その5 卯七の入院
慣れないネットでの誹謗中傷に対するストレスは思わぬ形で現れた。卯七は排尿に違和感を覚えた。心労から来る過労で、運の悪いことに帯状疱疹も併発していた。初めてではない。以前にも経験した感覚だった。数日すると排尿の違和感は消えた。しかし、ちくちくが残る脇腹を見ると虫に刺されたような赤い小さな水疱が4つ程横並びになっていた。卯七はそれが何であるかピンと来て、以前に掛かった皮膚科を受診して二度目の帯状疱疹と診断された。かつては帯状疱疹は一回罹ったら二度は罹らないとされたが、今は繰り返し罹る病気とされて高齢者のワクチン接種が奨励されている。幸運にもその町医は帯状疱疹の権威だったために、今回も適切な治療を受けて短期間で完治した。しかし、一ヶ月ほど経ったある日、また排尿に違和感を覚えた。二度あることは三度もあるのかと思いつつ、帯状疱疹の特徴である湿疹を探したが、今回は体のどこにも見当たらなかった。卯七は嫌な予感がし、兎に角また皮膚科を再々受診してみた。医師は首を捻った。
「これは帯状疱疹ではないね…近くの泌尿器科を紹介するからすぐに行って診てもらいなさい」
卯七はその足で紹介された泌尿器科を受診すると、血液検査の結果を診た担当医が深刻な表情になった。卯七は膀胱のエコー画像を見せられた。
「膀胱の壁面に絨毯のように広がっているのが見えますね」
卯七は覚悟した。
「これは癌の可能性があります。大学病院に紹介状を書きますのですぐに検査してください」
大学病院での検査の結果で、質の悪い「浸潤性膀胱癌」クラスⅢと診断された。兎に角、一狂人の空騒ぎは一先ず衡平と誠一郎に委ね、体調回復に全神経を注ぐことにした。入院は免れ、外来による定期的なBCG治療が始まった。尿道から膀胱にBCG液を注入し、尿意を2時間我慢して治療液を膀胱に留まらせなければならないのには閉口した。長い期間、そのつらい治療の回数を定期的に重ねなければならないBCG治療だったが、残念ながら期待した効果はなく、卯七の症状はクラスVに進行していた。医師から完全に取り去ることは出来ないが、回復のきっかけには成り得ると、膀胱壁面の浸潤癌除去手術を提案された。受け入れるしかなく、卯七は入院することになった。局部麻酔で手術の一部始終を画面で見ながら手術を受けた。担当医の手術の腕の良さが分かって安心した。術後の検査で再びクラスⅢに回復していたが、次の検査ではすぐにクラスⅤに戻っていた。担当医は再度の手術を提案して来た。2度目の手術は途中で麻酔が切れはじめ、苦痛の手術となった。麻酔が完全に切れたわけではないが、得も言われぬ苦しさで卯七の呼吸は乱れた。人間は呼吸が乱れて正しく肺に酸素を送れなくなると、手の小指が痺れ、それが薬指、中指と移り、次第に手全体が痺れていく感覚に襲われることを経験した。
「ちゃんと深呼吸して!」
医師の励ます声に、卯七は必死に深呼吸を繰り返すと、気のせいか手の痺れが和らいだ気がしたが、前回のように手術の様子をモニターで見る余裕などなく、オペ時間が永遠にさえ思えて来た頃、担当医から天の声が聞こえた。
「よく頑張ったね!」
睡魔が襲い、気が付いたら病室のベッドだった。医師は予測される転移を鑑み、膀胱摘出によるストマ生活を勧めて来たことで、卯七はこれまでだなと思った。
「先生、有難うございます。自分の手術をリアルタイムで見せて戴いたことは、一生の思い出になりました。先生の手術は見事でした。でも、転移の可能性があっても、暴行摘出でストマ生活を送ってまで延命は望みません。これは私の運命ですから」
膀胱摘出は断り、緩和治療を選択した。そして、入退院を繰り返す闘病生活が始まった。悪化の途を辿る経過は覚悟の上だった。いつ “余命宣告” を告げられるのかだけが卯七の関心事だった。その時になれば、卯七には“心に決めていた為すべきこと”があった。そうなれば強引に病院を抜けて目的を達成する覚悟をしていた。
