第3話

「あの先生、あんなに言わなくてもいいのに……」

 駅へと向かう道を歩きながら、汐帆がそう漏らす。

「髪色も派手すぎるわけじゃないし、スカートももっと短い人なんて何人も見たことある。それなのに千夏ばっかり……、確かに鞄はちょっとだらしなかったかもしれないけど……」

「まああの先生、前から茅ヶ崎には何かにつけて文句言ってるし、多分、茅ヶ崎みたいなタイプの生徒、好きじゃないんだろうな」

 汐帆の言葉に俺はそう返す。俺たちの学校は比較的自由な方だ。けれど自由だからといって推奨されているわけでもない。そういう意味では茅ヶ崎を呼び止めたあの先生の行動も理解できる部分はあるように思う。何でも明文化すれば良いというわけではないことも、高校生にもなれば少しはわかってくる。だからと、茅ヶ崎が悪いということにはならないが。俺はそうして、不幸にも正門前に鎮座していた生徒指導の先生に捕まってしまった茅ヶ崎に憐憫の情を向ける。

 校舎から出てまだものの数分しか経っていないというのに、俺の首からは滝にでも打たれたかのように汗が滴っていた。日光浴という言葉があるくらいだから、滝のように降り注ぐ陽の光という意味ではあながち間違ってもいないだろうか。俺はハンカチを取り出し、それを首筋に押し当てて汗を拭う。ちらと潮見の方を窺うと、ちょうど彼女の首からもつうと汗が伝っていった。顔にこそ出てはいないものの、暑さは感じているのだろう。恋人同士だからとわざわざこんな日に手を繋ぐ必要もないだろう。それともやはり繋いだ方が良いだろうか。そう思い潮見の方を見てみる。ふと彼女の見ている方向が気になった。その視線は俺の右側にある生垣を超えてフェンスの向こうにある校舎の方を向いている。彼女の視線の先を追ってみるが、俺の位置からはやはり生垣に遮られて彼女が何を見ているのかわからなかった。諦めて潮見の方に顔の向きを戻す。彼女と目が合った。

「ああ、校舎の時計を見てたの。こんな時間に帰れるのも珍しいから午後から何しようかなって」

 よっぽど物問いたげな顔でもしていたのか、彼女は俺が尋ねる前に教えてくれた。

 潮見は俺よりも数センチ背が高い。俺の背が人より特別低いわけでもないから、当然、彼女の背の方が人よりも高いことになる。

「それで、何することにしたんだ?」

「うーん、まだこれといったものは思いつかないかなあ。並木くんは? 今日どうするの?」

 横を歩く潮見は俺の方に顔を向けてそう問いかける。

 彼女の問いかけで思い出したというわけでもないが、俺には今日、予定があった。

「あー、いやまあ、あるにはあるけど……」

 しかし、そのことをこの場で潮見に言ってしまうのは躊躇われ、生返事のようになってしまう。意図せず生まれた沈黙を埋めようと俺はどうにか別の話題を探る。

「それより、潮見は夏休みの間はどこか……あ」

 そうして、俺は自分が失敗してしまったことに気が付く。

「悪い。汐帆」

「ううん。呼びなれないなら並木くんの好きなように呼んでくれれば良いのに。私は苗字で呼ばれても気にしないよ」

 潮見は気を悪くした風もなくそう言った。

「いや、でも……やっぱりいつまでも苗字でっていうのもな。茅ヶ崎もああ言ってたし」

 少し前、茅ヶ崎に彼氏彼女なのにいつまでも苗字呼びだと距離があるように聞こえると注意されたこともあり、俺は二人だけの時はせめて名前呼びの「汐帆」にしようと試みたものの、それまでずっと苗字呼びだったこともあって、なかなか慣れないでいた。

「それより、どうしたの? 何か聞きたいこと?」

 彼女がそう聞き返してくれる。俺はなんとなくひとつ咳払いをした。

「いや、ただ夏休みの予定は決まってるのかなって思って。どっか行くとかさ」

 彼女は少しだけ考える仕草を見せる。

「一応、予備校の夏期講習に行こうとは思ってるけど、遊びの予定とかはまだ」

「……予備校かあ」

 高校二年の夏休みというこの時期は、早い人間でなくとも準備を始めていておかしくない。茅ヶ崎に聞いた話によると、ついこの間行われた期末試験でも汐帆は相当に高い順位だったらしい。受験を意識してというよりは、真面目な性格の彼女が、俺たち学生に期待されるだけの勉強を順当にこなしたことの結果と言うべきだろうが。対照的に、俺は未だに勉強には本腰を入れられずにいた。けれど、まだ焦りは感じていない。

「そういえば、千夏は親戚の伝手で夏休みの間少しだけバイトするんだって。ちょっと厳しいところらしくて、そのせいで髪色暗くしないとって言ってた」

「なるほど。それでさっきは二人で髪色の話してたのか」

 俺は廊下で向こうからやってくる彼女らが互いの髪色について話していたことを思い出す。

「うん。あ、でも、私も夏休みの間中ずっと勉強ってわけでもなくて。千夏みたいにバイトはできないかもしれないけど、やっぱりどこか遊びに行きたいし、それに……」

 そう言うと、汐帆は顔をこちらに向ける。

「並木くんとも、会いたい」

「……そうだな」

 汐帆は俺が頷いたのを見て続けて口にする。

「それでね、八月に入ってからなんだけど、浜の方でやる花火大会、去年は私一緒に行けなかったからさ……今年は一緒に行けないかなって」

「ああ、そういえば、もうそんな時期だっけか」

 正直に言うと、俺も花火大会があることは知っていたし、今年は汐帆と一緒に行きたいとも考えていた。だから、汐帆が誘っていなければ俺の方から誘っていたとは思うが、何となく恥ずかしさからそのことまでを言ってしまうのは躊躇われた。

「俺は多分大丈夫。茅ヶ崎はどう……」

 ついさっき、汐帆の口から茅ヶ崎の話を聞いていたため、俺は自然とそう口にしてしまった。

「あ、いや……」

「そうだね、千夏にも聞いとく」

 汐帆はそう言って微かに笑った。

 沈黙が生まれる。今日の俺はどうだろう。省みるまでもなく彼氏としての振る舞いができていない。きっと汐帆も茅ヶ崎と行きたくないなんてわけではないだろうが、彼女としてはだからこそきっと複雑な心境に違いない。けれど、汐帆はその気持ちを表に出すようなこともしない。シャワシャワと煩く鳴く蝉の声が俺を嗤っているような気がした。

 汐帆の顔をちらと窺ってみたが、特に気にした風もなく、そのため、やはり俺が想定したような感情を読み取ることはできなかった。歩きながら視線を前にやると、遠くの方に小さく駅が見えてきていた。拭いたはずの汗がまた垂れるのを感じる。やはり今年の夏はどうにも例年より暑いような気がする。ふと、遠くの景色が揺らめいているのが見えた。その様子がどこか蠱惑的にも、ひどく陳腐なようにも感じた。

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