17.Fact.

 ニムは背中から氷漬けにされた感覚に身震いした。

目の前にしているのは、ブレンド社内でも第一級・危険人物に指定されている殺人鬼と名高い青年だ。

フレディ・ダンヒル――通称・『全知オムニス』。

殺し屋を育てる為に北米に創られた施設、マグノリア・ハウスを飛び抜けた首席で卒業したが、同期が私的な殺人に走った同時期に処分の手を逃れて姿を消した。

以降は、神の如き知性と計算能力から成る『全知』と、マインドコントロールを利用しながら世界中を暗躍。彼の仕業としか思えないが、彼の仕業とは完全に証明できない事件を幾つも起こし、最近では日本で殺人犯として指名手配中――何より、未春を壁に釘打ちにした主犯だ!

「な……何の用で、此処に?」

気後れしつつも、レベッカの前にそろそろと移動しながら訊ねた男に、フレディは微笑んだ。

「スターゲイジーの部下は、非力でも紳士的なのですね」

「フ、フフン、まあね……僕が白アスパラなのは百も承知だが、それで引き下がっちゃあ、知り合いに蹴飛ばされるんでね」

「フフ、知り合いに魔女が居るのは楽しそうですが、ご苦労も多いようです」

「そうとも。彼女にぶん殴られるのは、それなりに為になるけれど」

「面白い。且つ勇敢なご意見です、ミスター・ハーバー。僕を何者か知って尚、面と向かって意見できる人間はそう居ません」

「そりゃあそうだろうさ。なんたって君は、人の頭の中を操作するって話だからね。締切に狂った編集者を朗らかにするぐらいのお茶目は有っても良いが、生死に関わるのはいけないよ。もっと楽しいことに使わなくちゃ……例えば、冷戦中の両国首脳でティー・パーティーを開くとか、爆弾の代わりにキャンディをばら撒かせるとか」

「ははは、つくづく面白い人だ。でも、貴方に付き合うと、余計な時間を与えてしまうぐらい、僕ではなくても知っていま――」

フレディが言いかけた瞬間、ニムはどんと突き飛ばされた。が、突き飛ばしたのはフレディではない。むしろ彼は白アスパラガスが脇に吹っ飛ぶのをきょとんと見送ってから、突き飛ばした張本人を見た。

「それは……どういう意図の行動です? レベッカ」

「ニムが邪魔だっただけよ」

悪怯れる様子もない女は、床で四つん這いになっている白アスパラガスには目もくれず、フレディを睨んだ。

「先に断っておくわ。此処に貴方が求めるデータは有るけれど、それは貴方では手に入らない」

「僕では、ですか。その回答は、かえってわかりやすいですね。さしずめ、貴女の頭の中に有るということでしょうか」

「覗き魔の『全知』にも、見ることは適わない場所よ。諦めなさい」

どこか似ている青が見交わす緊張感を、ニムは壁を伝って起き上がりながら見た。

ただ、美しい青年と妙齢の麗人が距離を置いて見合っているだけなのに、割って入り難い雰囲気が漂う。外では、大勢が騒ぐ声や、何かがぶつかり合うような激しい物音が響くが、普通なら気になる筈のそれは遠い場所で起きている様に思えた。

先に訝しそうに首を傾げたのは、フレディの方だった。

「おかしいな……貴女は、グレイト・スミスの才は何も受け継いでいない筈ですが」

「やはり、一度たりとも語られないことは『全知』でも知り得ることはできない」

天啓でも呟くように言うと、レベッカは立ち上がるタイミングを逸しているニムを見ずに言った。

「ニム、外に行きなさい」

上官が命じるような一言に、ニムは臆しつつも森の双眸を見開いた。

「……い、行きません」

強張った表情でよろめきながら立ち上がり、しかし頑として首を振った。横目に降って来た女の視線は凍てつくほどに冷たいが、そんな視線は慣れっこらしい作家の抵抗は頑なだった。

「なぜ?」

「貴女が何をしようとしているのか、僕の予想が当たっていると思うからです。貴女が残るのなら、僕も残ります……!」

力強い声が終わるより早く、何かに気付いたフレディが入り口を振り返ったが、天井からギロチンのような勢いで落ちて来た鉄扉が覆った。全てを拒絶するような音はそれ一枚だけとは思えない地鳴りを響かせ、沈黙した。どこかで同じものが幾つか落ちたらしい。不気味な静けさに包まれた場で、小さな溜息が漏れた。

「困ったこと。これも、ペトラの……いえ、あの男か、それとも別のバカ男の作戦なのかしら……」

ぼやいた女の表情の複雑さを、居合わせた二人が理解できたかは怪しい。

「これは、僕を閉じ込めたつもりでしょうか」

訊ねたフレディは笑んでこそいなかったが、焦った様子はない。その間も、扉の外では何か重いものを引き摺るような音がしたが、レベッカは気怠そうに厳しい表情のニムを見、フレディを見、独り言でも言う様に言った。

「――ホロコーストを思うと、ドイツの血筋に恥さえ覚える。貴方はどう? フレディ・ダンヒル」

突然、語られた歴史は嫌な予感を彷彿とさせたが、青年は怖じることなく首を振った。

「僕は過ぎたことには何も感じません。愚かな先人とは違いますし、負の歴史を繰り返す能無しでもない。貴女の手段が毒ガスでも、何の問題もありません」

「そんなことだから、貴方は此処に居るのよ」

女はどこかの紳士のように鼻を鳴らし、青年はやや不快そうに首を傾げた。

「仰有る意味がわかりませんね」

「フレディ、貴方は自ら此処に来たのではない。私に呼ばれたの。或いはニムに」

「……」

「『全知』ならば、このヒルデガルトで行われた、『星の計画シュテルン・プラーン』は知っているでしょう?」

フレディが、不思議そうな顔になったニムをちらと見、改めてレベッカに戻った。

「貴女も、『星』の一人だと? 僕は二人分の『引力グラビテーション』に引かれたと仰りたいのですか?」

「ニムの祖となったものが”誰”なのか、考えたことはなかったの?」

答えの代わりに降ってきた小馬鹿にする口調に、青年は微かに眉をひそめた。

「有るに決まっています。『星の計画』はグレイト・スミスを作る為の計画でした。結果として作ることはできず、首謀者も貴女に追い出されましたが」

「『全知』は覗き見る情報を間違えることもある。だから『全能』が欲しいのね」

確信に満ちたレベッカの言葉は、どうやら相槌ではない。研究者が試験管の中身でも見ながら言うような呟きの後、彼女は怪訝そうな青年を斜に見つめた。

「人は人として在る愚かさからは逃れられない。天才である貴方も、祖父の名を冠した概要に捉われて、真相が見えない様に」

天才が何か言う前に、出来の悪い生徒にでも言う様に、女は告げた。

「『星の計画』で、彼らが作ろうとしたのはグレイト・スミスではないわ」

ほんの少しだけ、青年は目の色を変えたが、静かに首を振った。

「……それ以外は有り得ません」

「個人的な否定ね。私は事実を述べているだけ。グレイト・スミスの名を借りて隠した真実を」

ニムはふと、ペトラに叱られている時を思い出した。目を背けたい現実を突きつけ、厳しい答えに立ち向かうよう促すそれだ。ただし、ペトラは冷静に物事を分析しての率直な意見だが、レベッカはどこか煽るような圧力を感じる。物知り顔の子供に対し、大の大人が頭ごなしに言い負かそうとする様でもあり、賢い少女が年嵩の学者に新たな知識で食って掛かる様にも見えた。