何度目かの退院から十日ほど経過して、次の外来検査に向かった。脊髄に癌の転移が認められていた。そして、延命治療を拒否していた卯七は、ついに余命一年を宣告された。医師は抗癌治療を提案して来たが、卯七はそれも断った。心春はそうした卯七の決断を読んでいて何も言わなかった。しかし、その事を知った娘の蘭子は猛反対をした。
「お母さん! なぜ黙ってるの !? このままだとお父さん、死んじゃうんだよ !?」
「でもお父さんはそうしたいのよ」
「だからと言って、お父さんが死んでいくのを黙って指を銜えて見ているの !?」
「・・・」
「担当医の説明をもう一度ちゃんと聞いて、延命措置を考えてもらう気はないの !?」
「私が言っても、お父さんの事だから一度決めたことは変えないよ」
「お母さん!」
「兎に角、担当の先生にもう一度ご相談してみるから…」
心春が娘ともめていることなど知らない卯七は、死期が近付いている事より、“心に決めていた為すべきこと” を決行することに喜びを感じ、病室で退院の支度をしていると、娘の蘭子がやって来た。
「お父さん…抗癌治療をしてください」
「来たのか…看護師のお前が言うのは無理もないが、人はいつかは死ぬんだ。父さんは今がその時なんだよ。無駄なあがきはしたくない」
「お父さんはそれでいいかもしれないけど、私にはまだやって欲しいことがあるの。娘として勝手に死なれては困るの。死ぬのは私のやって欲しい事をやってからにしてよ」
「やってほしいこと?」
「お父さんには孫が居るのよ…あの子たちはお爺ちゃんの事が大好きなのに…勝手に死ぬの !?」
声が詰まった蘭子に、卯七は退院の手を止めて考えた。
「分かったよ…だけど、抗癌治療は一度しかしない」
「それでいいわ…ありがとう」
蘭子は病室を去らなかった。
「他に何かあるのか?」
「あの話…どうなった?」
「あの話 !?」
「誹謗中傷の…」
「今まで誹謗中傷の加勢をしていた匿名の外野連を利用して、誹謗中傷の主犯を袋叩きにさせる計画進行中」
「本当にそんなこと出来るの?」
「駆け引きだからな、やってみなきゃ分からないだろ…でも、今のところは予想どおりに進んでいるよ」
「お父さんがそれでいいんなら…でも、やっぱり相手のやっていることに納得が行かない」
「だからといって、友達の弁護士に相談するのは待ってくれよな。ゲームがつまらなくなる。
「ゲームって…ゲームが終わる前に死んじゃったら元も子もないでしょ」
「兎に角、抗癌治療は受けるから」
蘭子はその言葉に渋々了承して帰っていった。
抗癌治療の既定のサイクルを一ヶ月ほどで終え、体がガタガタに衰えた卯七は、やっと何度目かの退院の朝を迎えた。鏡の前には、見慣れないやつれた老人が立って気怠く歯磨きをしている。これほど衰えた姿を身内には見られたくなかった。退院の日は誰にも伝えず、最寄り駅まで病院の送迎者を利用し、おぼつかない足取りで精一杯の普通人を装って帰途に就いた。駅のホームの緩やかな坂に不用意に出した足がぐらついて、危うく転びそうになった。いつもなら普通に歩いていた緩やかなスロープで転びそうになるとは、足の筋力が異常に衰えて、かなりまずい状態のようだ。両足で体を支えて歩くことが、こんなにも危ういものだとは思ってもみなかった。満足な歩行が出来なくなっている。心春に付き添いを頼むべきだったかもしれないが、兎に角、家に着くまで転倒だけはしないようにしなければならなかった。
卯七が乗り継ぎ駅のホームをエレベータ乗り場に向かって歩いていると、初老の女性に声を掛けられた。
「手をお貸ししましょうか?」
「え !?」
