一(後)
結局その日そのまま、最終の新幹線で地元に帰ることになってしまった。僕はあらかじめ家族に連絡を入れ、これから帰ると告げる。帰省は、本当に久しぶりだった。何か言われるかと思ったけれど拒絶されることもなく、僕は家に迎え入れられた。
久しぶりに帰った実家は、もう電気も消えて真っ暗だった。しかし、ぱっと見た様子は相変わらずで、特に何か変わったこともないようだったが、部屋の中には見慣れない段ボールがいくつか積まれていた。どうやら僕の部屋は物置がわりになっているらしい。それも当然か、と思い侵食の始まっていたベッドの上の段ボールをどかして眠る。
翌日、小森からの電話で目を覚ました。
『お、起きたか』
僕は眼を擦りながらベッドの上に座る。一瞬自分がどこにいるのかわからなくなって、そうだ、実家に帰ってきたんだ、と思う。
『じゃあ、今日はちゃんと来いよ。っていうか俺が迎えに行くから、な』
通話の切れた電話をベッドの上に放り出して、僕は一階の食卓に降りた。
父親がそこに、新聞を読みながら座っていた。
「おお、早いな」
そう声をかけてくる。
「うん、友達に起こされた」
「小森くんか?」
僕は頬をポリポリと掻いて、そう、とだけ答える。
母親が椅子に座った僕の前に目玉焼きとトーストを運んでくる。僕はしばらく、それを無言で食べた。そしてちゃんと言わなければと思い、食べかけのトーストを皿に置くと言う。
「父さん、その……仕送り、いつもありがとう」
「ん」
父も同じようにトーストをかじる。新聞で顔が隠れて見えない。僕は沈黙に耐えかねてまたトーストを食べた。いつの間にか父親が新聞を机に置いてこちらを見つめていた。
「何」
言うと、
「そろそろ戻ってきたらどうだ、こっちに」
そう告げた。
「前も言ったが、小説なら、こっちでも書けるだろう。それにこっちなら、父さんが仕事を何か紹介してやれるかもしれない」
どうしたって、この話になってしまうのだ。だから、帰ってきたくなかった。父親に、本当は小説と仕事のどっちをとって欲しいと思っているの、と訊く勇気は、僕の中にはもう無かった。僕は八年近く費やして、売れない本を三冊出しただけの――作家、でもなんでもないただの穀潰しなのだから。そろそろ限界かもしれないと思っているのも事実だったし、これ以上親に負担をかけたくないとも思っていた。だけど同時に、僕は僕を諦めたくないと思っていた――しかし、それはもう、矜恃でもなんでもなく、ただの意地だった。
僕は父の顔を見た。前よりも皺の濃くなった父の顔を。その皺の原因の一つが僕なのだと思うと胸が痛んだ。しかし僕は、
「もう少しだけ、頑張ってみようと思ってるんだ」
と、やはり諦めの悪いことを口にする。父親は目を落とし、
「そうか」
と言っただけだった。
夕方になって、小森が家のチャイムを押した。僕たちは同窓会の会場へと向かった。
「まあさ、合コンとは違うけど、こういうところの方が却って出会いの場があるって言うじゃん? もともと知ってる人だからお互い気も楽だしさ」
そんなことを小森が喋る。僕たちは会場に到着した。それは飲み屋だった。同窓会はクラス単位の規模の小さいものだった。飲み屋の一角の開けたスペースを借りて行われていた。
「あ、小森くん遅いー」
さっそくそんな声がかかる。久しぶりにコミュニケートを取る、女子という生物。大学の時の同級生とは大違いで、みんな、大人の女性になっている。僕が若干気後れしていると、
「まあまあ、もう一人参加者連れてきてやったから」
ほら! と小森が俺の手を引く。そこにいた人がしばらく沈黙し、やがて、
「え、野見くん?」
と僕の名を呼んだ。
「久しぶり……」
僕が言うと、会場が色めき立つ。
「あー野見くんだー!」「久しぶりぃ」「元気だったー?」
皆の明るい態度を見ていると、来てよかったな、と思った。
「野見くん相変わらず小説書いてるの?」
そう聞かれ、一瞬固まりつつも、
「あ、うん、まあ、ぼちぼち」
と答える。
「えーすごいー」
そう言いにこにこと僕に笑いかけた女子は、
「そういえば田伏は来ねえのかな」という声に、
「田伏くん来て欲しい!」と向こうの会話へ行ってしまった。
――田伏?
僕はクラスのメンバーを思い出す。田伏、田伏、居たのは間違いないけれど、どんな人だったのか思い出せない。どうして皆、急に田伏の話をしているんだろう。
「お前さ、田伏って覚えてる?」
横にいる小森に訊いた。
「正直、高校のときどういうやつだったかはほとんど」
「じゃあ、なんで皆あんなに田伏の話してるんだ?」
「それは――」
小森は若干口籠った。しかしやがて言った。
「田伏が、有名人だからだろ」
「有名人?」
「え? お前知らないの? バンドのボーカルだよ」
バンドのボーカル。そう言われてようやく、当時街ですれ違った田伏がギターバッグを背負っていたり、授業中にコードを抑える指遣いをしていたことを思い出した。
田伏、――下の名前は、何と言ったか。思い出そうとすると、案外すぐにその名前を思い出した。そうだ、剣だ。格好いい名前だから、まるでラノベの主人公みたいだなと思ったことを覚えている。
僕は酒を片手にスマートフォンを取り出して、『田伏剣』と検索する。
一番上に、ウィキペディアが表示された。『剣と鞘』というのが、そのバンド名だろうか。それをタップすると、ぞぞっと情報が表示される。僕はそれに圧倒されながら、画面をスクロールした。『来歴』の項目。
『ボーカル・田伏の大学在学中にバンドを結成。結成三年目にインディーズでデビュー。四枚のシングルと一枚のミニアルバム、一枚のアルバムを発売。更に二年後にメジャーデビュー。メジャーデビューアルバム「sword」はオリコン初登場六位を記録。深夜ドラマの主題歌などを務め、着実に人気・実力を身に着ける期待のバンドである』。
メンバーの項目には、田伏剣としっかり名前が載っていた。すべてのシングルで作詞を務め、ほとんどの曲の作曲をしているということ。出身大学や影響を受けた音楽や好きなバンドの記載、さらに好きな食べ物まで出典付きで載っていた。ディスコグラフィの項目もとても充実している。
僕は思わず、自分のウィキペディアのページにアクセスした。そこには、デビュー作のタイトルと、当時最年少受賞だったということがちんまりと書かれていた。あの賞の候補になった次の作品は、タイトルだけは一応載っていたが、今のところの最新作は更新されてもいない。『剣と鞘』のページとは大違いだ、と僕は思う。
僕はため息をついてスマホの画面を暗くした。そこに自分の顔が反射する。僕はじっと、その顔を見つめ続けていた。
「どうしたんだよ、修保」
小森が話しかけてくる。
「いや、なんでもな――」
返事をしかけたその時、会場の扉が開いて、一人の青年が部屋に踏み込んできた。
大きい男だった。筋肉質というのとも、太っているというのとも違う、純粋に『大きい』男。それは、強烈な存在感があるということなのかもしれなかった。その男が、ぬうと室内に踏み込んだ。僕はすぐに理解した。こいつが、田伏剣だ。
高校の時とは、随分違った印象だった。高校の時も確かにこの男は体が大きかったが、もっと存在感を殺していた気がする。
「あ、田伏くん!」
すぐに女子数名が田伏に気付き、蟻のように群がる。あっという間にそこに人だかりができて、田伏はその場の中心になった。
「すげぇなあ、田伏は」
小森は余っているサラダを皿に盛りながら、まるで他人事のように言う。色めき立っているのは女性陣だけでは無かった。男性陣もまた、田伏と少しでも接点を持とうともがいているのが分かる。かく言う僕は、皿の上の食べかけの唐揚げが冷めていくまま、遠くから田伏を見つめていた。
その、盛り上がる皆の姿を見ていて、僕は不思議と高校時代の、あの日のことを思い出していた。新人賞の受賞連絡はもっと前に貰っていたけれど、情報が解禁になったあの日のこと。クラスメイトたちからメールがありえないほど届き、学校についた僕に対してのクラスメイトたちの暖かな歓迎。人だかりの中の田伏を見て思う。僕は昔、あそこに立っていたんだ。
まるで冗談みたいな話だ。
僕は唐揚げを結局食べきらないまま、机の上に皿を置き、会費をその下に挟み込ませると会場を後にした。去り際、一瞬だけ田伏と目があった気がしたが、きっと気のせいだろう。
「ちょ、修保、帰んのかよ」
後ろから小森が追いかけてくる。僕は振り返らずに歩き続けた。小森が隣に並ぶ。
「どうしたんだよ」
「別に。これ以上あそこにいてもなぁって」
「あー……」
小森は僕の言いたいことを察しぽりぽりと頬をかいた。
「田伏のこと、知ってたなら教えてくれれば良かったのに」
「いや、まさか来るとは思わなかったんだよ。……本当! 本当に!」
多分、そこに嘘はないのだろう。相手のあの有名っぷりを見れば、逆になぜ今更同窓会に来たのだろうと不思議に思えるほどだ。
「っていうかお前本当に知らなかったのか? 田伏のこと」
「うん、知らなかった。あんま音楽聴かないし」
「まあ、あいつらもそこまですげえ有名って訳でも無いからなあ……あー俺も、有名人になりたい」
小森のその言葉が、僕の心をささくれ立たせた。
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