黙す青年に対し、女は尚も論じた。

「研究材料になったのも、グレイト・スミスではない。彼が消息を絶った時期が、”誰かの所為で”曖昧になった為に、貴方にもわからなかったのでしょう――計画が立ち上がる前に、彼は消えている。居ない者を研究するのは限界があるわ」

フレディは論じる叔母を見つめている。無論、子供みたいにしょげたり、短気な老人のように顔を赤くすることはなかったが、じっと見ている目は何かを堪えるようには見えた。……いや、実際はそこらの男なら感じるだろう悔しさは一瞬で、冷えたブルーの内側では、感情を後回しにした知性が機械的な分析を続けているようだった。

「レベッカ、貴女がヒルデガルトを出ないのは――」

唐突に呟いた顔付きも声も、冷静そのものだった。

「グレイト・スミスを警戒していたのでもなく、アマデウスらに不干渉を貫く為でもなかったと?」

「さあね。きたる日に、貴方を呼ぶ為に此処に居たのかもしれないわ」

ニムの両眼の森は、目の前の光景に瞬いた。

神のように静謐に在る青年が、新たな知識を得て、ものすごい勢いでアップグレードを進めている。それまでは存在しなかった未来――何か、危うい予測が見えたかのように、青が揺らめいた。

「貴女だけでは不可能だ。この状況は、アマデウスの謀略ですか? それともスターゲイジーの……」

「『全知』なら、わかるのでしょう? 貴方が、あのバカ男達に出来ると思うのなら、そう思えばいい」

「貴女は……予知を持たず、『全知』も『全能』も無い。少し賢いだけの只の人間が、僕がいま此処に居ることを当時に算出できる筈がない」

「では、グレイト・スミスが弟子に噛みつかれる前に、小賢しい弟子たちが私を訪ねたのは、偶然だと貴方は見るの? 知り得ぬ人間同士が出会うことを偶然と呼ぶのか、運命と呼ぶのかは人それぞれだけれど、いずれにも科学的根拠を求めるのは如何なものかしら」

「不確定要素が過ぎます。あの頃はAIも今ほどの精度は持たない。ヒルデガルトのクローン達は計算は出来ても予測は不得手の筈です」

「過ぎ去ったことに随分と興味が有るのね」

嫌な揚げ足取りに、さすがの青年も眉をひそめ、ニムはレベッカの大胆さにヒヤヒヤした。

「根拠も原因も、私にとってはどちらでもいい。今となっては事実が有るだけなんだから。グレイト・スミスは予知した『災厄ディザスター』を恐れ、世界を滞らせようと画策し、それを危惧した弟子に追われた。その物語に、グレイト・スミスをおびき寄せる為に実の娘が居たことも、娘が実の父を裏切ったことも、無かったことにしてもいいぐらいの些末な脚色だし……孫の貴方が此処に来ることなんて、更に小さな出来事よ」

恐らく、隠し続けられた秘密を聞いている――ニムは二人を交互に見ながら、動悸と眩暈が同時に襲ってくる気がした。

なんてこった。これが物語なら、此処は核心だ。

レベッカは些末と表現したが、そこには一人の女性の運命が大きく変わった事実があり、その当事者はレベッカ自身に他ならない。フレディに至っては、グレイト・スミスの孫として生まれなければ無かったかもしれない現状を軽くあしらわれたことになる。いつ、この天才が牙を剥くかとヒヤヒヤするニムをよそに、レベッカは尚も告げた。

「あなたたち男は、何でも意味や理屈を付けようとするから無駄に労力を使い、無駄な面倒事を増やすのよ。私がヒルデガルトに居たのだって、単に悪党として素人の小娘が、厄介事に巻き込まれない為に引き篭もっただけの可能性もあるし、病院で暴れたエセ紳士を出禁にしたのも、ハエのようにたかりに来る男を追っ払ったのも、静かに暮らしかっただけかもしれないと思わないの?」

育ての親にして上司の話に、ニムは目を瞬かせた。

話の上では知っている件である。自身が生まれた頃……もう三十年近く前――過激派のネオナチと、ブレンド社の前身となったスターゲイジーのスパイ組織は、このヒルデガルトで騒動を起こした。理由は両者の“些細な”諍いとされているが、病院が舞台になったのはレベッカにも関わり有ると見て間違いない。この事案には、老いて尚ブレンド社最強と呼ばれる副社長のラッセルは無論のこと、最速のスパイと謳われたドライブ・センスを持つスラスト・マーガレットが入っているのだから、並の話では無かったろう。ハエと称されたのは、レベッカに血道を上げていたと聞くミスター・アマデウスだろうが、このエピソードも言われてみれば確かに変だ。才覚に優れた二人がお粗末な事件を起こしてドイツを去る――意味がある様にも思えるし、全く無意味な戯れにも思える。

「例の事件も、今日こんにちの為のパフォーマンスと仰るのですか?」

「あら、自分で言ったじゃないの……私は父から、予知も、貴方が受け継いだ全知も得ていないって」

レベッカは髪をかき上げて可笑しそうに笑った。きらきらした目は、若い娘が相手をからかう様だ。

「フレディ、このヒルデガルトはね……悪党が書いた物語に存在しているだけ。私は登場人物でしょうが、台本を読んだことはない。私が思うまま行動したことが、セリフとなり、アクションとして成立してきた。ただそれだけよ」

上演中の舞台に上がり、自由に踊り歌い、未だに幕は閉じていない。眺める者はストーリーを知らないが、ずっと立ち続ける彼女を主役と疑わない。

「……アマデウスが書いたのなら、そうでしょうね。そこにスターゲイジーまで加われば、登場人物は踊らされるしかありません」

「現に、貴方も踊っているものね」

「僕は、踊ってなどいません。彼らが予測できなかった特異点ですから」

「どうかしら。貴方は此処にニムが居ることも、私が今の話をするのも想定済みだったの? それにしては、まだ何も得られていない様だけれど。無能と侮った叔母にお得意のマインドコントロールが効かないことに焦っていると、素直に白状したら?」

「あなた方がどう在ろうと、問題にはなりません――……仮にマインドコントロールが無くても、僕は必要とするものは予定通り手に入ります」

幾らかムッとした回答は自信満々のそれだが、負け惜しみにも聞こえた。ニムから見れば、平静を保ち続けるフレディの感情が、無理やり引き剥がされて露わになっていく気さえする。――自分について指摘されるのが嫌いなのだろうか?

