花の鏡

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桜の丘と鏡の湖

「私、未来のことは分からないの」


 大学四年目の春は雨が降っていた。

 無音の中で丸みを帯びた雫がやんわりと窓をたたく。外では街路樹が風を浴びて、ささやくように笑っていた。

 曇ったガラスを拭うと、うっすらと外の景色が透ける。かさを増した川が灰茶色の濁流となって、うねっていた。


「道なんて見えないし行き先も分からない。どんな風に生きていけばいいんだろう」


 口にするだけで弱々しく、声が震える。

 スカイグレーのスマートフォンを耳に押し付けながら、彼の言葉を待った。


『そうか。だったら約束してみよう。来年も『桜の丘と鏡の湖』の前で会おうと。それをしるべにして生きるんだ』


 軽い調子で繰り出された言葉が、しとしとと透明な雫のように胸にしみ込む。

『君なら大丈夫』と背中を押された気がした。

 ほんのりと花が咲くような笑みがにじんだのを、覚えている。


 けれども一年後の同じ季節、彼は約束の場所に現れなかった。


 ***


 最初の出逢いは、麗らかな春の日。

 大学生になって間もないころ、気まぐれに観光地へ足を運んだ。

 通称「桜の丘と鏡の湖」

 穏やかな丘を越えた先にある湖は底まで見通せそうなほど、澄んでいる。水面に映る花びらはうっすらと色づき、青空とのコントラストも相まって、映えていた。

 そばには大木の桜。天に届かんとするほどの高さには迫力がある。

 やわらかな日差しを浴びて輝く枝が風にたわむ様は、春の息吹を身に宿したかのようだった。


 絵巻物に描かれていそうな情景に見入っていると、唐突にかすかな気配を感じる。チラッと視線をすべらすと、横から声がかかった。

「失礼。君があまりにも美しいものだから桜の精かと思って、見入ってしまったよ」

 たたずんでいるだけで絵になるほど、華やかな青年だった。年齢はこちらと同じくらい若く、シャツとジーンズというシンプルな格好が似合っている。整った顔立ちで、爽やかさにほのかな色気がにじむ。芳香を放つ花のように惹きつけられ、目を離せない。


