第4章 ヒドラ :4-6 宿敵

志村と田口は、都内の古びたアパートの前に静かに佇んでいた。住宅地の外れに位置し、老朽化した建物が密集する一角。そこにある一棟は、美咲が剛志を襲撃した事件で注目されたマンションの所有者が保有する複数の物件のひとつだった。コンクリートの外壁はひび割れ、鉄製の階段には赤錆がこびりついている。建物全体を覆うくすんだ灰色が、昼間でも周囲に重苦しい影を落としていた。


「こいつが持ってる物件、全部こういう空気してるな……」田口が周囲を見渡しながら呟いた。


「祭壇こそなかったが、構造的には十分“使える”。誰にも気づかれずに何かをやるには、もってこいの場所だ。」志村は視線を巡らせながら応じた。


この物件の所有者はすでに特定されていた。五十代半ばの男性で、職業不詳。目立った前科や資金の異常な流れは確認されていないが、近隣住民からは「人付き合いを避ける」「誰が出入りしているか分からない」といった証言が相次いでいた。事情聴取では、ヒドラ教団という言葉に対して明確な反応を見せず、「心当たりはない」と言葉を濁すばかり。儀式の痕跡を示しても「はぁ」と気の抜けたような返答しか返ってこなかった。その曖昧な態度がかえって、不気味な印象を強めていた。


確たる証拠こそないが、彼が教団に協力している可能性は高いと捜査班は見ていた。特に彼が周辺に複数の物件を所有しており、その一部には信者の集会所としての使用履歴が疑われる痕跡がある。現在、風間を中心とした別動班がそれらの物件を重点的に調査している。


警察が追っている手がかりは三つに集約されていた。そのひとつが、廃工場で拘束された紫のローブの男。自称「秋山」。だが、その名が偽名であることは明白だった。身元照会でも該当者はおらず、記録のない“空白の人物”だった。体型はやや小太りで、眼鏡をかけた平凡な中年男性である。


秋山は取り調べの大半で黙秘を貫き、美咲との関係や教団の内部構造については一切語らなかった。ただ一度、「鏑木」という名を聞いたときだけ反応を示し、「あぁ鏑木さん、知ってるよ。ヒヒッ」と口元に笑みを浮かべた。それ以上の情報は得られなかったが、その一言が意味するものは捨て置けなかった。


そして最も重要な手がかりが、鏑木良本人の存在である。過去に複数の詐欺事件に関与し、そのたびに法の目をすり抜けてきた男。彼の手口は、被害者の心理を巧みに操り、集団心理を利用して支配するというものだった。今回の事件でも、ヒドラ教団内部での実務指揮や儀式の遂行、資金調達、信者の勧誘に深く関与している可能性が高い。


田口が通りの向こうに目をやった。「……志村さん。あの男……」


志村も視線をそちらに向ける。縦のストライプ模様のスーツを着た男が、堂々とした足取りで歩いていた。背丈は平均的だが姿勢がよく、歩き方に無駄がない。周囲の空気を読んで動いているというよりも、すべてを支配しているかのような余裕と自信に満ちていた。その雰囲気は、志村の記憶に焼きついた鏑木そのものだった。


「……鏑木だ。」志村は低く確信をもってつぶやいた。


田口の目が見開かれる。「……とうとう見つけましたね。あの野郎。」


「応援を呼べ。追うぞ。」


田口はすぐに無線機を取り出し、小声で通信を入れた。「こちら田口。鏑木良と思われる男を発見。現在、我々の持ち場のアパート前道路を北上中。至急、応援を要請する。周囲に民間人は少ない。慎重に対応を。」


二人は一定の距離を保ちながら男の後を追った。鏑木はまるで気づいていないかのように振り返ることはなかったが、何度か立ち止まり、辺りを見渡すような動作を見せた。その様子は、むしろ“追われること”を前提にした演出のようにも思えた。


やがて鏑木は、古びた倉庫街の一角へと足を踏み入れる。かつて木材加工業者の資材置き場だったその一帯は、今ではひっそりと人気がなく、静けさが支配していた。


朽ちかけたフェンスを軽々とすり抜け、廃材が積み上げられた通路を歩いていく鏑木の背中を、志村と田口は慎重に追いかけた。二人は倉庫の外壁を回り込み、古びた鉄扉の前に立つ彼の姿を視認する。鏑木はそこで立ち止まり、何かを確認するようにわずかに首を傾けた。


志村と田口は互いに目を合わせ、無言で頷き合う。拳銃に手をかけ、注意深く倉庫へと近づいていった。このヒドラ教団に関連した危険な案件に対して、全捜査員には拳銃の携行が許可されている。足音を極力殺し、物音ひとつしない張り詰めた空間の中、ふたりの呼吸音だけが静かに響いていた。


鏑木は重そうな引き戸を開けて倉庫の中に消えていった。扉は開け放たれたまま、招くように口を開いている。


二人は慎重にその中へと足を踏み入れた。


志村の手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。拳銃を握る感触が、いつもより冷たく感じられる。足を踏み込むたびに、体の奥で鼓動が一つずつ大きく響く。田口もまた、肩越しに周囲を警戒しながら、低く息を吐いた。視界は悪く、倉庫内部の構造も不明。だが今ここで、彼を逃すわけにはいかなかった。


──そのときだった。


倉庫の奥、暗がりの中から聞き覚えのある声が響いた。


「お久しぶりです、志村さん。」


その声に、志村と田口は反射的に足を止めた。


薄暗い倉庫の奥から、ゆっくりと男が姿を現す。


「こうして直接お目にかかるのは……何年ぶりでしょうかね」


その顔──間違いなかった。鏑木良。


彼の口元には、すべてを見透かしている者のような、底知れぬ笑みが浮かんでいた。

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