第二十二話
それからしばらくの間、昇龍は組織のことには一切触れなかった。老師が心配するからだ。
季節はもう晩秋になっていた。知らぬ間に十一月も末になっていた。銀杏の木は実を落とし、ドングリやマツボックリを拾いに来るリスによく遭遇した。
そんな中でも毎日やるべき鍛錬は変わらなかった。
老師には内緒だが、昇龍には目標ができていた。世界中の麻薬密売組織を根絶やしにする事。八歳の昇龍には、それができるはずのことだと思っていた。自分の両親を殺し、世界に中毒患者を大量に作ってバカみたいにぼろ儲けしている腹黒い連中。
世界中にそんな組織がいくつあるのか見当もつかなかった。だから根絶やしにすることだって可能だと本気で思っていた。
その目標を持ったために毎日の稽古にも身が入り、相変わらず身長は伸びないが体幹と下半身が驚くほど鍛えられた。以前出来なかった腕を組んだまま片脚でしゃがむのもできるようになった。
「もうすぐ雪が降り始めるな」
「そうなんですか」
「これからは川の水は汲みに行けなくなる代わりに雪かきができるぞ……おっ?」
「どうしたんですか」
老師は南の方を見てニヤリと笑った。
「狼煙だ。あれは徐がマスを取りに来いと言ってる。狼煙が二本だからマス二本だな。どうする、一緒に行くか? 一人でマス二本持って来れるか?」
「一人で行きます」
多分、以前行った時よりも体が軽く感じるはずだ。
「じゃあわしは燻製窯に火を入れておこう」
体が冷えたままだと怪我をするので軽くストレッチ(と言ってもこの頃の彼のストレッチではバク転までがセットになっていたが)してから「行ってきまーす」と元気に出かけて行った。
案の定、数カ月前に行った時よりも断崖絶壁の道が軽く感じる。とは言えまだ下りだからそう思えるのかもしれない。陽気な
昇龍が行くと、二人とも外で何か作業をしていた。船着き場の方ではなくて家の前の浅瀬の方だ。
「こんにちはー。何やってるんですかー」
「魚の解体だよ。どうせ燻製にするんだろ? だったらここでバラシて湖の水で洗った方が手っ取り早いじゃねえか、ガッハハハハハ」
「見ていいですか」
「もちろんだ、ここで生の魚を見て勉強していくといいよ」
相変わらず徐さんは豪快で陳さんはソフトだ。
徐さんは豪快にマスの顎の下にナイフを入れてスーッと下に引いた。中から内臓がはみ出してくる。教科書で見たのと同じ絵だ。
「うわぁ。このエラの裏にあるのが心臓、これが腸、これが浮袋かぁ」
「昇龍はよく知ってるね」
「本で見た絵と同じなんです。本物が見られて良かった」
「本物を見るのに越したことはないしな」
陳さんと喋っている間に、徐さんはエラから口に荒縄を通して持ちやすくしてくれたが、昇龍が持つには長さがあり過ぎだ。
「おい徐、お前じゃないんだからこれじゃ昇龍は無理だよ」
陳さんが小さいブルーシートを持って来て魚を包み、端を縛って昇龍の背中に背負わせてくれた。
「ちょっと魚臭くなるけどな。気を付けて帰れよ。ちゃんと手すりにつかまってな」
「はあい、ありがとうございます!」
そうして登り始めたわけだが……明らかに二か月前より体が軽い。こんな大きなマスを二本も背負っているのに、それでも軽い。脚や腹に筋肉が付いたんだと思った。
「よし、確実に強くなってる。魚の解体も見た。今日はいい日だ」
声に出して言ってみた。とてもいい日になったような気がした。これが『言霊』なんだな、と昨夜読んだ本の内容を思い出した。言葉に魂が宿る。まさにそれだ。
帰ってみると老師が塩を持って待っていた。ブルーシートを広げると全体に水をぶっかけてからササっと塩を撒いて「わしはこのシンプルなのが好きなんだ」と言って燻製窯の上の方からぶら下げた。徐さんがエラから口に荒縄を通したのはここまで見越してのことだったらしい。
老師の友人たちに関しての形容詞は『凄い』しかない。昇龍のボキャブラリの問題もあるが、実際『凄い』のだ。もちろん、劉さんや春蘭さんも含めてだが。
「ところでチップはどうしたんですか? 枝切って来ただけですよね?」
「そんなもん、暇さえあれば適当に削っとたわ」
「いつの間にー!」
「お前が三平方の定理やっとった時だな」
本当かどうかわからないが、確かに先日やっていた。老師のことだから本当に見ていたかもしれない。
「こうしている間、時間が勿体ないから太極拳でもしようかな」
「太極拳『でも』と来たか」
「劉さんに教えて貰ったんです、あれも立派な拳法でした」
「二十四式か?」
「はい」
「自分がいいと思ったものは何でもやってみろ。その中から合うものと合わないものを選べばいい」
また分岐と選択だ。しかもこれは検証がずいぶん後になる。とにかく今はやるしかない。
昇龍は脚を揃えて立つとゆっくりと片脚を肩幅に開いた。両手の先をだらりと地に向けたまま静かに顔の高さまで上げ、腰の高さまで下ろすとそのまま左足を横に踏み込んで右手を捌きつつ左手を上げる。
老師が妙な顔をしたが昇龍は気にしなかった。おかしかったら止めるはずだ。
右足を外側から左に近付けたところでストップがかかった。
「お前これなんだと思ってる?」
「太極拳です」
「太極拳とはなんだ」
「太極を元に考えられた拳法です」
「拳法とはなんだ」
「武術の一つです」
「そこまではわかってるんだな」
どういう意味だろう?
「武術というのは相手がいて、その相手と戦うものだ。わしの方を向いて立て」
昇龍は素直に立ったが、老師に指一本で吹っ飛ばされた。お尻をさすりながらもう一度立つと、今度は老師が無茶を言った。
「わしに吹っ飛ばされないように立ってみろ」
そんなばかなことができるもんか、この人にかかったらブラキオサウルスだって吹っ飛ぶよ。そう思いつつも正面を向いて脚幅を広げ、爪先を外側に向けて立った。
老師は普通に近寄って来て指一本で昇龍を……やっぱり吹っ飛んだ。尻もちはついたけど、さっきみたいに三メートルも吹っ飛ばされなかった。
「いいか、太極拳は武術だ。ちょっと押されて倒れるような立ち方など言語道断。自分が安定していないと相手に飛ばされる」
「そういえば劉さんに飛ばされました」
「陰と陽だ。一歩前に出るのは陽の動き、下がるのは陰の動き。陰陽を使って戦うのが太極拳だ。太極拳をお前のお母さんと同じように考えていると酷い目に遭うぞ」
老師は笑いながら燻製窯の火を見に行ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます