2、人魚の脚①

2、人魚の脚



 暗闇の中、水が流れる音がして便所の扉が開き、薄暗い廊下に鬼灯ほおずき色の明かりが射し込む。その中に浴衣ゆかた姿のせた男がそっと姿を現す。白髪が多く、歳は五十過ぎに見えた。寒さに肩をこわばらせ、眠たげな顔つきで眉間にしわを寄せている。男が吐き出す白い息が暗闇の中に溶け込んでいく。

 春となり、ずいぶんと暖かくなったとはいえ、まだ夜間の気温は低い。

 男はすぐに寝床へと戻ろうとしたが、無性にのどが渇いている事に気がついて台所へと向かった。入り口にあたるり硝子の格子戸をそっと開き、左側の電気のスイッチを押した。

 そして明るくなったとたん、男は寝ぼけ眼をいっぱいに見開く。

 台所の入り口から正面奥の流し台へと続く床に、三人の男児が寝そべっていた。全員が坊主頭で年齢は七、八歳ぐらいだろうか。みすぼらしい着物をまとっていた。そして、彼らには脚がなかった。着物の腰のあたりから身体の丸みがなく、すそが平たくつぶれている。もんの表情とうめき声をあげて釣り上げられたばかりの魚のように床の上でのたうっていた。

 恐怖で硬直した男が戸口で立ち尽くし何もできずにいると、最も近い場所にいた男児がまるで助けを求めるかのように右手を伸ばし、彼の左足首をつかんだ。すると、男児の全身が、右手からどろどろに腐り果てる。

 男の絶叫がとどろいた。


    ◇ ◇ ◇


「脚のない子供の幽霊を見たんです……」

 そう言った男は、昔の文豪を思わせる陰気な表情をしていた。茶色い着流しをまとい、腰には紺のおびを巻いていた。

 男は座布団に正座をし、申し訳なさそうに肩を落としてうなだれている。それを年代物の手動開閉式レジの向こう側からあきれ顔で見おろすのは、黒のトレンチコートをまとい白い耳当てつきのニット帽をかぶったきゆうてんぜんであった。

 彼女のいる勘定台の右隣では、ダークネイビーのスーツに黒のチェスターコートを羽織り、首にはボルドーのネクタイを巻いた成瀬義人が、周囲へと物珍しげな視線をわせていた。

 そこはじんぼうちようの奥まった裏通りにある『かぐら堂』というこつとう屋の店内だった。

 入り口から見て左右の天井付近の壁には振り子時計が並び、棚やショーケースの中にはつぼや皿、腕時計などが陳列されている。薄暗く静かで、かすかに甘ったるいような、苦いような、古道具特有の匂いが店内には満ちていた。

 そんな店舗の最奥の勘定場で正座している着流しの男が、店主の神楽かぐらざかたくである。彼は霊能力がまったくないにも拘らず、霊に取りかれたりたたられたりし易い体質であった。どうもアレルギーのようなもので〝過敏体質〟という事らしい。呪いや祟りの影響を受けにくい〝資質〟を持った成瀬とは正反対である。

 そんな彼は〝狐狩り〟の中でも最高の霊能者とされる九尾天全の常連客であった。何か霊的な被害に遭う度に九尾に助けを求めてくるのだという。

 成瀬はたまたま先の無差別連続呪殺事件の事後処理に関するいくつかの確認事項があり、九尾の経営する占いショップ『Hexenladen』へ向かおうと連絡を入れた。すると、彼女がちょうど神楽坂の元に向かうところだったので、後学のために同行を申し入れたという経緯であった。

「最初の二日は変な夢を見るくらいでした。元の持ち主の遺族からは、おかしな話は聞きませんでしたし、単に夢見が悪いだけだと……」

 神楽坂によると事の発端は、四日前に神奈川に住んでいた資産家の遺品整理に携わった事なのだという。その中にいわくつきの品物があり、気味悪がった遺族に引き取って欲しいと言われ、断る事が出来なかったらしい。

