第30話  蘭奢待を切り取る

朝廷では、天皇の宣旨を蹴った信長の態度が論議されていた。


「まだ、天下はおさまっておらず、そのような時ではない。武田を征伐した後に、あらめて、返事をしたい」という、信長の言葉は丁寧ではあるが、調停に対する不遜な態度が気に食わないとする公家たちが多数を占めた。


帝自らも、関白らを呼び寄せ、「朕のためにも、信長を京に留めおくためにも、しかるべき官位を与えるように」とした。


その意を受けて、十八日に信長を御所に召し出して、従三位参議の官職を伝えた。

参議とは政を参議する地位にあり、大臣・納言に次ぐ住職で、宰相とも呼ばれる殿上人である。


この時代にあっては、参議になった者はいない。従二位になった周防守護の大内義隆にあっても、その官位は大宰大弍、兵部卿にしか過ぎない。


未だ、正四位弾正忠にあった信長の地位からすれば、弾正少弼、左京大夫などの官職をごぼう抜きしての破格の扱いである。


正親町天皇は、信長を官位という形で評価し、信長の心をつなぎとめようとしていた。しかし,信長自身は見かけだけの官職には興味を示してはいなかった。


(帝の思いは、しかと承りたい。が、しかし。この信長をこの先、この国としてどうしていくものか見えぬ。足利幕府は未だ滅亡してはいない。義昭自身の征夷大将軍も官位も取り上げられてはいないではないか)と思っていた。


「しからば、この官位をありたくお受けいたす」と、平伏した後、さらに言葉を続けた。


「朝廷からいただいた、この官職。真に参議であるかどうか、身を持って体現し等ござりまする。ゆえに、これより大和に向い東大寺の正倉院の倉を開け申して、蘭奢待を所望いたしますゆえに、その旨、帝にお伝えの上、ご奉書を戴ければと存し上げまする」と、張りのある声で応えた。


(かつて、足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武しか切り取ったこのとのない蘭奢待である。義昭ですらできぬこと。予が切り取れば、足利幕府の威勢と並ぶこと、美濃のかつての守護土岐氏とも肩を並ばせること。天下に信長の地位を知らしめることができる。さあ、この信長の意にこたえるのか否か)と、考えていた。


朝廷では、禁裏の公家たちが震撼した。

「やはりのう。やはりのう」と口々に、信長に権力を与えることに対する懸念をあらわにした。


しかし、正親町天皇は、「わかったと伝えよ」と、短く言葉を発し、御簾から奥に下がっていった。


二十四日、相国寺で茶会が催され、集められた茶人、商人、家臣たちは信長の昇任に対する祝言を述べた。


「では、これより大和へ向かう」と、笑いが止まらぬという風に信長はすこぶる上機嫌で皆の者に伝えた。


去一月八日、再び信長を裏切っていた松永久秀が、ぬけぬけと正月の挨拶を兼ねて、自らの軽率な行動を詫びてきていた。


信長は、なぜか久秀には肝要であり、命は取らぬ代わりにあらためて城をよこせとして、多聞山城を取り上げた。


信長が多聞山城を欲しがったのは、大和の拠点であることはもとより、松永が築いた多聞山城の構造であった。山頂に累々と築かれた寺院ともいえる荘厳な櫓群と中央にそびえる大櫓を当代一ではないかと見ていたからであった。


その城を摂取することができ満足であった。城には、十一日に明智光秀を受け取りにやらせていた。


光秀は入城後すぐに城と周囲の治安の整理を行い、そのまま、勝頼の明智城包囲を聞き、二月五日に美濃明智城へと出陣し、信長とともに武田勝頼軍と対峙した後、六日に帰陣し、信長に帯同して上洛していた。


三月二十六日、勅使日野輝資、飛鳥井大納言が勅諚として宣旨をもって勅封を開けるとして、信長とともに下向することを伝えてきた。


信長はそれを以て南都東大寺へと大和路を下って行った。


南都ではその知らせを受け、混乱していた。

興福寺は叡山のような信長の焼き討ちがあるのではないかと、そのような事態だけは避けたいと、歯向かう意思はないことを示すために門跡が自ら、宇治まで出迎えに行き、国衆は肩衣、袴い姿で木津川まで迎えに着いた。


二十七日、三千の兵とともに多聞山城に到着した信長は、塙直政、菅屋長頼、佐久間盛信、柴田勝家、丹羽長秀、蜂屋頼隆、荒木村重、武井夕庵、武井有閑の祐筆を蘭奢待所望の奉行と命じた。信長は直接正倉院には出向かず多聞山城で待っていた。


廿八日、蘭奢待が納められている三の倉が明けられた。長持ちに納められていた蘭奢待を取り出し、多聞山城に運び込み、城に築かれていた御成の間舞台に置かれ、信長は閲覧した。


僧は、正倉院にて取り決められていた作法に従い、一寸八分を切り取り、信長に渡した。


かたずをのんでみていた馬廻をはじめとする側近の者たちは、前代未聞の景色に呆然とするのみで、天子の御威光を仰ぎ、この上なき名誉を与えられたことに感服するのみであった。


信長はこの時、門外不出といわれた「紅沈」も切り取ろうとしたが、東大寺は勅許がないとしこれを撥ね付け終わらせている。


その晩、神仏に対する加護を得るために八幡宮、東大寺大仏、春日社七堂へ参詣し、四月一日、京へと帰っていった。


京に戻った信長は、切り取った蘭奢待の一部を、信長意図をみとめた帝に対する返礼の意味を込めて正親町天皇に献上した。


帝は、自ら許したものを返礼として臣下から受け取るわけにはいかないとし、前関白九条稙通に賜らせた。


蘭奢待は、正倉院に収蔵されている天下第一の香木として古代より有名であった。

正式名称は、黄熟香であるが、通称として、東大寺の文字を隠した雅称としてつけられた名称「蘭奢待」が使われている。


長さ四尺一寸二分、で径一尺四寸ほどの丸太で、中は空洞となっている。沈丁花の樹幹に樹脂や精油が沈積したもので、もともとは越南の山岳にあったものを、延暦24年(805)に早良親王の御霊鎮護において用いるために七月に唐から帰朝した藤原葛野麻呂が、聖武天皇への献上品として納められたものである。


その後、幾度も切り取られていたが、信長以前に切り取ったものとして付箋が施されているものに足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武の名があった。


信長はそのことを、よく知っていた。

足利義満は、至徳二年(1385)八月三十日に東大寺で受戒し、宝物を拝見し切り取っている。その先例にならい義教は、永享元年(1429)九月二十四日に足利義教は東大寺を訪れて受戒を受け、その後宝物を見たうえで二寸ばかり切とった。足利義政も、寛正六年(1465)九月二十四日に、東大寺で受戒し拝見した後と切り取っている。


信長と足利幕府との大きな違いは、切り取りにあたって東大寺での受戒の有無である。


いずれにしても、勅許を得て蘭奢待を切り取った信長の名声は、国内に轟いたことは事実である。


信長はこの事実を知らしめるため四月三日に再び相国寺で茶会を催し、残りの蘭奢待の一部を千宗易と津田宗及、村井貞勝に惜しげもなく下賜している。


信長自身は、蘭奢待には何の興味もなかったが、その権力は今や誰にも止められるものではなくなりつつあった。





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