「驚いた。私の名前、言い当ててきたのかと」

「君、花の名前なんだ。奇遇だね。俺も佐倉さくらだよ。佐倉さくら颯瑚そうご

 やっぱり言い当てている。あまりにも鋭くて、「エスパーか?」と問いたくなる。また奇妙な風が吹き抜けた。


 ちなみにフルネームは水野さくら。

 平凡な私にわざわざ声をかけてくる人なんて、普通じゃない。

 だからこそ青年の存在はインパクトがあった。彼のほうこそ異世界から訪れたマレビトではないかと感じるほど。


 相手の正体は気になったけれど、深く関わり合うビジョンは浮かばない。当時は少し話をして、すぐに別れた。

 各々の日常へ帰って、別々の世界で暮らす。

 大学や、植え込みや街路樹が彩る通りにも、花の青年の影はない。

 私たちの人生は二度と交差することはないのだろう。

 ほんの少し惜しい。

 眉を寄せながら空を見つめると、ちょうど日が傾くころだった。



 次の春が来る。

 無意識の内にあの人を求めて、桜の丘に足を運んだ。

 青を投影した水を覗き込んでいると、華やかな香りが肌を包む。

 はっとなって横を見ると、シンプルなシャツとジーンズに身を包んだ彼の姿があった。

 心の表面が淡く波立ち、高鳴る鼓動。熱が上って顔が火照ほてる。全身に花の香りをまとった気分になった。

 会いたくなったときに会えるなんて、運命を感じざるを得ない。


 高揚を抑えながら、ごく自然に向き合う。

 近況の報告や些細な雑談をした後、いったん口を閉じた。

 あいまいな静寂の中に、心地よい空気を感じる。黙っていても気まずくならず、彼と精神でつながっているような感覚を抱いた。


「ねえ、付き合わない?」

「いいよ」


 肩の力を抜いて切り出した。

 透明な幕を破るように誘い、目と目を合わせる。うっすらと甘い雰囲気が広がった。

 かくして私たちは交際を始める。

 流れるように自然に、引き寄せられるように。


 彼は「自分を知ってほしい」と言い、歌劇の会場に誘う。

 数日後、実際に私は彼が演じる舞台を観に行った。

 街の中心、大通りに面した位置に劇場が建っている。結晶体を模したユニークな外観で、よく目立っていた。

 人の出入りが激しい。中の通路も混んでいた。

 反対に暗がりに沈んだステージには、静けさが落ちる。席は満員、黒い頭がアイスのピノのように生えていた。

 私は中央の席に腰掛ける。顔を引き締め、ドキドキする胸に手を当て構えていると、ついに公演が始まった。

 ビロードのカーテンが開き、スポットライトが点灯。

 明るく照らされたステージに背の高い青年が降り立ち、舞いを踊る。豪華でひらひらとした衣装を着た彼は、鮮烈なカラーの化粧を施していた。

 派手な見た目にも関わらず舞台の上ではむしろ溶け込み、似合っている。

 主役であった彼は堂々と立ち振る舞った。大ぶりの演技が心をつかみ、惹き付ける。私の目は一瞬で釘付けになった。

 いままで見たどんな俳優よりも個性と存在感がある。あまりの迫力に意識が持っていかれた。まるで舞台が物語の世界として再構築されたように、錯覚する。

 なんて、美しい。

 観客席から息を呑む声が漏れ聞こえた。

 オーケストラの壮大な音楽すら、彼の一部となったかのよう。

 ドラマチックな戯曲、ありとあらゆる役者が集う場で、全ての視線を独占する佐倉は一輪の花。

 ステージにおいて大輪の花は彼一人だ。


「どうだった?」

「えっと」


 会場の裏側、影の内側に立つ私は、どぎまぎと顔を赤らめた。視線が揺れ動き、おかしなほうを向いてしまう。

 感情はバブルのように膨らんで浮き上がるのに、言葉としてまとまらない。

 なにより今の心には、苦いような甘酸っぱいような複雑な色がにじんで、収拾がつかず。

 特等席で彼の演じる世界を見せつけられて、自分がちっぽけな存在だと自覚してしまった。

「ステージそのものが、あなたを映す鏡みたいだった……」

 かろうじて繰り出した言葉。

 佐倉は眉を曲げながら、口だけで笑った。



 四月にデートで撮った写真が引き出しにしまってある。

