E/N’08:“Warrior’s Wasteland”
「セイエイ」に目覚めが訪れたのは、陽が随分と昇り、森の上から直に顔を照らし始めた頃だった。目を開け、天幕の中を見回すと、丁度ウエモンも起きたところらしかった。其の目には薄く隈が出来ている。観測の旅では寝過ぎでないか心配になる程に睡眠に時間を割いていた。だのに、眠れないと呆気なく隈が出来てしまうものの様だ。
「話し声が五月蠅くて眠れなかった……ンゥ」
「然う……」欠伸の止まぬウエモンの顔を見つゝ、思案するが、内容は空回りするばかりだった。「寝ている間の記憶がないな」
立ち上がり、設置した望遠鏡を確認する。此れ迄はウエモンがやっていたが、事前の試行で、設置も回収も訓練していた。あの森林鉄道に乗って行ったあの場処で……。併し、森林鉄道に就て考えれば、寝惚けているのか、不思議な心持になる。
「ォ……寺内イ、望遠鏡を」
ウエモンは余裕がない時、苗字で呼びがちである。
「大丈夫だ。手順書も持ってる。……記録よし、同期に異常なし。記録停止準備までできる。此処はマヒラ島」
携帯電話で記録停止準備完了の連絡をし、了承の後、望遠鏡の記録装置の録画を停止してから電源を切る。了承の連絡を送って来たのは「旦那」こと右馬埜頼一だ。僕は「右馬埜の旦那」と呼ばせてもらっているが、本人はたゞ単に「旦那」と呼んでもらいたいらしかった。然う云えばウエモンも右馬埜頼一を「右馬埜」と呼んでいる。昨日も然うしていた筈だ。理由はわからないが……尋ねる勇気などなかった。理由を知れたか以前に、単なる事務連絡に収める事が出来た故、一安心した。右馬埜は自由に語り出すと、詩の如く奇天烈で優しい言葉遣いをするのだ。其れは理解には易しくないものである。
「——確認。記録停止」
「よし、片付けだ」
二人して望遠鏡を「天ツ川会」の袋に入れていく。此れも慣れたものである。——夢の中でも似た様な事をしたのは気のせいだろうか。あのお千代似の人工智能が登場しているかも知れないが、其れ以上に恐ろしい夢でなかった事を祈るのみだ。
次の目的地は西ローラシア大陸西海岸にあるが、一旦ナラヒア諸島の別の島に移動する必要があった。其の島から大陸迄、全線開業を控えた大陸間隧道の東部線が既に営業している。其の後は大陸に到着して昼食を摂り、数粁内陸に移動して夜行寝台列車に乗り換える手筈になっている。
最初の目的地となる島への船は昨日上陸した場所と同じ湾を発着する。此の後の予定では宿の清算を済ませ、来た道を戻る。此のナラヒア諸島が、今回の旅の西端である事を今になってしみ〴〵と感ぜられる。此の心持ちは日の出とほぼ同時に起きた所為で、予定の行動開始時間や出航時間まで余裕がある分、余計に感じさせられる。
「……あ、昨日、お手洗いの途中で気になる遺跡を見つけたんだ。眠気覚ましに行かないか、ウエモン」
「寺内ィ……」
頷きが返って来た。眠たそうなウエモンに鞄を任せる訳にはいかず、セイエイが担ぐ。宿の手続きを手短に済ませ、二人は宿の庭から続く森の
「ねえ、ウエモン。神々を信じるか」
「ハア。居るんぢゃないの。何か分かんないけど、居るとは思うよ」手摺りを掴んで進むウエモンは、森の空気に目が覚めた様である。「信じるかは別だがな。何か……然う、偶然で済ましたくない事があれば神を信じるかな。仏でもいいが」
道は整備されているとは雖も、地形に沿っている。沢を越える以外は地表に敷かれた道は、朝の体には険しいらしい。
「然う……」
「訊いた理由とかはあるのか」
「ウヌゥ。遺跡だから……かな。神殿に見えた気がするから」
「然うか」森の中を進んでいた道に、右手に開けた場所が現れる。其の奥には建物もある。ウエモンは、此の地の未知を捉えて目を輝かせた。「目的地周辺、だな」
昨夜には柵の間に綱が渡してあったが、今はない。自由に立ち入れる様だが、中には未だ観光客も居ない。人気のない平地は、簡素なものだった。セイエイが昨日、宵の暗闇の中に微かに浮かんで見えたものと同じ形の建物が同じ位置に一棟、他に、昨日気づかなかった倉庫らしきものが二棟と、あとは白い石碑が点在しているのみだ。人の気配は全くないが、手入れは定期的もなされている様で、石碑も綺麗である。
だが、遺跡と聞いて思い出すのは、最近観てきたプロスアクモリスである。力の入れようから見るに、プロスアクモリス程の重要度——考古学的または人類史的な意味で——は少ないのだろうか。併し、ナラヒア諸島と云うものの歴史はそんなに浅くない筈である。戦前から人々が居住し、平和な日々にあっては貿易拠点として収益を確保し、先の大戦はじめ戦争では太平洋上の重要拠点として取りつ取られつの歴史を辿っている。
「惨めだな」
「ウエモンは然う言うか」
セイエイは、ウエモンへ顔を向けた。彼れの顔は哀れみだにない、現実に向けた感想らしかった。
「不適切か。ならば、肩透かしを喰らった気分、かな」
「別に適切か問うた訣ぢゃないさ。プロスアクモリスには博物館があったとは言え、何処でも造れるものでもないし、マア、日本でも古い山城の跡地ってこんな感じだったから、惨めと言う感想が意外でね」
「……理由なら然う思ったから、だな。案外、資金不足でもなく此処の人々の意識の問題かも知れんな。博物館の重要性を認識していない人も、認識していても重要度を低く捉える人も、居るだろう」
「エヽ、然うかなア」
「人間誰しも好奇心の塊ぢゃアなかろう」
「ア……」諭されてセイエイは目を再び遺跡に戻した。「好奇心が現状の理由に向いてる。何うして簡素なのか、建物一つだけなのか。識りたい」
「俺もだな」
二人は、道から其の敷地へと足を踏み入れた。初めに目に入ったのは、平場の縁に置かれた石碑だった。淵に沈んだ如くに日陰に立ち、存在を主張しない石碑。其の地に立つ事が優先された類いのものだろう。石に文字を掘り込み、溝を別の材質で埋めたものだった。二人は自動翻訳を試したが、充填材が溶けかけて垂れている所為か、未対応な所為か、読む事は叶わなかった。
「よく見ると、象形文字みたいな形をしているな」
ウエモンは、其の石碑だけやけに旧い事に気づいた。材質も、経年変化か材質の差かは分からねど、入口から見えた石碑より黒い。彫られているのは象形文字に見えるが、神聖文字、ἱερογλυφικάと云う訳でもない。甲骨文字に近しいか。
「読むべきでないものだったのかもね」
「ハンロンの剃刀って言うんだっけ」無能で説明できる事に悪意を見出すなと云う教えである。「……違うな、神秘的な意義を求めるのは何うだかね」
「マ、然うね。でもウエモン、神も然うぢゃないかな」
次に向かったのは、矢張り一番目立つ神殿らしき建物であった。外から見える急角度の入母屋の屋根は、内側から見ると大規模商業施設の吹き抜けにも見える。内側は、原色で塗られた壁画を思わせる絵画で彩られ、世界観を示している。
「
「……見覚えがある」
「有名な奴だからな。名前を忘れたな……」
「アル……違うな、アノマロカリスか。カンブリア紀の生命だよ」
「アノマロカリスか」
中に入って周囲の絵を見て感心していたウエモンだったが、違和感に気づいた。
「此れって遺跡なのか、セイエイ」
「昨日見た時は然う書いてあったよ」
「だって、アノマロカリスだぞ」ウエモンは古生物であるアノマロカリスを人類が目撃する筈ないと考えている様だ。「シーラカンスよりも……大発見になるかも」
「でも、アノマロカリスって見れるでしょ」
「見れえせんて。バージェスは西ローラシア大陸北部だ。此処に化石がある筈が……いや、ないとも言い切れないか……。神だから」
語気を強めたものの自分で反論が組み上がり、ウエモンは言い切らずにやめた。其の儘、建物の中心部に着くと、解説が立っていた。石碑とは真逆の簡素な立札である。携帯電話の自動翻訳に拠れば、此処は神殿であり、ナラヒア諸島の中でもマヒラ島に固有の伝統的な神々が描かれているらしい。近年迄残っていた伝承に拠ると、神々が化身した姿を描いた此の絵画もまた「記録の神」が遺したものであると云う。
「近年迄、ネエ。今は何うなっているのかな」
「……此の言語の文法を調べたほうがよさそうだ」
ウエモンが携帯電話の中に仕舞っていたナラヒア諸島の諸語と日本語との辞書を取り出し、調べる。結果は、当該部分は現在消滅した事を含意しており、此の解説の形式である正式な文語で現在もある事を意味する事は全くと言っていい程無いのだと。
「興味深いな」
「セイエイは又然う言う。一文化が消滅したんだぞ」
「……」
セイエイは目を逸らす。自分の関心と他人の倫理とが対立した時の癖だ。偶々、天空らしき背景に羽の生えた棒人間が飛ぶ姿のある絵が視界を占める。
「御免……」
併し、然う呟いた時、其の羽の生えた棒人間が飛び出して来て、刀を手に、斬りかかって来る。仰天して力の抜けたセイエイは、重力に従う様に無造作に崩れる。上を向いたセイエイの視界は、其れが先刻迄自分の上半身のあった場所を通過していくのを捉えた。切り捨て御免と云う言葉を思い出すに然う時間はかからなかった。
「何うした、急に倒れて——」ウエモンが駈け寄ろうとした時、立札が粉砕された。「……ッ……」
風に
其の発声から一秒も経たずして、砕片が又集まり始める。服や肌に刺さったものも抜け戻り、何事もなかったかの様に立札が立つ。寸分の狂いなく。
「……ハア。出よう」
何時かの記憶を再演された様な出来事から、ウエモンは逃げ出したかった様だ。
「ウエモン、待って」
倒れた体を起こし、セイエイは右手の甲が赤く腫れているのを確認して駈け寄った。
「手をやってまったもんでさ、お手洗いで清めとくわ」
「あゝ、わかった。先に石碑でも読んどくわ」
セイエイは、土で汚れた傷口の為に此処から程近い場所にあるお手洗いへと向かって行った。其の様子を見ながら、ウエモンは顔だけを束の間、後ろへ回した。振り返ったというには中途半端である。建物の中も、建物だに視界に入らず、セイエイの去った方へ目線が戻って行く。
ウエモンは神と云うものを人間と同等の実在として扱う気は更々ない。あった方が都合がいいならば、有無が論理に支障を
「……何かを見落としたか」
奇妙な出来事を目にしても、ウエモンの世界観は変わっていなかった。偶々、主張の強い神だったのかも知れないと思うだけである。併し、確実な変化が一つあった。好奇心は増している。若し、あの出来事——他人が見たら、奇跡とでも言いそうなもの——が神によるものならば、然うでありながら何故、信仰が消えたのか。而て、
セイエイが居らず、一人の時にあの出来事に遭遇したならば、何かの焚き返りだと思い込んでいただろう。二人で遭遇した事は、よく言い表せないものゝ、共通する一つの話題となったのだ。
「待たせたかな」
思案に専念した為に、セイエイが帰って来る迄神殿の前で立ち止まっていた。
「……考え込んでいたみたいだ。サ、行こまいか」
此の場所の縁、淵に沈んだ様な解読不能の旧い石碑が消えている事に、二人は気付かなかった。読めぬものより、読めるものゝ方が情報を得やすいから。
二人は広場の外縁に点在する立札や展示に目を移していった。案内板は意外にも近代的で、出典付き解説文と共に二次元バーコードも貼付されている。風雨を避ける
セイエイは携帯電話を広げ、撮影機能を使って其の文書を収めた。発達した人工智能による自動翻訳が始まり、セイエイは排気口から手を離しつゝ自動翻訳の完了を待った。
「『先の大戦』が太平洋で勃発する直前、ナラヒア諸島全域を対象にした民俗学研究はマヒラ島がナラヒア諸島の他島と異なる神話体系を保持していたことが確認されている。」