眉間にわずかな皺を寄せた表情は、どこかハルトにも似ていた。

「そういう子供っぽいところは父に似ているわよ。彼に近付きたいのなら、とっとと温暖な国にでも行けばいいわ」

「僕を知らない貴女が、僕の心情を代弁するのはやめて下さい。僕は祖父に近付こうなどとは思いません。既に超えることができます」

明瞭且つ微細に拒否する姿勢まで似ている。せせら笑うレベッカも同じことを考えているようだった。

「強気だこと。ハルが居なくては、超えることは不可能でしょ」

「ハルは、僕と共に在ります。僕らはあらかじめ、二人だっただけの話です」

異様な告白を聞いたニムが生唾呑んだ。どういう意味だ? 一心同体とでも言いたいのか? 妄信的な愛情にしては、変わった表現に思われるが……

ニムが青年の推し量り難い感情に戸惑う中、レベッカは鼻で笑ったようだった。

「貴方はグレイト・スミスにも、ハルにも振り回されているというわけね。フレディ、変わらなければハルとも離れていくだけよ。彼は変わることに不安

もある様だけれど、受け入れつつある。貴方も大人になりなさい」

「レベッカ、僕とハルに関して貴女が意見することは何も有りません。僕らが対話した後には、貴女にも理解できるでしょう――僕たちが祖父を超える存在であり、BGMも取るに足らない組織だということが」

宣告に、女は尚、挑発的に笑んで片手をスッと振った。

「どうやら、私と貴方はこれ以上話すことは無さそうだわ。失礼する」

言うなり踵を返した女に、むしろ呆気にとられたのはニムだ。

じっと女を見据えたまま動かない殺人鬼と、そんなものに背を向け、長い廊下を堂々と歩み去る女とを、狼狽えたグリーンの視線が行き来した。銃でも持ち出されたら、瞬く間に殺されてしまうだろう状況だったが、フレディは「待て」と命じられた犬のように動かなかった。

落ちて来た鉄扉が動く気配は無く、外の騒ぎも曖昧にしか聴こえなくなってきた。周囲は、空っぽになった菓子箱以上に素っ気ない空気になった。

「あー……オホン、……」

沈黙に耐えかねたニムの変な咳払いにも、フレディの視線は反応しなかったが、小さな溜息のようなものが吐かれたようだった。

「ねえ、君……これからどうするつもりだい?」

当初の態度から一変して、迷子でも気遣うように声を掛けた作家に、青い視線がちらと向いた。

「待つしかありませんよ、ミスター・ハーバー。女性はそういうものです」

とてつもなく普通の回答に、ニムはむしろ動揺しつつ、どこか呆けた顔付きの青年を上目に仰いだ。

「それはつまり――君は、レベッカや僕を殺す気は無いの……?」

「彼女との話を聞いたでしょう。僕が欲しいものをレベッカがその脳に所持しているのなら、彼女を殺すのは無駄な事です」

「それはそうだが。脅迫もしないのかい?」

「仰る通りですよ。貴方に関してなら尚の事、殺すのも傷つけるのも逆効果です。ブレンド社を明快な敵にすることが損なのは誰にでもわかることですし、今は貴方に懐いた殺し屋も近くに居る」

明快な正論に、ニムはベージュの髪を搔くほかない。

「……どうも思っていたのと印象が違うね、君は。未春にあんな酷い事をするぐらいだから、銃やナイフを突き付けてくるのかと思ったんだが」

「それは、貴方が僕をそこらのシリアルキラーと同じものだと思っていらっしゃるからです。彼らは自己の欲望や衝動のままに行動しますが、僕には自己に留まらない目的と、成し遂げる為の理性が有ります」

それはそれで背筋の冷える回答だったが、ニムは反発するのはやめた。この青年の高尚な目的とやらが人を傷つけるのを厭わぬのなら、恐らく議論の余地はない。未春にしたことに対して、文句を並べ立てたい気持ちは有るが、きっと何も通じまい。

――少なくとも、今は。

「それじゃ、一緒にコーヒーでも飲もうか」

陽気に言ったニムを、ほんの少し驚いたような視線が振り向いた。

「……ミスター・ハーバー、貴方は面白い以前に、変な人だと言われませんか」

「うむむ……そう言われても仕方ないが、君が急に現れるよりは、目の前に居た方がいくらか安心できる。――それにさ、一緒にコーヒーを飲んだら、気分が変わるかもしれないじゃないか。君が言うところの時間稼ぎと思われても差し支えないけれど、僕は此処で途方に暮れて突っ立っているより、なるべく気持ち良く過ごしたいね」

フレディはしばらく、青い瞳をおっとりと瞬かせていた。

ニムが宇宙人と意思疎通を図る思いで目を向けていると、殺人鬼はぽつりと言った。

「僕は、僕の素性を知る人に、初めてお茶に誘われました」

その言葉は、ただ事実のみを述べただけかもしれない。だが、ニムは違った。人の良い作家は、自然と陽気な笑みを浮かべた。

「そうかい……最初の一人が僕なのは、君にとってどうなんだろう?」

「率直に言って、よくわかりませんね。初めてなので」

「僕も、殺人鬼なんて言われる男をお茶に誘ったのは初めてだよ」

今度はフレディも小さく笑った。

「恐らく、貴方がそんな気になったのも、僕が必要以上に落ち着いているのも、レベッカの影響なのでしょう」

「え?」

「持たざることは……別の力となったのでしょうか。それとも、無とは最たる力なのでしょうか」

「……??」

「貴方もレベッカも“星”だが、意味が異なる様だ。面白いですね。瞬く者と、静かな者か」

ぱちぱちと瞬くばかりの小さな森を眺め、フレディは肩をすくめた。

「行きましょうか。珍しい機会のコーヒーを、ひと口も飲めないのは残念ですから」




 ロッテが運転する車は指示された場所に辿り着いていた。

目立った違和感もない住宅街である。騒ぎはおろか、起きる気配もない。散歩中と思われる老夫婦や、買物に出掛けるらしい婦人などが道を行き、申し訳程度の日差しが屋根や道端に落ちている。

しかし、停まった瞬間、未春が何かを確かめるように車窓を覗き込んだ。

「どうした?」

どこか不貞腐れた顔で座席にもたれていたハルトが訊ねると、振り向いた顔は誤って未来にでもやって来た人間のように驚いていた。実は、数分前から車窓の景色にソワソワしていた未春である。何かが気になっていた様だが、本人にも理由がわからなかったらしい。

「此処、先生と来たところだ」

「ニム先生と?」

見上げた先は、通りに面した赤煉瓦のアパートだ。白い格子窓がきちんと並び、入口付近に鉄製の古びた角灯と「Lieselリーゼル」と書かれた看板が、冷たい風にぎこちなく揺れている。

「ところで此処は何処なんだ?」

あまりに普通の住宅街は、ジュライが関わった場所の中で最も危険が無いように見える。悪そうな面構え一人とて住んでいそうにない。

「此処は先生のファンだって言う絵本作家さんのアトリエ」

「絵本作家のフランツ・リーネルのアトリエ」

二人から来た返事に、ハルトは怪訝な顔をした。

「ロッテも知ってるのか。もしかして、有名人か?」

「何言ってんのよ。あんたでしょ? 私とイルゼにニム・ハーバーの本を買って来いって言ったのは」

「? 言ったが、それがどうした」

「本屋にニム・ハーバーの作品を置くよう推薦したのはフランツ・リーネルよ」

「What?」

どういうことだ。何故、その二者が此処で繋がる?

未春は未春で、首を捻りつつも頷いた。

「本当にファンだったと思う。先生に会えて嬉しそうだった」

国を越えた作家同士の交流は、演技と疑うには気が引ける程度には美しいものだったらしい。話を聞いたロッテも、ハンドルに手を掛けたまま、唇を尖らせてから振り向いた。

「ねえ、ニム・ハーバーがドイツ行きを決めたのはいつ?」

問われた未春が、ニムがロンドンでペトラにぶっ叩かれたところから説明すると、訳しているハルトとロッテは顔を見合わせた。

「それ……出来過ぎな気がしない?」

「俺もそう思うが、ニム先生の出張はブレンド社の策略じゃあないんだろ? 先生を此処に呼んで、誰か得するのか?」

ふと、未春は一部の飲食店と本屋が儲かったと思ったが、口には出さなかった。

……それはともかく、確かに偶然にしては出来過ぎだ。ニムに対する出版社の態度から見て、翻訳の話無くして出張など許すまい。ブレンド社が非常勤として呼ぶのもあまり歓迎しないというから、フランツ・リーネルの存在はこの旅行の肝だろう。

「得……」

未春はぼんやりと呟いた。

ハルトは、自らが死ぬことで得する人物が居る可能性に笑った。ニムは――……彼の行動で得をした人物は、良い意味で沢山居そうだが。

「そういえば、先生はアマデウスさんにも会ってたよ」

「ああ、今朝聞いた。本物だったか?」

「俺は会ってないんだ。ジョンには会ったけど……本物かどうかは自信無い」

ブラックの様に匂いで判別できれば良かったと呟くと、ハルトは見るからに嫌そうに、犬の真似事はやめとけと片手を振った。

「ジョンは本物だろう。この推測をするとキリが無いが、ニム先生が偽物ではないなら、それ相応の待遇をしないとアマデウスがスターゲイジーに睨まれる。ブレンド社は個々の能力に関わらず、絆が深いからな……BGMに関わりない一般社員でも、傷付けたらタダじゃ済まない」

そういえば、ブラックも非戦闘員の為に熊と戦った話をしていた。ブレンド社の精鋭たる彼が、命の危険を冒して他の社員を守るのは非効率にも思われるが、この組織の強さでもあるらしい。

未春はハルトの見解に納得しつつ、首を捻った。

ブレンド社は良い関係性の組織だ。スターゲイジーは悪党以前に立派なリーダーだ。

しかし、それでは割に合わなくはないか。

「得……」

また、未春は呟いた。

得。そうだ、得だ。今回の件、スターゲイジーは未春のドイツ入りに乗じて『果樹園』の一角を崩そうとしたのは間違いない。ペトラの行動からして、それが彼らに重要な作戦なのはわかるが、その為にカードを切り過ぎてはいないか? 麻薬組織ならアマデウスも勇んで潰したがる敵だ――情報を流して仕留めさせたり、手伝わせることは可能の筈。若しくは、レベッカを問い詰めて動かすこともできる。何しろ、あのペトラが先行時にヒルデガルトに来ている……彼女が病院に居た筈のブルーベリーの存在に気付かぬわけがないし、この情報を持ち帰ったからこその今回の対応だったろう。

今度の件で、スターゲイジーは何か得するのか?

彼が欲しがる最たるものは……情報だ。

「ハルちゃんは、スターゲイジーが俺を助けてくれた理由はわかる?」

「ブレンド社がお前を支援した理由か」

「うん。俺に恩を売ってもしょうがないだろうし……」

「スターゲイジーは義理堅い性格だが、お前を助けておくのは悪い話じゃない。十条さんに貸しが作れるし、滞在中にお前のデータが取れる」

滞在中と聞いて、未春は少々面食らった顔をした。ロンドンでは、特にデータを取られた印象はない。話の内容でも、根掘り葉掘りという感じはなかった。

「俺、何も調べられてないと思うけど」

「何も無いわけあるか。あの会社の調査ってのは変態の領域なんだぞ。例えば、身長や体重を調べる程度が普通なら、ブレンド社は指の長さや耳の形まで調べるし、何の役にも立ちそうにないクセや行動も記録する」

指や耳を指すジェスチャーで察したか、ロッテがうんざり顔をし、未春はブラックのベッドに突っ伏したのを思い出してわずかに顔を赤くした。

「……てっきり、レベッカさんの方が俺を調べたがってると思ってた」

「レベッカが? なんでだよ」

「俺がスプリング適合者だから、医師として興味を持たれるって――……」

言い掛けて、合点のいった未春がはたと瞠目し、ハルトは苦笑いを浮かべた。

「まんまとブレンド社に嵌められたか」

「……そうみたいだね」

「連中のやる事は気味が悪いが、目を付けられたらどう足掻いても調べられる。諦めてほっとけよ……案外、スターゲイジーが調べて、後でレベッカと情報交換する寸法だったかもしれない」

「そっか……うん、そうかもしれない」

どうりで、ドイツでの行動を放置されるわけだ。スプリング適合者に興味があるのがレベッカではなくブレンド社なら、これまでの違和感は全て納得がいく。同時に、ずっと一緒だったのは非常勤とはいえブレンド社の精鋭に育てられたニムである。彼が見掛けによらず、鋭い視点と機転の持ち主なのは何度も見た。調査の意志が無くとも、彼なりの観察眼――優しさや気遣いによるそれを向けられていたのは間違いないし、見聞きしたことは正確に記憶しているだろう。

「……まあ、俺としちゃ、ドイツ支部が気にしてんのはニム先生の方だと思うがな」

ハルトの呟きは、英語だった。ちらりと振り向いたロッテが、きゅっと眉を寄せている。

「どういう意味?」

「いい加減、とぼけるのはやめろよ、ロッテ。ニム先生はヒルデガルトの関係者なんだろ?」

「……そんなわけ無――」

「無いわけあるか。ヒルデガルトのセキュリティの仕組みは知らんが、あのフロアに入れる人間に条件があるのはもうわかってるんだ。俺と未春はレベッカの治療を受けてるんだから、何か仕込まれても不思議じゃない。だが、ニム先生は一緒にヒルデガルトに戻った際、何もしないでフロアに入った」

「そうだとして、なんで私があんたの問いに答えなくちゃいけないのよ」

「お前がわかりやすいからだよ。知らん顔すりゃいいのに、そうやって反発するからボロが出る」

「あんたホントに頭に来る男ね!」

一言付け加えずにおけない男女がしばし睨み合い、早々に鼻を鳴らした女はぷいとそっぽを向いた。

「……悪いけど、私はラファエラ姉さまやエマとラナほど詳しくない。レディが単独で来た時に初めて聞いた話だし、興味もなかった」

事実だろう。今でも無関心といった様子だが、それにしてはスキャンダラスな一言が出た。

「ニム・ハーバーは、ヒルデガルトの出身よ。ただ、私たちとは出自が違うし、当時に会ったこともない。私たちが実験動物なら、彼はその延長線上の人物……人工物アーティファクトって呼ばれて別のエリアに居たの。しかも、彼は赤ん坊の段階で行方不明になっていた」

「研究成果の一人ってことか……?」

あれが?とハルトは言わなかったが、顔には出た。ロッテも似たような顔で頷き、未春だけが目を瞬かせ、訳を聞いてやはり瞬きした。

「まさか、あの異様に見えるって話の視力が研究成果じゃないだろ?」

脅威と言えば脅威だが、夜目は利かないと聞いている。望遠鏡並の視力なぞ、望遠鏡があれば足りる話に過ぎないし、彼はどう見ても戦闘教育は受けておらず、才能も無さそうだ。もし、ヒルデガルトの研究目的が物騒な話ではないとしても、視力の強化に重点を置いた非人道的研究なぞ意味不明だ。未春はニムの知能や機転に優れる点はブレンド社らしさを感じるそうだが、あれが大勢の子供やクローンの上に成り立つ成果では、犠牲者は浮かばれまい。

「ニム・ハーバーは……さっき言った通り、延長線上、という辺りらしいわ」

「だが、お前たちと同じ様にグレイト・スミスの遺伝子を持っているんだな?」

「ええ、恐らく。あんたが言う通り、ニム・ハーバーがヒルデガルトのプライベート・エリアに何もナシに入ったのならね。セキュリティはあくまでレベッカが仕切っているから断定はできないけれど」

ロッテは予防線を張ったが、ほぼ正解だろう。或いは「人工物」の名前から連想される様に、生まれた段階で何か施されているのかもしれない。

「あんた達が勘繰るのは勝手だけど、研究は道半ばでレベッカが止めたんだから、人工物が不完全なのは間違いない。それを今さら、止めた本人のレベッカは気にしないんじゃない?」

「不完全、ねえ……」

それは果たして、グレイト・スミスを完全と見ての不完全なのだろうか。人工物、という名前からして非現実的だが、肝心の完成が何を示すのかわからない以上、彼が何者として在るのか不明だ。フィクションの人工生命体などというものだとしたら、凄い話ではあるが……さしたる力を持たない者を、わざわざ人工的に生み出すなど、無意味ではないか?

ハルトは腕を組んで難しい顔をしていたが、軽い溜息の後に目的のアパートを仰いだ。

「今度の件は、知っている奴に吐かせるしかなさそうだ」

ジュライ。奴はキー・マンで間違いない。……勿論、他に事情通とみえる人物は居るが、アマデウスやペトラが安易に吐くことはないだろう。

「未春、此処から何か聴こえるか」

窓を少しだけ開けて訊ねると、未春は住宅地のささやかなざわめきに耳を澄ませてから頷いた。

「話し声は聴こえるけど……俺には言葉がわからないや」

「性別くらいはわかりそうか」

「男が二人……かな? あと、女が……二人?」

疑問符がつくのは、それぞれ声が似ている為らしい。しかし、未春曰く電話越しに聴いたジュライの声はしないという。この期に及んで不在は有るまい――単に黙っているだけと見えるが、問題は。

「男はともかく、女が二人ってのは誰だ?」

「わからない。聴いたことがある気はするけど――……」

言葉が不明瞭な分、音声の識別が難しいらしい。

確かに、言葉に疎いと全て同じニュアンスに聞こえるのはよくある事だ。欧米人は欧米人、中国人は中国人――という風に。未春からすれば、ロッテもレベッカも、何ならペトラも、イントネーションや雰囲気で察することはできるが、大きな差は感じないという。

「揉めている様子は無いよ」

「そうか。待っててもしょうがねえな……行くか。ロッテは? 此処で待つか?」

「バカ言わないで」

もう当然のように降車し始める女に、うんざりしたところでどうにもならない。

この長閑な住宅街、コソコソ行く方が怪しいが、往来でズドンとされては堪らない為、三人は警戒しながら扉に向かった。……正直、多少なりともキナ臭い現場の方が助かる。先程のビルでの騒ぎで、無害な作家の訪問にしては煤けた三人組だからなのだが。

不意討ちに最も強い未春を前に、銃器を携えたハルトとロッテが続き、チャイムを鳴らすと。

ほんの一瞬の間を置いて、ごく普通にドアは開いた。

どっしりと立っていたのは、グリズリーかと思うような真っ黒な巨漢だった。

無論、あの色男ではない。彼よりもずっと年齢を感じる容貌はお世辞にも整っていない髪や髭が囲み、何となくうらびれた装いは、一戦終えたばかりのこちらと良い勝負だ。開いた先の廊下が見えない程、こじんまりした入口の枠をぴたり覆うような姿に、三人はそれぞれに緊張した。――が、その背後からひょいと覗いたのは、涼しい顔の若い女だった。

「イルゼ!」

殆ど悲鳴のようなロッテの呼び掛けに、イルゼはむしろ自宅で迎えたような落ち着きで出て来ると、飛び付いてきた相方を抱き留めた。少なくとも、人質や捕虜には見えず、格好も血色も至って普通に見えた。

「ごめんね、心配かけて」

数年は離れていたかのようなロッテの背を穏やかに撫でてから、イルゼは二人の青年を交互に眺めた。

「ロッテをありがとう」

「いや、俺たちは何も」

軽くかぶりを振るハルトに対し、小さく鼻を啜ったロッテが唇を尖らせた。

「そうよ。こいつらを連れてきたのは私よ」

「そうか。ありがとう」

急に口を挟んだ大男を、ハルトが嫌そうに見上げた。

「……二度と会いたくなかったぞ、ジュライ」

ポケットに手を突っ込んだ元生徒はお世辞にも良い姿勢ではなかったが、元教官は髭面をわずかに笑ませて頷いた。

「久しぶりだ、ハル。相変わらず、疑い深いのは良いことだ」

淡々とした言葉や表情に愛想らしきものをちらつかせた男は、ポケットの中の銃はお見通しらしい。一方で、傍目には丸腰と見える姿勢で、男は室内へと促すように身を引いた。

「君たちを待っていた。入ってくれ」

「御苦労だが、俺たちの用件はイルゼだ。此処に用は無い」

「ハル、目標にシンプルなのは君の長所でもある。イルゼを確保してから出直す気だろうが、今は入る必要が有る」

「……」

「イルゼは承知している。君は私に用が有るだろうし、“彼”にも会わねばならない」

焦げ茶の視線にイルゼは頷き、やや驚いた顔で相方を見ているロッテにも頷いた。長い溜息の後、不遜な元生徒はポケットから手を抜いた。

「――わかった。入るからその前に教えろ。あんたの雇い主は誰だ。Wolfヴォルフのテオは、もうお払い箱なんだろ?」

「ミスター・アマデウス」

でかい舌打ちが出た。

「安堵と殺意が同時に来る答えだ」

「君らしい表現だが、もう少し情緒が有る方が好ましい」

「うるせえ。もう教官じゃねえんだろうが」

ブツブツ言いながら入っていく男を何となく見送った未春は、ふと……こちらを見ていたジュライと目が合った。

「Nice to meet you. 私は君に会いたかったよ、ミハル」

「……? どうも……」

とてもそうは見えない無表情からの挨拶に、遠慮がちに未春は会釈した。差し伸べられた大きな手を臆しつつ握り返すと、温かいそれにどこか懐かしい気がした。女性目線なぞ気にしたこともなさそうな無精髭といい、包容力よりも圧迫感を感じる大きな巌を思わす男だが、どうしたわけかブラックを彷彿とさせるのが不思議だった。

「……どうして、俺に会いたかったんですか?」

「君のおかげで、ハルが変わった姿を見た」

「それは、俺の方だと思いますけど……」

「素晴らしい。それもひとつの体感であり、成果だ」

「成果……?」

不明瞭なものを見つめる顔で仰ぎ見てから、促されるまま中に踏み入りながら、未春はふと振り返った。

「――あの、ハルちゃんが変わったのを”見た”って言いましたよね?」

久しぶりに会った筈なのに、一体どこで?

問いの意味を察したらしい男が微笑した。ブラックとは異なる意味で、ぞっとするような低音が答えた。

「日本で、ハルを撃った時に見た」




「ああ、お二人が戻って来てくれて良かったわ……もう、酷い有様で……」

汗を拭いながら、何度目かのセリフを喋ったのはヒルデガルトの――病院という名の表の管理を任されている女だ。その恰幅の良い体形同様、何十年も女将や寮母を務めたようにどっしり構えている女だが、今日ばかりは都合が違った様だ。

それもその筈、静寂と秩序が守られている筈の院内は、災害後のように人がごった返し、行き来も話し声も忙しない。それでもようやく正常に戻る最中らしく、スタッフが床に散らばった陶器や書類、ガラスの破片などをホウキで集めたり、泥や靴跡で汚れた床にモップをかけ、机や椅子、果ては壁を拭いたり整えたりしていた。

通常の治療を再開している受付からの呼び声や、患者の問い合わせ、電話の音が飛び交う中、管理者の後に続いてスタスタと歩いていくのはブルーム姉妹である。

肩口で纏めた金髪に飾った各々の白い花と青い花や、肩で風を切る表情は凛としていたが、スカートは少々薄汚れ、戦場帰りのような恰好だ。管理者もその辺りは心得ている為、深くは追及しなかった。代わりに、現在の情報交換と指示を細かにやり取りしながら、辺りの騒ぎなど気にも留めぬ風に院内を抜けると、ヒルデガルトのプライベート・エリアへと続く入口の前へと辿り着いた。

「あちらで、お待ちに……」

管理者が示すそこには、えらく煩雑に積み上げられた椅子やら植木鉢などによる障害物が入口のドアを覆い、傍らには黒髪に黒ずくめの長躯が立っていた。前衛的なオブジェを見上げているようにも見えたる男は、近付いた一行に振り返ると、美貌に薄笑いを浮かべて片手を挙げた。

「Hello.」

『Hello.』

双子もシンクロした動きでそれぞれの片手を挙げて言うと、管理者を持ち場に戻るよう促した。男はそれを見送ってからにこりと笑んで、大柄な体躯にしては実に優雅に双子の前に膝をつき、両の手を差し出した。

「お会いできて光栄だ、ブルーム姉妹」

『ブラック・ロスですね』

双子はにこりともしなかったが、差し出された手は片方ずつ握り返し、そっと頷いた。

「レベッカの為に来てくれたこと、感謝します」

「『果樹園フルーツ・パーク』との戦闘については聞いています」

男は薄笑いのまま、深い穴の底じみた黒い瞳を和ませて首を振った。

「俺はボス達に言われた通りにしただけだ。騒ぎを大きくしたのはすまなかった」

「良いのです。ブルーベリーの件はそうなると思っていましたから」

「私たちが先延ばしにしていた件を、処理してくれて助かりました」

硬質な返答に込めた礼を察してか、男は軽く肩を上下させてから立ち上がると、再び現代アートならぬバリケードを見上げた。

「ラファエラ嬢は、電気系統の確認に行った。俺はこいつをどう崩そうか考えていたんだが」

双子は同じようにバリケードを見上げ、ゆったりと首を傾げた。ブラックでも脚立無くしては届かない上部にドカドカと不安定に乗った物品は、どうやら投げて積まれたらしく、落ちたら破砕しそうな物も嫌な姿勢でぐらついている。

「ボスには、あまり物を壊すなと指示されているんだが……下手に触るとジェンガのように崩れそうだ」

偶然にもイギリス人が生んだテーブルゲームの名が上がり、エマとラナも首を捻った。いっそ壊れても構わない物が多数だが、廊下がそれほど広くはない為、どかそうと思った物が崩壊しては、改めて移動せねばならなくなる。同時に、男は廊下の壁を気にしていた。ちょうどバリケードの積まれた周辺は、数メートルの壁そのものをキャンバスに、花や動物が賑やかに描かれている。稚拙だが愛らしい絵は、治療で長期入院、又は入退院を繰り返す子供たちが描いたものだ。プライベート空間に続く扉を敢えて人の往来が多い場所に設けたのは昔の研究者たちだが――絵を描かせたのはレベッカだ。双子も、これを気にせずぶっ倒せとは言い難い。かといって、時間を掛けている場合でもない。双子はバリケードの周囲をウロウロすると、設計者かゴルファーのように見上げたり、しゃがんでみたりした。

「私たちが、計算通りに落としていきます」

「それを貴方が受け止めるのはどうですか」

「良い考えだ」

黒手袋をはめ直しながら承諾した男に、双子も頷いた。まさに巨大なテーブルゲームである。手の届かない部分は持ってきたホウキでビリヤードのように突く。ぽんと飛んだそれは一人掛けの椅子だったが、大きな手が軽々とキャッチした。並ではない運動能力を持つ三者は、要領を掴めば素早い。ジャンプから叩き落されるゴミ箱に案内板、記帳台も受け止められて着地した。ぐらつく物が一通り片付いたとき、ようやく歪に重なった三脚の長椅子が取り外され、骨董市のようになった現場に扉は現れた。が、傍らの電子錠は、双子の目にも留まらぬキー操作にピーピー文句を奏でるだけだった。

「コードの書き換え、ロックを確認」

「アクセス拒否、システムチェック」

機械のようなアナウンスと共に、凄まじいタイピングが続けられたが、少々掠れた電子音を何度か返された双子は止まった。

『開きません』

事実の発言に敗北を滲ませた双子は、背後で眺めていた男を振り返った。どうにかできるかという視線を受けた色男は、緩く首を捻ると、閉じた扉に黒手袋の手を当てて何やら確かめ始めた。