 陽光に照らされた花のように輝く青年の隣で女はくすみ、実在感すらない。

 まるで昼間の空に霞む淡い月だった。


 デート帰りの夕方、例の丘に足を踏み入れる。

「じゃあ君は月だ。空の鏡。いい表現だろう?」

 褒めてくれるけど、やっぱり足りないと思う。

「ナチュラルなのがいいんだよ。俺は“君”が“君”であることが好きなんだから」

 佐倉の大きな手が私の手を包み、力強い目で笑いかけた。

 私を安心させるために繰り出した、励ましの言葉。

 夕焼けの朱色に照らされ輝く彼の顔が、目に焼き付いて離れない。耳を済ませば爽やかな声が鼓膜の裏で再生され、彼の体温すら身近に感じられる。


 佐倉は美しさだけが全てではないと告げた。無理して着飾る必要はないと。

 私としては逆に背中を押された気がした。

 心を厚く覆っていた雲が晴れ、春の光が差し込む。彼への熱い想いがこみ上げ、胸が震えた。

 どうせなら美しくありたいと願う。

 私が私であることを誇れるように、彼にふさわしい女になれるように。


 以降、私の生活は一変する。

 まず積極的に表に出るようになった。

 二ヶ月に一回は美容院に通い、ショッピングモールに出向いては、おしゃれや服やアクセサリーを購入する。

 自分のために努力を重ねると、心まで生き生きと蘇ったような感覚がした。


 数ヶ月後の休日。私は高校時代の同級生と会う約束をしていた。

 夏真っ盛りで灼熱の太陽がアスファルトを焦がすので、涼しい場所に逃げ込む。

 広場に面したカフェでひと心地つき、コーヒーやミルクティが届き始めたころ。

「さくら、垢抜けた? きれいになったんじゃない?」

 丸い目をした友人がなんとなくといった態度で、尋ねる。

「私、やっぱり地味だったんだ」

「元から素材はよかったんだよ。磨けば輝くって言ってたじゃない。よかった、ちゃんと生かしてもらえる人と出逢えたんだね」

 昼間の光に照らされながら、後方親友面でうなずく。

 太鼓判を押されたようで、心強い。

 平静さを装いながらも照れてはいる。注文したミルクティーに口をつけると、じんわりとまろやかな味が舌に広がった。



 付き合ってから一年目の春、二人で鏡の湖の前に足を運ぶ。何度も通ったはずの場所は、今の私にとってはまた違う印象を抱いた。

 透き通った水面に、柔らかな輪郭の女が映っている。

 薄く化粧をし花が差した顔。

 ほんのりと透ける肌をさらりとした黒髪が縁取り、シフォンをまとった背中に垂れている。まるで絹のように美しい。

 風にふんわりと揺れる裾から、細い足首が覗く。丸みを帯びたパンプスをそろえて立つ姿は我ながら、清楚だった。

「ああ――君は確かに桜の精だよ」

 感慨深そうに小さく零した言葉が、空気に溶けた。

 思わぬ口説き文句に目を見張りながら、首を横に回す。

 佐倉は穏やかな顔ながら熱のこもった目をしていた。

 二人だけの空間となるや湖がキラキラと輝き、乱反射する。

 水鏡越しに頬がじんわりと紅に染まった。ときめきで鼓動が加速し、心臓が高鳴ったのを覚えている。


 そして、私の世界は変わった。

 薄灰色だった景色に色彩が加わり、心の空白が埋まったような安らぎを得る。

「もしくは君があまりにも磨き上げられていて美しいから、花が映り込んで見えたのかもしれないな」

 磨けば光る。水野さくらは鏡。

 佐倉が日輪の花だとして、陰に立つ者は月となる。

 こちらには月明かりのように花びらを照らし・輝かせる機能は、ないけれど。

「でも、俺たちは二人で『花の鏡』なんだと思う」

 同じ日に彼が教えた言葉の意味は、今でも胸に響いていた。


 ***


「『花の鏡』って知ってるか?」

「なにそれ」

 無邪気に問いかける。

 佐倉は水底に映った桜の影を、穏やかな眼差しで見つめていた。

「『年をへて花のかがみとなる水は散りかかるをや曇るといふらむ 』とか聞いたことはないかい?」

(訳:長い年月を経て花を映し続ける水の鏡。花が散って水面に降りかかる光景を、水鏡が曇るというのだろうか)