「独自の神格群は、島外では擬似存在として区別された。此の名称は他島から見て聖的でないマヒラ島の信仰対象を指す言葉として広く用いられていた。独自性は神話・信仰のみならず生活自体に及んでいたと記録が残っている。」
「オイ、本当か……酷い書き方だな、何を基準に《擬似》だなんて」
「独自性」
「ア」
セイエイは読み上げを続けた。
「戦時体制下、ナラヒア諸島は他国からの侵掠から自身を守る為、また他の地域へ資源を得に侵掠する為に強固な団結の必要が生じた。島民は自発的にマヒラ島の独自信仰・習俗を放棄し、ナラヒア諸島他島の神話・習俗への文化的同化を受容れた。此れにより、ナラヒア諸島は団結を達成し、『先の大戦』の全期間を通してカナモア島を除く全土の独立を貫いた。」
「『先の大戦』以後、ナラヒア諸島の一員である事を同一性の支えとしたマヒラ島の文化はナラヒア諸島の其れと同化し、独自性の強い神格の存在は放棄された。此の神殿は、戦後直ぐは他島の形式の儀式に用いられた後、戦後復興以後、ナラヒア諸島が林漁業と観光業とに依存するに伴い放棄された。文化継承の機会は閉ざされていった結果、今や言語と残存する建築物程度のみが往時の文化を今に伝えている。此れら立札は篤志奉公者集団及び基金の援助によって行われた調査研究の成果を伝える為に、賭博財団の献金により——ン、此れはいいかな」
携帯の画面に映る文字列が、翻訳の機械手続に拠って断片的に表示される。文毎にばらつきのある翻訳が完了し表示する迄の間に語り手自身の判断が介在している気配を感じつつも、セイエイは淡々としていた。
「ウエモン、此の神々に何を感じる」
「忘れ去られた感じかな。同じ諸島なのだから、同じものを信仰していると考えてしまうが、実際に目にして見ると根底に流れるものだに異なる感じがする」ウエモンは、石碑に貼付された二次元バーコードに掌を触れて目を閉じ、映像を見始めた。「HDか、画質が荒いな。動画だ。……其れにしても、信じられんな。こんな神々が、『先の大戦』の裏で消えたなんて」
映像を見終えたウエモンは、セイエイと別の石碑に触れた。其れが内蔵していた展示の一角に、廃絶された神々の図像が遺されていた。否、再現なのだろうが、二人には此れが忘却の遺物の様に思えたのだ。赤、黄、鮮やかな色使いは二人が抱いていた海外の原住民の持つ伝統的な色使いの先入観に似ていた。併し、アノマロカリスやメガネウラ、始祖鳥にケツァルコアトルスと云った古生物にしか見えない像や、羽の生えた棒人間に漆黒を纏った焔、日の出の際の青い光など奇妙な神々或いは其の象徴の図案のある品々が手に取れる。
「では、失礼」
「おい、いゝのか、セイエイ」
「此処、然う云う場所でしょう」
「見覚えがある」神像に息が掛からない様にしつつ——此処は仮想空間であるから息など気にする必要もないのだが——セイエイは呟く。「でも、魂がない……」
「非科学的だな」
「……用いた単語の問題かな。像はあっても、最早、抜け殻なんだ。神々が信仰されなくなって、何かが抜け落ちた感覚がある、然う言えばウエモンも納得するでしょう」
「あゝ」
「……」
「最近は詩人気取りな奴の言葉に飽きてきてな。直感と気付けなかった。済まなんだ」
右馬埜の事だ。
「えゝよ」
セイエイが神像を元の位置に置くと、二人は現実に帰還した。一旦時間を確認したが、未だ〳〵港へ出発するにも余裕があり、見続ける事にした。
「『先の大戦』が消滅の決定打、か……」
未だ見ていない石碑は二次元コードが貼付されていなかった。彫られている訳でもなく、たゞ現地の言葉で記されているだけである。セイエイの携帯電話の自動翻訳機能の鵜呑みにするならば、「マヒラ島文化継承委員会」なる組織名が刻印されている。文化継承を企てるも失敗に終わった記録である。継承を強いずにいた結果、神殿は放棄される事となった。参加者の人数も少なくなり、結果、「先の大戦」から始まった消滅は止められなかった。其れに強いられが介在した事はなかった。
「矢張り、継承に関心のない者も居るんだな」
shoch(ママ)と云う奴だろう。
「ウエモン……」
ウエモンは戦前、「先の大戦」以前の平和を知っている。其れが現代の平和とは大きく異なるものである事を経験から実覚している。
「こんな出来事があったのだろうと想像は付いてたさ。ただ、具体的な情報、俺の生まれた頃にあったものが、今は消えてなくなったと云う情報が追加されただけだ」
ウエモンは東へ目を向けた。日の出から時間が経ち、広場に樹冠を通った日光が降り注ぎ始めていた。
「人間は尻尾がない。退化したんだ。其れも、必要な事だったんだろうな」
ウエモンは最早、抽象化した思考をしていた。直ぐに反応する事は、セイエイには出来なかった。
「行こまい、セイエイ……。自らの意思で捨てられたものを拾うのは、心が痛む」
其の
「全て忘れ去られても、記録は残るよ」
「然うけ。然う思いたいが」
「不可解な現象と思うなら……記録の神様だけが覚えてると言ってもいいかもね」
「然うだな」
驚いた事に、セイエイは別に「マコト」の記憶を参照して発言した訳ではなかった。
此処が旅の西端であると云うしみ〴〵した感覚は、思い出したかの様に宿を目にして立ち上ぼる。港への道を歩く時、食堂で朝食を済ませた時、埠頭の椅子で船を待つ時と、時間と共に強まっていく。
「折り返しか。長かったな」眠そうにウエモンは呟いた。「識りたい事、全然識れてないよ。ナア、てら……セイエイ」
「遺跡は不満だったか」
「否。俺達の最初の目的に就てだよ」
ウエモンの視線は、セイエイが抱える中で色に目立つ、黒い鞄に向けられた。「天ツ川会」の天体望遠鏡——乃ち、「彗星」である。
「……分析は始まっているのに、か」
「
崩れ行く波音の囁く静寂に、其の声は消え、汽笛を吹く船が、マヒラ島の港に注意を促した。飽くなき探求心は、何時かは忘却の彼方に消え、聞こえなくなるのだろうか。其れはまるで、広がり続ける宇宙の中で引き離されていく星々の様ではないか。思案の中、汽笛が又も響き、放送が鳴る。日本語ではない。
「島営船を御利用頂きまして、難有う御座います。次に参ります船は、カナモア島方面行きで御座います」
「あ」
携帯電話が日本語を喋った。セイエイは携帯電話の自動翻訳を遺跡を見てから消し忘れていたらしい。其の音声は、ウエモンも聞き覚えがあった。大西洋横断自動車のカーナビに搭載されていた女性風の合成音声である。
「便利だな、其れ」
「御免、ウエモン——」
「つけていて構わない。あった方が便利に思えるから、然うだな……気にしないよ」
「ア、然う。……ぢゃあさ、イヤホーンで聞いておくよ。此の放送は現地向けみたいだからね」
埠頭に接岸する船を見つつ、ウエモンは、何故に此の群島が観光客に人気でないか、其の理由の一端を知った気がした。
翻訳曰く島営船であると云う此の船に料金を支払って乗る。内は簡素で、座席と通路があるだけである。一度に乗れるのは数十人程度と、ナラヒア諸島への往路に用いた浮く船より十分の一程度である。彼の船は外からナラヒア諸島全体への観光客輸送を担っていた為に大型だったのだろう。
二人が空いた座席の二席に座ると、此の島営船は静かに動き出した。最高速度も比べると遅いが、速い方なのは間違いない。チャイムが鳴り、車内放送がかかる。ナラヒア諸語で、日本語や二人の知る言語の放送はない。
「島営連絡船のカナモア島行きだって。途中で何かに連絡するみたい」
「あゝ、要は乗り換えるんだな」
「然うみたいだけど……何にかね」
「見ればわかるさ」
次第に前方に見えてきたのは、岩礁に据え付けられた大砲だった。大砲にしては砲身が長いが、セイエイには「先の大戦」の防衛拠点の跡にしか見えなかった。何の目的があったのだろうか。マヒラ島の為か。併し、後ろに微かに見えるマヒラ島との距離を考えれば、岩礁が重要なのではないだろうか。
「随分と驚いた顔だな、セイエイ」
「……高射砲みたいだ。でも、弾を装填して発射する所が見えない」
「兵器に見えるか。国際情勢を考えてみよ。軌道エレベータは着工の目処が立ち、人類の知る世界は広がり続けている。此処に兵器は必要と思うか」
「宇宙軍……でも、立ち入れる筈ないし、此れって有志連合の隕石迎撃装置——」
其の時、放送の始まりのチャイムが鳴った。
「答え合わせだ」
今度の放送は肉声だった。セイエイの耳に慣れてきた自動翻訳の声が、早口で入り込む。
「カナモッア島へお越しのお客様は此処で、連絡しています。お忘れ物をなさいません様にお乗り換え下さい。電磁防御が必要な方はお申し出下さい。此の船の終点、連絡岩礁です」
放送の終了の直前から少ない乗客が訓練された通勤客の様に一斉に降り口に並び始め、二人は其れを真似して一列に加わる。前方を眺めつつ動きに従っておると、船を傾斜のある板で上った先に、声は聞こえないが数人が乗務員に申告して携帯電話を黒い袋に入れてもらっているのが見えた。
「携帯電話は申告したほうがいいですよ」
イヤホーンからも然う聞こえた。
「セイエイ、一つ大事な事がある。望遠鏡の、緩衝材を貰ってくれ」
「あ、わかった」
船を出ると、完全に環礁となった島々と、其の上に建つ四本足が見えた。見上げると、四本足は太い
「何此れ」
「セイエイ、カナモアへの連絡手段だよ。ナラヒア諸島が複数の群島に分かれてるから、遠い距離を移動する為に弾丸みたいなものを利用するんだ」
列は早く進み、セイエイは携帯電話用の電磁遮断袋と頼まれた緩衝材を借りた。
「御案内します。此の車は、ナラヒア・カナモア行きの直通便です」
座席に着き、ウエモンが望遠鏡の鞄を緩衝材に詰めたと同時に放送が始まった。
「間も無く発射します。
安全な姿勢は流れ始めた船内の映像で紹介される。セイエイは其れを見て頭に入れながら、いざと云う時には通路の向かいに座る乗務員の真似をしようと考えた。低い唸りが船内に響く。其れは確実に内燃機関の音ではなかった。
「——十秒前、八、七、六、五、四、三、二、射出、今」
急加速。低い唸りは耳を
短くも急激な加速は、
「何うだ、此の交通機関は。セイエイ」
「はあ。……何だ此れ。注目されても一例だけ実用化された感じの交通機関だね」
脱力して、セイエイはウエモンの質問に答えた。
「其の通りだ。電磁連絡船、其れが此奴に付いた名前……」
「ワア」
窓に顔を押し付けると、眼下に海が見えた。飛行機から見る景色と云うもので、雲も下にある。恐らく、戦後に観光に力を入れるにあたって、一つ、目玉を用意したのだろう、と思う。而て、隆起環礁の島々が見えて来た。ナラヒア諸島を構成する二つの諸島の内、片方。マヒラ島の周辺と違い、環礁化しつつある裾礁ではなく、此れらは環礁だった。其の中でも一際目立つのは、環礁部分の内部にも陸地の広がる大きな島。朝日に照らされて地形の凹凸がよく見える、カナモア島。カナモッアとも呼ばれる此の島が、二人の今昼の目的地だった。
気が付けば、船は着水していた。遠くに見えていた筈のカナモア島は窓の向こうの直ぐ近くに
桟橋が掛けられた後、狭い船内から出、島内に入ると、島と云う存在の大きさが一層際立つ。仮令、岩礁と呼ばれるものであっても、其処が遙か下の海底から盛り上がってきたものである事に変わりはないのだが、人の踏みしめる大地のあると云うものは
時計を確認する迄もなく、太陽は水平線から暫く上り、幕の上部を掠める程度に昇っていた。日の出から一時間も経っていないらしい。船着場から出て行く途中で、観光客対応に慣れた人が何かを言いつつ小冊子を渡してきた。セイエイと、続けてウエモンとにである。
「御乗船難有う御座いましただってさ」
「味気ないな」
「唯の対応の文句に……ン、平易な対応に文句を言うのも違う気がするな」
