#8
「私は昔、プロのピアニストでした……。しかし、本当は自分で望んだ道ではなくて、たまたま習い事の講師に見込まれ、そのまま両親の意見に従ってピアニストになったのです」
ぽつりぽつりと話し出した柳田父さんは、遠い目をしながらステージに目を向ける。
ちょうど4組目の演奏が終わり、転換の為に柳田君がステージの上で楽器をいそいそと片付けていた。
彼が口にした話はとても意外だったが、僕は何も言わずに静かに耳を傾ける。
「確かに最初は楽しかったですよ、最初は、ね。がむしゃらに練習して、入賞して、また何かを目指して……でもね、人には限界があるんです」
微笑みに少しの苦さを加えたその笑顔は、どこと無く柳田君の影が浮かぶ。
「プロになってから、私は周りの期待と妬みを一身に受けました。……期待に応えられないと貶され、上手くいけば妬まれる……そんな日々を繰り返すうちに、ピアノが憎くて仕方なかった」
目元の皺が笑う度に深く刻まれると、僕は柳田父さんの苦労の鱗片を見る思いがした。
「……純粋に音楽を楽しめなくなった私は、奏者失格です……何とか話を付けて引退する日、私は清々しい気持ちで、久しぶりに心から楽しんでピアノを弾きました。でも──それが悪かった」
悩む様に頭を抑えた彼は、長い溜め息の後に繕った笑顔で僕を見据える。
「その引退コンサートに来ていた虎徹が……『ピアノをやりたい』って言い出したんです」
その一言に言葉を詰まらせた僕は、暫く固まってから、捻り出す様に「……お父さんの影響だったんですね」と答える。
「えぇ……私は猛反対しましたよ。私と同じ思いにさせたく無かったし、そもそも虎徹がプロデビューをしたら、きっと『親の七光』と色眼鏡で見られるでしょう?……せめて息子には、自分で好きな道を選んで欲しかった」
まるで子供が言い訳をする時みたいに矢継ぎ早に理由を並べた柳田父さんは、「……なんかすみません、こんな話」と恥ずかしそうに会釈する。
「これを言うと親バカだと思われるかもしれませんが、確かに虎徹は筋が良い。普通にいけばプロデビューも固くないでしょう……。でも、私を追いかるだけの理由では、あの苦痛には耐えられない」
自分と柳田君を重ねて語る彼の目には、虚な何かが存在した。まるで今でも苦しみ続けているかの様なその瞳は少し澱んでいる。
「ご存知かも知れませんが、私は妻と離婚しています。……『ピアニストになりたい』と言って聞かない息子と大喧嘩したのですが、初めてあんなに聞き分けの悪い虎徹を見ましたよ。……その後、妻と話し合って、苦渋の決断でしたが……もしも虎徹がプロを目指すなら、私は自分が積み上げてきた
歯痒そうに唇を噛みながら放たれた言葉は、途轍もない質量で僕の心を抉った。
「殆ど会話も無い私達親子ですが、数日前に珍しく私の元に虎徹がやって来たんですよ。……『目にモノを見せてやる』って、私に文化祭のチケットを寄越したんです……『卑屈ニキも闘ってるから、僕も逃げない』ってね」
「えっ?」
予想外の語りに驚いた僕は咄嗟に声を上げると、柳田父さんの顔を注視する。目を細めた彼が顔に浮べた言い知れぬ多幸感は、僕の心をじんわりと温めてゆく。
「今日の演奏……とても良かったです。いつも演奏している虎徹の顔は苦しそうでしたから、あんなに楽しそうにしているのを見るのは初めてです……きっと、君達なら、もっと大きな舞台でも輝けると思いますよ」
満足げな笑顔の柳田父さんは、「本当にありがとう……これからも虎徹を宜しく」と泣きそうな顔で頭を下げると、後ろから「螢先輩ー!」と呑気な声が聞こえた。
「卑屈ニキが戻らないから、殆どやること終わっちゃいましたー……って、うげッ!」
柳田君は柳田父さんの存在を認識すると、見事に顔を歪ませて「何でここに……っ」と硬直する。
その様子を全く意に介さない柳田父さんは、紳士らしく優雅に立ち上がると「では、私はこれにて」と微笑む。
「今日の演奏はコピーなんかじゃ無くて、ちゃんと気持ちが籠ってた……上手くなったな、虎徹」
頬が引き攣った柳田君は、隣を通り過ぎる時にサラリと言った柳田父さんの言葉に目を見開いて振り返る。
「……当ったり前だろッ!」
涙声の柳田君の言葉に、僕は鼻の奥がツンと痛くなった。
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