「国語の成績はよくないの。あとそれ梅の花のことを言ってるんじゃなかった?」

「思いっきり知ってるじゃないか」

 あえてスルー。

「あなたの言う花って、桜? なんだかいつも婉曲表現をされてる気分になるのよ」

「へー、なんでそう思ったんだ?」

「いつも比喩で使ってるじゃない。自覚がなかったの?」

 ジト目で見上げる。

「花を経由して私を褒めたい癖でもあるの? この間も桜を絶賛したかと思えば、急にこっちに矛先を向けてきて、死ぬかと思ったわ」

 彼は頬をかきながら目をそらした。

 口をモゴモゴとさせ、なにか言いたげな顔をする。

「そんなに花が気になるの?」

 浮気を咎めるように腰に手を当てて、問うてみる。

「うん、好きだよ」

 あっさりと彼は認めた。

「花は桜、才能、女性の美しさ、装飾、儚さ」

「花を見たときあなたはなにを思い浮かべるの?」

「もちろん、君さ」

 胸を張り自信を持って、言い切る。

 迷いのない目。晴れやかな顔。

 太陽の光が青年の体をエネルギッシュに輝かし、彼の存在はこの場一帯から浮き出て見えた。

 やわらかな風が吹き、甘い花の匂いが香る。

 私は数分の間、思考を停めて固まっていたけれど、やがて言葉の意味を理解した。

 シラフのまま、なんて恥ずかしいことを。キザにもほどがある。

 急に甘酸っぱい感情がこみ上げ、顔が赤く染まった。体が熱くなり、こそばゆい感覚が肌を這う。

 ぽかんと丸く開けていた口元がゆっくりと閉じ、弧を描を描いた。

 とてもいたたまれないのに、なぜか心が踊る。

 まるで黄色いドレスをまとったお姫様になったかのように。

 フローラルな空気に浸って気持ちよくなっていると、不意に彼が話を切り替えた。

「じゃあ今度は俺から聞き返そう。君にとっての花はなにを意味するのかな?」

「当然、あなたでしょ」

 互いが互いを花とみなす。まるで鏡のようだ。

 二人が並ぶ姿はまるで水面に映る花の影。


 実際に彼は花形だ。間違いではない。

 佐倉さくら颯瑚そうごは特別な存在だと、誰もが謳う。

 彼は年々輝きを増していった。いずれ世界に羽ばたく名優として、さらなる飛躍を期待される。

 けれども、彼に未来はなかった。


 ***


佐倉さくら颯瑚そうごは亡くなりました」


 SNSに記事に刻まれた端的な一文を見て、私は凍りついた。

 画像で添付された詳細を読んでも頭に入ってこず、なにも見えなくなった。

 思わず飲みかけのカップを倒し、水がこぼれる。青いカーペットに染み込んだ液体は、足元をさらに暗い色に落とし込んだ。

 のどはカラカラになっているのに、新たな飲み物を持ってくる気が起きない。冷たい汗の生々しい感覚に濡れながら、立ち尽くした。

 なにも受け入れられない中で、一つの無機質な答えだけが、脳にしみこむ。


 彼が死んだ。雨の日の翌日に、子どもを助けて。


 寒々とした冬が明け、常に降っていた雪は雨へと変わる。警報が来るほどではないけれど川は増水し、茶色く濁っていた。

 翌日はやんわりと晴れ、川の水も透明感を取り戻したらしい。

 外では子どもたちが遊んでいて、そばを通りがかった佐倉は危機感を抱いたのだろう。

 しくも彼の判断は間違ってはおらず、一人の子が川の流れた。

 以降の流れはため息が出るほど、生々しく想像できる。


 川に飛び込みかけた子どもを助けるために身を投げた。

 佐倉は全力を振り絞って相手を岸にあげて、力尽きる。


 散々花がなんだと喋ってきたのに、自分が水面に落ちる花びらにならなくてもいいじゃないか。


 一時的に小康状態になっていた雨がまた降り出し、室内にも湿り気をもたらす。空気が重く、かび臭さが鼻についた。

 朝食としてパサパサのパンを食べていたけれど、食欲が湧かない。途中で放り投げて、立ち上がる。

 淡く曇った窓ガラスに指でなぞると、透明なラインが引かれた。生温かくなった場所から雫が垂れて、ぽたりと落ちる。

 うっすらと覗いた外の景色に、桜の木が映り込んだ。まだ咲いたばかりの花がはらはらと散るのを見ていると、華のある青年の顔が浮かぶ。

 彼はやはり桜だ。出逢った場所が春なら、彼が散るのも同じ時期。

 そうだ、彼は花だから散ったのだ。

「ああ本当、あなたらしいや」

 あえて出した笑い声さえ、涙声になる。

 目を閉じると浮かび上がる、真紅の花。劇的な結末。

 彼の人生を噛み締め、うなずいた。

 しみじみとした温もりの内側で、感傷が陰る。胸の空白に潮水がしみこむように、蒼い感情が心の奥に広がっていった。


 ***


 縹の空にポピーレッドの夕焼けが重たく広がる。暮れがかった景色はけぶり始めた。儚い空気が丘の上を覆い、湿気った匂いが垂れ込む。

 どんなに待っても、彼は二度と戻ってこない。

 全てを呑み込んで、目を伏せる。

 そのときふわりと香ったのは甘くて爽やかな香り。誘われるように周囲を見ると、桜の花が見えた。

 西の空にはまだオレンジの残照が輝いている。


 不意に脳内にこだまする、かつてのやり取り。


 ――「ねえ、どうして私を花だと思ったの?」

 ――「春に出逢った人だからだよ。もう一度会って話がしたい。そう思ったときに、君はちゃんと来てくれた」


 今年もまた春が来る、新たな生命を芽吹かせて。

 柔らかな風が頬に当たり、髪の間を吹き抜けた。オレンジ色の日差しを浴びて肌が照るのを感じながら、私は口元をほころばせる。


 日が沈み切るとあたりは薄青い色に染まった。もう帰る時間。


 大丈夫。記憶が薄れ青年の姿が霞んだとしても。

 桜の丘にくればまぶたの裏にいままでの思い出が、ありありと蘇る。

 鏡のように透き通った湖に私たちの全てが刻まれていた。花が散ると水面が曇るように、愛しい人と過ごした時間は、永遠に残る。

 私の中の水面には、彼という花が映り込んだままだった。

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花の鏡 _ @snowhite

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