9 湯気のようなもの

「おぉ! 気がついたか、春世! ったく、急に走り出すんじゃねぇよ!」


 目を開けると、そこにはスカイがいた。

 心配そうに、私の顔を覗き込んでいる。


 彼の後ろには、ロボくんの姿。

 例のマッドサイエンティストみたいなサングラスで、こちらを静かに見下ろしている。


 よ、良かった、ロボくん……。

 無事だったんだ……。


 でもロボくん、どうしたの?

 そのカッコ。

 なんか髪の毛がヘンな感じで逆立ってて、爆発に巻き込まれたコントみたい。

 顔のアチコチがススだらけだし……。


「でも驚きましたよ。鈴木春世さんが大声を出して走ってくるから、一体何が起こったのかと思いました」


 ロボくんのいつもの冷静な言葉に、私は思わずカラダを起こす。


「ちょっと、いいかげんにしてよ、ロボくん! 私、めちゃくちゃ心配したんだから! ロボくんが雷に打たれて死んじゃったら、私、どうすればいいの!」


「大丈夫ですよ。雷は落ちてきましたけど、ボクは死んでいません」


「冷静! めっちゃ冷静! 何なの、ロボくん! 私、今、超超超超超キレまくってるんだけど!」


「でも見てください。雷と鈴木春世さんの音楽のおかげで、すべては無事に終了しました」


「はぁ? 何、それ? あなたが終了するとこだったんだよ?」


 ロボくんが右手を差し出してくるので、私はそれを握り返す。

 彼に引っぱられ、私はロボくんとスカイの間に立った。

 そして――目の前の、その光景を見つめる。


 え?

 あれ?

 いつの間にか、どしゃぶり終わってる?


 だけど草原は、まだ白い煙に包まれていた。

 御神木が、燃えてるの?

 今度は、火事?


 ううん。

 この煙の中、御神木はさっきまでと同じ姿で、そこにそびえ立っている。


「あ……」


 そこで私は、深い霧のようなその光景の中で、それを見た。

 御神木の下、幹のあたり――魔法陣に沿って並べられたぬいぐるみたちから、白い湯気のようなものが立ち昇ってくるのを。


「あ、あれは……」


「あのぬいぐるみの中に入っていた魂たちですよ。儀式は終わりました。彼らはこれから、空に向かって舞い上がっていきます」


「空に、向かって……」


 よく見ると、ぬいぐるみから舞い上がった湯気のようなものは、人のカタチをしている。

 若い人、歳をとった人、男の人、女の人、子どももいた。


 私は、その中に発見する。

 小さい頃、いつも買い物に行っていた駄菓子屋のおばあちゃん。

 彼女がこちらを見下ろし、あの頃と同じ笑顔で、私に向かって小さく手を振っていた。


「駄菓子屋の、おばあちゃん……」


「彼女、幸せそうですね。おそらく最後に鈴木春世さんのアコーディオンが聞けて、うれしかったんじゃないでしょうか?」


「う、うれしかったの? あのヘタッピな演奏が?」


「そんなことはありませんよ。素晴らしかったです。鈴木春世さんのアコーディオンが聞こえたから、彼らもぬいぐるみから出やすくなった。音楽は、魂を癒す力を持っているんです」


 おばあちゃんが手を振り続けているので、私もためらいながら右手を上げた。

 手を振ってみる。

 もちろん、笑顔を作って。


 すると、湯気になったおばあちゃんは、さっきよりもさらに笑顔になって私に手を振り返してくれた。

 そのまま、ユラユラと――御神木よりもっと高い地点まで舞い上がっていく。


「おばあちゃんは……あの空の向こうに行くんだね……」


「悲しいですか、鈴木春世さん?」


「悲しい……悲しいかもしれない……でも今は、ちょっとよくわからなくなってきた……」


 その時――私たちの足もとに、いきなり黒い何かがやってきた。

 その子を見て、私は思いっきり驚く。


 こ、この子……この黒猫……昨日駄菓子屋の近くで見かけた、って言うか、ついさっきコンビニの駐車場でも見かけた、あの子?