「それで、昨日の夜なんですがね。また悪い夢を見たなと思ったんですが……」

 そう言って神楽坂は正座を崩してひだりひざを立てた。そして、着物の裾をまくる。彼の足首に土留色の小さな手形がくっきりと浮き出ていた。

「これは……」

 成瀬が大きく目を見開く。

 そして神楽坂は、その容姿の印象とたがわぬ陰気な語り口で、昨晩の真夜中に起こった出来事のてんまつを話し始めた。

「……そういう訳で、こりゃあ、駄目だっていうんで、九尾先生に連絡を」

 話が終わると、成瀬は「先生」と言葉を詰まらせて、九尾の横顔を見た。すると、彼女はいつになく真剣な顔つきで言った。

「精神のみならず、肉体にも影響を及ぼし始めている……」

 神楽坂は足を戻して再び正座すると、申し訳なさそうな顔で九尾を見上げた。

「そんなぁ……」

 九尾が呆れた様子で深々とめ息を吐く。

「神楽坂さん。あなたはご自身が霊障を受けやすい体質だって、自覚はありますよね?」

「はい……」

「ならなんで、そんな怪しい物を引き取っちゃうんですか……」

 この九尾の言葉を、成瀬はもっともだと感じた。君子危うきに近寄らず。霊障を受け易い体質だというならば、そんなにも祟られそうな物を受け取らなければいいのだ。

「だから、断れなかったんですって」

 そう言い訳がましく述べたあと、神楽坂はむくれ顔で言葉を続けた。

「……それに、あくまでも素人判断ですが、大丈夫なんじゃないかって思える根拠もあって」

「根拠?」

 と、成瀬が首をひねると、神楽坂は腰を浮かせて立ち上がる。

「ともかく、ちょっと、現物を直接見てもらえますか?」

 そう言って神楽坂は、勘定場の座敷の後方にある雪見障子戸を開けて、その向こうに姿を消した。そうして、三分くらい経って、細長い木箱を両手で抱えて戻ってくる。箱の長辺は七、八十センチぐらいありそうだった。ちょうど鮮魚店などで見る、大型の魚用の発泡スチロール容器ぐらいの大きさと形をしている。

 神楽坂はその箱を勘定台の上に置きふたを開いた。すると、成瀬は思わず息をむ。

「これが……」

 それは、鼠色の干からびた木乃伊ミイラだった。

 頭髪はなく、輪郭は丸くふっくらとしている。まるで人間の赤子のような顔をしていた。りようひじを曲げて小さく万歳をした恰好で、指は五本あり、その間にはみずきらしきしなびた膜が張っていた。右手首にだけ黄ばんだ包帯のような布が巻き付いている。

 何よりも目を引いたのは、ろつこつが浮き出た胸から下だった。脇腹のあたりに魚類のえらのような切れ込みとひれがある。二本の脚はなくうろこに覆われた下半身は先端に向けて細くすぼまり、扇形の尾びれが先っぽについていた。

 そして、勘定台の縁に立て掛けて置かれた木箱の蓋の裏には、みぎなみの丸紋と呼ばれる種類の家紋と共に草書体の書付があった。その書付の冒頭には次のような文字列が見られた。


『人魚之干物』


 神楽坂がいまいましげに言葉を口から吐き出す。

「これ所謂いわゆる、人魚の木乃伊なんですが、こういうのって、作り物なんですよ」

 人魚や河童かつぱ、鬼やりゆうなどの架空生物の木乃伊は、主に江戸時代から明治初期に掛けて、りようごくなどで林立していた見世物小屋の出し物として作られたものだった。

 これが、いつしか不老長寿やけのご利益があるとされるようになり、興行が終わったあとも破棄される事なく神社や寺に奉納される場合もあった。これらの木乃伊は輸出品としても海外の好事家に需要があったらしく、今でもヨーロッパの博物館に当時の物が所蔵されている。

 以上の事は、成瀬も雑学としては知っていた。だから、以前ならば人魚や河童の木乃伊などはまがい物だと言い切れたのだが、埼玉県の駅前交番勤務から特定事案対策室に異動した今となっては、一概にそう断言する事ができなくなっていた。

 呪いや祟り、怪異。

 それらは確かに実在し、我々人間に少なくはない被害をもたらしている。成瀬は〝カナリア〟としていくつかの特定事案の対処に携わり、その事実を骨身に染みて理解していた。

「猿や猫、犬などの動物と魚のはくせいをくっつけたものなんですよね?」

 この成瀬の言葉に神楽坂はうなずく。

「そうです。普通は」

 と言って、木箱の蓋を持ち上げ、九尾と成瀬に裏側が見えるように勘定台の上に置いた。そして書付を指差す。

「それで、この書付を見て欲しいんですけど……」

 書付は癖のある草書体で記されており、知識のない成瀬には〝人魚之干物〟という文字の他にいくつかの単語が何となく読み取れる程度であった。

 一方の九尾も「ふむふむ、なるほど」などと、鹿爪らしい顔で頷いていたが、けっきょく何も解らなかったらしく、神楽坂に尋ねた。

「で、何て書いてあるんですか?」

「ここには、この人魚の木乃伊には、本物の人間の子供の身体が使われているとあります」

「本物の?」

 成瀬はまじまじと木乃伊を見つめた。神楽坂が書付に視線を置いたまま続ける。

「それから、同じように子供を使った木乃伊が他に三つあると……」

 れぼったい目や丸い鼻は確かに人間の赤子のようだったが、違和感もあった。以前にどこかで目にした写真や動画の中の木乃伊は、目蓋や鼻、唇などが風化していて、がんこう、歯茎がむき出しになり髑髏どくろのような顔をしていた。しかし、この木乃伊は鼻や唇、目蓋が残っていた。

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