卯七には初老の女性の言葉が唐突に思えた。自分に言っているとは思えなかった。
「おつらそうなので…」
卯七は初老の女性の言葉で初めて自分自身の体の衰えようを全く誤魔化せていなかったことにショックを受けた。しかし、少しの風にもバランスを失うような覚束ないこの身は、彼女の親切を素直に受け入れるしかなかった。やっと電車に乗って最寄り駅に到着した。家までの帰路は実に遠かった。いつも気楽に通い続けたはずの道を、こうしてたどたどしく歩きながら、いつになったら自宅に辿り着けるのか、日頃の何倍も長く感じる歩行時間だった。やっと部屋に辿り着き、いつも座っている椅子に腰掛けられたことが奇跡にすら思えた。
夜、シャワーから出て来た卯七の足を見た心春は驚いた。筋肉質だったはずの足が、余りにも痩せ細っていたからだ。抗癌治療の凄まじさを垣間見たが、心春は返ってくる現実が怖くて何も言えなかった。
数日は何事もなく過ぎて行った。それは、どうにか体力がまともになった頃のことだった。卯七の両眼の機能が著しく不安定になり、ついに卯七は自分を保てない事態になって倒れた。“来た!” と思った。脳梗塞を起こしてから自分の言語と頭脳が正常に作動する時間は長くても5分程度。病院に持参すべきものやら、救急車の要請やら、そのあとの作業を妻に手早く告げ、頭が痛くないのでおかしいなと思いつつ、卯七の意識は次第に朦朧としていった。抗癌治療の後の脳梗塞は泣きっ面に蜂だった。
どれぐらい経過したのか薄っすら気が付くと、発車前の救急車のストレッチャーだった。救急隊員に “ありがとう” と告げて卯七は再び意識を失った。強い吐き気で意識が復活したのは病院のストレッチャーの上だった。既にMRIなりCT画像での検査は済んでいるらしく、病室に運ばれる途中だった。搬送中に再び強烈な吐き気を模様すると、看護師がガーグルベイスを用意してくれたが、その日は一口も食事を採っていなかったおかげで吐くものは何もなかった。何かの薬が効いたのか、卯七は再び深い眠りに入った。
翌日のMRI検査の画像に担当医は驚いた。破損したはずの血管が既に修復されていたのだ。卯七は脳梗塞ではなく、小脳梗塞だった。意識を取り戻した翌日からリハビリが始まった。認知機能検査に異常はなく、四肢は問題なかったが、構音障害が起きていた。音楽を聴こうとイヤホンを付けて聴力の異常に気付いたのだが、機能検査から三日ほどして聴力はほぼ回復した。
白いカーテンで仕切られた病室で、はたと妻・
神様が卯七を試すかのように、卯七が退院して間もなく、今度は妻が大腸癌の手術で入院することになった。時間がない。余命一年を宣告された時は、卯七はやっと死ねると思ったほど、何が何でも生きたい人間ではなかった。“心に決めていた為すべきこと” さえ実行できれば良かった。しかし、今は状況が違っていた。
ネット上の誹謗中傷スレッドは、衡平の内容証明をきっかけに凱喜の上目線の生き方の誇りを刺激し、一段と勢いを増し、まるで凱喜による卯七攻撃の独断場となったかに見えた。スレッドのレスが物凄い勢いで書き込まれ、パートⅢ~Ⅶとなるのに一年も掛からなかった。ところが、外野レスには変化が来し始めた。卯七を誹謗中傷するレスが激増したかに見えているものの、よく見るとマンネリ化した同じ内容が繰り返されているだけの投下レスに疑問を持った外野の不満レスが増えていった。
“こいつボッチじゃねw”
“このスレ最近ダリいな”
“スレ稼ぎすんじゃねーよカッチャン”
“ボッチ、ほっといてみようぜ”
凱喜は当初、その疑問レスに対して無視を決め込んでいたが、思いの外、度重なる疑問レスには “卯七の自爆レス” と位置付けて潰そうとした。しかし、疑問レスは一向に衰えを見せず、執拗に、しかも論理的に食い下がるばかりだった。弁護士の衡平がほくそ笑んだ。思惑どおり、内容証明を送ったタイミングで誹謗中傷のスレに大きな変化が起こり、匿名孑孑のゴミどもが次第に冷静になって来たことだ。
