第30章 休み明け

大学の夏季休暇が終わりを告げ、的場は後期の講義の準備を行う。

『理科教材学』『教養生物学Ⅱ』『農業演習D』『理科教育学特論』『ICT活用と教育』

この5科目が、後期に的場が担当する科目である。

『理科教育学特論』以外は、オムニバス形式であるため担当科目数に対して、それほど負担ではなかった。

しかし、問題は時間割であり、休み明け1限目に早速的場の講義が入っていたのである。


『理科教育学特論』大学院の科目で最新の研究動向をはじめ、理科授業における課題点とその解決、教育方法を取り上げ、専門性を持った実践力の涵養を目的として開講されている。とはいえ、大学院で理科教育学を専攻していない限りは、選択肢にも挙がらないため毎年、履修する学生は極めて少ない。


講義を終え、講義室を後にする。居室に戻って一息つきたいところではあるが、その足で農学部棟に向かう。打ち合わせが入っているからである。

『農業演習D』農学部の科目。主に農業機械をはじめとした大型特殊車両を扱う演習。

的場の前職は農業教員であり、農業機械の指導経験がある点や、建設車両・フォークリフトの作業免許も取得しているため、一部の演習を担当するよう打診があったわけである。

その日は、打ち合わせのみであるが、来週から演習が始まる。演習は午後の2コマである。


盛りだくさんの午前中を終え、昼食の愛妻弁当を手にゼミ室へ入る。

ちょうど、学生たちも各自、食事の準備をしていた。

「みんな、夏季休暇で少しは休めたかな?」

ありきたりではあるが、学生たちに話題を振る。

多くの学生が帰省をしていたようで、家族や故郷の友人たちとの久々の時間を満喫していたようである。

的場は、学生たちの話に耳を傾けながら弁当箱を開ける。

(・・・おや?)

型抜きされた後のハムやチーズ、卵焼きの端っこ・・・。

なんだか子どものお弁当を作った後の残りもののようであった。

(そういえば、司が職場体験だったな。)