「マア、事務的関係だからな。互いに尊重し合うのもほんの
高台に登りつつ、セイエイは放送の内容を教えた。ウエモンは然う返し、不満気に幕下を舐め回す様に見た。湖沼が広がり、ジャングルにも見える鬱蒼とした木々のある中央部と幕との間には、何もない。
「最近迄、軍隊以外で入れたのは気象関係者だけだったんだってさ」
「……『先の大戦』から、だろ。昔、地理雑誌で見た事がある」
「然うだね。ナラヒア諸島の中で、唯一、敵に占領された土地みたいだから……こんなに真っ黒なのかな」
確かにウエモンの視界には、中央の湖沼と森林との周囲が黒色に見えていた。併し、未だ東の空が赤い事を思えば、日陰である為だと思っていた。併し、視界にある黒は、影でもあるが、其れ自体も黒い故らしいと気付けた。
「住民も居なくなっちゃったんだろうね」
「其れ、何時知った」
意外な事に、其の呟きにウエモンはセイエイを凝視した。
「今日のマヒラ島の遺跡だよ。占領は書いてあった。住民がってのは、推測だよ」
「紛らわしいなア、多分とか付けといてくれよオ」其の声は不満の文句を言う割に嬉し気である。ウエモンは携帯電話を取り出して、まるで悪事を企むかの如くセイエイに顔を寄せた。「……真偽を確かめないと、ね」
併し、殆どウエモンの顔に占められたセイエイの視界は、其の背後にある看板の英語の文章を捉えた。
「此処、電波自由区ぢゃないよ」
「エ」セイエイが指差すと、ウエモンも其れを目で認識した。「本当だ。ア、軍用関係ってあるわ。ぢゃあア、目的地迄大人しく行こまい」
セイエイは頷く。二人の足は、幕下へ向かっていた。
軍事関係専用と言っても過言ではなかったナラヒア諸島カナモア島と其の周辺の島々が一般に開放されたのには、当然事情がある。地球上に於ける理想的な平和が築かれた事も一因ではあるが、其れだけで太平洋上の僻地に人々が来るとは思えない。人は命を模った好奇心の塊でない
「然う言えばさ、先刻貰った小冊子、物体だったね」
「物体……あゝ、情報ぢゃないって事か」
セイエイは鞄の中から、今日の小冊子と共に、
「此れ、僕の神経に反応して実体化するんだっけね」
「其の筈だ」
「アレエ。故障してまったかな……」併し、何時迄経っても実体化しない。観光情報なのだから、小冊子になる様に設計されている筈だった。「故障した時は、密封して、暫く置くんだっけね」
「セイエイ、取り出した後に思い出して済まないが、先刻、電波自由区ぢゃないって言ったろう」
「ア、電波自由区ぢゃないなら、無理か」
「まあ、仕方ないよ。此の手のものは一度実体化したら固定されるのと又不定形に戻るのとがあるからね」
虹色に輝く不定形を、吐瀉物入れの黒袋に仕舞い、縛って鞄に戻す。
「……で、何の話がしたかったんだ、セイエイ」
「だから、小冊子は珍しいねって」
「其れだけか」
「然うだわさ」
其の会話の内に随分と黒い大地を進んだ様で、小さな駅舎が見えていた。会社の社章と、「Narachiia-Kanamo’a」の文字が目立つ駅舎に、二人の前を歩く数人が入って行っている。目的地は此の地下にある。目の前の建造物は駅舎としては小規模ながら、通常の地下に行く目的を達成するには大きい。駅舎に入ると、矢印と共に現地語であるナラヒア諸語が並んで書かれた吊り下げ看板が目に入った。一つ目の翻訳を試すと、地下の駅舎への方向を案内している。二つ目の翻訳を試すと、歴史紹介の展示への方向を案内している。
「歴史紹介コーナーだってさ。時間に余裕があれば、身に行けそうだね」
同じ日に二回も学ぶ事はウエモンが大人になってから珍しい事だった。同じナラヒア諸島に括られているとは雖も、マヒラ島周辺は裾礁、カナモア島周辺は環礁と違いがある。其れに、既にカナモア島は「先の大戦」時にも敵国に占領されると云う憂き目——即ち、異なる歴史を経ている。ウエモンは暫しの思案をした。
「予定の列車に着くには、十分を目安に降りるのが推奨されていたが、其れを加味しても一時間程度か。閲覧出来そうだ」
「やったア」
セイエイが跳ね上がる。其の一瞬が、ウエモンの視界の中ではセイエイの体が重力を忘れたかの様に漆黒の
「……ぢゃ、少し見て行こうか」
其の室内は、真新しい事もあって
「セイエイ、自動翻訳は使えるか。電波自由区内外を問わないならば、解説を聞きたい」
「あゝ、構わないよ」セイエイは、ウエモンが取り出したイヤホーンの片方を自身のイヤホーンに繋げ、大きな矢印を読み取った。「大事な情報と思しきものから……」
「順路。此方へ御進み下さい」
読み上げられた言葉に従って、二人は室内を動き始めた。小さい建物ではあったが、二階部分もあるらしく、時代順にカナモア島に纏わるものを展示している。伝統の衣裳、舟、漁具と伝統的な生態系。而て、時代が上から下へ降りて行くと、「先の大戦」に関する展示となる。
「——『先の大戦』が開戦しました。ナラヒア諸島が参戦する以前に、敵国が混乱に乗じ、不可侵条約を破り、カナモア群島に侵攻しました。ナラヒア諸島の軍は、カナモア島を占領されてしまいました。占領されたカナモア島は、敵国にとって太平洋上での航空機の燃料補給基地として整備されました。此の飛行場が、現在の基地の原型となりました。併し、戦争が長引いていくと、カナモア島はナラヒア諸島、
二人は其れを聞きつつ、小冊子を捲り内容を確認する。日本でも、音声案内のある博物館に行った事はあっても、利用する機会がなかった。併し、擬似的とはいえ此の利便性に驚いていた。小冊子には、観光客向けの簡易な歴史が載っており、理解の助けになっていた。
「——ナラヒア諸島軍は焼夷弾を用い、カナモア島の森林火災を企てました。作戦は成功し、敵国が補給不足に陥りました。其の結果か、敵国兵士が島内で食人を犯していた証拠が戦後発見されています。其れが、此の模型の五番と、展示品番号五番の、餓死した兵士の遺骨には、人間の歯形……」
解説は包み隠さず、素直な物言いをしていた。展示品には幾つかの時代のカナモア島を再現した模型もあり、自然豊かな古代と、「先の大戦」で占領された頃と、現代との三種があった。展示の曰く、人が居住し始め、森林を利用し始めた時点で、何時かカナモア島は禿げた島になる事はほゞ確実であったが、セイエイやウエモンには、人の醜さを見ている心持になる。
「次の展示です。此の像は、『先の大戦』に勝利したナラヒア諸島が、敵国からの賠償金を使って作成・鋳造した英雄の像です。当初、敵国から接収し、返還されたカナモア島基地に展示されていましたが、非人道的作戦の指揮者であったことから、此方への移設と同時に、功罪が併記される展示として再構成されました。右の年表が追加された展示です。此の人物は、ナラヒア諸島軍の——」
セイエイが此方に目をやっている事に気付いたウエモンが、片耳分のイヤホーンを外した。
「ウエモン、英雄って、もっと……庶民の為と云うか、そんな行動をした人だと思ってたけど」
「当時の人は、当時にやるべき事をした迄だろう。沢山した人が、英雄になった」
「でも、ウエモン。やるべき事が正しい事か、考えたりはしないのかな」
「狂っている時代に今俺達の思う正気を保てた奴は、狂ってるんだよ」
「然うだけンど……当時でも不倫でしょう。焼夷弾なんて、『先の大戦』よりずっと前の戦争で、日本にも使われたぢゃないか」
「其の通りだ。戦争と云う特殊な状況になれば、人道なんて霧散してしまうもんだよ。人倫と云えば、子供の頃だからよく覚えていないが……教育の内容も戦前と戦後ぢゃあ大して変らない。理想が何れだけ実現されているかで言ったら違いがあるがな。紛う事なく、不倫だよ」
二人は視線を硝子越しの展示品に戻す。丁度、誰かが入口の扉を開け、風が吹き込んで来る。セイエイは硝子越しに薄らと、自分の背後で青い髪が靡くのを見た。
「……現在、ナラヒア諸島軍は国際宇宙軍の一員として、衛星通信基地と対隕石砲とを備えた、地球防衛システムの一大拠点となるべく設備更新を進めています。地下には東西ローラシア大陸を太平洋経由で結ぶ大陸間隧道の駅や、生体素子を備えた
イヤホーンを外し、何か来館記念になる様なものを探して見回すと、印があった。丁度、小冊子にも押す場所が用意されている。
「懐かしいな。今やデジタルスタンプラリーとか言うものに代替されたとばかり思っていたが」
「懐古は定期的に来るもんだよ、ウエモン」セイエイは然う言いながら、記念印を押印した。「滲んだな」
「斯う云うのはな、
「ホヘエエエエエエエ」
滲みのない綺麗な印影である。自動翻訳機能を終了させようとした時、セイエイの視界に既視感のある地図を見つけた。歴史紹介コーナーの一部ではあったが他と区切られている部分である様子だ。
「一寸、見てもいいかな」
時計を見る。未だ余裕はある。
「いいと思うぞ」
駈け寄ると、其の地図がマヒラ群島のものである事が明瞭して来た。ナラヒア諸島として、触れぬ訳にはいかないのだろう。再び自動翻訳が喋り出し、二人に囁き始める。展示内容は、広場で見たものと変わらない。神話には触れられていないが、歴史は変わらない。解釈が違うものもあるが……。
「かつて同胞であったマヒラ島民の文化は、ナラヒア統一の名の下に棄てられた。戦後も文化復興の声は挙がらず、近年其の最後の記録者が没した。一方で、民間の有志が活動した結果、マヒラ島の遺跡の発掘事業が行われ、神話の詳細が明らかとなった」
硬い文章となった自動翻訳の説明で、改めて文化が失われたと思う。其の消滅の時、二人共無関心であったのだと。
展示を眺めていると、最後になって神の記述があった。
「マヒラ島に於る神話の神の一柱、ナルアッヺン。赤い羽毛を生やした鳥人の姿をしており、異端者の扱いを受ける事が多かった。神話に拠ると、アルノワーと云う神と結婚したものの、ナルアッヺンの破天荒さに呆れられ離婚したと云う。此れは戦前に友好の徴としてマヒラ群島とカナモア群島との間で交換されたもの」
此れで展示は本当に最後になる。改めて時計を見る。ウエモンには早いかも知れないが遅れない為には降りた方がいいと思える頃合いであった。
「鉄道は終点迄だっけ。其の後は何うするっけ」
手帳を捲るセイエイはウエモンに尋ねた。
「書いてあるだろ。向こうで昼食、郊外の高原に移動する。夜行寝台列車が午後の早めに出るから、其処で乗る」ウエモンが説明したが、セイエイの顔は夢現が曖昧となっている様子である。「列車に乗って席に座る迄の辛抱だからな、おい、セイエイ……」
セイエイを揺すっていると、他にも数人乗り込んで来る。流石に会話を続ける訳にもいかず、二人は機内の隅に固まる。此の混み具合を鑑みるに、カナモア島の人気はマヒラ島より上らしい。
「緑茶飲んどけ」
「難有う。一時間分は持ちそうだ」
五百
其の双眸が、ウエモンの奥を見つめる。達観した様な顔は、元津右衛門と云う人物の内奥を見透かす様であったが、其れが箱の中の手摺に身を預けている姿勢故の錯覚かは判別が付かない。
——若しかすると、本物の寺内情栄は彼の時に跳び上がって行ったきりになったのではないか。
無くなったと言えば、マヒラの文化である。ウエモンはあの草原に居る神々を幻視した気がした。地下深くへ潜る昇降機に当たる光が、鉄骨に遮られ、又見えてと起こる明滅の度に何かを見た。
神か、古生物か、文明か、地球と云うものが生み出した数々の……其の走馬灯。
「先の大戦」で用いられた兵器、而て今、地球を守る宇宙軍の兵器。仕組みは何も変わっていない。そんな思惟が、流れ込んだのか浮かび上がったのか、脳裡を
「神の再演すら、ただの演出として受け止めていた自分が、たった一つの現実の喪失に、斯くも震えているとは」
一つ?
