片道切符を握りしめて
じゅじゅ
線香花火
帰りのチャイムが鳴った。今日も憂鬱だった一日が、幕を閉じた。
途端に騒がしくなった教室の中、私は誰とも目を合わせることなくカバンを手に、席を立つ。
「ねえ、月末の花火大会さぁ————」
「いいね! みんな一緒に————」
遠くなるクラスメイトたちの話し声を背に、今日も私は一人、帰路に着いた。
昇降口を抜けて、ふと見上げると茜色に染まった夏の空が広がっていた。夕暮れの冷たい風が頬を掠める。
薄暗くなった路地を一人、コツコツとローファーの足音を鳴らすながら進む。
話し相手はおろか、前も後ろも私しかいない。道端の小さな雀さえ、私が近づくとすぐに飛び立ってしまって、胸がじんわり痛む。
こんな日常が、ずっと続いていた。
それでも家に帰れば救われる、そう思っていた。
両親は共働きで忙しく、父とは同じ家に住んでいるはずなのに、互いに出会うことは多くなかった。
けれど、母が早く帰ってきてくれていた。
母は私の他愛のない話を微笑みながら聞いてくれて、一緒にテレビを見たり、料理を手伝ったり。その時間だけは、孤独じゃないと思える、貴重なひとときだった。
期待と不安がないまぜのまま、冷たいドアノブに手をかける。
今日もこのドアの向こうで私を待っていてくれる人が、「おかえり」と言ってくれる人がいるだけで、憂鬱な日々をやり過ごせるのに。
勢いよくドアを開けると、暗く静かな室内が広がっていた。
何日も閉ざされたままのカーテンの隙間から、夕焼けの光がわずかに線を引いている。
キッチンには水につけたままの食器が小さな山を成している。
週末に洗ったはずの洗濯物は未だ、ハンガーに下がったままで、リビングの端にあるテレビは最早置き物と化していた。
この場所には、母の優しい声も、家族の気配ももう残っていない。
思い出と写真立ての中の笑顔だけが、やけに鮮やかに私の胸を刺しにくる。
一人立ち尽くしたまま、歯を食いしばって涙を堪えた。
ただ、誰かに傍にいてほしいだけなのに。
それだけなのに————。
△ △ △
————ガタンゴトン、ガタンゴトン
さっきまで乗っていた電車が発車する音が聞こえる。
夏の夜は、日中の暑さを忘れてしまいそうなくらいに、半袖では肌寒かった。
満月が光を放つ夜空の下、左手に切符1枚を握りしめて進む。終点までのものだったが、正直どこでもよかった。遠くにいければそれでよかった。
家を飛び出したときに、間違えて履いてきたサンダルのサイズが小さいせいで、靴擦れを起こしている感覚が気持ち悪い。暗闇の中、街灯を頼りに足早に、電車の窓から見えた海へ向かう。
海水が波を打つ音が耳に入る全ての音を独占した。
暗い海には満月の光だけが反射して、輝く海とは違う、深藍の海が広がっている。
走って消耗した、酸素を求めている肺が吸い込んだ空気に確かな塩の味がした。
「……ここでいっか」
変わらず波を打ち続けるそれに向かって、小さく呟いた。
昼間に見るキラキラした海より、この方が私に相応しい。
そう思えてきた。目の前に広がる暗闇と、音を立てながら波打つ海水を無心に眺めてしばらく経った時だった。
背後から砂を踏む小さな足音がした。
————もう、なんでもいいや。
覚悟を決めて振り向くと、そこには私とさほど年が離れていなさそうな少女が立っていた。
セーラー服を着ていたどこか神秘的な彼女は、無言で私に近づいてくる。
近づくにつれ、そよ風に靡く長髪、活気を失ったような漆黒の瞳、無機質な表情を浮かべている姿が顕になり、思わず息を呑む。
最初はてっきり、凶器を持った見知らぬおじさんが立っているのかと、少し拍子抜けだった。
落胆と安堵が同時に私を襲った。もしこの子が、鋭いナイフでも持っていたなら迷わず、刺して、と頼んだだろう。