「出入り口は、此処だけか?」

『他にも有りますが、きっと同じなのです』

「なるほど。ボスには、あまり物を壊すなと言われたんだが」

薄笑いからのそれは、さっきも聞いたセリフだった。意図を察した双子は顔を見合わせてから、サッと振り向くと同時に掲げた片手をサムズアップさせた。男は不敵な笑みと共に肩を上下させてから片手をドア枠にかけると、もう片手で取っ手を無造作に引っ張った。みしみしと有り得ない音が響きだし、怪力で毟り取られた取っ手がゴトンと落ちると、感電も恐れぬ手がロックの部品をもぎ取り、扉をこじ開けた。

が、開けた先を覗き込んだ双子は改めて顔を見合わせた。開いた先は、古びた鉄扉が閉ざしていた。

「随分、厳しいセキュリティだ」

片手を擦りながら言った男に、双子は左右から覗き込んだ扉の前で嘆息した。この雑なバリケードが『果樹園』によるものなのは管理者から聞いているが、指示は糸を引いていたフレディだろう。ブルーベリーを何者かわかって置いていた、且つフレディのドイツへの侵入を認識していたレベッカが、彼らの動向を理解していない筈はない。

「多分、レベッカが私たちを締め出したのです」

「危害が及ぶと考えたから遠ざけたと思います」

今度は鉄扉に触れ、ノックをしたりしながら、ブラックは薄笑いで言った。

「ドクター・ローデンバックは、あんた達が大事なんだな」

ごく自然に出た低音の言葉に、双子は神妙な顔で頷いた。

「レベッカは、私たちの為にヒルデガルトに居続けましたから」

「今日は、ハルや未春の為にもフロアに留まるつもりでしょう」

「ほう。彼女がフロアに留まると、何か有るのか?」

双子は同じように扉を撫でて具合を確かめた。男が扉にぐっと力を籠めると、年季の入った軋みを感じた。

「かつてのヒルデガルトには、私たち以外にも大勢の研究材料が居ました」

「全員が全員、理性を保っていたわけではありません。あの薬物の影響で」

「スプリングだな。日本で完成する前の雛形の」

三人とも、扉に両の手を当てた。生きた重機にも等しい三者の怪力に、鉄扉が、ぎ、ぎ、ぎ、と嫌な悲鳴を上げ始める。

「弊社では、スプリングの雛形は東ドイツに端を発したと記録されている。グレイト・スミスの遺伝子を手本に作られたとも……だが、ヒルデガルトで行われた『星の計画シュテルン・プラーン』の到達点は身体強化ではない――真逆だ。理想は恐らく、日本で生まれた『パーフェクト・キラー』と見ている」

低く落ち着いた講釈に、双子がシンクロした動きでこくりと頷く。

「私たちは知っていましたが、ハル達にも黙っていたのです」

「フレディが此処に到達するまでは情報制限されていました」

自戒するような言葉の中、鉄扉は造船か製鉄工場かと思うような音を立てながら、徐々にひしゃげていく。

「BGM関係者も、星の計画は『グレイト・スミスを作る計画』だと思っているそうだな」

「星の計画を『グレイト・スミスを作る計画』と吹聴したのは、アマデウスとスターゲイジーなのです」

「二人には色々な目的や思惑が有ったと思います。でも一番は、レベッカから注意を逸らす為なのです」

「ボス達は、あれでも紳士だ」

その紳士に育てられた男のセリフに、双子は力を込めながらニヤッと笑った。

“あれでも”という表現は言い得て妙だ。あの二人がシンプルにレベッカを擁護したのは明らかだが、周囲にそれを悟られまいと偽装工作し、芝居を打ったのは彼女の為だけではあるまい。先々に起きることを予想し、手を打つことにかけて、あの二人は世界最高峰のスパイにして予知能力者である男を上回った経験が有る悪党だ。

「大戦時に生まれたスプリングの未完成品は、制御不能のモンスターを作りました」

「研究施設では制御しきれず、理性が半端に有る者の中からは脱走者も出たのです」

「彼らはやがて、ネオナチやテロリストになった。一般市民となった者、ヒルデガルトのスタッフとして落ち着いた者も含まれると聞いた」

愛らしい声とバリトンとのやり取りに、耳障りな音が歪な線を描く。鉄扉が、じっくりと、しかし着実に押されていた。

「私たちは、研究施設では第二世代です。暴徒と化した第一世代と戦う為の」

「同時に、スプリングを完成品にする為の第三世代を生み出す為の母体です」

「あんた達の犠牲の上に生まれた第三世代が『人工物アーティファクト』なんだな?」

「はい。レベッカがやめさせたので、人工物は完成しませんでしたが」

「私たちも未完成です。レベッカ無くしては第一世代と変わりません」

「ヒルデガルトの『星』は、レベッカ・ローデンバックということか……」

並の者なら歯を食いしばっても一ミリと動きそうにない鉄扉が、ギチギチと呻く。にわかには覗けない秘密を暴かれまいと、抵抗する様に。

「『シュテルン』はドクター・ユルゲンが付けた隠語なのです」

「レベッカの力を夜の静けさと例えている言葉なのです」

鉄扉と壁との合間に暗い隙間が現れ始めた。男が双子に離れているように促し、裾を払った。

「少し前、ボスに聴いた。レベッカ・ローデンバックの才能は、『Ruhezeitルーエツァイト』だと」

勢いよく踏み込んだ男の強烈な蹴りに見舞われ、けたたましい音を立てて鉄扉が飛んだ。外れた音に留まらず、倒れた音さえもやかましいそれを眺め、男は肩越しに微笑んだ。

「『星』に叱られるかな」

双子はクスクスと笑い合った。

「イイエ、これで良いのです。レベッカが此処に居た理由は、本当はひとつだから」

「レベッカ自身も気付いていない理由なのです。もう自由になるべきだと思います」

「気付いていない理由?」

双子は同時に頷き、声を揃えた。

『きっと、エドワード・スミスを待っていたのです』

エドワード・スミス。グレイト・スミスの本名だ。かつて……レベッカとは、正真正銘の父と娘として暮らしていた男。

「私たちの為にドイツに居てくれたけれど、もう良いと思います。ヒルデガルトを出て、グレイト・スミスに会いに行ってほしいのです」

「気付いていなかったけれど、揺らいでいたと思います。ハルに会いに来た未春を見て、レベッカも本当の気持ちに気付いた筈ですから」

ブラックは穏やかな笑みで双子を見下ろしていたが、不意に、開いた扉の方ではない廊下の方を振り返った。

「あんた達の気持ちが一つなら、ドクターも行きやすいだろうな」

エマとラナも視線を向けた先には、スーツの女がひとり立っていた。ひし形のボブカットにしたブロンドをふわりとなびかせ、如何にも仕事が出来るオフィスレディといった風にヒールで床を踏んでくる。