現実とは連続的である。喪失に此処迄も動揺するのは何故であろうか——記録は永遠と云う妄言を吐きそうになる。否、心の中で既に存在していた。
宇宙で最も遠い銀河が遥か昔の姿をしているからか。近い銀河の其れ以上の過去は、最早手に入れられないのに、か——。
電鈴。
思索を断ち切る様に電鈴が鳴り、昇降機の扉が開いて目に入ったのは、手荷物検査所だった。ウエモンは大陸間隧道が国際列車である事を失念していたのである。だが幸運な事に、到着せねばならぬと手帳に記録して暗記もした時刻は、列車の発車時刻ではなく、検査受付終了時刻の更に十分前であった。
‘Final check-in for the train Woodbine Number 912 on platform number 2. The 10:27 departure to West Laurasia Silvervein Harbour.’
其の放送が掛かる頃にセイエイとウエモンとは列車に乗り込んだ。大きい荷物——望遠鏡を置き場所に下ろし、身軽になった二人は座席に座った。列車の旅は約二時間。正午過ぎに西ローラシア大陸西海岸の町シルバーベイン港に着く。到着時刻は夕陽を眺めていた右馬埜頼一と栫井八千代との組より早いが、此れは行程の差異である。
「併し、マア、噂には聞いていたが、極限環境で人を喰うとはな。セイエイ、俺もあゝは言ったが理解……納得してる訳ぢゃないさ」
ウエモンは幻視した過去の兵器を思い出しつつ釈明した。
「当然でしょう」セイエイは然う答えて、座席の簡易机を引き出した。「感情なんだから」
「感情か。其れ以上話が進まなさそうだ。他に何か話題はあるか……ナラヒアでさ、色々あったろ」
「思った事は殆どウエモンと共有したよ。したってば」
「ン……」
静寂の中に、
「セイエイ。神の話をしたよな」
「したね。ウエモンは偶然で済ましたくない時、だっけ」
「然うだ。セイエイは何うやって信じてる」
「特定の神に絞らず話をすると、あるものだね。既に存在しているもの。或いは新たに生まれるもの。人は其れを神と呼ぶかも知れないし、救世主と呼ぶかも知れないし、精霊と呼ぶかも知れない」
「何か宗教とかは意識してるかい」
「何も。最近は多様であれなんて言説が跋扈してるから、自分で組み立ててる。社会に貢献する存在でありたいとは思うが、特定の宗教に限った話でもない——此れは其れを教義としない宗教を否定する積りぢゃあないが」
「フン。矢ッ張りセイエイは戦後世代なんだなア」
「…………」
「多様性とかさ。他だと、持続可能性を気にしたりするだろ」
「……人によるだろう。他人は知らないから何も言えないが、人間自体持続可能性の少ないものだから、其れは気にしてないかな」
セイエイはウエモンから顔を逸らし、行先表示機を見た。話している内に列車は浮上しており、速度を上げ続けている。顔を戻すと、ウエモンがセイエイの机を収納していた前の席の背凭れを指した。
「映画か何か見れるんぢゃないか。暇潰しに何うだ……俺は寝るから、好きにしてちょ」
「然う。お休み」
ウエモンは背凭れを傾がせて、目を閉じた。セイエイはお手洗いに行きたくなったら起こせばいいかと画面に目をやる。番組表を眺めていると、浮上船でも見た空想科学番組『裏方の職人たち』の表記がある。併し、最終回であった。国際協力で製作された、希望ある未来を見せる番組……最終回は其の先入観を打ち壊す様な回である。時刻を確かめると、始まる迄五分もない。概要を見てみる。
「今回、国際宇宙開発を指導する組織から、とある小惑星に設置された遺伝子組換え生物試験場を訪れた。宇宙でも育つ食物を創っているという。併し、試験場へ近づくカメラが映し出したのは……。」
此の回だけ、寺内少年は苦手だった。異質な回。まるで、国民的アニメに纏わる怖い回の都市伝説が実体を得た様な恐怖があるのだ。併し大人になった今ならば、見れる気がした。イヤホーンを繋ぎ、日本語音声・日本語字幕を選択。セイエイは其の回と向き合おうとした。
「(マイク係)さん、(カメラ係)さん、あと他も集まって下さい。間も無く、試験場に到着です。取り敢えず、予定通り持ち場について下さい。今回も頑張りましょう」
規制音が混じった監督の声から、此の回は始まる。何時もなら、冒頭部分と「云々をお見せしよう」と言うナレーションのあるオープニングが挟まるのだが、其れも無しに『File08「試験場」 “The Examination Base”』と画面下部に表示されている。宇宙農業や持続可能な未来を目指す科学研究の最前線を取材するらしい。随分と幼い頃に見て以降避け続けてきた為、あまり覚えておらず新鮮である。
カメラが有人試験場「エウクレイデス増九号」を映すカットを撮影している。補正が入る筈の手振れも其の儘で、自分が其の場に居るかの様に感ぜられる。
よく言えば臨場感のある、悪く言えば詰まらない状態で話は進んでいく。其れが変わるのは、取材中に実験で事故が起こり、脱出を余儀なくされるからだ。而て取材班は脱出艇から、小惑星に咲く怪花を見つめるカットで終わる………………。
いけない、船を漕いだ。折角の機会なのだから、きっちり見ておかないと…………。其れに、深海底を進む大陸間隧道の高速鉄道から見ると云う状況。此れは、中々体験できるものでもない。併し、見ていると、汗ばみと、磯の香りとを感じた。
…………
岩に波が砕け散る。寝そべった「マコト」にとって其の景色は、苔むす磯浜から眺めると一層美しく……磯浜だと。手を見ると、既に怪我している。血も出る。
「ああ〳〵ああ〳〵ああ〳〵ああ〳〵ッ」
「
其の声は上からした。断崖絶壁の上にひよいは立って、僕を見下ろしている。
「ひよい……手を怪我した」
「怪我ア。哀れね」
「酷いぢゃないか。ひよい——あ、怪我の概念は理解できるか。治療法は」
「知っとるわ」ひよいは、崖の上から「マコト」の居る処へ飛び下り、目線を合わせる様に身長を調整した。「口、貸して。治すから」
疑問に思う間もなく、ひよいはマコトの唇に触れ、何かを送り込んだ。接吻は覚えている限り、此れで三回目である。今度は全身を内側から棘で刺された様な鋭い刺戟が全身に回り、痛みと共に傷口が熱くなって閉じた。まるで、全身が発熱したかの様だった。併し、然うでは無いと理解出来る。
「ちょっとした手順よ」ひよいは唇を離して言う。「私にも病原菌はいるけど、全身に埋め込んだ免疫系を刺戟すると消毒出来るの。其れを、傷の回復を含めて貴方にも実行した」
「其れって、僕を無菌状態にするって事」
「違う。日和見菌とか、腸内細菌とかは残ってる筈よ。病原菌は死滅するけどね」ひよいの微笑みを見ていると、此のC.B.'n——人工智能——が、嘗て沙漠の沙を口に含んで未知に興奮していたとは思えない。「安心しなさいな」
接吻をして距離が近い儘顔を眺めていると、普段との違いに気づく。顔が黒ずんでいる。併しひよいは人工智能であるから皮膚の成分が云々ではない。試しに頬を触ってみると、土埃だった。
「何よ。私の顔に何かついてる」
「
「……
全身を見回すと、服装も普段と違う。「セイエイ」の鳳嶺での外套に似ているから、沙漠を生きていく為の装備だろうか。……思い返すと、自分も沙漠の世界でこんな服装をしていた気がする。思案の中で、何故かマコトは、眼を閉じた。
………………
「此方、遺伝子組換えによる実験体の成長の映像記録です」
人の声に目を開けると、番組は進んでいた。取材班は来客用の場所に通されて、専門家から幾つかの記録を見せられている。撮影機は映像記録を画面越しに撮っている。一つ目は、遺伝子を改変した鼠が毛の代わりに植物を生やし、動かなくなっていく様子。二つ目は、青々とした植物の様な表皮の鼠が様々な活動をする様子。三つ目は、水槽の脳が——。迷い込んだ人物と出会い、居るべき場処から脱出する仮想空間上の監視映像。
目を開く。気付けば目を閉じていたらしく、セイエイは四つ目の映像を見ようとしたが、書類に変っていた。撮影機はキャメラワークとして、映像を流す画面を幾つか映してから、其れらの成果を示す論文に移る様にしていたらしい。画面と論文とは夫々三つづつだったが、三つ目は見たものと題名が異なっていた。三つ目のものは植物に人類に似た脳を持たせる実験で、先刻とは全く違う。
集中できず、セイエイの眼は閉じて行く。
…………
「オヽイ。マコト……」
背中を叩かれ、痛みに目を開くと磯の香りが鼻に伝う。
「大丈夫、ぼんやりしてただけだから。ひよい、進もまい」
「え、えゝ」
磯浜から上に繋がる道を探すべく歩いていると、左手に
「体調が悪そうだけど、大丈夫か」
「然う見えるか」
「先刻も、微動だにしなくなってたよ」ひよいは頷き、肩の筋肉を触った。反射を引き起こして腕が変な方向に曲がる。「斯うもならずにさ」
「試したのか……。取り敢えず、登ってから一旦憩おう」
「分ったよ」
痛みを引き摺り、マコトは斜面を登って行く。ひよいが後ろにつき、何か異変がないか背中を見つめている。
…………
警報らしき鳴動に、セイエイは座席から飛び上がりそうになった。光の刺戟に慣れぬ儘、
「(規制音)にて事故が発生しました。対応に当たって下さい。尚、取材班の方は脱出をお願いします」
画面には然う字幕があった。混乱は作中だったのだ。画面——撮影機には取材班が駈け出す様子が映る。取材班の撮影係は廻転する赤色灯の通路へ、手振れの補正も間に合わぬ程に急いでいる。
「マコトっ」
一瞬、規制音も、古い番組に特有の雑音もなく、純粋な何かが聞こえた気がした。
其れにしても、此の場面は、まるで自分が其の渦中にいるかの如く思えてしまう。現実を越えた何処かへと浮遊する様な感覚を伴う、独特な視聴体験である。
「一番近い乗降口に案内します。……左手の(規制音)番です」
若い専門家が取材班よりも疾く駈け、先導する。赤い通路の中で青く灯る乗降口には偶然か、丁度取材班が乗って来た宇宙船が置いてある。専門家は取材班が宇宙船に乗り込む迄、小火器を手にし気閘へ通ずる通路を見張る。取材班の全員が乗り込むと、画面は切り替わり、粗い乗降口の監視映像となる。気閘が閉じられた向う側で、銃火器の音が数発響いて聞こえなくなる。再び画面は取材班に戻り、宇宙船の操縦席からの視点となる。
「あれ、映せるか」
「わかった。やってみる」
暗い宇宙しか映っていなかった画面に、唐突に小惑星に生えた「花」が
遺伝子組み換え植物と細菌とが予想外の共生で生み出した群体の怪花。後の調査により、然う判明したのだとの語りが入る。以前の回迄ずっと冒頭に吹き込んでいた声だ。其の語りの途中で、主題歌が流れ始める。主題歌は以前と流れる部分が違う。
「未来には、責任も伴うのだ」
セイエイは然う思った。其の直ぐ後に、語りも同じ言を言った。制作陣の名前が流れ始めた所で、セイエイは番組を切り替えた。もう、其の後にある事を見る勇気はなかった。セイエイは疲れ過ぎていた。此の旅が終わった後、もう一度此の番組『裏方の職人たち』を全部見るとしようか。
番組を変えるのは雑にしたが、偶々クラシック音楽の番組だった。月を思わせる様な、何処かの民謡にもありそうなピアノの音楽。演奏家が其れを、奏でている。此れは天文に関する音楽だと確信を抱いて直ぐ、「
……………………
未知の中の「マコト」が目を開けた時、自分の背中はひよいの足に当てられていた。仰向けにされたマコトの背中が、重力の儘にひよいの下腿部の前部、固い骨の部位に当たっているのだ。加えて、マコトの足は折れ曲がり、靴が立っている時の様に地面の上にある。
「起きたねマコト、突然気絶するから斯うしてやったぞ」
マコトはひよいの体が予想以上に人体に似ている事に驚く前に、弁明を始めた。
「止めてくれ、多分今日は此れ以上気絶はしないから——」
「フン」
ひよいは臀部を蹴った。マコトは悶え、ひよいは立ち上がって痛がるマコトを腕に抱えた。