弁当の変化とその背景を即座に関連付けて、事情を把握する。

とはいえ、味はいつも通りであるし、作ってもらえることはとてもありがたいことである。そんなことを考えながら、卵焼きを口に入れた。


午後からは、何人かの学生からの研究相談に乗り、自身の研究も進める。

北央大学には附属小学校・中学校が併設されているが、高等学校も設立することが決定された、それにより、附属学校部は数年は財政難に苦しむことになるだろう。

理科教育学分野の教員のミッションは低コストでできる実験方法や教材の開発であり、チーム一丸となって取り組んでいる。

「的場ちゃん、そろそろ時間だけど。」

田嶋が居室のドアから顔を覗かせる。

「・・・そうですね。行きましょう。」

この後、田嶋研究室の実験室で考案した実験方法の予備実験を行うこととなっていた。


予備実験を終え、居室に戻り帰宅の準備をする。

時刻は19:30を迎えようとしていた。

居室の施錠をし、ゼミ室に立ち寄る。暗く人の気配を感じない居室を前に、全ての学生が帰宅したことを確認する。


「ただいま」

20:10。帰宅。脱衣所に誰もいないことを確認し、部屋着に着替える。

「ひろくん、おかえり。ご飯にする?」

「ああ、おなか減った。そうだ、弁当箱・・・」

「洗っちゃうわね・・・って、洗ってある。」

「研究室の流し台で洗ってきた。学生がそこで弁当箱を洗っている姿を見てね。もっと早く気付くべきだったよ。」

「ふふ、ありがと。助かるわ。」

朱美が温め直した味噌汁をお椀によそう。


「だーかーらー!それが分かんないんだって!」

「何回も教えてるじゃない!」

2階から明らかに穏やかでない言い合いが響く。

どうやら、長女の美聡と次女の来海が何やら揉めているようである。

「来海がもうすぐ模試があるからって、美聡に勉強を教えてもらってるんだけど・・・。あの二人、全然タイプが違うでしょ?嫌な予感はしてたのよね・・・。」

「ちょっと行ってこようか?」

「お願い、多分ヒートアップするだけだから。」

博司は2階に上がり、来海の部屋のドアをノックする。

「どうした?ちょっと入っていいか?」


ガチャ


美聡がドアを開け、博司を招き入れる。

「父さん!お姉ちゃんが教えるの下手なの!」

「これ以上どう説明すればいいのよ!」

「まあまあ、ちょっと見せてごらん。」

二人を宥めつつ来海が躓いている問題に目を通す。

学校現場から長く離れていたこともあり、多少の時間を有したものの博司の脳はその解法を導き出す。

「順を追って一緒にやってみようか。まずは・・・」

博司は来海に順を追って解放を説明する。来海は美聡と違い完全な努力型で記憶として定着しているもののそれらを使いこなすことが苦手な傾向がある。

つまり、点としては理解しているがそられを線でつなげることが難しいわけである。

ということは、引き出す順序をある程度示しさえすれば来海自らが答えを導き出すことができる。論理立てて考える『論理的思考』の導きである。

美聡は、しばらくは様子を伺っていたものの、いつの間にかその場を後にしていた。

来海のSOSに一通り答え、1階に降りる。朱美が再度味噌汁を温め直していた。

「ごめん、少し長引いた。」

「いいのよ、すぐに準備するね。」

朱美は味噌汁を注ぎ入れ、テーブルに置いた。

「親父って本当によくやるよねー」

美聡がソファーに座り、テレビを見ながら博司に声をかける。

「ん?あー、来海のこと?」

「そうそう、あたし絶対に教師は無理だわ。」

美聡がぶっきらぼうに答える。

「いつも言ってるだろ?お勧めはしないって。」

「・・・あれそういうこと!?」

美聡が驚いたように目を見開き博司の方を向く。

「さあね。」

博司は少し含みを持たせるように返した。


ふいに美聡の隣に座り熱心に本を読んでいる司の姿が目に入った。

「司、熱心に何を読んでるんだ?」

読書を中断させてしまうことに多少の申し訳なさを感じつつも博司は司に声をかけた。

「ん、これ。」

司がその表紙をこちらに向ける。

『病院のお仕事』

どうやら、病院内で活躍する職業について幅広く説明されている本のようであった。

「職場体験で興味を持ったみたいで図書館から借りてきたらしいの。」

朱美が洗い物をしながら話す。

「ねね!司はどれになりたいの?」

「んー、まだ分かんない。」

「そっかー、でも司は可愛いし優しいからどれになっても似合うなー。あたしはどれが似合うかなー。」

「んー・・・これ。」

司がページを開き、美聡に見せる。

「おー、どれどれ・・・医者!?」

司が美聡に見せたのは医者について説明されているページであった。

「医者かー・・・でも、女医ってカッコいいかも・・・アリだな。」

美聡が一人で盛り上がっている。とは言え、望めば医学部に行けてしまうほどの学力を持っていることが恐ろしい。冗談が冗談として素直に笑えないわけである。


「あー、なんか熱くなってきた。ちょっくらアイスでも買ってくるわ。」

美聡が不意に立ち上がり、玄関に向かい歩き出す。

「え!?ちょっと美聡、リンゴ切っちゃったんだけど。」

「あたしは、アイスの気分なのだ。ドライブがてら行ってくるわ!」

「ちょっとひろくんからも何か言ってよ!」

「美聡、リンゴ食べないのか?」

朱美に促され、博司も美聡に問いかける。

「親父にやるよ。まぁ、なんつーか、来海に強く言いすぎちまったな―って思って。」


「なら、イチゴのやつがいい。コンビニに売ってる果肉が入ってるやつ。」

来海が階段を降りながらリクエストを美聡に伝える。

「な!?来海!?聞いてたのか・・・。」

どうやら、ただの口実だったらしい。しかし、まさかの本人登場である。

「しかも高いやつじゃねーか!あたしの分が買えなくなるだろ!」

「お姉ちゃんにはリンゴがあるじゃない。」


「え・・・」

驚きと戸惑いが混じった声が全員の耳に入り、時が止まったかのような一瞬の静寂の後、一同の視線は、声の主の方向へ向く。

そこには、二つ目のリンゴを頬張る司の姿があった。

「えっと・・・美聡姉ちゃん・・・ごめん・・・」

この状況はまずい。感じる必要のない者が責任を感じる事態になりつつある。

「よし!みんなでアイスを買いに行こう!」

「そ・・・そうね!みんなで行きましょ!」

博司と朱美が咄嗟にアイスを買いに行くというシナリオに方向転換させる。

「よし!お財布を取ってくるからみんなは先に車に乗っておいてくれ!」

博司は、財布が入っている仕事用の鞄のもとへ向かう。

「親父、今回はあたしがだすわ。」

美聡が博司に向かって言う。

「え?いいよ別に。」

「いや、流石に悪いわ。あたしに出させて。」

「まぁ、そこまで言うなら・・・」


結局、美聡は来海と司に奢るという形で事態は収束したのであった。

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