「内容証明が大当たりだったな」
「ここまでは想定の範囲だけど、このままでいいとは思っていないよ」
「…卯七はどうしているかな」
探偵事務所を経営する誠一郎自身、衡平の狙いは理解しているものの、病室の卯七が誹謗中傷のサンドバックのままでいることに変わりはなく、幾何かのジレンマは拭い切れなかった。
娘の蘭子がICUの勤務を明けて、真っすぐに卯七の入院先を訪れた。元気な卯七の姿に蘭子は胸を撫で下ろした。
「お父さん…ネットの誹謗中傷…いつまでも常軌を逸してひど過ぎるじゃない」
「ああ、あれね」
「あれねって…特撮ファンの看護師たちが心配して私に教えてくれたのよ」
「看護師さんの中にも特撮ファンが居るのか?」
「そりゃ居るでしょ」
「じゃ、オレもICUに移って処置してもらわないとね」
「どうするの !?」
「歳を取れば大なり小なり病気になるだろ」
「そっちじゃないわよ、ネットでのキチガイじみた誹謗中傷が続いていることでしょ!」
「あっちはそのうち落ち着くだろ」
「そのうち、そのうちっていつ落ち着くのよ! 益々ひどくなってるじゃない!」
「まあ、オレの事だし…おまえはそんなことは気にしないでICUで頑張ってればいいんだよ」
「ネットのこと、事実なの !? 」
「事実ってその人の解釈で幾通りにもなるからね」
「どうしてあんなこと言われなきゃならないの !?」
「オレに交流拒否された特撮ヲタのヒステリーだよ。やつらには事実なんかどうでもいい事なんだ。ほっとくしかないだろ」
「このままでいいわけない! やはり私の学友の弁護士に頼む。すぐに裁判で白黒付けたほうがいいよ!」
「裁判にはお金が掛かるしね」
「私が出す。早く白黒付けないとお父さんの立場がますます悪くなるだけなんだから!」
「白黒付けてどうするんだ?」
「どうするって…誹謗中傷を止めさせるのよ。損害賠償もさせるべきよ」
「損害賠償 !? 」
「当然でしょ !? 」
「賠償金つったって端金(はしたがね)だろ」
「でも裁判で判決が下れば、お父さんだって…」
「そんな程度では満足しないね、オレは」
「でもこのままではお父さんの評判が落ちる一方でしょ !? 」
「評判なんかどうでもいいよ」
「仕事に差し支えているって言っていたわよ、お母さんが」
「もともと好きな仕事でもないし、暫く休もうかと思っていたんだ」
蘭子は父の本心が見えなかった。
「裁判で白黒が付いて、判決が出たとしても、それが必ずしも満足のいく判決結果になるとは限らないだろ」
「でも、ネットでの暴力は治まるでしょ?」
「それが治まったからといって、どんな意味があるんだ? ほとぼりが冷めれば、また始まるだけだ」
「なら、また告訴すればいいじゃない。告訴されると思えば向こうの動きも鈍くなるでしょ」
「告訴のたびに潤うのは、おまえの友達の弁護士だけだろ」
「そんな言い方はないでしょ !?」
「あのさ…誹謗中傷は不法行為だよね」
「そうよ、だから裁判で…」
「不法行為を続ければ続けただけ罪は重くなるよね」
「それと並行してお父さんの評判も落ちていくのよ!」
「ネットの誹謗中傷を信じる人って、閲覧者の何割くらいかね?」
「同調圧力が怖い世の中なの。信じる信じないより、噂になるのが不利なの。お父さんだって精神的につらいでしょ? 現に仕事だって支障を来して、こうして病気になってるじゃない!」
「考えいてる事があるんだよ。だから、弁護士の友達に相談するのは、もう少し待ってくれないかな」
「お父さん…このまま、反撃もしないでお父さんに死なれたら、私、後悔する…腹の虫がおさまらない」
「蘭子は、二つ勘違いしている」
