第4章 ヒドラ :4-5 白い空間
白い静寂に包まれた空間だった。
天井から床まで、すべてが白。仕切りのほとんどは透明なガラスで、直線だけで構成された無機質な空間に、音というものは存在しなかった。空調すら感じさせない静謐な気配は、まるで時間そのものが凍りついたかのようだった。整いすぎたその空間には、逆に異質な違和感が漂っていた。
その中心にある制御卓の前に、ひとりの男が立っていた。
白衣に身を包み、無駄のない動作で端末を操作している──。
その目に宿るのは、技術者の集中というより、まるで実験動物を見つめる学者のような観察者の視線だった。その奥底には、ひた隠しにされた激情が、静かに燃えていた。
液晶モニターには、複雑な波形グラフや脳の断層映像が次々と映し出されている。刺激反応の推移、α波の偏差、ノイズの発生傾向、レム睡眠への移行速度……。いずれも医療や神経科学の領域で使われる高度なデータ群だったが、それに混じって一線を画す異様な映像が表示されていた。
形の定まらない人影、崩れ落ちる都市、炎に包まれた教会のような建造物、泣き叫ぶ群衆。意味をなさないはずのそれらの連続が、まるで誰かの潜在意識から漏れ出した幻のように、揺らめきながら画面を漂っていた。
彼はその映像を静かに見つめ、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「ふむ……また“マリス”が発生しているか。やれやれ、相変わらずだな……」
低く抑えたその声は、まるで過去の誰かに語りかけるかのようだった。無機質な装置への独白ではなく、どこか懐かしさを帯びた、心の中の対話だった。
彼の隣の卓上には、一枚の写真が飾られていた。アクリルフレームの中には、若き日の男と、その隣に立つ同年代の別の男の姿。二人は研究成果を手に、笑顔を浮かべている。背景には大学の研究室が映り込んでいた。
彼はそっと写真に視線を落とし、小さく呟いた。
「……君の理論は、正しかった。だが、彼らは受け入れなかった。笑いものにし、曲解し、捻じ曲げ、そして君を壊した」
その語調に怒りはなかった。ただ、長い年月を経て研ぎ澄まされた、冷たい憎悪と覚悟が滲んでいた。
「彼らは、自覚もなく世界を汚す。自分たちの正義を疑わず、他者を裁き、声高に他人を傷つけ、その責任は取らない。だが、それはやがて自分たちに返ってくる」
彼は再びモニターに向き直り、キーボードに指を滑らせて次の操作に入った。複数のウィンドウが開き、数列とグラフが一斉に動き出す。
彼の目は冷たく鋭かった。その奥には、復讐心とともに、どこか諦念にも似た感情が漂っていた。親友を壊したのは特定の誰かではない。そうでない人々もまた、無自覚に誰かを壊している──彼にはそれが理解できていた。
「……出力を上げよう」
短く呟き、彼は装置のインジケーターに手を伸ばし、操作を加えた。
次の瞬間、制御卓の警告ランプが一斉に点滅を始める。モニターには赤いエラーラインが走り、機械的な警告音が鋭く空間を切り裂く。
そして、
空間全体に、“人の声のようで人ではない”、耳を刺すようなノイズが鳴り響いた。それは誰かの叫びのようでもあり、複数の言語が重なり合ったような、無意味で不協和な咆哮だった。
数秒の沈黙。
そして──画面は、ブラックアウトした。
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