第13話
詩兎は熱くなった頬を冷ますために早足で歩いた。
夜の冷気が頬を撫でるのに、全く熱が引かない。
頬の熱が引かないままだが、詩兎は門から敷地内に入った。
そこで灯りがあることに気付く。
灯りはゆらゆらと一定の間隔で揺れながら、詩兎に向かって近づいて来る。
もちろん、出迎えはおらず、遅い時間の帰宅にも関わらず年頃の詩兎を気に留める者もほとんどいない。
「姉様」
灯りを持って詩兎に歩み寄るのは異母弟の万里だ。
誰も詩兎を気に留めない家の中で、唯一万里だけが詩兎を気にかけてくれる。
「お疲れ様です、姉様」
「出迎えありがとう、万里。それにしても、まだ起きていたの? 今日もたくさん勉強をして、疲れているのではないの?」
「平気です。聞きました……皇室の依頼品を明日までに用意しなければならないと」
万里は苦い表情をして言う。
「申し訳ありません……姉様ばかりに負担を強いてしまって……」
「あなたはそんなこと気にしなくてもいいのよ」
詩兎は自分の胸よりも低い位置にある頭を撫でる。
今年で十歳になる万里は他の年頃の少年たちに比べるとやや小柄だ。
いつまでこんな風に頭を撫でさせてくれるのかしら。
そんな風に思いながら詩兎はふわふわとした茶色の髪を撫でた。
「……姉様。さきほどの者は?」
「彼はお客様よ。仙家の遣いの方なの。近くに寄ったから仕事の進み具合を見に来たのよ。流れで仕事を見たいと言われてしまって」
「こんな時間まで?」
万里は訝しむが、本当のことである。
「えぇ。私も仕事を始めたら夢中になってしまって」
「姉様。姉様は妙齢の女性なのですよ。顔見知りであろうが、親しかろうが、異性とこんな時間まで二人っきりになることは反対です。そもそもこんなに遅くまで仕事をするのなら工場ではなく、こちらに仕事を持ち帰って下さい。居心地は悪いかもしれませんが、姉様の身の安全が最優先です」
十歳の少年が姉を心配しての発言とは到底思えないほどしっかりしている。
詩兎は嬉しくて反射的に腕を広げ万里を抱き締めた。
「ありがとう、万里。そうよね、普通はそうようね」
何ていい子なのかしら。
顔だけ良くても女性を心配するフリをして平凡な容姿だの、竜眼石が使えないだの、婚約者に捨てられただの、嫌味を言ってくる男とは大違いだ。
「普通はそうなのですよ。妙齢の女性が夜遅くに出歩くものではありません」
万里は少し照れたような顔で言う。
詩兎は発言の食い違いに気付いているのだが、あえてそこは訂正する必要がないので黙っていることにした。
「姉様、明日お時間を頂けますか? お話しておきたいことがあるのです」
真面目な表情で万里は言う。
「今夜はもう遅いですし、明日はあの三人は中央地区に出掛けていませんから」
「あなたは行かないの?」
「勉強をしたいと言ったら許してくれました」
そう言って万里は笑う。
あの三人とはもちろん、父、母、華陽のことだ。
明日の昼前に出発して、一泊し、その後に父は華陽を連れて王城に、母は買い物か夫人達とお茶会だろう。
「分かったわ。じゃあ、明日ね」
詩兎は万里と約束を取り付けて廊下で分かれた。
部屋まで送ると言う万里に嬉しく思いながらも、丁重に断った。
万里は義母に溺愛されており、詩兎が万里に近づくことを良しとしない。
誰かに一緒にいるところを見られると面倒なのだ。
詩兎は部屋に戻ると、案の定、部屋の中がぐちゃぐちゃになっている。
寝台の上には裂かれた枕の中身が散乱していて、中身がほとんど入っていない衣装箱は中身がひっくり返され、手直しして着ようと思っていた服も、帯も切られていた。
母から譲り受けた鏡台の鏡には大きなヒビが入り、鏡の破片が散らばっている。
詩兎は部屋全体を見渡して、大きな溜息をついた。
いよいよ、着れるものがないわね……明日にでも買いに行かないと。
部屋の隅にある床板を外し、その中に隠した金子は無事だった。
これは祖父が詩兎のために残してくれた持参金の一部である。
詩兎のために祖父が残してくれた持参金も婚約が破棄され、『もう結婚はできないだろうから必要ない』という勝手な判断でほとんど使われてしまった。
華陽には膨大な衣装代を使わせているのに、詩兎には新しい服を仕立てることさへ許さない。
嫌がらせもここまでくると傷付いて泣くのも馬鹿らしいと思えるようになる。
「とりあえず、寝ようかしら」
明日は晴れそうだから、井戸で身体を拭こう。
その前に何か食べないとダメよね。
詩兎は寝台の上のみを整え、横になる。
散らかった部屋は明日起きてからどうにかしよう。
明日の自分に丸投げして、重たい瞼を閉じた。
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