第19話 シャチとベルーガと龍

 午後八時頃、隣の部屋から愛龍の唸る声が聞こえる。何か寝苦しそう。「鯱君、鯱君……」と彼女のベッドで抱き枕になっている鯱のぬいぐるみの名前を呼んでいた。


 案外可愛いものが好きで寂しがり屋な一面のある彼女は会長よりも父親の方に懐いていた。

 僕も愛龍の父に小学生低学年のころ会った覚えがある。「よく来たな! 女を守れるくらい強くしてやる!」と何とも豪快な人だった。

 だが、彼はすでにこの世にいない。会長を妻にしてしまえるほどの強者で、当たり前のようにあと一歩で世界の頂点までたどり着きそうだった。だが暴走族か、ヤクザか、不良たちか、そう言った輩が愛龍の父を撲殺した。

 集団暴行……。主犯は昔、愛龍の父にボコボコにされた学校の同級生だと報道されていた。

 犯人たちに怪我した者は一人もいなかった。

 愛龍の父が他の人の顔を殴れば大怪我じゃすまなかっただろう。つまり、愛龍の父は襲われてなお、手を一切出さなかったのだ。そんな事件があってから、愛龍は時おり寝苦しそうにする。会長から、僕が愛龍の近くにいてくれてよかったと葬式の時に言われた。


 ――愛龍はきっと今も辛い思いをしているんだろうな……。僕はお父さんの代わりになれないけど、家族として支えてあげないと。


 愛龍の唸り声は濁音混じりになり、少し熱くなっている。どれだけ苦しいんだろう。全戦全勝と言うバカ強い愛龍でも普段は普通の女の子なのだ。

 一六歳になった今でも父の姿を思い出してしまうのかもしれない。そう思うと、少し涙が出そうになった。

 はぁ、はぁ、はぁ……と息苦しそうな声。また、んっ……、というような息がつまる声。愛龍の泣き顔なんて想像したくない。

 もう、散々見て来たから。

 棺桶の近くで泣きわめいていたのが昨日のように思い出せる。会長が僕たちに不良とつるまないでほしいと言う背景は実の夫の事件が関係している。

 将来、僕たちも恨みを買って誰かに殺されるかもしれないと会長は泣きながらに説教してきた。僕は止めたが、万亀雄は止めていない。「誰かがやらないと他の奴らが困るだろ……」と言うのが、万亀雄の主張だ。


「愛龍、会長……、僕は死んだりしない。安心してほしい……。これからも健全にボクシングに打ち込むんだ……」


 午前二時に新聞配達を始め、午前五時から六時頃まで桃澤さんとランニング。ジムに戻って午前七時まで朝練。卯花さんが作った朝食を食堂で得る。

 六月が近づいて来て少しじめっとしてきた空気が窓から食堂に入り込んでくる。


「ねえ、成虎……。最近さ、芽生とばかりいっしょにいるじゃん。なんで?」


 朝、一緒に練習していた愛龍が僕に話しかけてきた。いつものちょっとした疑問を解消したいような表情ではなく、もう、ずっと悩んできたかのような深刻そうな表情で。


「なんでと言われても、隣の席だし……」


「朝のランニングの時、芽生の家に寄り道してるでしょ……。芽生に教えてもらった。声を出すために毎朝ランニングに付き合ってくれてるって」


「そうなんだ。でも、その通りだよ」


「べ、別に、成虎が芽生の家にまで行って手伝わなくてもいいじゃん。成虎の朝練の一時間がぬるい練習になっちゃってる。本当は午前五時から朝練なんだよ。ほぼサボりじゃん」


 愛龍は事実を言っていた。

 確かに、桃澤さんと一時間いても僕の練習にあまりならない。県大会を目指すと言った手前、本気でボクシングをしている愛龍からしたらサボっていると思われても仕方ない。


「……確かに愛龍の言う通りかもしれない。でも、その一時間を確保するために新聞配達を全力で取り組んでる。ほぼ三時間走りっぱなしだから、体力はついているよ。ただの言訳かもしれないけど、桃澤さんと一緒に走っている時間はとても大切な時間なんだ」


「なに……、芽生のことが好きなの……?」


 愛龍は少々怖い顔で僕に聞いてくる。品定め……、出方を窺っている、そんな顔だった。


「わからない。僕、ボクシングばかりで愛龍以外の女子とあまり拘わって来なかったから、相手を好きになる気持ちが良くわからないんだ。でも、桃澤さんを応援したいと言う気持ちが大きい。どうしても声を取り戻させてあげたい。それだけだよ」


「はぁ……、私も同じ気持ち。芽生と成虎が一緒にいるともやもやするけど、芽生の声を取り戻してあげたいっていう気持ちは成虎と一緒だよ。だから、私にも手伝わせて。二人でこそこそされていると、すーっごく、もやもやするの。私は芽生の親友なんだもん」


 愛龍は腕を組みながら、はにかんだ。珍しく顏に絆創膏が一枚も貼られていない。屈託のない笑みを浮かべ、拳を突き出してくる。


「ありがとう。愛龍がいたら、百人力だよ」


 僕は愛龍の拳に拳を合わせた。これほど心強い味方もいない。


 午前八時頃、牛鬼ジムに桃澤さんがやって来た。愛龍と共に桃澤さんのもとに向かう。


「桃澤さん、愛龍も桃澤さんの声を直す手伝いがしたいって。これからは二人で桃澤さんをサポートするよ。僕に言いにくいことがあったら、愛龍の方に何でも相談して」


「私、なーんか、すっごくもやもやしていたんだけどさ、昨日の夜、ちょっとすっきりした後、ボーっとしていたら、頭にぴーんときたんだよね。私、芽生の親友の癖に声を直す手伝いをしてないじゃんっ! て」


 愛龍は心のもやもやが消えたのかものすごくすっきりした表情を浮かべていた。吹っ切れたらしく、桃澤さんにぎゅっと抱き着いて笑っている。

 昨晩、魘されていたのが嘘のようだ。でも、やはり愛龍は笑っていた方が良い。彼女の泣き顔はあまりにも弱々しすぎる。


 桃澤さんは愛龍にメモパットを見せた。すでに黒い瞳をウルウルと潤わせているのを見るに愛龍の声が心に響いたのかもしれない。


「はぁ~、青春だね……」

「良いですね、青春……」

「あぁ~、お姉さん達も混ぜてぇ~」


 後方からトレーニング前の三名が微笑みながら腰をくねらせている。ものすごくおちょくられている気がする。


 僕は学校に向けて走り、愛龍と桃澤さんは電車の最寄り駅に向かった。


 少し走っていると四車線ほどある大通りに入る。

 僕が走っている歩道と反対側に制服姿の金髪少女の姿が見えた。だが、僕が見た時と髪の長さが全く違う。そもそも、中学生の制服を着ているので全くの別人の可能性すらあった。ただ、つむじ付近が以前より少し伸びて黒い地毛が見える。

 背丈や後姿が以前助けた少女にそっくりなので、同一人物の可能性の方が高そう。そう思うと無性に胸が温まった。背中は丸めず、堂々と歩いている様はものすごく凛々しい。一人で登校しているがあそこまで堂々と出来るのが逆にすごい。

 声をかけたら犯罪者扱いされるかもしれないので、少し良い気分になったまま高校に向けて走る。

 ふと振り返ると顔が見えた。あの時は化粧していて素顔がわかりにくかったが、泣き崩れていたあとの化粧が剝がれた素顔と一緒だった。やはり、同一人物で間違いない。


 少女が僕の方を見た瞬間、ガードレールをへこませるんじゃないかと思うほど体をぶつけさせて乗り出した。両手を持ち上げて兎みたいにぴょんぴょん飛び跳ねている。


 僕はそれを見て軽く手を振ってあげると、きゃぁああああああああーっ! と恐怖にかられたように叫ばれた。

 周りがぎょっとしている中、僕は少女に叫ばれて身震いする。

 警察が来たら捕まるかもしれない……。その前に学校目掛けて全力で走った。べ、別に悪いことはしていない。手を振られたと思ったから手を振っただけで、まさかあそこまで叫ばれるとは思わなかった。嫌われてたのか……。もう、手は振らない方が良いかな。


 二五分ほど走って学校に到着し、席に座る。万亀雄の姿は無し。少しすると、愛龍が教室に入って来て、また万亀雄と桃澤さんが一緒に筆談しながら教室に入って来た。


 ――万亀雄と桃澤さん、仲が良かったの? い、意外な組み合わせだな……。


 万亀雄と桃澤さんは教室の後方でメモパットを受け渡しあいながら筆談を続け、万亀雄はコクコクと頷くような仕草をして微笑む。その後、桃澤さんの頭を軽く撫でた後、手を上げて教室を出て行った。


 桃澤さんは頬をぷくっと膨らまし、頭を押さえながら席に座る。


 ――ど、どういうこと……。万亀雄と桃澤さんって仲が良かったの。


 頭の中が少しグチャグチャだったので、いったん腹式呼吸して息を整える。その後、隣に座っていた桃澤さんに聞いた。


「桃澤さんって、万亀雄と仲が良かったの?」


『えっと、万亀雄君の方からちょっと相談したいことがあるって言われて』


 ――ま、万亀雄君……。僕はまだ桃澤さんに海原君としか書かれていないよ。


 どうしてだろう、どうも桃澤さんが万亀雄を名前で記しているのに僕の方が名前じゃないと言う現状がやけに悔しい。嫉妬しているのだろうか。ま、まあ、別に桃澤さんが書きやすい方でいいか。でも明神より、万亀雄の方が書きにくいと思うんだけど。


 桃澤さんの文章を見ると、どうも万亀雄の方から話し掛けてきたそう。それ以外、教えてくれなかった。秘密事項だって。

 ひ、秘密を共有しあう関係……。そこまで仲が深まっていたとは。やはり、万亀雄は案外コミュニケーション能力が高い。頭が良いからかな。


 僕は彼に勝てる部分が本当に少ない……。身長や勉強、カッコよさ、大概負けている。彼を羨んだ回数は一度や二度ではない。両親ともに生きており、とても健康。妹ちゃんも元気で、万亀雄のことが誰よりも大好き。不良から助けられた女の子は皆、万亀雄が好きになっちゃうし、でも万亀雄はその子達に手を一切出さない。

 そんな万亀雄が不良のままでいるのがもったいないなと思いながらも、自我を通せる彼がカッコいいと思ってしまう僕がいる。


『万亀雄君って、思っていたよりも怖くないね。凄く優しいし、紳士的だったよ』


 桃澤さんのメモパットに万亀雄の良い所が連ねられると心が少々曇る。彼女の書いた内容は否定できないし、まったくもってその通りだ。だから、僕は頷いた。


『でもね、万亀雄君、絶対エッチだよ。私の胸ばっかり見てくるもん』


 ――うん、それも否定しない。万亀雄はものすごく健全な男子高校生なのだ。


 僕と桃澤さんが筆談していると、背後から声をかけられた。


「ねえねえ、そのメモパットじゃ二人しか筆談出来ないじゃん。二人共、携帯電話を買ったら? そうしたら三人でメッセージのやり取りができるよ」


 愛龍は携帯電話(スマートフォン)を取り出し、僕たちに見せてくる。


「愛龍、僕の貧乏具合を舐めないでほしい。そんな高級品を持てるほど余裕はないよ」


 僕の発言に共感してくれたのか、桃澤さんは頭を縦にものすごく振っている。


「まあ、有名なメーカーの携帯電話だったらものすごく高いけど、通話とかメールのやり取りだけでいいなら一万から二万くらいの機種もあるんだよ。通信プランも千円代のコースもあるし、学割が効くならもっと安くなるかも」


 僕と桃澤さんは愛龍の発言を聴き、言葉を失った。今の時代、高校生にもなって携帯電話を持っていない人がいったい何人いるだろうか。まあ、今まで必要になった場面はない。でも、あったらあったで便利なのは間違いなかった。


「う、うぅん……」


 僕と桃澤さんは腕を組み、唸る。すぐに買いたいと言えないのは、僕の貧乏精神が故。別に持っていない今でも全く問題ないのだから、毎月通信料を払ってまで携帯電話を買うべきなのかと考えてしまう。


「ほんと今時携帯電話を持っていないで生活できている二人がすごいと思うよ。尊敬する。でも、そろそろ携帯電話を持ってもいいころなんじゃない? どうしても買いたくないっていうなら私の古い機種でいいならあげるよ。一台しかないし、通信料は契約して払わないといけないけど」


 愛龍は熱心に話してきた。その熱量に押され僕と桃澤さんは携帯電話を持つことになる。


 桃澤さんが愛龍の持っていた少し前の機種をもらい受け、一ヶ月千円程度の格安シムをネット上で契約した。

 僕も有名な会社の機種ではないが、壊れにくさと防塵防水を主軸に置いて三万円ほどの機種を購入、格安シムで月千円の通信料を払うことに……。今日の内にというあまりにも早い流れだった。

 愛龍のやると言ったら全力でやると言う性格に乗せられてしまった。数日後にシムカードが届くと言うので、それを携帯電話に付ければ携帯電話が使えると愛龍に言われる。

 もう、携帯電話のことで頭が一杯になり、僕と桃澤さんはほぼ愛龍の言いなりで、僕たちに合った最適解を踏む。桃澤さんの銀行口座は彼女の母親からの許可を得て使用しているので問題ない。


『ありがとう、愛龍ちゃん。色々と……』


 桃澤さんの家の前で、彼女は愛龍にメモパットを見せる。


「気にしないで。私、芽生と夜中まで一緒にメッセージをやり取りしあってみたかったの」


「まあ、アルバイト代の千円を使って一ヶ月携帯が使えると思えば……」


 僕はまだ使えない携帯電話を握りながら、何ともしっくりこない感覚を飲み込む。ポケットにしまって愛龍と共に、桃澤さんの家を離れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る