「あなた、見ない顔ね。どうしたの? 夜にこんなところで」
彼女は隣に座って、海を見ながら話し始めた。波の音に消されてしまいかねないほど小さな声が、私の耳に入っていく。
「……海に来たくて」
言葉を絞り出すように答えた。彼女はなにも言わないまま、一度私を見て、海へ視線を戻した。半袖、短パンにサンダル。今の私は、夜に海へ来るには十分とは言えない服装であることは間違いない。
「ちょっと待ってて」
そう言って、彼女は立ち上がってどこかへ行ってしまった。
冷たい海の風が吹きつける。ただでさえ寒かったのに、限界を迎えたのか、鳥肌が立ち始めた。
————もう、いいよね。
ゆっくり立ち上がり、海に足を踏み入れる。
まるで冬の海であるかのような、凍ってしまいそうな感覚がつま先から全身へ伝わっていく。それでも、歩みは止めない。
「……最期まで独りだったなぁ」
膝の部分まで水に浸かり、身体全体が寒すぎて警告の信号を出し始めたときだった。
「待って! 」
突然聞こえた声に思わず振り返ると、あの子はなにか大きな袋を片手に、砂浜から私を呼んでいた。すぐにそれを放り、海まで入ってくる。
冷たい水の中をぴちゃぴちゃと無造作に進んで、彼女はあっという間に私のところまで来て、手を掴んだ。
「……私、ちょっと待ってって言ったよね? 」
低く怒気を帯びた声が私に直撃した。彼女は私の手を引いて力強く歩いてと砂浜へ戻っていく。すっかり冷たくなった私の手とは違い、人肌の温もりがこもっていた。
「これ。一緒にやらない? 」
なにを持ってきたのだろうと、びしょ濡れで寒さに震えながら彼女を見ると、線香花火セットだった。もう片方の手にはライターがある。
「っくしゅん! 」
寒い。温まりたい。もし、このまま進んでいたなら感じるはずのない感覚が、感情が私の中で渦巻いていた。彼女は近くに落ちていた木の枝を拾いながら私に対して、
「まったく、そんなことだろうと思ってた。思ってはいたけど、本当に実行する瞬間を見たのは初めてだったよ……」
「……」
「風邪引いても知らないからね」と付け加えて、彼女はため息を吐いた。そして、砂浜に落ちていた湿った木の枝に何度かライターを当てて火をつけると、線香花火を取り出した。
「ほら、少しは気が紛れるでしょ? 」
半ば強制的に押し付けられた花火を受け取る。
付けては、離して。付けては、離す。それでも、花火はなかなか点いてくれなかった。
むしろ、彼女が用意してくれた温まるものとしてそれを使っていた。
「なんであんなこと、しようと思ったの? 」
彼女は私を連れ戻すときに海に入ったせいで濡れてしまったスカートの水を絞りながら問いかけた。
火に近づけていた花火を置いて、それに答えた。燃え盛っていた炎は、少しずつ小さくなっていく。
「ずっと、独りだったの」
私は、今に至るまでのありったけの胸の内を、隣に体育座りをして縮こまっていた彼女に吐き出した。
涙が溢れて、声も上擦れてボロボロになったことなんて気にも留めずに、私の口は止まることを知らなかった。
真っ暗な浜辺を照らしていた明かりが燃え尽きた瞬間、彼女は言った。
「水死体って、見たことある? 」
その言葉に、私の視線は自然と彼女へと移行された。仄暗い視界の真ん中に映ったのは、瞳が激しく揺れている、苦笑を浮かべた少女だった。
「もし私が帰ってくるのが遅かったらあなたで2回目だったかもね」
「……そっか」
「でも、よかった。もう二度と、あんな光景は見たくない」
水死体、という言葉が頭を離れない。あのまま進んでいたら、と思うと責められているような気分になる。
「私の友達が、ここで亡くなったの。あなたがしようとしていたように」
彼女の口からこぼれたその一言に、私は全てを悟った。大きな罪悪感が襲いかかってきて、この場から消えてしまいたい。
「私も、あなたと同じ。あの子がいなくなってから、みんな私に近寄らなくなった。普通に考えると当たり前なんだけどね」
涙混じりに、表情を崩さない彼女。計り知れない哀愁が暗闇にいる私たちを包んだ。
彼女は側にあった木の枝を手に取り、火をつけた。小さかった火種はあっという間に大きくなっていった。
「側にいたのに、なにもしてあげられなかったのが悔しくて……罪滅ぼしとはとても言えないけど、会いにくることも兼ねてここに来てるの。そしたら今日、あなたが————」
強いな、無意識にそう思った。彼女の友達がなぜ自殺したのかはわからないけれど、聞いてはならない気がする。
彼女は過去を乗り越えているのだから。むしろ再び思い出させようとしている私が話題を変えるべきだ。
咄嗟に、側に置いていた花火をもう一度手に取り、火に当てると、今度は花火からパチパチと弾ける音がし始めた。
「っ!点いたよ!! 」
線香花火から落ちる小さな火玉が、ジリジリと砂浜を焦がすように広がっていく。
燃え尽きてしまうと、私たちを照らしていた火玉も色を失っていた。
すると、彼女は袋からまた2本取り出して、
「まだあるから、一緒にやろ」
私たちはずっと花火に火をつけては、次のものへと、線香花火を消費していった。数えきれないほどの火玉が、潮風に乗って砂浜へ散っていく。
ジラジラと燃える火の音が夜の閑静な砂浜を明るく染め上げている。
表情が険しかったあの子の微かな笑い声が聞こえた。それにつられて、私も笑ってしまった。
「私の友達も、花火が好きだったの」
「そうなの? 」
「うん、だから、見てるといいな」
そう言って、彼女は空を見上げた。星一つ見えない、満月の光が輝く空の下、私たちの手にある花火は音を立てて弾けていく。
火薬の匂いが、風にのって夜の浜辺に充満していく。
————プツッ。
最後の花火が燃え尽きたときには、私の中に激しく渦巻いていた感情は無くなっていた。
再び海を見ると、来た時とは比べ物にならないくらいに光に満ちているように見えた。それは、私が死に場所に相応しいと感じた場所とは、程遠いもので————。
「そういえば、左手のそれ」
左手? と思い、握ったままの手を開くと、くしゃくしゃになった片道切符があった。
「もしまた嫌なことでもあったら、ここに来て。きっと、私がいるから」
そう言って、彼女は立ち上がった。さっきまで聞こえなかった、海が波を打つ音がまた耳に入るようになった。
私は歩き去る彼女をただ、見つめることしかできなかった。
そういえば、まだ名前を聞いていなかったっけ。
「あ、あの、あなたの名前は————」
私の言葉を塞ぐように、彼女は振り返って、
「
「た、
「……すごくいい名前。小夜、よろしくね」
そう、残して朱里さんは暗闇の中へ走り去った。それからしばらく、私は一人海岸に取り残されたけれど、不思議と寂しい気分はしなかった。
友達とは、こういうものなのだろうか。想像していたものと全く違っていて、思わず笑いがこぼれてしまう。
満月の光は依然強く、吹きつける夜風と変わらないままだ。けれど、どこかやさしく私を包み込んでくれているような、そんな気がした。
————もう、寒くない。
未だに左手にある、くしゃくしゃになった片道切符をその場に埋め、ズボンについた砂をできるだけ払い落とす。
来た道を戻る足取りは来る時のものとは比べ物にならないくらい軽い。
もう一度電車に乗ったときには、手の中に新しい切符が2枚。財布まで軽くなってしまったけれど、握りしめた切符はどこか暖かいものだった。
片道切符を握りしめて じゅじゅ @juju-play
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