「黒猫ちゃん……」


「あぁ、あの時の子ですね。たぶんこの子も、空に行きたいんじゃないでしょうか?」


 ヒザを折り、私はその黒猫を抱き上げる。

 強く、強く抱きしめてみた。

 その子の体のぬくもりが、私の胸に伝わってくる。


「ね、ねぇ、ロボくん!」


「はい?」


「こ、この子、死んでない! 死んでないよ!」


「え?」


「この子、死んでない! 生きてる! カラダがあったかいの! これ、死んだ猫のカラダじゃない!」


 ロボくんが、黒猫の背中にそっと手を置く。

 そのぬくもりを確認しながら、わずかに首を振った。


「いえ。残念ながら鈴木春世さん、この子はもう亡くなっています」


「そんな! この子、生きてるよ! あったかい! カラダがこんなにポカポカしてる!」


「これはおそらく――この世の最後に、あなたに抱っこされたからでしょう。きっとこの子は、昨日からあなたに目をつけていたんです。あなたなら、きっと自分を空の向こうに送り出してくれるだろうって」


「そんな……」


 でも、ロボくんが言うことは本当だった。

 黒猫の体から白い湯気が舞い上がり、それは他の魂たちと同じようにカラダから離れていく。

 まるで私の手の中から、白い雲が生まれてきたみたいに。

 実際の黒猫のカラダは、風に飛ばされる砂のように、私の手から消えていった。


「にゃあ」


 湯気になった黒猫が、私の目の前で鳴いた。

 そっか。

 それがあなたの声なんだね。


 あなたの声、初めて聞いたよ。

 そしてたぶん、これが最後だよ。

 湯気になった黒猫が私から離れ、どんどん空に吸い込まれていく。


「どうでしたか、鈴木春世さん?」


 空に舞い上がっていく者たちを見送りながら、ロボくんが言った。

 私はそれに、上手く言葉を返せない。

 空に向かって昇っていく、人のカタチをした、猫のカタチをした、はかない湯気たち。

 こんなの、初めて見た……。


「とにかく私、今、不思議なものを見てるよ……すごく、すごく不思議なものを……」


「大丈夫。彼らはまた、この世界に戻ってきますよ」


「そ、そうなの?」


「はい。さっき言ったじゃないですか。降ってきた雨は、やがてどうなります?」


「雨は……地面に吸い込まれ、川になり、海になり……雲になる……」


「彼らは生まれ変わって、また雨のようにこの世界に降りてきます。そして誰かと出会い、川のように流れ、自分の人生という海に流れていくんですよ」


「そしてまた蒸発して、雲になるの?」


「えぇ。この世界なんて、その繰り返しです」


「その繰り返しなんだ……」


「どうだ、春世? 今日はなかなか素敵なピクニックだっただろう?」


 空を見上げながら、スカイが言う。


「そうだね。すごく不思議だけど、なんかめちゃくちゃ良いものを見せてもらったような気がする」


「お、素直だな。でも、これはとても大事なことなんだ。この光景を頭ん中にきざみ込んで、これからも学校生活を続けていけ。宿題しろよ、歯ぁ磨けよ、風邪ひくなよ、また来週」


「何言ってんの、スカイ? ところでどうすんの、この服? ビショビショなんですけど? あなたの家、お風呂はあるんでしょうね?」


「まかせとけ。お前の家まで、ロボの魔法陣を使ってソッコーで送ってやる」


「なんであなたは、いつもロボくん頼みなのにそんなに偉そうなの?」


 笑いながら、私たちは空に舞い上がっていく魂たちを見送る。

 彼らはすでにめちゃくちゃ遠くまで昇っていて、やがて見えなくなった。

 この草原を漂っていた白い煙も、強い風が吹き、ほぼすべてが消えてしまっている。

 御神木は、地面に立つ私たちを見守るように、ただそこにそびえ立っていた。


 そんな草原の中で――私は空に向かって大きく叫ぶ。


「黒猫ちゃん! 生まれ変わったら、また会おうね! またすぐに、私のところに雨みたいに降ってきてね!」


 私の声、あの黒猫ちゃんに届いただろうか?

 薄っすらと晴れはじめた夕暮れの中、私の声がこの広い空に吸い込まれていくのを感じる。

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