第4話 傘④

 結局五限までに雨は降らなかった。


 三キロ走ったら後は好きにして良いとのことで、雄介は終始自分のペースを維持して走り終える。既に半数近くの生徒がゴールしており、その中には達樹の姿もあった。余談だが体育は嫌いとの宣言通り、遙は最下位付近を走っていた。もっとも他の生徒に比べて余裕が有るように見えるので、実は手を抜いているのかもしれないが。


「よう、おつかれ」

 雄介が水道から水を飲んでいると、背後から達樹に声をかけられる。

「おう」

 達樹はちょいちょいと手招きしている。何の用だと思いながららそちらへ歩いていくと、「見ろ」彼は親指で体育館の入り口を指し示した。少し扉が開いているそこからは、女子がバレーボールをしている様子が見て取れた。辺りを見渡すと、彼らも覗きをしているのか他に三人ほど男子が集っていた。


「お前ら・・・・・・」

 その行為に興味を抱かなかった雄介はその場を離れようとするが、彼を留めるように達樹ががっしりと肩を組む。

「まあまあ、お前も男なら、・・・・・・解るだろ?」

 同意を求められても雄介にはさっぱりだった。思わず「何がだ?」と疑問が漏れる。「おっぱいだ」雄介は帰りたくなった。ため息をつく。


「良いか雄介、おっぱいにはな、二種類あるんだ。良いおっぱいと、すごく良いおっぱいだ」

 達樹と遙はこの手の話を定期的に繰り返している。

「はいはい、で?」

 またいつもの馬鹿話か、そんな思いで適当な相づちで流す。達樹は止まらずに言葉を繋ぐ。

「確かに、デカければデカい分だけ幸福度は増す。わかる、わかるぞ。だがな貧乳も貧乳で味わい深いんだ」

「じゃあ達樹君は貧乳派なのかい?」

「いや、俺は巨乳派だ」

 いつの間にか生えてきた遙が会話に合流する。彼はパタパタと体操服の胸元に風を送り込んでいる。チラリとそこに視線をやり、彼は「巨乳かぁ」と呟く。

「どうした遙、貧乳派か?」

「いや、そういう訳じゃないよ? 胸に貴賤はないしね」

 一瞬、遙が悲しげな表情を浮かべた気がした。しかし今の彼からはそのような色はうかがえない。いつも通り達樹とじゃれている。

 と、二人の視線が雄介を捕える。何を聞かれているのかはわかるが、とりあえず沈黙を保つ。数瞬の後、達樹が「よし話題を変えよう」と言う。


「雄介は甘い卵焼きと塩辛い卵焼き、どっちが好みだ?」

 急になんだとも思ったが、先の話より遥かにマシな部類の話題に「しょっぱいの」と答える。実際、鮎川家のそれは塩を加えて仕上げられていた。

「ご飯と一緒に食べる、ってなるとしょっぱい方が進むよね。私もそっちかな」

 遙が同意する。

「そうだ」達樹はパチンと指を弾く、一拍置く。

「しょっぱい卵焼きの方が米が進む。だが、甘いのも別に嫌いでは無いだろ? 出てきたら、普通に美味しく頂ける」

「そうだね」「ああ」二人の反応に満足げに頷くと、達樹は拳を握り語り出した。なんとなく、話の着地点が見える。


「それと同じだ。一般的に巨乳の方が興奮するのかもしれない。だが、慎ましやかなおっぱいもまたおっぱいなんだ。甘いおっぱいとしょっぱいおっぱい、どっちもおっぱいだ美味しいに決まっている。それと何が違う。大きな卵焼きも小さな卵焼きも卵焼きなんだ。どっちを頂いても満足…………、満足? いや、卵焼きは単純に量有った方が良いな」

