2、人魚の脚①
2、人魚の脚
暗闇の中、水が流れる音がして便所の扉が開き、薄暗い廊下に
春となり、ずいぶんと暖かくなったとはいえ、まだ夜間の気温は低い。
男はすぐに寝床へと戻ろうとしたが、無性に
そして明るくなったとたん、男は寝ぼけ眼をいっぱいに見開く。
台所の入り口から正面奥の流し台へと続く床に、三人の男児が寝そべっていた。全員が坊主頭で年齢は七、八歳ぐらいだろうか。みすぼらしい着物をまとっていた。そして、彼らには脚がなかった。着物の腰のあたりから身体の丸みがなく、
恐怖で硬直した男が戸口で立ち尽くし何もできずにいると、最も近い場所にいた男児がまるで助けを求めるかのように右手を伸ばし、彼の左足首を
男の絶叫が
◇ ◇ ◇
「脚のない子供の幽霊を見たんです……」
そう言った男は、昔の文豪を思わせる陰気な表情をしていた。茶色い着流しをまとい、腰には紺の
男は座布団に正座をし、申し訳なさそうに肩を落としてうなだれている。それを年代物の手動開閉式レジの向こう側から
彼女のいる勘定台の右隣では、ダークネイビーのスーツに黒のチェスターコートを羽織り、首にはボルドーのネクタイを巻いた成瀬義人が、周囲へと物珍しげな視線を
そこは
入り口から見て左右の天井付近の壁には振り子時計が並び、棚やショーケースの中には
そんな店舗の最奥の勘定場で正座している着流しの男が、店主の
そんな彼は〝狐狩り〟の中でも最高の霊能者とされる九尾天全の常連客であった。何か霊的な被害に遭う度に九尾に助けを求めてくるのだという。
成瀬はたまたま先の無差別連続呪殺事件の事後処理に関するいくつかの確認事項があり、九尾の経営する占いショップ『Hexenladen』へ向かおうと連絡を入れた。すると、彼女がちょうど神楽坂の元に向かうところだったので、後学のために同行を申し入れたという経緯であった。
「最初の二日は変な夢を見るくらいでした。元の持ち主の遺族からは、おかしな話は聞きませんでしたし、単に夢見が悪いだけだと……」
神楽坂によると事の発端は、四日前に神奈川に住んでいた資産家の遺品整理に携わった事なのだという。その中に
「それで、昨日の夜なんですがね。また悪い夢を見たなと思ったんですが……」
そう言って神楽坂は正座を崩して
「これは……」
成瀬が大きく目を見開く。
そして神楽坂は、その容姿の印象と
「……そういう訳で、こりゃあ、駄目だっていうんで、九尾先生に連絡を」
話が終わると、成瀬は「先生」と言葉を詰まらせて、九尾の横顔を見た。すると、彼女はいつになく真剣な顔つきで言った。
「精神のみならず、肉体にも影響を及ぼし始めている……」
神楽坂は足を戻して再び正座すると、申し訳なさそうな顔で九尾を見上げた。
「そんなぁ……」
九尾が呆れた様子で深々と
「神楽坂さん。あなたはご自身が霊障を受けやすい体質だって、自覚はありますよね?」
「はい……」
「ならなんで、そんな怪しい物を引き取っちゃうんですか……」
この九尾の言葉を、成瀬はもっともだと感じた。君子危うきに近寄らず。霊障を受け易い体質だというならば、そんな
「だから、断れなかったんですって」
そう言い訳がましく述べたあと、神楽坂はむくれ顔で言葉を続けた。
「……それに、あくまでも素人判断ですが、大丈夫なんじゃないかって思える根拠もあって」
「根拠?」
と、成瀬が首を
「ともかく、ちょっと、現物を直接見てもらえますか?」
そう言って神楽坂は、勘定場の座敷の後方にある雪見障子戸を開けて、その向こうに姿を消した。そうして、三分くらい経って、細長い木箱を両手で抱えて戻ってくる。箱の長辺は七、八十センチぐらいありそうだった。ちょうど鮮魚店などで見る、大型の魚用の発泡スチロール容器ぐらいの大きさと形をしている。
神楽坂はその箱を勘定台の上に置き
「これが……」
それは、鼠色の干からびた
頭髪はなく、輪郭は丸くふっくらとしている。まるで人間の赤子のような顔をしていた。
何よりも目を引いたのは、
そして、勘定台の縁に立て掛けて置かれた木箱の蓋の裏には、
『人魚之干物』
神楽坂が
「これ
人魚や
これが、いつしか不老長寿や
以上の事は、成瀬も雑学としては知っていた。だから、以前ならば人魚や河童の木乃伊などは
呪いや祟り、怪異。
それらは確かに実在し、我々人間に少なくはない被害をもたらしている。成瀬は〝カナリア〟としていくつかの特定事案の対処に携わり、その事実を骨身に染みて理解していた。
「猿や猫、犬などの動物と魚の
この成瀬の言葉に神楽坂は
「そうです。普通は」
と言って、木箱の蓋を持ち上げ、九尾と成瀬に裏側が見えるように勘定台の上に置いた。そして書付を指差す。
「それで、この書付を見て欲しいんですけど……」
書付は癖のある草書体で記されており、知識のない成瀬には〝人魚之干物〟という文字の他にいくつかの単語が何となく読み取れる程度であった。
一方の九尾も「ふむふむ、なるほど」などと、鹿爪らしい顔で頷いていたが、けっきょく何も解らなかったらしく、神楽坂に尋ねた。
「で、何て書いてあるんですか?」
「ここには、この人魚の木乃伊には、本物の人間の子供の身体が使われているとあります」
「本物の?」
成瀬はまじまじと木乃伊を見つめた。神楽坂が書付に視線を置いたまま続ける。
「それから、同じように子供を使った木乃伊が他に三つあると……」
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