二(後)

「ああ、よく来てくれたな」

 がらんと広い部屋に、待っていたのは田伏だった。どうやらこの会議室のようなところを、楽屋代わりに使っているらしい。

「失礼しますー」

 小森はそんなことを言いながら、堂々と楽屋の中に入っていってしまった。どういう心臓の構造をしてるんだ、こいつは。僕が楽屋の前でどうしたものかとためらっていると、田伏はこちらを見、

「入りなよ。今日は来てくれてありがとうな」

 と僕に言った。田伏はライブTシャツに着替えており、襟口をぐいと持ち上げて顎の汗を拭った。部屋に入っていく田伏に僕は言う。

「今日のライブ、すごく良かった。ライブってもの自体初めてだったんだけど、感動しちゃった」

「はは、サンキューな。良かったよ、楽しんでもらえて」

 話しながら不安になる。そもそも田伏は僕が誰だか、ちゃんと認識して話しているのだろうか。よくいるファンの一人とでも思われているのではないか。そもそも、僕と田伏の間にはほとんど何の接点もなかったのだし。僕は、そう思っていた。

 田伏が長机の上に置かれたリュックを漁ると、一冊の本を取り出した。

 あ。

「これ、覚えてる?」

 田伏が言う。その本は、三島由紀夫の『金閣寺』の文庫本だった。僕はそれを見て思い出した。僕と田伏の間にあった、か細い、一度きりの接点。

「……覚えてる、覚えてるよ」

 田伏が嬉しそうに目を細めた。

「良かった。野見に言われてこの本、すごい読み込んだんだ」

 そう、あれは確か暑い日の放課後のことだ。いつものように教室に残って本を読んでいた僕に、田伏が突然話しかけてきたのだ。

『野見くんって、小説書いてるんでしょう?』

 田伏は遠慮がちに、目を合わせずに僕にそう聞いた。そのときには僕はもう賞を獲ったことが大勢に知られていたので、

『ああ、うん』

 と答える。

『あのさ、俺、ギターやってるんだ』

『へえ、かっこいいね』

 その時の僕は、彼がこんなふうになるなんて、思ってもいなかった。

『それで、最近バンドを組んだんだけど、作詞しろって言われてて』

『そりゃあ大変だ』

『それでさ、俺普段全然本とか読まないから、何か参考になるような、面白い本があれば教えて欲しいなって』

 そう、僕はそう問われて、しばらく悩んで三島由紀夫はどうだろうと提案したのだ。三島由紀夫の日本語表現は難解だが同時に美しく勉強になるし、内容的にも楽しめるものではないかとその時の僕には思われた。

「あのとき、すごく真剣に考えてくれただろう?」

「そう、だったっけ」

「ほとんど話したことのない俺相手に。それがすごく嬉しかったんだ」

 そう言いながら、『金閣寺』の縁を指でなぞる。僕はといえば、少し動揺していた。あんなボロボロになるまで本を読み込んだこと、僕にあっただろうか? 僕は今日のライブを見て、彼のことを無意識に『天才』だと片付けようとしていたように思う。だけど違うんだ、彼はきっと……。

「大丈夫か?」

 田伏が少し体を曲げて僕の顔を覗き込んでいた。

「あ、ああ、ごめん」

「それで、野見の小説も読んだよ」

 心臓が、いきなり大きく鳴った気がした。頭が真っ白になったように思う。思わず口が動いた。

 感想を聞くのが怖いと思った。

 そう思うのは、初めてのことだった。僕は、この男に批評されるのが恐ろしかった。何か否定的なことを言われたら、とてつもないダメージを負ってしまいそうだ。

「ごめん、その話は、ちょっと」

 そう僕が強めに彼の話を遮ると、田伏はそれだけで察したようだった。

「あ、ごめん、うん……」

 流れていた気まずい沈黙を破ったのは、またもや小森だった。

「二人とも、そんなとこ突っ立ってないでこっち来いよ」

 そう言い、バンドメンバーの中に混じってこちらに手招きする。溶け込み具合が半端じゃなくて、改めてこの男の恐ろしさを感じた気がした。僕は寒々しい思いをしながら小森のところへと歩いて行った。

「えーと、ギターの橋本。ベースの稲生さん。それにドラムの後藤さん」

 田伏が俺にバンドメンバーを紹介する。年齢を聞くと、橋本さんは同い年の二十六歳。稲生さんは三十二歳、後藤さんは二十七歳とのことだった。元が学生バンドだったと聞いていたので、稲生さんの離れた年齢には驚いたが、どうやら、数度のメンバーチェンジをしているらしい。

「知り合いのバンドのつてだとかで、人を紹介してもらって、って感じかな。実際、何回も解散しそうになったんだよ」

 そんなことを、田伏は笑って話す。今が充実しているからこそ言えることなのだろうと僕は思った。口元に笑みを浮かべながらそれを聞いているメンバーとの間にも、確かな信頼関係があるように思えた。

 僕は、羨ましいと思った。彼らのその独特な紐帯を。確かに彼らを結びつけている太い糸を。そこには例えば友人とも、恋人とも家族とも違うつながりがあった。ともに表現活動をすることでしか得られないつながり。それに対して、僕は孤独だった。僕はいつも一人きりで小説を書き、一人きりでその批評を受け入れてきた。小説が売れなければそれは他の誰でもない僕だけの責任だったし、例えば僕の小説が何か賞をとったとしても喜びを真に分かち合える存在はいなかった。

「野見? どうかしたか?」

 眉間に皺でも寄っていたのだろうか、田伏が心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。

「いや、……なんでも、ないよ」

 その後、打ち上げにまで誘われてしまった僕らは、行く気満々の小森を無理やり引っ張って会場を後にした。


「なんで行かなかったんだよ、打ち上げ」

 小森は不満そうだ。

「なんでって……完全に部外者だろ。行ったら迷惑だよ。ていうかよく行く気になれるな」

「ああいう社交辞令を真に受けると、案外いいことあるんだぜ」

 にしし、と小森は笑いながら言う。本当にそうなのだろうか? だとしたら僕は今まで、どれだけのチャンスを棒に振って来たのだろう。

「なんでもさ、自分から動くのは難しいけど、向こうから誘われたときくらいバカ正直に乗っかるのも悪くないと、俺は思うよ」

 小森は今度は真面目な顔で念を押す。

「そういうもんかねえ」

「そういうもんだ」

 そう言う子守が、いつになく頼りになるように思えた。

 家にたどり着いた僕は、いつものように机に向かって、いつものように出てこない小説のネタをひりだそうとしていた。部屋は静かだった。まだ、耳の奥にあの音が残っているような気がした。その音が、静かな部屋の中に、電話のバイブレーションの音のように響いている。あの音楽がまた聴きたい。そう思った。また、浴びるようにあの音を聴きたい。そう言えば、『剣と鞘』のアルバムをパソコンに取り込んだことを思い出す。僕は音楽ソフトを立ち上げ、夜中なのでイヤホンをつけると、再生ボタンをクリックする。

 また、田伏の声が聴こえる。

 太く逞しく、どこか憂いを帯びたあの声。どんなに爽やかな曲でも、その声が歌うとどこか哀愁がある。そのちぐはぐさが一種の魅力なのだと僕は分かった。だからこそ、あえて駆け抜けるような曲が多いのだろう。これがバラードだと『正直』すぎる。僕は腕を組んで目を閉じながら、曲にじっと集中していた。

 僕はあのバンドメンバーの笑顔を思い出す。そしてなぜか、強く、こう思った。

 小説が書きたい。

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