第4章 ヒドラ :4-1 失われた命
剛志と彩音は、屋上から身を投げた美咲の元へ駆けつけた。彼女は地面に倒れたまま微動だにせず、冷たい沈黙が周囲を支配していた。剛志は荒い息を整えながら、美咲の顔を覗き込み、手首に指を当てた。しかし、脈は感じられなかった。
「美咲…。」
剛志の拳が震える。隣で彩音も沈黙のまま、美咲の顔を見つめていた。彼女は唇を噛みしめ、うっすらと涙を浮かべている。
しばらくすると、遠くから足音が近づいてきた。丸眼鏡をかけた男が駆け寄り、美咲の遺体を一瞥すると、すぐに無線を手に取った。廃工場に突入してきた刑事たちの一人だった。
「こちら田口、おそらく御堂美咲を発見しました。至急、応援を要請する。」
無線を終えた田口は、剛志と彩音の無事を確認し、安堵の表情を浮かべた。
「宮崎さん、西園寺さん、無事でよかった。あんたたちが最初に駆けつけたのか?」
剛志はわずかに頷き、「ああ…でも遅かった。美咲は…。」と声を詰まらせた。
田口は美咲の遺体に静かに息を吐き、「志村さんがもうすぐ到着する。詳しい話はその時にお願いできるか?まずは現場の状況を整理したい。」と語った。
彩音が小さく息を吐き、「分かりました。」と答えた。剛志も静かに頷き、警察の動きを待った。
数分後、パトカーのサイレンが近づき、捜査班が次々と現場に到着した。青いライトが点滅し、周囲が騒然とする。ほどなくしてリーダー風の男が姿を現し、状況を確認すると、剛志と彩音に向かって声をかけた。
「宮崎さん、西園寺さん、少し話せますか?」
彼の隣には女性の刑事が立ち、現場の記録を取っていた。
「私は警視庁捜査一課の志村誠だ。今回の事件の担当をしている。」
剛志は廃工場で警察が突入してきたときから抱いていた疑問を問いかけた。「なぜ警察がここに?」
志村は軽く眉を上げ、「久保田探偵事務所からの情報提供があったんだ。」と答えた。「久保田先輩とは昔、警察で一緒に働いていた。俺の先輩だったんだよ。」
「そうだったんですか?」彩音が驚いた表情を見せる。
「ああ。彼女から連絡があり、宮崎翔太くんの件で君たちが廃工場に行きついたと聞いてな。そこで、我々も突入を決行したというわけだ。」
「しかし、そこで捕まえたのは一人のローブの男だけ。宮崎さんが拉致された行方を追って、ここにたどり着いたとき、彼女は…」
剛志は歯を食いしばり、美咲との最後の会話を思い返した。頭の中が混乱し、感情の整理がつかない。翔太を殺した犯人が、美咲だった。それは信じがたい事実だった。かつての彼女からは想像もつかない。あの穏やかで、翔太を心から大切にしていたはずの美咲が…なぜ…。そして、彼女は自分をも儀式の対象にしようとしていた。あの目を見た瞬間、すべてが覆った。信じていたものが崩れ落ち、現実の厳しさだけが残る。
「俺たちを欺いていたんだ…。彼女は教団の一員だった。そして…翔太を…。」
剛志の言葉に、彩音も表情を曇らせる。
「美咲さんは『ヒドラ』というカルト組織に属していました。彼女は翔太を“救済”したと言っていました。」
「ヒドラ…。」志村はメモを取りながら考え込む。「それが、この事件の核心ということか。」
剛志はさらに、美咲が語っていたことを共有した。彼女が儀式を通じて人々を救済しようとしていたこと。そして、鬼塚や鏑木という人物が彼女を教団へ引き込んだこと。鏑木の名前を出したとき、志村は一瞬眉根を寄せた。
「これ以上のことは、これから調査しなければ分かりません。」剛志は聖典を警察に提出することはしなかった。ここまで来たのだ。警察に引き渡すにしても一度は自分たちで内容を精査したかった。
剛志は自分が監禁されていたマンションの一室の場所を伝えた。もしかしたら黒いローブの人物がまだ残っているかもしれない。最悪でもその物件の情報からヒドラ教団とのつながりが追えるだろう。
「分かった。我々は引き続き、事件の全容を追う。宮崎さん、西園寺さん、これ以上の独自調査は控えてもらえますか?」
剛志は一瞬、警告の意図を測りかねたが、すぐに理解した。警察はこれ以上の深入りをさせたくないのだろう。しかし、翔太の死、美咲の裏切り、そして自分が標的になっていた事実が剛志の心をざわつかせる。このまま手を引くわけにはいかない。
「分かりました。」
そう答えたものの、その口調にはどこか曖昧さが滲んでいた。横で彩音も軽く頷きながら、「はい」と添えたが、その目には探偵としての決意が宿っていた。
剛志と彩音は警察に一礼し、探偵事務所へと戻るために歩き出した。二人は、事件はこれで終わりではないという確信を抱いていた。
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