2、人魚の脚③
◆ ◆ ◆
明治三年の夏。
夜空を流れる雲の切れ目に輝く、大きな目玉のような満月が、海沿いに並ぶ
その海沿いの村は文明開化という言葉からは程遠く、寂れており、陰気だった。潮風には鼻の奥にまとわりつくような生臭さが含まれている。電気も水道もなく、月明かりが雲に遮られると、村は
凍り付いたような夜景であったが、その日に限ってはいつもと違う慌ただしい雰囲気があった。海岸付近の闇にいくつもの
その騒動の中心にあったのは、村を見下ろす小高い丘の上にある
彼はいくつかの漁場を抱える漁業家でもあり、内陸の村外れに広がる田園を持つ地主でもあった。最近では投資に手を出し、他の自治体とも積極的な交流を図っていた。
嘉男は日に焼けた
彼らは一様に申し訳なさそうな表情で
「野郎どもが
八つ当たりだという事は重々承知していた。しかし、抑えきれず、思わず声を張りあげてしまった。
事の発端は前日に
嘉男の実子であり、八歳になる息子の
彼は見栄っ張りで、大人たちがやるなと言う事ほどやってしまうような性格であった。
更に悪い事に
屋敷の者総出で何組かに分かれ、由清の行方を捜索していたが、芳しい成果はあがっていなかった。今は海沿いへと向かった組の帰りを待っているところだった。
「あの悪餓鬼め。今度という今度はただじゃ済まさんぞ……」
嘉男が苦虫を
「
今回の騒動では、利男は海岸沿いの捜索を指揮していた。戸口に立つ彼に、大広間にいた全員の視線が集まる。その利男の言葉に嘉男は不機嫌そうに応じた。
「どうした?」
もしも、彼らが由清を見つけたならば、真っ先にその事を口にするだろう。つまり、これから彼の口から語られるのが自らが望んだ結果ではない事は火を見るよりも明らかであった。
嘉男は
その連れが縁側から姿を見せた瞬間、嘉男は更に不機嫌そうに鼻を鳴らした。大広間の男衆の間にも鼻白んだ空気が漂い始める。
やたらと首を前傾させた青白い肌の男で、汚らしい
彼の名前は
村外れに住んでいる変わり者で、村民からは
しかし、江戸時代から明治時代となった今は、昔ほどそういったものに需要がなく、その暮らしぶりは良いとは言えなかった。だが何の拘りなのか、十蔵は
彼と利男は、下座の中間で畳の上に
「どうした、十蔵」
すると、利男が隣の十蔵の肩を小突いて話を促した。
「おい。お前が見た事を包み隠さずに言え。ほら、早くしろ!」
十蔵は何がおかしいのかヘラヘラと笑いながら、たどたどしく語り始めた。
「あの……け、今朝、浜辺に行ったとき」
嵐があった日の翌日には、海岸沿いに打ち上げられた魚を拾う十蔵の姿が以前より目撃されていた。きっと今回もそうなのだろう。
十蔵の低くぼそぼそとした声音を耳障りに思いながらも、嘉男は彼の話に耳を傾け続ける。嘉男だけではなく、大広間に集まった者たち全員の視線が十蔵の元に注がれていた。
「……
その場にいた全員が大きく目を見開く。
「それで、たぶん、その……それが人の形に見えて……たぶん、人だったんじゃないかと……そんな、気がして……」
「間違いないのか?」
嘉男の声は震えていたが、その顔はまるで鬼のように紅潮していた。十蔵は恐れ
「間違いないのか!?」
すると、十蔵が返答を口にしかけたところで「ああああああ……」と絶叫が聞こえた。それは縁側の方からだった。
利男が腰を浮かせて縁側の障子戸を開けた。すると、その向こうに白い
嘉男の妻であり、由清の実母である
「ああああああ……噓だと言って
「落ち着け! まだ、由清だと決まった訳ではない」
と、嘉男は声を張り上げた。すると、その声に
「あんたが! あんたが! この……」
と、須磨子が十蔵に手を伸ばそうとしたところで、利男ほか周りにいた男たちが彼女を止めに入った。
「だから、落ち着け!」
と、嘉男が声を張りあげるが須磨子は金切り声をあげて鎮まろうとしない。
「あんたのせいだ! あんたのせいに決まってる!」
「おらは、ただ、人の形をした何かが
「知るか、このろくでなしが」
「やめてください、奥様……やめてください……」
十蔵は顔を真っ赤にしながらヘラヘラと不気味な笑みを浮かべていた。須磨子の騒動はそれから
そして、この翌日、砂浜に由清が着ていたものと思われる着物が打ち上げられていた。しかし、本人の行方はようとして知れなかった。
◇ ◇ ◇
「うう、寒い……こんな日はやはり
「それしかないんですか、もう」
成瀬は渋面で、寒さに身を縮こまらせる九尾の言葉に
九尾と成瀬は
そうして駅に降り立ち驚いたのはその寒さだった。成瀬のイメージでは、三月のこの時期といえばもう春先であったが、駅周辺の街並みにはまだかなりの雪が見られた。ホームの屋根の天窓から射す陽光は暗く濁り、春からは程遠い。
この日の成瀬の服装は、昨日と変化はなかったが、タータンチェックのマフラーで首元を覆っていた。
対する九尾は、
とうぜんながら国内有数の積雪を誇る県である事は知っていたので、成瀬としては寒さ対策はしてきたつもりだったが、正直なところ
さておき、二人は冷気を肌身に感じながら、駅構内を移動する。
ここから
新潟駅構内はどうやら大規模な改修工事を行っている最中らしく、ところどころに工事用のフェンスが置かれ、ビニールシートが張られていた。
流石に日本随一の酒処だけあって、ちょっとしたおつまみと共に立ち飲みできる場所なんかもあった。成瀬は、九尾が取り
しかし、やたらと背を丸めて周囲をきょろきょろと見渡し、何やら挙動不審だった。在来線の改札近くの待合室に入り、ベンチに並んで腰を落ち着けると、成瀬は思い切って九尾に問い
「誰か会いたくない人でもいるんですか?」
「い、いや……」
九尾は
「……そんな事より成瀬くん。あの人魚の木乃伊について、どう思う?」
どうやら図星だったようだが、プライベートな話題に深く踏み込むのも失礼だと思い、成瀬は話題の変更に応じる事にした。
「ああ……ええっと、驚きましたね。被害届が出ていたなんて」
これは昨晩のうちに判明した情報であるのだが、どうもあの人魚の木乃伊は盗品らしい。
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