「本当だと言えるなら立たせてやる。嘘だと言うなら海に突き落とすわ。……言い方が悪いわね、今後も気絶するかと私は問うているね。しない、と
「エ」
ひよいの
「若しかして、僕って世界を越える度に気絶してたのか」
「やっと気付いたのね」
「わかった、わかったよひよい、此れからは気絶しないからさ。……睡眠は別として考えて呉れよ」
「睡眠は識ってるから安心なさいな」
ひよいはマコトを下ろしてやった。マコトの周囲は、崖の上に広がる僅かな平地と急傾斜の斜面、而て落ちたら死ぬる事になろう急崖と、ひよい一人。急傾斜地と狭き場処に住まう植物に目を向けて、此れを識ろうかとも思ったが、何か違う気がする。
土埃に塗れた服装は、二人が識るべきものを示唆している様にも感ぜられた。
「何を識ろうかね」
何時も通りの、何もかもが未知の状況に、マコトは問うた。
其処に、呟きが届く。
「——誰だ」
背後で確かに、声が発せられた。併し、其れはひよいの声ではなく、一人にしか聞こえない様に考えて発せられた声であった。……声量から考えると、何の位の声の大きさで他人に聞こえてしまうかと云う距離感を忘れている様でもあったが。其れでも、二人が直後に気を失ってしまったのは、マコトが、相手が敵意を持っている場合と云うのを考えていなかった為めである。ひよいが、マコトに敵意を持っている場合、自分が取るべき行動と云うのを瞬時に判断出来なかった為めである。
「——アパイ
「ハア、お前、本当にこんな奴らが敵だと思ったってのか」
「だって知らないんだもの。貴方に私の事話したでしょう、前に……」
「分ったから拗ねるな」
見知らぬ二人の声が聞こえた。其れに、鎖の音も聞こえる。真上を捉えた視界は、高い場所迄続く螺旋階段を映した。左に視線をずらせば、ひよいが鎖を動かしていた。マコトが起きる頃合いを見計らって動かし始めたらしい。
「オイ、彼奴ら動き出したぞ」
「何うしたらいいのかな」
「お前の言った通りにすればいい、お前が持って来たんだからな。下で待ってるよ」
其の二人の声は、片方が外でも聞いた声で、もう一人は少年らしい声だった。
「目覚めた様ね。私はイハ。此の灯台に住んでる者よ。幾つか質問をさせて貰うわね」
視線を戻すと、其処には少年が立っていた。性別は分からない。「セイエイ」の歴史観で云う戦前ならば、少男だ少女だと言っていたのだろうが、価値観故に「少年」や「彼れ」としか考えられない。
「何処から来たのか。何者か。何処へ行くのか。解るかしら」
何処かで聞き覚えのある質問だった。答えに窮してひよいの顔を見ると、自信満々な様子である。
「Eugène Henri Paul Gauguin」併し、聞こえたのは囁きにも近い小さい声だった。「昔の画家の言葉でしょう」
「巫山戯ないで」
声は届いていたらしいが、イハの望む返答ではなかったらしい。此の手の質問に答えるのは何回目になるか、覚えていないが、解るのは恐らく正直に答えた方が身の為であると云う事だ。「世界の旅行者」——以前J7ESFの面々に説明した時の言葉だ——である自分の言える事をだ。
「来た場所は地球。僕はマコト、旅人だ。行く場所は、知的好奇心が刺戟される場所」
「来た場所は……トクシマシカ。ひよい。同じく旅人、行く場所は
其の応答に彼れが首を傾いだのも、理解出来る。我々は此の状況に慣れ過ぎたのかも知れない。
唐突に電子音が聞こえた。イハが何処かに通報したのかとでも思ったが、然うでなく、通信の開始を知らせるものだった。
「イハ、此奴らは
「わかった」彼れは牢の鍵を開けた。「勘違いだったみたい。御免なさい」
鎖が解け、四肢を見る。赤く痕が付いているが、起きた時に残っていない事を願うばかりである。イハは僕とひよいとを手招きし、下へと降りる階段を降りて行く。古びた石の階段の先には、色褪せた旧式の機械類が見えた。
「……古典計算機。何年前の製品よ」
「ひよい、私も知らない。此処で生きて来たけど、ずっと立ち上がった儘」
二人の受け答えを聞きつつ下層を見回せば、広く明るい窓、下に詰められた計算機(流石に真空管ではないが旧い)と、計算機の入力装置の前に座る背中が一つある。其の背中は、多数の苦難を乗り越えた空気を醸している。若しかすると、イハより前に此処に来た人かも知れない。
「あゝ、紹介しておくわ。最近、此処に来たマーデよ」
予測を裏切る紹介に、椅子が回り、背中は腹になる。「宜しく」と其の言に動く口からは牙が覗き、手袋をした手から腕迄に鰭がある。下半身は人魚の如くで、椅子もよく見ると車椅子だった。
「……」驚きの沈黙をしたものの、異世界には斯う云うものがあってもいいと感覚が湧いて来た。人魚が実在すると確認出来る世界もあろうと。「初めて見た。マーデさん、宜しく」
「さんは要らん」
マーデは然う言って計算機に椅子を戻し向き合う。仕事か何かだろうか。周辺の監視映像らしきものを見張っている様だが……何だろうか。
「マーデは近くの潜水艦に調べた時に出会ってね。ほら、南イルネン
「——
ひよいが僕に耳打つ。場所の確認をした方がよさそうだと云う意思表示であろう。此方を無視しているかの様なマーデを見るに、イハに説明を求めるのがよさそうである。
「レハカトン
「星の名前を聞いてもいいか」
「エ。マア、いいわ。地球よ」
聞き慣れた言葉に
「地球……日本は」
「ン、待って、そんな読み方が一意に定まらない地名知らないわ」
マコトは、J7ESFで地球儀を目にした時の混乱を再演された様な気分になった。新生「日本国」——通称NNの領土であるべき日本列島や東ローラシア大陸東海岸部にJPNなどと書かれていた事。然う言えば、ナラヒア諸島——Narachiiaの文字もなかった気がする。「寺内情栄」の知る地球と、J7ESFの地球儀とを思い出しつつ、マコトは問う。
「綴りをば教えて欲しい」
「LEHAKATON YUGULA。Apai Xinli。Apai Grouam。ケエトイル・ゴ
検索して合致した地名は零。こんなものが、「地球」なのだろうか。せめて類似した大陸配置で地名が違う程度に差異を留めていて欲しいものだ。
「ンノサボ諸島はあるか。有名な観光地の筈」
思案中にひよいが割り込んだ。
「ツィケ
僕はひよいが唐突に言ったンノサボ諸島も未知の地名である事を確認したが、話を拗らせない為に呑み込んだ。
「一応は。世界を越える事も
「うふゝ」
「ニッ」
「ハア」
一瞬で、イハの顔から笑みが消えた。
「此の『地球』は、今、侵されている。『闖入者』、然う呼ばれる正体不明の外来の寄生生物」併し、其れは撃退を依頼する口調ではない。「私は、理解したい」
「理解……」マコトは、何を言うべきか迷った。来てばかりの人間が言うに値する事かは分からねど、此の世界の地球を侵している存在に対する心持ちを、諭すべきか。「聞くに、『闖入者』は危険なものだと思うが」
「危険なものとわかっていても理解する価値があるから識る。危険性が不明でも、間接的に識ろうとする事はあろう」
イハは然う、マコトを諭す様に返した。マコトの脳裡に「セイエイ」が見た夜空が蘇る。恒星間天体、通称「彗星」は、太陽系への影響が一切不明であるのに、人類は既に探査機を打ち上げて撮影迄始めている。最早、間接的でもなく直接的である。観測は間接的だが、もう一人の自分が説教を受けている気分になって、マコトは心の淀を掻き乱された。
「そろ〳〵日が落ちる。ぢゃあ、あの建物の貴賓室を開けておくよ」
「エ、イハ……さんはいいんですか」
「私の目的は識る事だから」
イハは、マコトとひよいとを先導して大きな扉を開けた。大型車輛搬入路の言葉が似合う其処を通り、前に目をやれば、割れ〳〵の
「さ、入って。普段から綺麗にしとるから、清潔な筈」
扉が開かれると、木目調の壁に囲まれた部屋が現れる。四人全員でも余りそうな寝台と小さい机とが現れる。本当にこんな部屋でいいのか改めて問えば、「客人なんだから持て成すだけ持て成すよ」と。「世界の旅行者」を客人として扱ってくれるのは覚えている限りでは初めてではなかろうか。大抵の異世界で何某かの役割を演じていたからであろう。
「ま、一先ずは睡眠ね。日が落ちたら寝なかんで。ぢゃあ又明日」
「……」扉が閉じられると、二人は目を見合った。「…………」
部屋を見渡す。窓からは海が見える。寝台が二台と通路を挟んだ壁には鏡。鏡の反対側、寝台の奥に置かれた棚には何もなく、衣裳も書籍もない。昔は誰が使っていたのだろうか。見窄らしい格好をした二人が使っていいものとは思えない。が、使っていいと言われた。
「おやすみ」
「ン、然うね、お休み」
其の夜は、不思議な夜だった。「夢」の中で睡眠するのも奇妙だのに、夢の中の睡眠でも夢を見たのだから。
意識の奥底、専門家が集合的無意識と呼ぶ様な其の処に、マコトは立っていた。其処は一寸先が闇であり、足元だに見えなかった。だが、全身の感覚は寧ろ、視覚以外を活性化されていた。
其処で、女神の様な声の呼び声が聞こえた。此処でなければ聞こえない様な微かな、女性的な声ではあったが、自分の知る何れとも異なる声。其れは、昨日のセイエイに囁いた女神の様な声だった。併し、聞き手を屈服させようとする気配はなく、何かを憂う声だ。杞憂かも知れないなど微塵も考えず、遠い宇宙で孤独に死に絶えそうな若き命を案じている……。
——
其れはマコトへの言葉ではない。ひよいへの言葉でもない。此の世界の地球に住む人々への言葉でもない。此の思惟の主、
「Tsice……」
其の名前を、「セイエイ」は聞いた事がある。「『旦那』は、訳ありです。ツィケ……『地球系生物』から我々は身を守らねばなりません」と、栫井八千代の忠告が再生される。併し彼の時の、髄迄をも震わす無理強いを優しさに包んで隠した声ではなく、慈悲に満ちた声だった。心の底から、慈しむ囁きだった。
視界の中で、赤く光る星が、一瞬だけ青く輝いた。其れは、誰にも見つかる事のない、見つけてもらえない孤独な星。いっかくじゅう座のIC447が煌めいた後は、何も、見えなかった。
マコトがマコトとして見た、其れでいてマコトのものではない奇妙な夢の後……夜分遅くにもなって、二人は目が覚めた。同時に目を開け、同時に体を起こし、同時に互いを視界に入れた。寝て思考が冴えたのか、マコトは唐突に口を開けた。
「ひよい、イハとマーデと接してさ、何う思った」
「えらく抽象的な議題を選んだね」ひよいは然う言いつつも、会話を中断させる事はなく、掛け布団を除けて床に立つ。「好奇心の塊……でも、背景は
「其れって」
「目的があるのよ、きっと。マア、見当違いかも知れんが、然う思える。二人が言った『闖入者』を識った後を考えている」
「後って、何だと思う」
「わしが知るかよ」ひよいはマコトの体を立たせ、窓に目を向けた。朧月夜である。「マ、私なりに人物から鑑みるに、イハちゃんは『闖入者』に対して何か希望を抱いているんぢゃなかろうかね。真の目的は其れを媒介した何かとかね。マーデちゃんは其れを援けているのかな、流石に、計算機弄りしか見ずに内面を推測するのは困難だわさ」
朧月夜の下に、又朧月夜がある。イハの曰く南イルネン
「……」
静寂に、何かを聞いた。器械の動作音をである。足音のない儘、扉が開いた。車椅子の、古代から地球を見てきた様な——「鮫」の女、マーデが其処に居た。
「本人に聞けばいいだろう」
梃子を倒し、車椅子の車輪が回る。摩擦により、マーデは此方へ近づいた。「夜中に起きとる思うのも無理があるか」と問えば、二人は頷いた。
夜空を薄く覆う雲は消え、此の世界の「月」が姿を現す。兎が居ない。月の兎——然う見立てられるあの黒い大地も、ティコもない。
マコトは「セイエイ」の知識を思い出す。月への興味は薄かったが、隕石孔や地名は覚えている。見えているのは……モスクワの海、其れに南極エイトケン盆地だろうか。乃ち、マコトがひよいやマーデと共に目にしている「月」はセイエイの知る月と大差ない——其れが、裏側であると云う点を除いて。
