第3話 春の嵐

 ―――2025年3月14日(金)


 金曜日は早朝から母さんの運転する車で近くの市場まで仕入れに行く日だ。

 市場は午前三時から営業しているが、俺も母さんも残念なことに早起きが苦手なタイプなので、なんとか六時前後に到着するのが精いっぱいだ。


 今日も無理矢理自分を鼓舞し、ギリギリ五時前に家を出発できた。

俺は一度目を覚ましてしまえば、寝不足であっても日中にウトウトすることなくスッキリした状態で過ごすことが出来る体質らしく、我ながら非常にありがたい。

 年季の入ったウチの白い軽自動車がゆっくりと発進したのを確認し、俺は助手席で眠る体制に入った。


 母さんの運転は、どんな時であっても絶対に安全運転を崩さないので、如何なる時も制限速度を遵守するし安全確認を怠らない。

 安全第一、ルールの徹底順守は良いことなのだが、この世には必要悪というものが存在する。俺はそれを良しと考えている。


 例えば五十キロ制限の道路でも、車列が時速六十キロ前後で走っていたならば、自車も流れに合わせて六十キロ前後で走行した方が渋滞発生の原因にならないし、必要以上の車線変更を発生させないので結果的には制限速度を少しオーバーしてでも道路全体の安全に繋がるため、多少の超過ならば許容した方が良いという考えだ。


 母さんはそれを理解していないのか、理解した上で自身の信念を貫いているのかは分からないが、絶対にペースを崩さない。

 なので、道路の流れと母さんの車とでリズムが噛み合わずに次から次へと鬱陶しそうな視線を向けられ無理矢理追い抜かされることが多い。

 片側一車線の道路では、母さんを先頭にちょっとした渋滞が発生することもある。

 だから助手席で目を覚ましたままだと胸がソワソワしてしまうし、他のドライバーに申し訳ない気持ちになってしまうので、俺は眠くなくても眠ると決めている。


 母さんの安らかなのにソワソワさせられる運転に揺られることおよそ一時間。市場に着いた。軽く伸びをして固まりつつ身体を解す。

 市場に行くといっても競りに参加するわけではなく、ウチは仲卸業者から買出している。

 仲卸業者は、常に同じものを取り扱っているわけではないので、実際に足を運んでみないことにはどんな花が売られているのか分からないが、気楽に買えるのでありがたい。

 とはいえ、当然ながら仕事として来ているので、先を見通して何をどれだけ仕入れるのかを決定するだけの判断力が重要になる。


 俺の役割は主に荷物持ちで、母さんが仕入れる商品を選定する担当。

 今まではボケっとしながら母さんの後ろを着いて回るだけだったが、今後は自分だけでも仕入れができるように勉強していかなければならない。気を引き締める。

 当面の目標は、自動車免許が取得できるようになる二年後を目途に母さんの代わりを務められるようになることだ。


 そしていずれは俺も結婚して、お嫁さんにもお店を切り盛りしてもらえたら最高だなと、遠いようで近い未来を想像してみたりもする。

 考えてみれば、母さんは今の俺と同じぐらいの年で俺を産んだわけで。

 極端な話、来年には自分がお父さんになっている可能性だってあるのだ。


 とはいえ、今のところそのような相手はいないので可能性は限りなくゼロに等しいが、運命の相手というものは突然の春の嵐のように急に巡り合うこともある。

 今から心構えだけはしっかりしておこうと考えていたら、いつの間にか仕入れが終わり、あっという間に帰路についていた。

 今回も仕入れの勉強ができないままであったが、次から頑張ればいいやと思いながら帰り道の車内で目を閉じた。


 無事、今回も母さんの安全運転のお陰で帰宅できた俺は、さっそく開店準備を整えて、いつも通り十時に店をオープンした。

 そして、噂をすればなんとやら。突如訪れた春の嵐が何の前触れもなく俺の心の中を吹き抜けた。


「キミのセンスで花束を一つ、下さいな」


 細いのによく通る透き通った声に、自然と視線が奪われる。

 大きな瞳、黒髪のショートボブでスタイルが良く、独特なオーラ。

 その大人びた雰囲気とは裏腹に時折見せる可愛い仕草。


 店先の花を眺める姿は美しく、まるで一枚の絵画のよう。

 花言葉の意味を知りクスっと笑う表情が可愛いく、ドラマのワンシーンのよう。

 色とりどりの花に囲まれている彼女は、まさしく花の妖精のよう。

 俺の心は完全に撃ち抜かれた。間違いない、これは『恋』だ。


「どうか、した?」


 人生最大の衝撃を受けている俺の状況など知る由もない彼女は、不思議そうな表情で小さく首を傾げながらも、にこやかな目で視線を俺に向けてくる。

 俺は真っ白になっている脳内を必死に回転させ、雰囲気を見ていましたという答えになっているのかいないのか分からない曖昧な返答をしつつ、この店始まって以来、一番の真剣さで花を選び、自分史上最高の花束を作って手渡した。


「おいくら?」


「しぇっ、しぇん円になります」


「こんなに素敵な花束が? キミ、商売はちゃんとしないとダメだぞ?」


 長財布から千円札を三枚取り出し、片手で俺に手渡した彼女はニコッと笑いかけた後、店を出て颯爽と通りの奥へ歩いて行ってしまった。

 その後ろ姿はこの町の色に決して馴染むことはなく、彼女の周りにだけ華やかなオーラが漂っていた。


「また、会いたいな」


 お買い上げありがとうございましたと言うのもすっかり忘れ、自然と口から漏れ出ていたその言葉は、いつの間にか俺の斜め後ろに立っていた母さんにしっかりと聞かれてしまっていたらしく、当面の間、俺をからかうネタにされることが確定した。


 ふとした瞬間に『また会いたいな』と呟いてからかってくる母さんに対し、絶賛思春期真っただ中の俺は、顔を真っ赤にしてやり過ごすしかなかった。

 だけど、その度に向けられる母さんから俺へと向けられる視線は決して俺をバカにするものではなく、順調に子供から大人へと成長しつつある息子の成長を温く見守る母親から息子への愛のある視線だと感じた。


 だから、余計に気恥ずかしくて何も言い返せなかった。

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