『ラファエラ』

双子は女に歩み寄ろうとしたが、黒い長駆は何を思ったか、すっと前に出て立ちはだかった。女は気にも留めぬ顔つきで近寄って来ると、声だけは柔らかに言った。

「エマ、ラナ。扉を開けてくれたのね。助かったわ」

双子は仔猫が動くものを追う様に、女をじっと見、薄笑いで女を見ている男を見てから、女に向き直って頷いた。

『ラファエラ、帰って来ていたのですね』

「ええ……レベッカの所には彼と私が行くわ。あなた達は病院の方を――」

「俺は構わないが、“あんたは誰だ”?」

口上をのんびりと遮ったバリトンに、冷貌が微かに強張った。不機嫌そうに眉を寄せ、腕を組んだ。

「スターゲイジーの部下は記憶力が悪いのかしら? 私はラファエラ・ケーニヒと名乗った筈よ」

男は絶やすこと無い薄笑いで、軽く肩をすくめた。

「あんた“も”ラファエラ・ケーニヒとは知らなかった。こちらのレディ達と同じくらい、あんたによく似た女性に挨拶したのは覚えているんだが」

「……イカレてるの? ラファエラは私だけよ」

「失礼だが、俺は犬並に鼻が利く。あんたの匂いは初めて嗅いだ」

「――失礼どころか、下品ね」

「Oh……気分を悪くしたのなら、すまない。だが、少なくともあんたから俺の匂いはしないな。先程まで、ずっと傍に居たのに」

並の女なら、男の美貌から漂うオークモス深い森の香に、瞬時に引きずり込まれていただろう。が、女は動じぬばかりか、まなじり吊り上げた。

「――……香りが残る程、傍に居たですって……?」

女の声は、ひどく冷たい氷が割れるようだった。

「エマ、ラナ、その男から離れなさい。男は信用ならないわ!」

双子の視線が、男と女とをそろりと行き来する。男は弁解も抗議もせずに、ただ、薄笑いを浮かべて突っ立っているだけだ。

「何を迷ってるの? あなた達だって、男は嫌いでしょう?」

「確かに、男は信用ならないのです」

「私たちは、それを経験しています」

認める声は、むしろ迷ってはいなかった。澄んだ空のようにすっきりした二揃いの目が、姉妹に等しい女を見つめた。

「ラファエラ、私たちは今度の事で、愉快でおかしな男にばかり会いました」

「食いしん坊で、こだわりが強いのです。レベッカも、楽しそうでしたよ?」

「……あなた達は、優しいものね。だからナースに抜擢されたんですもの……」

言葉と視線に憐憫を含めて、女は首を振った。

「だからといって、悪党にまで寛容なのは感心しない。私よりも、その男を信用するというの?」

「レベッカの為です。ラファエラはいつもそう思っていた筈です」

「私たちは、レベッカをヒルデガルトから出してあげたいのです」

「当然よ! 私だって同じ……レベッカは、誰よりも大事よ!」

女が腕をほどいて鋭く吠えた。確たる意志に唇を震わせたが、一方で自らの発言に慄くように呻いた。

「でも、レベッカをヒルデガルトから出す為には、“グレイト・スミスの一族が要る”……!」

グレイト・スミスの名に、ブラックが闇を湛えた目を瞬かせた。

一族が、要る――にわかには意味のわからない言葉だったが、双子は真っ直ぐな視線を女に据えた。

『やはり、ラファエラだったのですね』

「……」

『フレディ・ダンヒルのヒルデガルト入りを遅らせたのは』

隠した罪を言い当てられたように、女の表情が揺れた。

「……あなた達は、わかってないのよ……グレイト・スミスは退けられても、災厄ディザスターは、彼が居ないと防げない……!」

『だから、ハルを使うつもりですか』

「そうよ! もし、私たちの見込みが外れて…… 静かな時間ルーエツァイトが無い中で、暴れる者が出たら、どうすればいいの? ベルリンは大混乱に陥るわ……! それとも、あなた達が支持する男は、『災厄』を防げるほどの実力が有るというの?」

ヒステリーに程近い声を、双子は動じずに仰いだ。

「私たちは大丈夫です。扉を閉じても平気でした。実験は成功したと思います」

「ハルは、面倒臭がりの正論モンスターですが、フレディよりはマシなのです」

「だからって……BGMは、殺し屋集団なのよ……? しかも、日本人はあの薬物を私欲の為に完成させてしまった……!」

首を振りながら、女は絶望の色を滲ませた。

「仮に彼らが良いとしても、彼らの上はそうとは限らない。BGMの男どものすることは、マーケットを支配して利益を貪る悪行よ。自分たちの邪魔になる者は、簡単に殺すんだから!」

女の焦りは、原因不明の症状に動揺する患者同然だった。

「落ち着いて、ラファエラ。『災厄』は不確定要素です。起きるとは限らない不安の象徴なのです」

「『災厄』を恐れて別の危険を呼ぶのは、グレイト・スミスと同じだと、レベッカは言っています」

ラファエラは黙って双子を見つめた。

「……エマ、ラナ……私たち、いつも支え合ってきたわね……かつてのヒルデガルトで怯えていた時も、レベッカに救われた後も、血の繋がった姉妹みたいに、本物の家族みたいに……」

邂逅するのは、懐かしい思い出か、それとも地獄の記憶か。思いが複雑に混ざり合った顔のまま、女は片手をついと伸べた。

「そんな私たちが意見を違えるのも、男の所為にするのは、卑怯かしら……?」

呟いた手には、いつの間にか忽然と小さなハンドベルが有った。真鍮の細工が美しいそれを見た刹那、双子は動いた。

甲高くも硬質の音が、空中を鋭く切る。

この瞬間、双子はどうしたわけか、突っ立っていたブラックを突き飛ばしていた。常人なら息が止まる程の怪力に、不意を突かれた男が背中から床に倒され、思わず笑顔を剥がした顔で、きょとんと天を仰いだ。

「ドイツのレディは積極的だ」

頭を強かに打って尚、押し倒された先がベッドであったかのような男は起き上がりながら、突き飛ばした姿勢で硬直している双子を見た。

シンクロした動作でゆっくりと腕を引いた双子がゆらりと顔を上げたとき、殆ど獣の勘でブラックはその場を飛び退いた。間髪入れずに、凄まじい打撃が男の影があった床にめり込む。

「ドイツ支部では、姉妹を武器にするのか」

すかさず飛んでくる拳を避けながら、揶揄とも非難ともつかぬ微笑みを浮かべた男に、ベルを掲げたラファエラは冷たい視線を向けた。

「黙りなさい。私は……彼女たちの為にも目的を果たす。ニム・ハーバーはお前に始末させるつもりだったけれど、姉妹に悪影響を与えるものは早めに駆除しなければ」

「Oh……悪影響を否定する気はないが、俺を助けようと身を呈した彼女たちを悪と呼ぶのは気が引ける。個人の私情を無理強いするのは、良い影響なのか?」

「黙れと言った筈よ。せいぜい、紳士を気取りながら死になさい」

女の片手の中で傾けられたベルが、リン!と鳴ると共に、双子が勢いよく床を蹴った。元より完璧に同調できるらしい双子だが、今はプログラミングされた機械が正確に跳ね回るような動作だ。こちらの首が捻れても攻撃し続けるだろう目は、どう見ても正気ではない――かなり支配力の強いマインドコントロールの様だが、たかがハンドベルひとつで可能なのだろうか?

「……ボス、物を壊さないのは無理そうだ」

低くぼやいた笑みに向け、空気を震わす拳が襲い掛かった。

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