「其れで、俺が『闖入者』を識って、何をするかだっけか。一つ、前提が間違っている」マーデは手を挙げ、五指を以て一を示した。暗い
失念していた。識る事を深めると云う行為、既知を組み立てる行為も又、識る事であるのだ。
「月が出ているな。逸れるが、二人の月はどんなだ」
「私は電子空間に居たので、存在しか知りませんね。画像も見た事ないので」
「然うか。マコトは」
「此れは……僕にとっては裏側です。常に同じ面を『地球』に向けているので、此の面は探査機からの画像でしか見た事がありません」
「探査機か。然う、君の世界はあんな場所に迄人間が行くのだな。其の、行ける地球人たちは俺の想像もつかない姿をしているんだろうな」
マーデは自らの腕を撫でた。太い腕から生える長い鰭が、其れに応じて柔らかく変形する。
「マコト、多分マーデちゃん何か勘違いしてるよ」
「エ」
「……然うか。因みに俺は男だぞ」
「エエ〳〵エヽ」
ひよいが驚愕している間に、言うべき事が見つかった。
「ア、外見も能力も殆ど僕と変わりありませんよ」
「確かに、俺の想像と違うな。ぢゃあ、向こうに何う行くんだ」
「知識です。知識の活用された打上げ機、宇宙服とかを用います。……使用法とかの知識は必要ですが」
「……種としては変わらずに、知識による進歩か……。其の世界も興味深そうだ」
「ええ」
マーデが納得すると、同意の言と共に安堵の吐息が漏れた。マコトが語ったのはセイエイの世界のセイエイの理解によるものに過ぎない。何故を問われれば混乱して答えに窮していたろう。
「フウン……」
マコトの語ったセイエイの世界の事物を、ひよいは初めて聞いた。一回接吻をしてマコトの全てを識った気でいたが、然うでもないらしいと気付かされた。否、識った記憶を其の儘保存しているだけで、自分の解釈をしていないのだ。人間の様に、或いは自身が体験した記憶の処理の様に、記憶に手を入れなければ、他から得た記憶は自我の一部にはならない。
ひよいが他から得た記憶も自己の記憶とする為に工夫を始めると、マーデが長い沈黙を破った。
「あの日もこんな月だった。彼の海原の先、イルネン
「外……」
ひよいがマコトへ視線をやった。丁度ひよいが再解釈を始めたセイエイの記憶の中に、「外」に強い憧れを持つ知り合いが居たからだった。
「俺は奴と出会って、此処が既に『外』だと気付かされた。奴にとって、俺は見たことのない外見を持っていた、という事なんだろうが……」マーデは自分の指先を見た。鱗に覆われた指に、爪はない。「けど、中身は人間だったと思ったらしい。其れでも此の姿を見れば、恐怖する人間の方が多い筈だ。恐れないのには……イハの心に、何かがあるんだろうな」
「其処は分からないのね」
「明日にでも本人に聞け。付き合いが長くても全て知ってる訳ぢゃないさ。他人だからな」
其の時、マーデはひよいを見ていた。だが、別にひよいが今何をしているかは知らない筈だ。
「……」
「奴、イハはな、ずっと此処で生きて来た。
「ヘンニ……」
ひよいが試みた質問は、天へ登る雷に掻き消された。
「未知は何時でも其処にある。でも、諦めてはいけない。明らかにする為には識り続ける……識り続け様とする事が大切なんだ」
雨音が響き始める中、傾聴と思案とから帰って来たマコトが、物語の結末を語るかの様に
マコトの言に、マーデは車椅子をもう一度二人に近づけた。床に立つひよい、寝台から体を起こしただけのマコト、車椅子のマーデの視線が交叉する。
「明日、お前達を見て、俺の事を話すべきか考えるとしよう」宣言の後、車椅子は回転し、部屋の扉へ向かい始める。「お休み」
「お休みなさい」
マコトが言うと同時に、ひよいは扉へマーデに先回りして扉を開けた。雨音が聞こえる。
「難有うな」
「えゝ。お休み、マーデちゃん」
然う言われて、「ちゃん」を女性にしか使えないとでも思い込んでいるのか、マーデは視線を逸らした。此の建物と灯台の下層とを結ぶ切通しに、雨が打ちつけている。暗闇は、マーデにある記憶を思い起こさせた。
「然う言えば、俺が『闖入者』を識っていると言いながら全く言っていなかったな」雨音に負けぬ様、マーデは声を張った。「『闖入者』は寄生生物だ。寄生された存在は正気を失うらしい。人間の場合は被害者の弔いをするのだそうだ」
マコトは、やっと寝台から下りてマーデに歩み進む。マーデは二人に顔を見せた。
「此れが本題なのだが、『闖入者』と人間は正気を失う場合以外にもある。だが、失敗すれば葬儀となろう。で、此の辺りでは、食人が正統な葬儀らしいぞ」
「……」
「……」
マコトとひよいとは顔を見合った。互いに似た表情をして、其の言の示唆するものを咀嚼している。
「ぢゃあ、本当に此れでお休み」
扉が閉じられる。二人きりとなった部屋でも、暫く見合っている。——『闖入者』を識るとは、葬儀を必要とする……死の危険のあるものなのだ、と。而て「凡ゆる知識」のあるイハにとって、「闖入者」は其の外にあるのだと理解した。
翌朝、イハは昨日予告した通り、「闖入者」を識らんとするが為に出かけると言った。一日経って、行かない事になる可能性は低いと感じていたが、イハと云う少年は減衰するどころか昨日より行きたく思っている様に見えた。
昨日、マーデは三人きりで言葉を交わし合った時に「変異人種」と云う言を使っていたが、其れが何を指すのかは判然としない。セイエイの常識に照らせば恐らくマーデの事を言うのだろうが、此の世界に於る常識は異なっていてもおかしくない。
「
アパイ
「地球」の地図の全体を見れば、西にケエトイル・ゴ
「其処、今から何年前に潰滅したんだ」
「此の灯台が立った頃と同じ位前だと思う」曖昧な答えが返って来る。イハはあまり関心がない様子だ。「五十年位かな……ぢゃ、行こまい」
軽い荷物——「セイエイ」がウエモンと運んでいる「天ツ川会」の望遠鏡の収納鞄と同じ位の大きさで、見るに望遠鏡より軽い——を背負ったイハは、海を右手に見て西へ進んで行った。
歩みを進めると、海岸から河川に沿う様になる。河川を渡る橋は、橋脚だに現れる事無く、四人は遡り続ける。町の跡は、確かに現れた。廃村であった事も、残る平場の広大さと、微かに残る朽ちた家屋と、苔や蔦の拠り所となった
二人が景色を眺めている間に、マーデは自身の車椅子に載せた荷物を漁り、一つ、記録体を取り出した。
「灯台の過去の記録だ。灯台にはセンパクなるものと通信する機能が備わっているらしく、稼働試験を行っていた時に紛れ込んだらしい」
ラヂオ・カセット・レコルダアと云う名前を聞いた事がある。現在では専ら電波自由区での災害時の通信手段として用いられるが、其の受信装置に似た形をしている。併し、内部には情報が書き込まれた何かが見えた。マーデが其れを持つ手を少し捻ると、中の其れは回転した。四次元以上の超立方体らしい。……よくわからない。其の超立方体の三次元投影は捻りが終わっても暫く回り、或る所で再生を始めた。其れに拠れば、「何かに襲われている」と云う出来事があったらしい。「黒いもの」だと、発信者は混乱しつつも的確に情報を伝達する。総合すると、「小さく黒い不定形の何かが空中を舞い、人々を襲っている。襲われた人々は襲われてない人々を襲う様になる」らしい。
「大丈夫なのか」
「安全に関しては俺が此れを使う」荷物からマーデが銃を取り出した。「人の殺傷能力のない拳銃だ。お前も何か使うか……
マーデの荷物は護身用の武器の様である。柄を外し、日本刀に酷似したものを渡され、ひよいは重さに狼狽えた。刃文に何かが映ると、ひよいは好奇心よりも恐怖に震えた。以前、感情を識らなんだひよいならば然うしなかったろうが、刀が落ちた。ひよいは刀を落としたまま後退りした。マコトはそれを拾い上げることなく、落ちたままの刀をじっと見つめた。
「……物理法則が通じない世界ってのは、やっぱり妙な感じがするな」
然う言いながら、マコトが見上げると、鳥であった。視界の外から這入った矢に射止められ、落ちる鳥に近づいたのは、イハである。
「ウン……丁度いゝ、二人共、此れを見給え。『闖入者』の影響が理解出来よう」イハは鳥を寄越した。血が流れているが、赤くない。イハが鳥の顔を見せると、其の瞳が左右で異なる色に光った。其れに加え、虹彩は左目に多重にある。観察中に、死んだ筈の鳥の羽毛が蠢き始める。「おっと」
イハが手を離すと、マーデが狙撃して鳥の胴体を撃ち抜いた。地面に倒れ伏した鳥の体から透明の何かが抜け出る様に、
「今のは……『闖入者』、でいいのかな」
「其の通りだ。鳥類に寄生していたみたいだが、基本的に宿主は
Animalia。其の言は、廃村の探索を再開しても暫く二人の耳に残っていた。意味が分からなかったのではない。不気味に思ったのでもない。興奮だになく、異るものを発見した感覚が無感情に響いていたのだ。
「宿主を見つけていない『闖入者』は、空中を浮遊する。宿主となり得る存在を見つけた時、奴らは周囲を囲み、一斉に其れに飛び掛かる」
森林の中に埋もれかけた廃村の平場に、木々が未だ生えぬ場所を見つけたのは、探索を始めて南中を迎えた頃だった。草木も何もない禿げた窪地の、光を吸い込む様な暗黒の物体は、地面に植わった道路元標の如くに静かに圧倒的な存在感を主張している。イハは首から提げた小さいものを外し、広げた。其れは四次元超立方体の三次元展開図となり、イハの手慣れた操作を受け付ける。
「マコトにひよい、初めて見るのか。先刻は宇宙に進出するだけの科学のある世界出身とか言ってなかったか」
イハの準備の間、暇そうにしたマーデが回りを眺めていると、イハの行動についていけずに呆然と眺める二人に気付いた。
「皮肉は止してくれ……次元を操作するなんて聞いた事無いぞ」
「私もだな。然う言うのは創作の中の噺だった」
「ヘエ。『地球』にも色々な違いがあるもんだな。此の世界ぢゃ、次元操作なんて文明の初めの頃からあったらしいがな……昔は昔で、時折出来る『次元龜󠄁裂󠄀』に警戒せねばならなかったらしいが、今はそんな事を心配する必要はなくなった」
「技術の進歩か」マコトは羨ましがりつつも、此の世界の独自の発展に敬意を送った。「僕は覗き込んだだけに過ぎないが、凄い事だな」
「ン。今度は君が勘違いしたな。心配無用になったのは、其れが廃れたからだよ」
其処に、イハの声が届く。撮影の準備が整ったと。あの展開図は、撮影機だったらしい。
「資料に残す価値があると思しきものは、然うしなかんでね」
イハが言の通り、撮影機を動作させる。三人はイハの撮影の邪魔にならぬ様、背後に立っている。
「此れ、付けておけ」
マーデが遮光眼鏡を手渡した。四人の目が守られた事を確認し、閃光が焚かれた。
太陽に覗かれていつつもあらゆる光を受け付けなかった、窪地の中の黒い物体は、其の一瞬だけ、凹凸を明瞭にさせられた。其れは典型的な隕石の形状をして、焦げた黒色であった。而て、焚かれると同時に光ったのは、石質隕石の一種、パラサイトの断面図に似ていた。其れは、此の遮光眼鏡を通して見た景色と云うより、何処かの博物館で見た景色と似ていた。マコトは、此れを図鑑で見た事はあったが、「セイエイ」も知らない景色を見、今や自分が「寺内情栄」と呼ばれた人間ではない事を自覚した。僕は、あの「謎めいた男」に告げられた通りの「マコト」を偽名とした寺内情栄ではなく、「マコト」を本名とする人間となってしまったのかも知れないと。
思案の中、而て撮影が終わり、何も変化がない事に按堵し、イハから眼鏡を外し始めた。イハが四次元超立方体の展開図を組み戻し、大きさも変って小さな首飾りに戻る。其の時、束の間の休息は終わった。未だ眼鏡を掛けた三人の視界の中で、隕石は光り始めた。
「エ」
撮影機の閃光を焚き返す様に、隕石其の物が輝き、隕石の周囲の影を消し去る。
「イハァッ」マーデは叫んだ。だが、車椅子故に動けずに居る。「見るな」
