神の落ちる刻

夜表 計

第1話 観測者

 今でも覚えている。世界が大きく変わり常識が意味をなさなくなったあの日を。

 その日はとても暑い夏の日だった。まだ俺が大学生の頃、田舎の祖父母の家に遊びに行った日のこと。遠くに入道雲が見え、山からの涼しい風を受けながら小さい頃によく遊んでいた河川敷へ向かっている途中で空から”手“が落ちてきた。

 人間の“手”。形は人間の手にそっくりだったがその大きさは全く違った。肘から先しかないが大型トラックが二台分は並べれるほどに大きかった。

 俺がその“手”が落ちた場所に着いた頃には付近の住民が囲んでいたが、誰一人としてその“手”に近づこうとはしなかった。

「みんな、近づいちゃいかんよ。祟りが起きるかもしれん」

 一人のお婆さんが杖を付きながら険しい表情で集まっていた住民に声をかけるが誰もがその“手”の異様差に気付いていた。

 それから通報を受けた警官が二人やって来たが俺も含めて周囲の住民は警察に何が出来るんだ、と不安に満ちた表情をしていた。やって来た警官もどうすればいいのか分からず、唯一出来るのは現場の保存だけだった。

 警官は住民が“手”に近づかないよう赤いコーンを並べる。その時、警官の一人が躓いたのか体勢を崩し、“手”に触れてしまった。すると警官の身体が大きく膨れ上がり、皮膚が内出血したかのように赤紫色に変色し、弾けた。

 血飛沫の一滴、肉の一片にいたるまでそれは周囲に飛び散り、一番近くにいたもう一人の警官はそれらを前面で受けてしまい、悲鳴を上げる。その悲鳴が見守っていた住民の意識を現実へ引き戻し、恐怖が広がっていった。

 住民達は我先にと悲鳴を上げながら“手”から離れようと走り出す。我先にと前の人を押しのけ行くその姿には人としての理性はありはしなかった。

 俺はというと情けないことに他の住民達と違って恐怖で立ち尽くしていた。もうここには俺と“手”しか残っていなかった。

 違う。もう一人居る。“手”のすぐ近くに少年が居た。あろうことかその少年は“手”に触れようとしていた。さっきの光景を見ていなかったのか、なんの躊躇なく少年は手を伸ばそうとする。そして俺は少年の手を掴んでいた。

 少年は驚いて俺の顔を見るが俺の方が驚いている。さっきまで恐怖で動けていなかったのに、いつの間にか少年の隣まで走り、その手を掴んでいるのだから。

「これは危ないから触っちゃだめだ」

 俺は少年に警告し、その場から少年を連れて行こうと考えるが、少年はなぜか笑顔で掴んでいた俺の手に触れると、「大丈夫だよ。お兄さん」と子供とは思えない落ち着いた声で俺の心を静めようとする。そのあまりにも人と掛け離れたような声に俺は背筋がゾクリと冷たくなるのを感じた。

 少年は“手”に触れる。その瞬間、“手”の何かが少年に入っていくように見え、そして少年の欠けたピースがはまったかのように、少年の纏う雰囲気が明らかに重く大きく変わり、俺は圧倒されて尻もちをつく。少年はそんな俺と視線を合わせるようにしゃがむ。

「お兄さん。君には僕と一緒にこれからを見届けてほしいな」

 少年が何を言っているか俺には分からなかったが、その言葉を俺は断れないのだろうと直感した。

「お兄さん、名前は?」

 少年が名前を聞いてくる。蝶のような軽やかさで、子犬のような無邪気さで、人間ではない空気を纏いながらも子供としか思えないこの存在に俺は答える。

「…結城、葵」

 少年は何度か俺の名前を小さく呟くと満足したように少年は笑みを浮かべる。

「うん、よろしく。葵」

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