 首をかしげながら急に静かになった達樹に、遙は思わずといったように笑い出す。

「何を言っているんだい君は」

「でもよ遙、卵焼きはおかずだろ? おっぱいも、"おかず"だろ?」

「それもそうだね」


 笑い合う二人に、なんだこいつらと言う視線を向ける。だが雄介はどちらかと言えば少数派なのか、周囲で覗きをしていた三人も会話に混じり始める。

 それが騒がしかったのか、こちらに気づいた女子が扉を閉めるまでその手の議題は尽きなかった。



 体育での会話を聞かれていたのか、若干冷ややかな視線が向けられた午後が終わる。


 達樹は部活へと顔を出し、遙とは改札で別れた帰り道、雄介は電車に揺られていた。天気のためかいつもよりやや混雑した車内で、ぼんやりと窓の外を眺める。手すりに捕まり、そろそろ見慣れてきたいつもの景色が流れていく。


 外は雨が降り、傘をさす人が視界に映る。買って良かったなと、手元のビニール傘に視線を移すと、ぽたぽたと雫が床に広がっていた。盗まれやすい事に目を瞑れば、このまま使うのも良いのかも知れない。

 そんなことを考えていると、次第に風景が遅くなる。電車が止まる直前、ホームに立つ一人の少女の存在に気づいた、扉が開く。彼女もこちらに気づいたのだろう、ぺこりと会釈される。どう返して良いかわからず、雄介もそれに倣った。


「今朝は助かりました、ありがとうございます」

 湊音の方から話しかけてくるとは思わず、一瞬返答に詰まる。「別に」そう返すのがやっとだった。沈黙が流れる。

「外はこんな天気ですからね、さすがに新しい物を買うのも痛いですし」

 車両が動くと同時に、湊音が口を開いた。いつもなら挨拶すら交わさない関係なのに、今日は彼女から話しかけてきた。面倒だな、そう感じつつも邪険に扱う必要も無いので「そうだな」と言葉を返す。


 とそこで、彼女の視線が雄介の手元に注がれている事に気がついた。

「あの、先輩。今朝の傘はどうしたんですか?」

 なんと答えるべきか迷った。その間に湊音は追い討ちをかける。

「あの時先輩は、ぼくの傘だけ持ってましたよね? でも、その前は紺色の傘を持っていたはずなんです」

 違いますか? そう言いたげな視線から逃れるように「気のせいだ」と答える。湊音は納得のいかなそうな表情を浮かべながら、「その傘、買わせちゃいましたか?」と問う。


 確かにそれは事実ではあるのだが、湊音に傘を届けたのも、車内に自分の傘を忘れたのも、全部自分の責任だ。その思いから「気のせいだ」の一点張りで再度押し通す。頑なな雄介の態度を悟ったのか、湊音ははぁと、ため息を伴いながら「わかりました」と鞄から飾り気のない黒い長財布を取り出した。驚く雄介を前に「これで足りますか?」と。


「そう言う話じゃない」

 ぴらぴらと揺れる茶色い紙くずごと、彼女の手を押し返す。

「俺の傘はもとからこれだ」

 右手に持つそれを掲げてみせると、湊音の表情は余計に険しくなる。彼女の口が開かれる前に「だから気に病む必要はどこにもない」と告げる。湊音はそれでもしばらくはそのままこちらに押し付けようとしてきたが、やがて諦めたのか元の位置に仕舞い直した。

 納得のいかない表情を浮かべながらも「ありがとうございます」と礼を述べる湊音に、雄介は「なんの話だ」ととぼける。


 その後の二人の間には、いつもと同じように沈黙という壁が横たわる。しかしそれは、今までよりも確実に薄いものとなっていた。



 これが俺と彼女が初めて会話をした日の出来事。

 この日を境に、俺たちは顔見知りくらいの関係性になった。それでもまだ、あくまで"登下校中、頻繁に顔を合わせる他校生"。お互いに挨拶くらいはするが、名前すら知らないようなそんな関係。

 彼女からすれば、俺はそのうち忘れてしまう存在。思い出のアルバムにしまわれることのない、取り立てることのない登場人物。そんな人いたっけ? その程度。

 それは俺も同じで。


 距離が縮まるのは、ここからさらにひと月も先の事。他人に近い関係から、先輩と後輩に。

 長く、そして短い夏が訪れる。


to be continued.

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