第80話 人に戻す 視点:ツバキ

 罪とは、世界を汚す罪悪である。神が人を救うのは、人が生まれながらにして善であるからだ。故に、罪を犯した者は人ではなくなる。


 それは、可能性の問題だ。一度でも罪を犯したのなら、再び罪を犯す可能性が生まれる。水の入った瓶に一滴でも汚泥が入れば、それはもう綺麗な水とは呼べない。

 故に、唯一にして欠点のない0、清廉で潔白な者だけが人足りえる。


 だが、可能性の問題であるならば、罪を犯す可能性が0になればいい。そうすれば、その者はまた人に成れるのだ。


 方法は一つ。その者の全ての生命活動の停止――つまり、死のみ。


 だから殺す。これは救いであり、浄化なのだ。


 そう、私は全ての人を救いたい、ただそれだけだ。なのに——


「アンダンテ、俺の剣に合わせろ!」

「了解リーダー! おら、どうしたどうした! さっきから止まって考え事かあ!? 《アサルトフレイム》!」

「その炎、借りるよ。……これだけ硬いと雷滅の斧ケラウノスが刃こぼれしないか心配になるな」


 ——なぜ、彼らは私の邪魔をする。


 意味のない行為だ。私の体は苦痛を拒む。そして、私の行いの邪魔をしなければ、私も彼らを殺すつもりはない。

 それを彼らは十分に理解しているはずだ。だが、彼らはその手を、その詠唱を止めようとはしない。


 ダメだ、頭に霧がかかる。上手く手足を動かせない。この場所は匂いが多すぎる。様々な罪の匂いが入り混じっていて、誰が罪人なのか判別がつかない。

 違う、今はいい。まず殺さないと。匂いがする。ああ、耐えられない。なぜ邪魔を? そうじゃない。早く殺さなければ。あの罪の匂いが染みついた少年と、風化した罪を纏う桃色の髪の少女を、今すぐに。


 匂いを辿る。あの少年はすぐ近くにいる。私はその方向に向かって一歩踏み出した。途端、彼らの攻撃は苛烈になる。


 入れ替わり立ち代わり、私の歩みを止めようと躍起になっている。だけど、どれだけ派手な攻撃でも、どれだけ強い一撃だとしても、私を止めることはできない。


 なぜなら、私の行いは神に祝福されているのだから。


「……そろそろ止まってくれるとありがたいんだけどな」


 私の前に、またあの青い作業服を着た男が立つ。ただ、その男は先ほどと違いじっくりとこちらを伺っているだけで、私の歩みを止めようとはしない。


 代わりに男は、静かな口調で私に問いかける。


「なあツバキ、なぜ君はこの子を殺そうとするんだ」


 それは、彼を人に戻すためだ。


「一体何のためにそれを為そうとしているんだ」


 この世界から罪を消すため。美しい世界には、罪は存在しないから。


「……違うな、聞き方が悪かった。誰のために、だ」


 誰のため? そんなもの決まっている。私は、あの子のために……


「……?」


 あれ、あの子ってだれだっけ。

 まあいいか。


 立ちはだかる最後の誰かを振り払って、私は少年のもとに辿り着く。少年は疲れ切った顔でこちらを見ていて、逃げるようなそぶりを見せない。ようやくだ。早く、早く!


「さあ、罪の浄化を」


 私は剣を振り下ろす。もう障害はない。これでまた世界から罪が一つ消える。


 その時だ。私の影から一人の少女が少年を庇うように飛び出してくる。あまりに突然のことで、剣は止められない。そのまま勢いよく彼女の左肩を切り裂いた。


「あ、ぐぅ……!」


 肉を抉る音とともに、少女は短く悲鳴を上げる。その声が、顔が、匂いが、私の脳を揺さぶった。


 


「おねえ、ちゃん……やっと見てくれた」

「……あ、なんで、真理まり


 情報が混雑する。脳が現実に追いつかない。一人の記憶と、二人だった時の記憶が入り混じる。夕暮れと夜の合間の髪を解く時間、甘えるように見つめる瞳、葬式で泣いていた涙の温度、肩口から吹き出る血、あの日置いていってしまった罪悪感。


 濁流のような思考の中、ほんの一瞬、プツリと、私の内側にあった何かが消えた。


 そんな隙間を縫うように、後ろからたった一言、声が聞こえる。


「見えた」


 直後、地面を割るような鋭い衝撃が背中を襲う。それは、久しく感じていなかった、痛みというものだ。


 私はゆっくりと後ろを振り向く。そこには、さっきまで逃げ回っていたはずの桃色の髪の少女が、驚いたような表情で私の背中を見つめて立っていた。


 そして、私の背中には小さいナイフのようなものが刺さっていた。

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