状況が、全く理解できなかった。

 私の鈍臭さに痺れを切らして、帰ってしまったのだろうか。ふわふわ思い出に浸ってしまったせいだ、と後悔と不安ばかりが募った。

 それでも……、自分に今できることは、とにかく探してみよう、それしかない、そう思って駆け出した。


 はあ、はあ、と、一つ一つの呼吸に、心臓をぎゅっと掴まれる。部活の練習で追い込んだあともあってか、そろそろ足の限界が近い。立っているのも辛かった。


 どうやら、ここにもいないみたいだ。


 ひとまず、脇にあった石垣に腰を下ろす。座るのにちょうどいい高さで、数少ない街灯がひっそりと照らしていた。

 神社の駐車場は裏手にあるせいか、人通りはほとんどない。停まっている車も数えるほどだ。近隣の道路は封鎖されているし、車はおそらく関係者のものだろう。遠くから聞こえる祭囃子だけが、賑わいの余韻を伝える。

 スマホを手に取り、結衣にメッセージを送る。帰宅の約束をした時間まで、もうわずかだった。

 今日もミッションを果たせなかった。そう思うと、ため息が何度もこぼれる。明日こそは、いや、明後日も明々後日も自信はないけれど、やるしかない……と自分に言い聞かせる。

 そのときだ。考え込む私の背後から、ふいに声がした。

 同時に、肩と背中に何かがのしかかる。経験はないけれど、世間でよく耳にするパワハラ上司の圧みたいな、そんな重圧がのしかかって——咄嗟とっさに背筋がピンと伸びてしまう。


「おい、お姉ちゃん、ひょっとして迷子か?」


 私は恐る恐る立ち上がって振り返る。

 え。子供? 私が座っていたよりも何個か上の石垣に男の子が座っていた。そして、何故だかとても偉そうで貫禄がある。


「安心しろ! おれも迷子だっ」




 話を聞くと、ふざけて母親から逃げていたら、完全に迷子になったのだと言う。


「そうなんですか……」


 謎のマウンティングにより、敬語になってしまった私。

 ただ、冷静に考えてみると、この子は迷子。運営本部に連れて行ったほうがいいよな……と、そう考えた私は、上司をちらりと見る。

 すると上司は、たいそう驚いた顔をして訊いた。


「おい、おまえっ。なんで浴衣じゃないんだ?」


 そう言う上司は浴衣を着ていた。立ち上がって私の元に下りてくる。


「彼氏と来てるんだろ? 浴衣着なきゃだめだろっ」


 もしやこれが世間でいうセクハラ? 次にくるのはカスハラだろうか……。


「服装の乱れは心の乱れだっ。七色戦隊のレッドがそう言ってたぞ」


 子供がテレビで見る、戦隊ヒーローのことだろうか。上司は、側でめんと向かうと小さくて可愛く見える。聞いていると、段々とおかしく思えてきた。


「彼氏のこと、好きなんだろ?」


 もう訳がわからなくなってきた。でも、率直に訊かれ、真剣に考えて言葉につまってしまう私はバカなのだと思う。


「何だ? 喧嘩したんか?」


 妙に察しのいい上司だ。


「フラれたんか?」


 痛いところをついてくる。よっぽど悲壮感が漂っていたのか、上司はすぐに、悪かった、と言って慰めてきた。


「でも伝えたいことはちゃんと伝えたほうがいいぞ。あとで後悔しないために」


 これも戦隊ヒーローのレッドの言葉なのかは知るよしもないけど、うかつにも妙に納得してしまった。そうなのだと。

 私はずっと訊きたかった。突如としてLINEの返信が途絶えたことを。

 そっと声がこぼれた。


「ですよね……」


 それに、また突然と、私の前から鳴海君が姿を消す、なんてことだってあり得る。


「その大事そうに持ってる、たこ焼きも、そいつのためのものなんだろ?」

「……はい」


 たこ焼きを持つ手に自然と力が入った。

 街灯の明かりに包まれた上司の顔は、勝ち誇ったみたいに得意げだった。ぼんやりとした光の中で、にこりと笑う。

 そろそろ……この子の母親を探さないとな。

 少しだけ平静が戻ってきたのか、やっと自分の思考がまともになってきた気がした。

 親御おやごさんも、きっと心配しているはずだ。

 しかし、そう考え、私が行動に移そうと少年に歩み寄ろうとしたときだ。何だか少年の表情が、みるみるうちに変化していったのは。

 感極まってる? 私にはよくわからないけど、小刻みに震えているようだった。

 そして男の子の顔が影に隠れ「た、隊長っ!」と少年が張り上げた声と共に私は後ろを振り返る。


 隊長っ⁈

 一瞬、何のことかわからなかったけど、状況はすぐに把握できた。隊長とは別の意味で。思わず大きく声が出てしまう。


「鳴海君っ⁈」


 背格好と服装から、すぐにわかった。何で、顔に戦隊モノのお面を被っているのかは、わからないけど。おそらく、色を見るに、さっき少年が言っていた、七色戦隊のレッドだろう。

 レッドは膝を曲げ、少年の顔を見て言う。


「お母さん、困らせたらだめだろ?」


 優しい問いかけに、少年は大きく頷いたのだった。

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