電話ボックスの中の幸福
雪が降った寒い日の散歩は途中から歩けなくなるのがわたしの常だ。体の芯が冷えて、目眩がし始める。そんなとき、上を見ると白い空に鳥が一羽、飛んでいるのが見えた。黒い羽をはためかせている。雪空を鳥は飛ぶのかしら、なんて考える。
ダウンジャケットのポケットに手を入れて、歩くふりをする。普通なふりをする。泣いているふりをする。あまりに悩んで、いつの間にか何を悩んでいたのか忘れてしまった。いずれ思い出すと、すぐ涙が流れる。鼻水が流れていなければいい。
近くを白のバンが通る。低音が大きい感じの音楽が車内では流れているようで、脇を通るときには小さく一定のテンボの地鳴りが起こった。寒いのに元気だな、と思う。冬には月を見ない。目に留まらない。冬はいつも憂鬱で、空ばかり見ているというのに。
ある春、わたしは大学のサークルの新歓の飲み会で酒を飲んだ。四年の先輩のアパートの一室だった。酷くつまらない人ばかりだったけれど、両隣が話に夢中になっていて抜け出せなかった。わたしがぼうとしていると、向かいのいかにも女好きな長髪の先輩がわたしにビールを勧めた。新歓の場で勧めるのだから彼の道徳観念はわたしと同じ線にないとわかった。それでもわたしは缶ビールを一本だけ飲んだ。少し顔が熱くなって、恥ずかしくなった。この場にいる自分が恥ずかしいのだ。酔いのせいもあって、わたしは勇気を出し、左右の先輩に帰ると言って、ドアの方へ向いた。その時、さっきビールを勧めに来た先輩が私に声をかけた。
「帰るの?待ってよ、ちょっと話そうよ」
彼はそう言った。
彼もまた酔っているようで、危ないとは思った。けれど、わたしは拒まなかった。
彼は自分のバイトの話、簡単に単位が取れる授業、いい古着屋、好きな画家の話をした。全部が薄っぺらで、新入生の若い女の子を口説き落とすための台本みたいだった。
話を聞いているふりをしていると突然、いま目の前で話している人間が一枚の絵に見えた。小学生が描いた水彩画みたいな。写実性はなく、色も単純で、構図も明白、バランスがどこか崩れていて、一日に何度も見たら苛つくような。また、彼は、出演する俳優が老人だけで、老人ホームで撮ったみたいな、話も面白くなかったアメリカ映画も想起させるのだった。彼の頬のニキビを潰せば、彼のアイデンティティも消えるような気がした。そう考えている間に、彼はわたしをホテルに誘った。わたしは急いでカーディガンを羽織って、部屋を出ようとした。彼はわたしの手首を掴んで、耳元で何か性的なことを言った。雑多な飲み会の会話に紛れた、ノイズの中のさらに大きなノイズだった。
わたしは彼の手をほどき、玄関で自分の靴を探した。彼はその間、隣の男に、わたしがつれないのだと口軽く言った。
下を向いて靴を履きながらドアノブをひねり、部屋の外の廊下に出た。黄色い花火が咲いたような明かりが空にあった。明るい月が私を見ていた。こんなに寒い春に花火など上がっているわけがなかった。
散歩から帰って映画を観た。小さな離島の漁師が引き上げた死体から迷宮入りした事件が紐解かれていく、というものだった。わたしも同じようなことをしている。迷宮入りしたわたしの過去をいまのわたしが歪ませる。
時計を見ると予定の時間に近づいていた。急いで服を着替え、簡単に化粧をする。醜いわたしの目が鏡の中にある。
白い翼が欲しいと歌っていたとき、私は音楽室の肖像ばかり見ていた。翼なんて要らなかったし、壁に束縛された音楽家を見るのは楽しかった。美しいものを作り、称賛された人間が百年後には骨になり壁に張り付けられ、音も鳴らせず、生意気な子供に睨まれているのだ。
思えば小学生の頃から死について考えることが多かった。母に祖母の死に際の話を聞くとか、人が死ぬ小説ばかり読むとか、孤独な夜に、いつか訪れるはずの死を恐れて泣くとか。
鬱血した傷を必死に抱え込んで生きてきた。嫌われないように、異端と見られないように、そうやって人と関わり続けた。いつしかその自意識が暴走し、やがてわたしは嫌われ、異端になった。
このまま死ぬつもりはない。わたしは、醜いまま死ぬつもりはない。見下されたまま死ぬつもりはない。遊び疲れた夕方の吐き気の中を生きるつもりだ。
見えない短編 林 常春 @aiuewo_
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