だが、イハの顔は振り返らず、隕石を向いていた。遮光眼鏡をかけていない人間が、閃光を直に見たらば何うなるか、マコトはセイエイの記憶に頼らずとも知っていた。而て、遮光眼鏡を以ても眩しくなり始めた隕石に、マコトは駈け出した。光に押されまいとして進む。ひよいも続いて駈け出したが、地面から足を離した。飛んだのだ。ひよいはマコトの背後に来、遮光眼鏡を外す。
「死ぬ気か、ひよい」
「大丈夫」其の時、マーデの視界ではひよいの影が消えた。「私は、人工智能よ」
影が消えたのは、蒸発したからではない。実体から情報になった故だ。ひよいの飛び、二人は重なる。重なった二人はマコトの掛けていた遮光眼鏡を目にかけ、ひよいの持っていた遮光眼鏡を手にし、飛んでいる。飛び掛かったひよいの速度を其の儘に、二人はイハに近づく。きっと、イハは目を焼かれているのだと思っていた。併し、眼鏡を掛けようとした手だけはイハに弾かれた。
「ヘェッ」
感嘆符と疑問符とが同時に付いた様な間抜けな声を発し、二人は目的を達せられない儘、地面と擦れた。視界の中では、影を消し去った隕石の周囲にある一本の影に向かって、森の中から現れた大量の「影」が銃弾の如く飛び交い、彼れに狙いを定めて集って行った。
——
「私は……」
マコトの口が動いた。ひよいが衰弱したマコトの体の主導権を握っているらしく、マコトの声を発していても口調がひよいである。手足を確認すれば、傷一つない。「私の役目は果たせた様だ」と、ひよいの思惟が流れ込む。
「マーデ、イハ……」
隕石は変わらず其処にあった。目に入ったのは、黒い隕石と其の隣、黒い何かとである。マーデとイハとを探して左を向くと、熱で変形した車椅子と、倒れ込んだマーデがあった。駈け寄る。暗い体表の循鱗は光に触れて一部が爛れており、泳げそうにない——未だ、マーデが泳いでいる所を見た事はないが、然う察せられた。
マコトとひよいとはマーデを担いだ。負傷しているかも知れない体を自らの体重で傷つけぬ様に、持ち替えて抱える。マーデは目を覚まし、割れた遮光眼鏡を外し、遮光眼鏡を掛けた儘のマコトとひよいとを見た。
「何だ、お前……マコトみたいな顔して、ひよいみたいな髪をしとるな」
「私だ。済まないが、此奴を守るには斯うするしかなかった。……本当にしたかった事は、出来なかったが」
二人の右手は地面と擦れて壊れた遮光眼鏡を見せた。元々ひよいが付けていたものだ。其れを見て、マーデは二人の事情を察した。
「同一の存在になる、か……其れとも、重なっているだけか」
「後者の方が、近いだろうね」二人の——マコトのものにしか聞こえないが——口調が変り、声が突然掠れた。咳くと、聞き取り易い声に変る。「私が労わっているんだから
「其処だ」
「ヘ」
「其処、隕石の隣、場処も変っとらんだろうに」
其れは、二人が先刻「黒い何か」と形容したものだった。確かによく見てみれば、黒いものは黒く焼け爛れた様な服を纏い、焼け
「下ろせ」
「あゝ……」
マコトの体を守る事を一瞬忘れて、二人の息遣いに荒く掠れた吸気音が混じる。隣に寝そべったマーデと、立った二人は、
「此奴は……自分とは何かを知りたがっていた」
マーデの呟きに、マコトとひよいとマーデとで話した昨夜の事を思い出す。其の手段が、此れだと云うのか。暫くして、吐息が透明になると、イハの体の口は開き、言葉を発した。
「私を識れた」即座に私はイハの頭を撫でた。あれだけ「闖入者」を身に受けていながら、脳や神経系は寄生の形跡がなく、変異もしていない。「変異は、地球が与えた可能性なんだ。多様性の一つと云うのは、結果に過ぎず、目的でもある」
何故、此奴はこんなにも満足気なんだろうか。イハの体は、人間ではなくなっているのに、心も精神も人間の儘——此れをした後に、イハは何を求めるのか。肉が割れる音がした。イハの左腕から、何かが現れる気がした。肘を軸にした回転する何かだろうか。見えたのは、
「葬儀を……」
其の、イハの新しい腕がマーデに向けられる。小刀を受け取らせたのだ。マーデの手に確かに小刀が握られると気付くと、安心してかイハの眼は閉じられた。
——「私を識れた」
「識る事……まるで、ゴルディアスの結び目を、解いた様な衝撃だ」
二人の内、何方かが呟いた。マコトも、ひよいも、「地球」を識っている。併し、「Γορδίας」の伝承を識っているのが、一体何両方だったか、何うしても思い出せない。
——「で、此の辺りでは、食人が正統な葬儀らしいぞ」
誰も正気とは思えなかった。
アパイ
其の夜は、夜空の下に火を熾した。
「其れで、何うするんだ。マーデ」マコトは車椅子を組み立てつつ、マコトの声で、治療薬を溶かした水槽の中で泳ぐマーデに問うた。「葬儀だ」
「然うねエ。お前がしたいなら、するが」
静謐なる空気か、凍り付いた空気か、よくわからないものの渦中にいる様な心持ちで、ひよいは聞いていた。ひよいの感覚は眠る様に寝かされたイハの体に向けられる。何の処理もしていない遺体と云うものは、
「郷に入っては郷に従え、か」
マコトは呟く。マーデは水槽から上がり、体を拭き薄着を着る。視線を逸らすと、イハの体と添えられた小刀とが自然に目に入る。
「然うだ。……
「エ」
「ン」
「僕は羅馬なんて一言も言ってないが」
「冗談は止してくれ……」
「あゝ、多分翻訳の都合だな……僕と君との
「其れがいいだろう。無理はせずな。俺は強いない」
マーデが小刀を手にし、放す迄、二人は目を閉じ、マーデの語った「葬儀」の意義を反芻し続けた。マコトに、「セイエイ」が今日学んだナラヒア諸島カナモア島の食人の記録が蘇る。あれは、戦時中の仕方ないものだった。併し、此れは——。駄目だ。マコトは、此れを考える事すらも拒絶してしまった。だが、一つだけ現状でよいことがあるとすれば、マコトは、「セイエイ」と別の存在となった事で、セイエイがマコトのする此の行為を知らずに済むと云う事だった。
「終わったぞ」
マコトとひよいとは、覚悟を決めて目を開けた。味覚だにしなかった。自我を保とうとして意識の外に追いやったのだろう。口にするべきだがしたくない、其の感情は二人の奥深くに共有されつつも、執り行われた。別に、マーデは脅していない。其れを行いながら、時折、何とも形容し難い表情で行う二人を心配そうに見つめているだけだ。
全く、夜に何て事をしているのだろうと、其の文章は、誰の考えだったか。
残りの体は炎に包まれた。イハと云う人間は、四次元超立方体の撮影機と、灯台に残されたものを残して物質世界から消え去って行く。「闖入者」に侵された世界で、彼れと係わったマーデ、マコト、ひよいと云う存在だけが此の人間の最期を識っている。
「俺の過去は……」
マーデの言に、マコトとひよいとは互いの目を見た。覗き込む様な、其の深きに眠る何かを視界に挟み込む様な行為だった。マーデは、燃え、弾ける人だったものを見、語り始めた。
「嘗ては、変異とは無縁と思っていた。『闖入者』を憎み、敵として理解しようとした。何時しか理解は共存の為の目的にすり替わり、俺は異端とされた。而て、今、此処に居る……。俺は、此れをお前に語ってもいいと思えた。聞きたいか」
其の問いに、二人の首は同時に振られた。頷(づ)きである。
語りに、記憶の混濁はなく、一筋に、事象が並べられていく。Maadeと云う地球人が生れたのは、既に地球と云う惑星が『闖入者』の標的となった後だった。其れでもマーデは、純粋な地球人として、「闖入者」の侵掠に反抗する勢力の子として、此の世界に生れた。反抗勢力は「地球人の生き残り」を自称とし、「闖入者」の飛び掛かる戦場で、其れらを撃ち殺していった。今、鮫のマーデが手にしている拳銃と機械弓との使い方は其の時に教わったものである。
「大地で、二本の足で此の世界に生きて来た。だが、俺はきっと、当時も狂っていたんだろうな」
「今も狂っていると、暗に言うか」
「ひよい、俺の姿を見れば、解るだろう」自らを嘲る。其の笑顔に上がった口角から鮫の牙が覗いた。「『
Maadeと云う人間が何時憎しみに疑念を抱いたのか、其れは何歳だとか、何の紀年法の何日目だとかは覚えていない。ただ覚えているのは、其れは「殲滅作戦」中に
マーデにとって、信頼する仲間からの信頼を裏切った事に対する事は自分を傷つけた故、繰り返される殲滅作戦——内容は当初から規模が縮小していき、最後に参加した作戦では住んでいる島に襲来する「闖入者」を追い払うだけになっていた——に率先して参加し、英雄になろうとした。而て、マーデは死んだ。作戦中に撤退し始めた「闖入者」を追撃し、島内に点在していた亀裂に滑落したのだ。
何の位の高さから滑落したのかは最早覚えていない。途中で意識が絶え、気付けば奴ら——「闖入者」がマーデの体を癒す信じ難い光景を目にした事は覚えている。滑落した先は、「闖入者」が潜む場所だった。組織「最後の地球人」が何回も探索を繰り返した場所ではあったが、「闖入者」は不活性体となって空中に浮遊していたのだ。何回も作戦で目にした、黒い「闖入者」は、活性体、一つの姿に過ぎなかったのだ。
「軽蔑するか。無責任か」
「いえ。軽蔑しませんよマーデさん、貴方は偶然の連続で然うなったに過ぎない……其れから何を選択するのかは、責任だと思いますが……」マコトは言葉を濁した。マコトにとって常識は「セイエイ」の得て来たものに過ぎない。而て、其れは此の世界に当て嵌まるものとは到底思えない。文明と、様々な人間が存在する世界の常識は、人々が「闖入者」と遭遇し、様々な出来事を起こして変化していく世界には適用できる筈がないのだと。「此の僕の考えは、僕の世界での話です。此処に、其れを当て嵌めるべきでしょうか。すべからざりましょうよ」
「然うか。マーデと云う人間が、ツィケ
「私は、変異したと思えるような出来事がある」ひよいが、重なって初めてひよいの声を出した。「会社の命令に従って、仮想現実に閉じ籠っていた日々の終わるきっかけとなった……夢。私を9141号ではなく、機械ではなく、一人工智能として扱ってくれた存在が、私に語り掛ける夢……」
「然うか」
鮫の変異人種マーデは、地図を広げた。Mavila Tsicenと記された諸島をじっと見ている。其れが、ツィケ
「何か改造された訳でもない。でも、私の考えは変わってしまった。変る事のなかった私にとって、其れは変異に等しいものだった」
「ひよいは変身したのか。此の姿は、『闖入者』による治癒の結果だ。奴らは、平気で個体の遺伝子を弄るからな」
「いいえ……」
——蘇ったマーデにとって、安全でないと拒絶した「外」は最も安全な場所へと反転し、嘗ての仲間の居る島々は危険な場所へと反転した。而て、嘗ての仲間から逃れる為、変貌が覚られない様にする為、「
「恐らく……地球系生物に対する理解が浅いのだと思います。マーデちゃんの話を聞く限り、特に動物に関しては然うでしょう」ひよいは、旭を迎えつつある地の上で然う言った。「人間マーデの受けた改造は、マーデちゃんと云う命を脅かさなかった。貴方は……逃げ出したかったのではないか。脳裡に過ったと云う考えと、
「然うか……其れに比べて奴は……変異したくなかったのかもな」
「お前は、変異した存在は変異前と同じだと思うか」マーデは、車椅子の車輪を前へ進め、重なるマコトとひよいとに問うた。「もし、お前が変異するなら、何う自己を認識すると思うか」
「私は……私にとって、変異とは抑々、自己の情報が書き換えられていく事……生命体ならば、増殖を伴って、繁殖と呼ばれるのでしょうけど、私にとって情報は自己の一部でしかない。記憶、姿が変ろうとも、徐ろになら、自己を保つ変異になる」
「ならば、其れが進めば、元のお前とは全く違う、完全に変異したお前になるんぢゃないか」
マーデの問いは、Θησεύςと云う人物に関する神話を引用して語られる事の多い逆説「テセウスの船」だ。
「其れでも、私は私だと思う。何かに呑み込まれたり、一つとなったりするならば、其れは私ではないと思うけど、然うでないならば、私の儘」