「勘違い !?」
「ひとつは、お父さんは反撃していないわけじゃない。お父さんのやり方で反撃している。もうひとつは、このまま白黒をつけるつもりはない」
「どういう事 !?」
「蘭子…被害者はね…必ずしも法的解決を望まない場合もある」
「どうしてよ、このまま見逃すの !? どう考えたっておかしいでしょ!」
「仮に裁判に勝訴したとしたらどうなる?」
「どうなるって…勝訴したら誹謗中傷を止めさせられるのよ!」
「判決が下って勝訴してしまったら、それ以後、加害者に手を出せなくなる。その上、ネット上に残った誹謗中傷の事実はそこでストップしたまま、永久に消えないんだ」
「だから…サイト管理者に削除依頼すれば済むことじゃない」
「どれだけの無駄な時間と手続き費用が掛かると思っているんだ。誹謗中傷を消すことより、続けさせることのほうが利口だと思わないか?」
「話が見えない」
「あのね…裁判で白黒付けたところで、その結果に満足出来ないことだけは確かなんだ。だから、オレは世間より自分に満足できる結果を導き出したいんだ」
「お父さんの満足できる結果って何 !? 」
「面白半分に参加している匿名の外野連が事実を知ったら、誹謗中傷の流れはどうなると思う? 白黒なんかどうでもいいし、損害賠償の端金なんか意味もない。今の状態を覆して誹謗中傷している人間と、そこに群がるゴミどもの心を殺していく経緯をスレッド上に残すことが、オレの満足できる結果なんだ」
「心を殺す !? 」
蘭子は父に不穏な空気を感じた。
「裁判で結果を出されると、それが出来なくなる。判決後、被害者は加害者に手も足も出せなくなるんだよ、蘭子」
蘭子は恐る恐る確認した。
「お父さんが犯罪者になるってことなの !? 」
「バカの為に、わざわざバカな事はしないよ。世の中にはね、公的判決より怖い合法的報復があるんだよ」
「…合法的報復 !?」
「お父さんがボクシング観戦が好きなのは知っていると思うけど、ボクサーはすぐ立とうとしてふら付き、また倒れて…余計なカウントを喰らう。賢いボクサーはね、膝を付いてダメージの確認や状況分析をしながら8カウントまで休む数秒を大事に使うんだよ」
蘭子はしばらく考えてから、声を絞り出した。
「お父さんには、その覚悟があったのね。なら…私は何も言わない。でも私は、お父さんが誹謗中傷されたまま死んじゃうのは絶対に受け入れられない」
「最悪そうなっても、誹謗中傷の相手の心は殺せる…お父さんは死んでも仕返し出来るんだよ、蘭子」
蘭子はこの時程、父を遠く感じたことはなかった。父の心の闇を見た感じがした。
「分かった…でも、困った時が来たら必ず私に話してね」
「ああ、ありがとう。その時は頼むよ」
蘭子は悶々としながら帰っていった。
その翌日、誠一郎と衡平が上京して卯七を見舞いに来た。
「衡平の読みは当たったぞ。驚いたよ。卯七の言ったとおり、地元には加賀谷美穂以外にも、かなりの被害者がおったんだな。みんなやつのせいで心を病んで未だに神経内科通いをしている被害者が結構いた。美穂さんですらその事は知らなかったらしい」
「気の毒に、みんなやつの得意とするグッズに釣られて、レイプの憂き目に遭ってから人生の歯車を狂わされているんだ。立ち直ろうとはしているだろうけど、心に負った傷は治らんだろうな」
「誰もがやつの復讐を望みながらも諦めていたんだが、美穂さんがやろうとしている事を聞いて、彼らは光を見た。やつを葬るということが、それだけ彼らにとっては重要な意味を持っているんだ」
誠一郎が鞄からこれまでの調査資料を出した。
「知っているか、奴は両刀だ。アル中のおかま特撮ヒーローとも懇ろになってるぞ」
「知っているよ」
「何だ、知っていたのか !?」
「特撮界では有名な話だ。でも、良く調べたな。関係者は皆沈黙しているはずなのに」
「ただ、やつがそこに至る経緯まではね」
「おかま特撮ヒーローは、オレらの後番組にゲスト出演したある往年の大俳優の逆鱗に触れた過去もある。今ではクソヲタの懐奴隷に成り下がっているがな」
「美味しい情報だ。流石はその世界に居る人間だな。でも、そのバカが誰かはオレにも凡その見当は付く」
「だろうな、衡平はプロの情報屋だからな」
「その人物の名は小村十郎。“マッハ超獣戦士” のレギュラーだった男だよな」
「ああ」
「でも、噂ではないという何か確たる証拠はあるのか?」
「大有りだ。実は劇団の連中がプレイの現場を目撃してしまったんだよ」
「どこで !?」
「温泉宿…」
「どういうこと !?」
「クソヲタに公演を依頼されたんだ」
「こうなる前か?」
「一回目のイベントを承諾した後だったかな、クソヲタがそのオカマ野郎を無理矢理劇団に捻じ込めて来ていたんだ。そして自分の地元に公演の話を持ち込んで来た。まるで自分が主宰する劇団かのような売込みでね」
「苦労知らずのボンボンがやることは、半端なく虫がいいね。精神病レベルの勘違いが通ると思ってやがる」
「オレは、懐奴隷の小村が芸能界から干されているのは知っていた。だから、気の毒に思って入団を受け入れたんだ。地元で公演するのが目的だったんだな。そして公演の前日に現地入りして、やつの指定した宿に滞在したその夜、劇団の連中が風呂に入ろうとして戸に掛けた手が止まったんだ。なんと、半ば曇ったガラス戸の向こうで危うい声がした。そっと覗いたら、風呂の中で“いたしている” 最中だったらしい」
「クソヲタがスキャンダル俳優を劇団に入れたわけは、そっちのほうじゃねえの !?」
「卯七の劇団を自分の支配下にした高揚感でギンギンに “立ち誇って” いたんだろうな」
「立ち役はどっちだったんだ !?」
「おい誠一郎、聞きたいのはそこじゃないだろ。ここは病室だぞ」
「クソヲタが立ち役だったそうだ」
「卯七も答えてんじゃねえよ。第一、ここで話す話題じゃねえだろ…つっても他に患者さんがいないか」
「お隣は今朝、亡くなって…向こうは昨日…」
「亡くなったのか !?」
「治って退院して行った」
「紛らわしいんだよ!」
「まあ、劇団をスパイさせて、ゆくゆくは自分の思いどおりに動かすつもりだったんだろうな」
「ところでそのスキャンダル俳優は何をやらかしたんだ?」
「最も痛々しいのは、共演の男性俳優に恋をしてしまったことだ。彼の乙女心は、撮影の間中虚しさに懊悩していたわけだ。その結果、飲酒に走り、遅刻で大御所俳優を長時間待たせて激高を買う羽目になった。それ以外にも、撮影中のスキャンダルが頻繁になり、テレビ局は隠蔽に振り回された結果、芸能界で干されるに至り、奴の犬公風情に身を窶す今の彼があるんだ」
「当時はLGBTに対する寛大な風潮はなかったからな。子供番組のヒーローが男色というのは、局としては極めて都合の悪いスキャンダルだったろうな」
「とんだ特撮ヒーローだな、地球の平和より自分の平和を守ってやらないと」
「ま、覚醒剤に手を出さずにアル中止まりだったことは評価してやらねえとな」
三人は同時に大きな溜息を吐いた。患者が卯七だけ残っている病室にどんよりした空気が流れた。
「2ちゃんねるは愈々クソヲタの断末魔に向かう醜態劇場が始まるぞ」
「そういえば、娘が来てね…弁護士の学友に相談すると言って来たんだ」
「まずいな」
「一応、もう少し待ってくれとは言ってるんだが…」
「そろそろ次の地雷を仕掛けるか」
衡平は、卯七の家族の知るところとなった以上、今が動くべき時期と見て誠一郎とともに病室を後にした。
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