在りし日の旅人たちへ

kihaku

第1章:幸せな終末と後日譚

プロローグ

 今この瞬間、私の意識が目覚めた。けれど、目覚めた世界には何もなかった。

 視覚情報,聴覚情報,触覚情報。ただ、情報があるだけだ。そこに意味は無いのなら、何も無いのと同じだ。

 無造作に羅列されたデータの海に、私は溶け合い漂うだけ。そこに、私は居なかった。


「対象者『遊方こころ』の修復プロセスが完了しました。システムをシャットダウンします」


 境界の無い世界に、機械音声が響く。

 システム的で熱を感じない声だったが、そのフレーズは私にとって大事な物だった。

 『遊方こころ』。私という存在を形作る、私だけの名前。


 自分自身を認識した途端、外の世界が意味という名の形を帯びていく。

 真っ白な天井に取り付けられた、くるくると回っているシーリングライト。

 規則正しく鳴り続ける、アナログ時計の針が動く音。

 背中に当たる、ふわふわとした毛布の感触。

 無秩序だったはずのデータが、世界という形を持って形成されていく。

 今この瞬間、私は目覚めたのだ。

 

 覚醒したばかりの体を起こし、ベッドから両足を下す。


「遊方こころ。それが、私の名前」


 自分の名前を声に出し、頭の中で何度も反芻する。

 もう二度と、無くさないように。


***


 目覚めた場所は、小綺麗な寝室だった。

 状況的に寝起きであるはずなのに、頭はやけにすっきりとしていて、雑念と呼べる物も一切無い。というよりかは___


「あれ、何も思い出せないや」


 頭の中が空っぽだった。唯一覚えているのは、機械音声を聞いて思い出した「遊方こころ」という自分の名前だけ。所謂、記憶喪失という状態だ。


 ベッドから離れ、部屋の中を一通り観察してみる。

 内装はモダンな白基調で、家具はベッド,サイドテーブル,タンスだけしか置かれていない。掃除は隅まで行き届いており、埃一つ無い綺麗な寝室だ。

 ごく一般的な日本の家屋にある、ごく普通の寝室といった印象だ。けれど、見覚えは勿論、馴染みも懐かしさも感じない。

 ここが自分の家ではないと仮定するならば、今この状態は間違いなく異常事態だろう。最悪を考えるならば、何かの事件に巻き込まれて拉致監禁されている可能性だって十分にある。

 けれど、記憶喪失になるまでの自分が楽観主義だったのか、あるいは失って困る物が思い出せないからか、気持ちは変わらず落ち着いたままだ。


 状況はともかく、ここに留まり続ける理由は無い。

 この部屋唯一の扉に近づき、ゆっくりとドアノブを引く。


(何か音がする)


 扉を開け廊下に出ると、奥側からカタカタと乾いた音が聴こえてきた。

 機械制御のように一定のリズムで進んだかと思えば、たまに段々とゆっくりと弱々しいリズムになったり、戻ったりを繰り返している。

 そんなリズムの入れ替わりが続いていくのかと思ったら、急に音が一旦止まってしまった。しかし、数秒置いてから少しずつ音が聞こえ、段々と元のリズムに戻っていく。

 止まっていた時のストレスから解放されたからか、止まった前よりも少し軽快な音に感じられた。


 無機質だけれども感情が乗ったその音が、無性に気になった。

 念の為足音を抑えながら音の方へと進んでいくと、突き当たりの大きな部屋に辿り着く。

 その部屋は10畳程度の広さで、ソファや机が置かれていて一見普通のリビングのように見える。

 けれど、部屋の奥側に配置されている大きいデスクが、異質な存在感を出していた。付箋が貼られた資料が積み重なっていて、手書きで書かれたメモ書きが無数に散らばっている。埃も無く整然とした家の中で、この空間だけが唯一雑然としている。

 そんなデスクに向き合うように、音の主の少女は座っていた。

 その少女は私に気が付く様子もなく、ノートパソコンに向き合い文字を打ち続けている。


(やっぱり。キーボードの入力音だったんだ)


 お手本のように整った姿勢で、一心不乱に。けれど闇雲にではなく、時には手を止め、資料を読み、考えながら、地道に一歩一歩を積み重ねている。

 周りに流されて何となくやっているだけでは絶対に辿り着けない。強い芯を持って、一人で歩き続けないと辿り着けない境地のような何かを、目の前の少女から感じさせられた。

 圧倒されるような集中力。一つの事に熱中する、ある種の愛情のような物。まだ一言も言葉を交わしていないけれど、既に私は彼女の事が好きになっていた。


 作業の邪魔をしてはいけないと思い、静かにソファに座り少女を黙って見つめてみる。


(画面の全部は見えないけれど、…文字の配置的に、小説を書いてるのかな)


 視線をずらすと、少女が使用しているデスクの横に大きな本棚が置かれている。大きいサイズから文庫本サイズの本まで、ジャンルも幅広く揃っていた。過去に影響を受けた小説なのか、それとも参考用の小説なのだろうか。

 小説家志望か、はたまた若くして既にプロなのかは分からない。どちらにせよ、創作活動に真剣に取り組んでいることは後ろ姿からひしひしと伝わってきた。


 PCと向き合い制作活動に励む少女の姿を見ていると、消えたはずの記憶の海から懐かしい風景が蘇ってくる。

 学校の外れの人気の少ない空き教室。あの人もこの少女と同じように、一心不乱にパソコンとにらめっこをしていた。

 その人は大きな夢を掲げ、実現の為に努力を惜しまない人だった。うまくいかない事の方が多そうだったけれど、いつも楽しそうに創作活動に打ち込んでいた。

 今の私には、その人の顔も名前も思い出せない。けれど、その時抱いた気持ちだけは心の中に残っている。だからあの時もきっと、今と同じ事を言ったはず。


「頑張って」


 果てしなき夢を追い続ける旅人達へ送る、ささやかなエール。

 そんな言葉が、自然と口から零れ落ちた。

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