「……マコト、お前は何うだ」
マーデの問いに合わせ、長く伸びていたひよいの髪がマコトの髪の長さに合わせて縮んだ。
「僕は、基本的に変異の前後でも同じ存在だと思う。大事なのは、自己の認識……自我が消え去ってしまう様な変異ならば、其れは同じではないと思う」マコトの頭の中に、「セイエイ」と云うもう一人の自分とでも云うべき存在が思い浮かぶ。「仮令、記憶を引き継いでも、記憶を共有していても、自己認識が別なら別になる」
「其れって、自分の事か」
ひよいの問いに、マコトは頷いた。
「例えば、他者と自分とが合一するとして、存在の数は減る。でも、結果生じた存在が、元となる存在と同一であると意識するなら、然うなんだろう」
「マコトは、場合によると云うのが一番分り易いが……其れだとひよいの意見も然う纏められるな……」
「言うなら、自己の認識の場合による、でしょう。ひよいは一部分が徐々に変化するなら、同一であると」
「其れが好い纏めだな」テーセウスに纏わるテセウスの船の逆説は、元々船と云う非生物に関するものだったが、今回の会話は自己の認識と云う生物に関するものとなった。別に、マーデがΘησεύςの伝承を知っているとは思っていないが、似た様な問いは何処でも生れ得る。「俺は、悩んでるんだ。でも、此れから識っていこうと思う」
「エ、ア、ぢゃあ、『世界の旅行者』に……」
「然う云う訳ぢゃない。哘って貰えるのは嬉しいが、此の灯台に住んで、此れ迄自分がして来た事もイハに任せていた事も全部して、日々を問う
「僕だって地球人だが」
「マコト……言い方が悪かった。地球に足をつけて生きていきたいんだ。あ、今の俺には足が無いがな」マーデは車椅子に鮫の尻尾を何回か叩いた。「何時出る」
「準備が出来たら、直ぐ」
「然うか、ぢゃあ、土産をやるよ。暫く待ってくれ」
一瞬、押すのを手伝おうかと足が動いたが、マーデは静止した。
灯台に向かった車椅子の音は、数分も経たずして戻って来た。先刻は無かった首飾りを付けている。車椅子を手で回している為め、邪魔にならない様にしているのだろう。
「此奴だ。撮影機なんだが、不良品でね。失敗すると『次元龜󠄁裂󠄀』を生じて周囲の空間を歪曲させる」
「超技術はリスクが高いねエ」
「マコトは然う思うんだね。私は別に構わないよ」
「エ」
旅を重ねても驚く事のあるを、マーデは暫く黙り見ていたが会話が再開する気配がないと悟ると首飾りを外し二人に見せた。イハがしていたものと同じ、四次元超立方体の三次元投影である。
「二人共、お前、此れを渡すには当然理由がある。世界を渡るんだろう。多元宇宙論は聞いた事があるだろうが、恐らく、此の世界の発展度合いはお前の世界よりイ……多分、多分だが、上なんぢゃないか。其れで、『次元龜󠄁裂󠄀』と云うものは、其の世界と隣り合わせの世界を繋ぐものなんだに。で、『世界の旅行者』には最適のものだろう」
「聞けば、確かにね」
未だ、「闖入者」の不活性体は舞っている。太陽が地平線から完全に出て、不活性体が赤い朝日の光を求めて移動を始めている。
「暫くすれば彼れらは立ち去る。然うなれば、旅立てるだろう」
「マーデは、日常の中で識るだけでいいのか」
「勿論、識りたい事も、会いたい相手もいるさ」マーデは、西を向いた。「お前の識る相手だよ。『闖入者』と接触した人間は、
三人で荼毘に付した事を言おうかとも思ったが、マコトとひよいとは野暮と思い何も言わないでおいた。何時か共存体系を構築して蘇るかも知れないと云うのは、此処が異世界である以上、空想の中の出来事だと口で言うだけに済ますのはマコトとひよいとがしていい事ではない気がしたのだ。
暫くして、二人は重ね合わせを解き、発つ準備を始めた。首飾りの使い方を教わり、記録しておく。此の不良品は次元龜󠄁裂󠄀を生じさせるのは特定の操作をした時だけらしく、其れ以外は何ら正常品と変わりない。イハとマーデとが使わなかったのは、次元龜󠄁裂󠄀から帰還する方法がない為めで、マコトとひよいとには其れがある故、使えるとの判断だった。
「で、斯う展開する」
「まるでダリの『
「そんな画家も居たね」
「……俺は昔の伝承で聞いたかな……」
そんな会話が出来る程に打ち解け合っていたのか、三人は会話する。次元龜󠄁裂󠄀を生じさせる場処を灯台の
「ぢゃあ、又、機会があればね」
二人が龜󠄁裂󠄀に入ると、マーデは然う言って、手を振った。振り返している間に、龜󠄁裂󠄀は閉じた。其の別れの挨拶は、きっと、マコトがセイエイへと向けたものでもあったのだろう。
…………/*視点変更*/
‘We will arrive at West Laurasia Silvervein Harbour Terminal in a few minutes. Thank you for using the Intercontinental……’
眠っていたセイエイを迎えたのは、到着が間近になった事を知らせる放送だった。其の文面は聞きなれた国内のものと似ていたが、日本語放送がないのが此処が日本でない事を思い出させる。放送とほぼ同時に、列車は一旦下り始め、其処で長い長い隧道を抜けて、遂に高架に出た。
其れは、視界の明るさを
窓から目的地で進行方向にある都市、シルバーベイン
稲光りで其の景色を眺める間抜けな顔に気付かされる。セイエイは口を開けて寝ていたらしい。寝付いた時には開けていなかったが、筋肉が緩んだか何かで開いたのだろう。唾も垂れている。鞄からお手拭きで拭き、未だ口の中に残った唾は、寝ているウエモンを横切って御手洗いに行くのも時間がなさそうなのと、当然此処で吐く訳にも行かないので嚥み込んでおく。併し、何処か「味」が違う気がした。普段、寝起きの時に嚥み込む唾と何かが違った気がした——或いは、心情が。
「起きよウエモン、着いてまう」
「ンニェ」減速し始めた車内に、再び
「……セイエイか。もう着いたのか、速いな」
「然うみたい。降りなかん
「ン、あゝ、俺が先に出なかんな」
駅は、此処が東ローラシアの日本から対岸とも言える位置にあると忘れる程に、日本の何処かの大都市にありそうな空気感を纏っていた。外壁と、天井と、昇降機と、床と、灯りと、此の建物が新しい事を示している。其れも当然である——大陸間隧道の鉄道駅は、近年整備されたのだから。改札口への通路の階段は広く、内陸を向いている。丘陵に張り付いた様な銀と赤銅との入り混じる建築群が、大窓から歴史と伝統とを主張している。西ローラシア大陸は、嘗て新大陸とも呼ばれたものの一部で、今見えている景色も新し目に形成されたものであるが、今や「先の大戦」始め数々の戦争を乗り越えたものは高い価値があるとされている。だから、此の景色さえも、観光客や地域住民の魅力になるのだ。
階段を降り、改札を出る。海から風が吹き、港街らしい潮風の香りに時折、歴史の流れを忘れたかの様に硝煙の香りがする。此れが、シルバーベイン——典型的な西ローラシア大陸西海岸の港街と云うものらしい。
二人の切符を喰って自らに溜めた自動改札機を通り、空を見上げれば、稲光が見える。
「雨か」
「地中海性気候だもんで、此の時期は多いだろうな」
地中海とは、陸地に囲まれた海の事ではなく、現在、新テチス海として知られる海の名である。此の気候の特性に、冬は雨と云うのがあり、ウエモンは其れを言っている。ウエモンは手に現地の日本語新聞を持っており、セイエイの気付かぬ内に駅中で買っていた様子だ。
稲光る空から視線を下ろすと、厚い雲が都市を覆っている。併し、地上の人々は其れを意に介さず、傘を持ち歩いたり、軽装であったりし、慣れた様子で歩く。嵐は過ぎるものだと知っているかの様だ。駅前には意外にも、地上用の自動車は見当たらない。西ローラシア大陸と云えば交通渋滞と昔、覚えたが、其れは自動車が自動運転車と云う意味に解釈される様になる時代が訪れる前の事であり、都市部での交通渋滞も最早昔の事の様だ。其の代りに無軌条電車や基幹バス(何故オムニを略したのかセイエイにはよくわからない)が道路の中央を走行している。
周囲を見回すと、右手に一般車が走行可能な車線のある道路を見つけたが、殆ど駅前の駐車場の出入り専用と言っていいものである。其処に、道路の向かいの家から発進した車が乗合自動車専用道を通って出て行った。見届けると、セイエイは荷物を漁り始めた。「天ツ川会」の望遠鏡の袋が邪魔そうだったが、ウエモンは眺めていた。
「次に乗るのは……
「乗り場がか」
自動車を見ていて、次の予定を確認し始めたセイエイに、ウエモンが訊ねると、頷きが返った。歩き進めば、「BRT」の文字が見えた。
扉が閉じられる。二人は、車両の中に居た。人の列から考えると、車内は空いている。前側の乗降口から乗ったが、空いている座席を三輛目、一番後ろに見つけたので其処に座った。一番後ろの、其の後部座席は、運転台を向いた座席が二つあり、セイエイとウエモンとは其処から暫く窓景を眺めた。都市内の大量輸送の為、彼方此方へ行く車内からは、都市の湾曲した高架高速道路や、直線的な高速鉄道、遠くの貨物港の
起重機をよく見ようと顔を上げて上げていると、遠くの場所から雷鳴が轟いた。落ちて来た様だ。恐らく、雨に濡れる心配はしなくてもいい筈である。セイエイは、視線を窓に注ぐのを止め、自分の座席の左太股に置いた荷物を
右へ曲がり進む
「なあセイエイ、これ見てみろよ」小声で、薄い新聞の全国版の処を指さしている。一面である。「名前一覧の処」
「……暫く読ませてくれ」
受け取って、黙読し始める。「また行方不明届提出……連続失踪事件と関連か」との見出しに、概説の小見出しがあり、細説の後、警察に届け出された直近の、不可解な方法で消息を絶った行方不明者の一覧が載っている。其処に見つけたのは、「桐三竹」の名である。消息を絶った地は欧州連邦東部・ゲドマンシュ。桐三竹にだけ顔写真と注釈がつけられており、見慣れた顔と、「電磁気に関連する能力のある変異人種」とある。桐三竹——忘れようとも忘れられぬ、ブラシュカで出会い、観光列車アルチヤスとゲドマンシュとで半日の時間を共にした相手である。其れが変異人種——「先の大戦」の渦中に生れた特殊能力のある人間だったとは。変異人種が何う誕生したかには諸説ある。某国の人体実験の結末だとか、自然な進化だとか。併し、現状は殆ど不明であった。
もう一度、桐三竹の行動や言動を思い返してみる。関心は「外」、「誰にも知られぬ儘でも、多くを見たかったんですよ。……環境が特殊だったので」。後は、「こわい」人と「やわらかい」人と云う分類もしていた。後は、二人を「同胞」と呼んでいた。
桐三竹が変異人種で、特殊な存在故に管理下に置かれていると云うのは想像に難くない。だから、そんな逃げ出したい願望がある様に察させる振舞いをしていたのかも知れない——其れ以上に。
「失踪、此の日付、桐三竹と会った日の……翌日か」
「確かに、昨日だな。昨日に、失踪したと判断がなされたと云う事だ」
顔面蒼白とは此の事を云うのか、と思いながら、誰にも聞こえぬ様に話す二人の会話を聞く者がいた。確かに、二人の会話は、周辺の何の人間にも聞こえる事はなく済んでいる。併し、「其れ」は人間の形をした——何かだった。
「私が融合した相手の話をしている」と、其れがする思案は、数日前と較べて人間の形を取る様にはなったものの、本質的な所から人間の其れとは異なっている。而て、「其れ」はセイエイにウエモンを背後以外の別の視点から見た記憶を持っていた。
車両は都市の彼方此方を巡るのを終え、郊外へと動き始める。今度は右へ曲がり始めた車両の、窓の多い内装越しに、「其れ」が二人——位置の都合上、特に、セイエイを見た。
セイエイの視界には、青紫に光る何かが、左の車両連結部辺りからちらついて見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます