chapter5-浴室にて

 恐らく厨房などの姿を見せない使用人以外の全員から華麗な罵倒をいただいた後、夜になって風呂に入ったルーリエは、彼らの視線とは正反対な暖かい湯にうっとりしていた。

 邪魔なんて入ると思っていない。だってここは夫婦の寝室の隣にある浴室だ。

 そこにノックも無く入って来たのが、仮にも夫になった男──ルシアス・フィッツジェラルドだった。

「なっ!? 急に何ですか!?」

 思いもしなかった客人に、出していた両手で慌てて胸元を押さえ肩まで湯に浸かる。

「誰にでも肌を許していたと言う割に、意外と恥じらいはあるんですね」

 じとっとした視線に不快感しか無い。そもそも外での噂などルーリエは知りもしないのだ。

 今日一日散々罵倒のオンパレードをいただいて、せっかく一人になれる時間も邪魔をされ、気分の悪くなる視線と言葉に素直に苛立ったルーリエは嘲笑を浮かべた。

「こちらは見ての通り湯入り中ですので、要件だけ手短にお願い出来ます? 初夜にも部屋に来ず、今日も他の女と談笑なさっていた浮気性の旦那様?」

「何ですって?」

「ああ、お兄様の婚約者と浮気だと、あちらのレディのこともそのように聞こえてしまいますね。これは失礼。お兄様も一緒にいらしたから、公認なのかしら」

 イライラしているだけの、これはただの八つ当たりだ。悪いのはひとり歩きしている噂で、その噂を広めたのは恐らく母。

 けれど、気分の悪い時に気分の悪くなることを言うのも悪いと思うのだ。

「貴女のそういう所が気に入らない」

「そういう所とは? まるで私のことをよく知っているような口ぶりですね。今日、今、初めて互いに口を開いたと言うのに、貴方が私の何を知っているというのでしょう?」

 幼稚な文句に対して幼稚な返しだ。分かっていても、この世界へ転生してきてから受けた屈辱のひとつひとつを思い返すと止まらない。

「逆に私は貴方のことを、私のことが嫌いな人間としか認識していません。これ以上関わるメリットが見当たらないので、早急に浴室を出て行っていただきたいのですが」

 自分が出られないじゃないか。

 出来るだけにこやかに言ったが、やはりそれも彼の癇に障ったらしい。バン! と扉を乱暴に開いては閉じ、大きな音を立てて去って行った。

 結局何の用だったのか、よく分からないままだ。




 * * *




「随分と嫌味な女だ」

 昨日も今日も妻の顔ひとつ見なかったとして、心配したリアナに、彼女の所へ行くようにと言われた。優しい子だ。

 それにひきかえ彼女はどうだ。一日半振りに顔を見た夫に対し嫌味しか言えないとは。どんな教育を受けてきたかが窺える。


──『私は貴方のことを、私のことが嫌いな人間としか認識していません』


 嫌いに決まっている。何が悲しくて世紀の悪女と結婚なんてしなければいけないのかと父にすら詰め寄った程だ。

 昨日の結婚指輪も、付けもせず引き出しの奥底へと放り込んだまま。

 だが彼女が居なければ、今のこの国は立ち行かないらしい。聖女とはそれほどの力を持っているのだ。

 気に入らない。非常に気に入らない。

「──ルシアス?」

「リアナ」

 待っていたかのように廊下に立つ可憐な少女が、眉尻を下げた。

「どうして戻って来たの? ルーリエ嬢の所に行ったんじゃ……」

「リアナ、あの女に心を割く必要は無い。さっきも嫌味しか言われなかった、強かな女だ」

「そんな言い方しなくても……」

 何て優しい子だろう。兄の婚約者でなければ──彼女が私生児でなければなんて、思ってしまうことも多々ある。

 そもそもリアナが兄の婚約者になったこと自体が、私生児の彼女を実家から守る為だ。伯爵家の私生児として産まれた彼女は、生家で酷い扱いを受けていたらしい。それを拾ってきたのが母だ。

 ルシアスも兄もすぐに可憐で優しい彼女に惹かれた。だが結婚出来るのは一人の男と一人の女。そして彼女を守る為には、『公爵家の後継者』の肩書きが必要だった。

 そんな制約さえ無ければ、彼女の婚約者は自分であれたのだろうか。

 そうすれば、あんな嫌味な女と結婚せずに済んだのだろうか──

 どうしようも無い感情が渦巻いていく。変えようの無い事実を捻じ曲げてしまいたくなる。

「ルシアス?」

「……何でもない。とにかく、リアナはあの女には近付くんじゃない。何を言われるか分かったものじゃないからな」

「そんな……! 妻に対してその言い方はあんまりだわ!」

「君はあの女のことを知らないから!」

 言いかけて、はっとした。


──『貴方が私の何を知っているというのでしょう?』


 いいや、あんなのは戯れ言だ。ルシアスは彼女が自ら広めた悪名の数々を知っている。リアナは少々世間知らずな所があるから知らないだけなんだ。

「……っ」

「二人してこんな所に居たのか。どうしたんだ?」

 何かを言いかけたルシアスは、兄の声に、自分が何を言いかけたのかすら分からないまま口を閉ざした。

「あっ……イレネオ!」

 ぱっと表情を明るくして、リアナは兄に駆け寄る。そんな姿を見るのが痛くて、ルシアスは「何も無い」とだけ言ってその場を離れた。

 行き先は、幼少期から使っている自室ひとつしか無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る