それだけで世界は輝く

数田朗

一(前)

 ぴ、という聞こえないほど微かな音と共に、端末の画面にアルファベットと数字が表示される。僕はそれを確認してから顔を上げ、緑色のカートを押して表示された棚番号の場所へと向かう。

 箱に入った文房具たちが、雑然と置かれた棚。僕は指定された段を一つ一つ確認して、画面に表示された品番の商品を探す。しばらく指を宙にさ迷わせていると、やがてそれは見つかった。僕は箱を開け商品を三つ取り出してカートに放り込むと、タッチパネルを操作した。再び、ぴ、という音とともに品番が表示される。僕はまたカートを押して次の商品を探しにいく。

 単純な、誰でもできる労働。僕はこのピッキングした商品が、どこに送られるかも知らない。先ほど取り出したカッターナイフは、一体誰の元に届くのだろう。そんなことを考えていてもしょうがない。僕は何度も、指定された商品を取りに倉庫を往来する。

 そんなことを繰り返すうち、いつの間にか時間は過ぎ、終業のベルが鳴り響いた。僕は頭上注意と書かれた階段を、頭をかがめて降り、今日の就業証明書に現場監督のサインをもらう。ロッカーから荷物を取り出して帰路に着く。他の人たちと会話はない。もう何度かこの現場で一緒に仕事をしたことのある人もいたけれど、僕も相手も、わざわざ相手に話しかけることなどしない。

 僕は数日分溜まった就業証明書を、新宿の事務所で給料に替えてもらうと、そのまま待ち合わせの場所へと向かった。

 秋も深まったこんな季節だというのに、その男は半袖で僕に呼び掛けた。

修保しゅうほ!」

 僕は見ているだけで肌寒く感じるその男に手を振り返す。

「久しぶり」

「おう、久しぶり。じゃ、行こうか」

 挨拶もそこそこに、男は飲み屋へと歩き出す。向かう先はチェーン店の、安い居酒屋だ。僕らはたびたびそこで飲んでいた。僕は高校でも、大学でも、友人はそれなりにいたけれど、長続きする関係というものをどうにも築き上げられないでいた。そんな中、この小森という男だけとは、なぜか高校から関係が続いていた。小森は背が低いので、前を歩いていると丸い後頭部がよく見える。その後頭部が歩みに合わせて上下にリズミカルに揺れるのを、僕はなんとなく見つめていた。

 居酒屋は混雑していた。小森は予約をしていたらしく、僕たちはスムーズに席に案内される。二人用の狭苦しい席だ。しかし、文句は言えない。

「ったく、相変わらずシケたツラしてんなあ」

 小森がタッチパネルで次々料理を注文しながら毒づく。

「良いことなんて何にもないって、顔に書いてあるぜ」

 僕はさすがにむっとして、

「そういう小森はどうなんだよ」

「あ? 俺? 俺はなー、まあ、まあかな」

「なんだよそれ」

 そんな話をしていると、料理が運ばれてくる。シーザーサラダ、卵焼き、焼き鳥の盛り合わせ、餃子。シーザーサラダを取り分けながら、小森はいつものように訊いてきた。

「で、作家先生! 実際どうなのよ、調子は」

「だから、やめろよなその呼び方。……まあ、相変わらず」

「ダメってことか」

「うるっせぇな」

「一体さ、何にそんなに引っかかっちゃってるわけ? この前会ったときお前、もうすぐいい感じになりそうって言ってたじゃん」

「あれは、全部ボツ」

 小森は焼き鳥を串から剥いでいた手を止め、僕の方をまじまじと見た。ため息をつき、

「モッタイナイ、モッタイナイ」

 と片言で話す。

「もったいなくたってさ、ダメなもんはダメなんだよ。書いてて分かるんだ、このままじゃロクなもんにならないぞってくらいは」

「どうしてそんな風になっちゃったかねえ」

 そう嘆く小森を見ながら、本当に、どうしてこんな風になってしまったのだろうと思う。

 そもそも、ことの発端だって小森だったのだ。高校で親しくなった僕たちは、確か、何かのゲームの賭けで、互いの秘密を一つ暴露するとしたのだったと思う。結局そのゲームに僕は負け、僕はそのとき誰にも言っていなかった、趣味での小説の執筆を暴露したのだ。小森はそれを聞き、そんなのは秘密でも何でもなくお前を見ていれば分かることだ、と言った。だから、本当に秘密を暴露するというのなら、その小説を読ませてくれよ、と。僕は仕方なく、小森に小説を読ませた。今まで自分が書いた中で一番の自信作を。

 人に小説を読ませるのは初めてだった。小森が僕の書いた小説を真剣に読む横顔を見ていると、むずむずした気持ちになった。その複雑に思えた感情が、名付けるとするとただ『喜び』なのだと気付くのに時間が掛かった。僕は初めて理解した。僕は、自分の小説を誰かに読んで欲しかったのだ。

「……すごいよ」

 読み終わった小森が言う。

「すごいよこれ! めっちゃ良い!」

 小森は興奮しながら僕をおだてあげた。いわく、こんな作品は読んだことがない、この作品は素晴らしい、この作品を俺以外の誰にも読ませないのはあまりにもったいない、など、など。そうやって小森に乗せられた僕は、小森の言うがままに、その小説を新人賞に応募することにしたのである。

 結局、その小説が新人賞を受賞した。その新人賞の最年少受賞だった。

 それによって、少しだけ僕の生活が泡立った。新聞社から高校を通して取材が何件か来た。雑誌の企画で有名な作家と対談もした。高校で有名人になった。地元の本屋にサインもしに行った。

 一番は、その作品が日本で一番有名なあの賞の候補作になったときである。まだ若かった僕の作品がその賞の候補になったことは話題になった。結局受賞はできなかったけれども、僕にとってそれは執筆の励みになった。

 しかし、僕は二作目がなかなか出せなかった。振り返れば、あの賞にふさわしいものを、と気張りすぎていたような気がする。結局二作目が出たのは、大学三年生のとき。周りが就職活動をそろそろ始めようかという頃だった。僕は就活をするべきなのか迷った。二作目もあの賞の候補になったからだ。最終的に、僕は執筆に専念する道を選んだ。そして、僕の二度目の候補も、結局落選に終わった。

 そして、僕は日雇い労働をしながら実家「からの」仕送りをもらって生活している。三作目を数年前になんとか雑誌に載せてもらったが、その作品はなんの賞レースに絡むこともなく、本屋にひっそりと並んだだけ。発行部数も下がる一方で、もはや、自分がなんなのか分からなくなっていた。

 僕は小森に聞いた。

「本当に、僕はまだ作家なのか?」

 小森は届いた焼き鳥を箸で串から解体しながら答える。

「別に、二年くらい新作が出ないことなんて、あの業界じゃ珍しいことでもないだろう?」

「それは売れっ子の場合だよ。僕みたいな弱小に弱小を重ねた作家は、二年も出さなきゃ誰も覚えてない」

「でも、なんだかんだ三作目まで出せたんだから、好きな奴もいるんだろうよ」

「だけど――」

「どうにもならないことぐちゃぐちゃ考えてる暇があったら、さっさと小説書けよな」

 ぴしゃりと、小森が言う。その手のグラスはもうほとんど空になっていた。

「お前の小説は、面白い。すごくよくできている。それは俺が保証するよ。まあ別に、お前も俺に保証されてもって感じだろうけどさ……」

 そう言い、グラスの残りの酒を喉を動かして飲み干した。ぷは、と浅い呼吸をすると続ける。

「でも、お前の作品は売れてない。それは確かだ。きっと、あんまりぱっとしないからだと思う」

 そう小森に言われても、僕は怒ることができなかった。僕の作品は、自分でも分かるほどぱっとしない、そう、あまりにもぱっとしない。

「俺が思うにさ、お前の作品のぱっとしなさっていうのは、お前の女っ気の無さに起因してるんじゃないかって思うわけ」

 小森が肘をつき焼き鳥の串の先を僕に向ける。

「女っ気って……」

 そんな、飲む買う打つ、みたいな昭和の文豪あたりの理論を今更言われても。しかし、小森は酒がまわったのか、もう目が据わり始めていた。

「お前、最後に彼女いたの、いつだよ?」

「大学のとき」

 小森はやれやれという風に首を振る。

「それじゃダメだ、全然ダメ、ダメダメだ」

 僕はさすがにかちんと来て、言い返そうと思った。すると小森は僕の目の前に掌を出してそれを制した。そして言う。

「だから! いい話持ってきたぞ」

 そして、小森はスマートフォンの画面を僕に見せた。青色の、僕には馴染みのないフェイスブックの画面だ。そこには、僕たちが出た高校の名前と、同窓会の文字が書かれている。

「同窓会?」

「そう、高校の。俺ら卒業してだいぶ経つだろ? そろそろやろうぜって話になって」

 同窓会。同窓会ね。

「うん、行かない」

「なんでだよ! いいタイミングじゃないか! 彼女、作ろうぜ!」

「だって俺、ちゃんとした仕事、してないし……。さすがに、行きづらいよ」

「大丈夫だって。高校のやつらは皆、お前のこと作家として認識してるから」

「いや、さすがにもう忘れられてるんじゃないの?」

「覚えてるって。テレビが来ただの新聞が来ただの、大騒ぎだったんだから。皆お前のことはちゃんと作家だと思ってるよ」

「ホントかよ……」

「ホントホント。間違いないって」

 顔を赤らめた小森はへらへらと言う。だんだんこいつが信用できなくなってきた。それでも僕は訊く。

「で、その同窓会っていつなんだよ」

 小森はにっこりと笑う。

「明日!」

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