魔法使いは日常に潜んでいる!!
@kawasemiaska
上
プロローグ
────最近、神社に人魂が出るらしい。
そう友人に誘われ、そいつと俺の二人で件の神社に行くことになってしまった。
そして俺は今、境内へと続いている石造りの階段前に堂々と
染まる色は赤。背中に刺さるは西へと消える太陽の熱線。レールの繋ぎ目を通過する音。誰もいない電車内。横並びで座っている二人。足元のしなだれるかのような小柄な影とは対照的にそっぽを向いているアイツの顔。重苦しい空気。流れていく時間と景色。
…………まずい。
非常にまずい。
何か別のことを考えないと駄目だ。
そうしなければ元来ネガティブな自分がなおのこと落ち込み、暗く沈んでしまう。そう思い、俺は思考を切り替えようと薄ぼんやりとしていた視界の焦点を頭を軽く振り、重ね合わせて、ふと、
────あの野郎、トイレ長すぎだろ。
先ほど便所を目指して走り去った連れの後ろ姿を思い出した。そこで俺は今の時間を確認しようと、制服のポケットからスマホを取り出す。すると液晶画面には7:32と時刻が表示された。しょうがねぇなと呆れて、連れが戻るのを待ち始めてから、かれこれ三十分も経過していた。
「全然、戻って来ねぇ……」
俺は溜め息混じりの独り言を呟き、先に境内へと石段を上がるか、まだこの場所で待つか、いっそのこと帰ろうかと思い悩むが、ここまで来たらやっぱり噂になっている人魂のことがどうしても気になるということで先に境内に上がって、そこで連れを待つことにしようと決めた。
手すりがあるとはいえ石段はやけに長くて傾斜がきつく、帰りたい気持ちがたちまちに強まる。それでもなんとか段を踏み上がっていくと二基目の鳥居が姿を段階的に現し、それを見て俺はやっとこの苦しみが終わるのかと気が楽になった。最後の段を踏み、一呼吸置いてから信号機の高さぐらいはあろうかという鳥居をくぐると境内の全体が姿を現した。右から左へ目を動かすと明かりがないためか境内はかなり暗く、辛うじて木々のシルエットと拝殿の形がうっすらと認識できる程度だった。正直に言ってしまえば、かなり不気味な景観だ。そんな闇の森に潜む怪物が空を呑み込むかのようにゆらゆら揺れ動く空間に、
光。
何らかの青白い光が動いたかのように見えた。
まさか人魂じゃないだろうなと思い、暗い境内の奥、さざめく木々の下、光が消えたと思しき参道外れの左隅に細め凝らした目を向ければ、そこには、長髪の女性の姿をした人影らしきものが茫漠とあり、そして、
鮮烈な二度目の光。
今度こそ確実に光源をこの目に捉えたと思ったのも束の間、閃光によって人影の姿がくっきりと顕わになり、その光が当たる横面を見て驚愕してしまった。
俺はその綺麗な横顔を知っている。
それは、昨日、転入してきたはずの、
クラスメートのものだった───────────────────。
第一章 黒歴史と魔法
暗澹たる此の世界に鮮血の雨を降らす。
そう決意したのは何時頃であったか。最早、霞のように消え忘れ去られたが、其れは何物にも代えがたい記憶だった事は幾年経った今でも憶えている。
我は魔竜国一の魔導師でありながら剣闘士最高ランク“聖帝”の称号を唯一手にした男であり、銘を『ブラック・ブラッド・ブレード』略してトライブと呼称され《漆黒の魔導剣士》の異名を持つ者。
我は今、勅命により仙境の地である
其の或る物とは我の心臓である。
心臓には世界を終わらせる魔竜バハムートが宿っており、国は我の死と共にバハムートが降臨するのを恐れた。其処で心臓をどうにかしたい皇帝は我に刺客を送り込んできた。そして戦いの末、国の一級魔道士数百名に敗れた我は不死の呪いをかけられた後、不意を突かれて切除された心臓を王宮の地下に封印されたのだ。
そんな身の上だった折に皇女が対立国に攫われた。八方手を尽くして如何しようも無くなった皇帝は藁にも縋る思いで我に皇女を救ってくれと頼んできた。我は其の涙で濡れた容貌の醜さ、滑稽さには、どんな道化者も敵わないだろうと嘲笑い断ろうとした。だが其の時、或る一つの閃きが我の頭の中を駆け巡った。
そう、心臓の取引である。こんな機会を利用しない手はあるまい。正に僥倖である。
だからと云って仙境と呼ばれる程の場所に辿り着くのは決して楽なものではない。ほんの少しの油断で死に至ること間違いなしだ。現に皇帝に遣わされた同伴者は一人残らず死んだ。指折りの強者共がである。或る者は女人の化物に唆され谷底に落ち、或る者は砂漠にある巨大蟻地獄へと足を掬われて呑み込まれ、骨すら残さず砂塵の一部へと変わり果てた。そして或る者は難敵との決闘の末、相討ちとなり朽ち果てていった。
そんな、あらゆる犠牲は我にとっては些末な出来事に過ぎない。何故ならば我は何時も独りだったからだ。慣れていた事だ。我の能力に恐れをなす者、我の思考を理解しない者、衆愚が我を忌避する過程で数多の賢人達が血涙を流していった。我を想う者、我を慕う者、我一人を残し誰一人として残らなかった。だから慣れてはいた。然し、
我の中には少なからず苛立ちがあった。
此れは仲間意識などから来るものでは勿論なく、我の矜恃が逆撫でされた事によって生まれた感情であった。強者共の命が散っていく様は、少なくとも我の眼には国から使い捨ての道具にされたとしか映らなかったのだ。一人一人の散り際が脳裏に焼き付いて離れない。其れ其れの顔を思い返す度、怒りが炎に焼かれていく古書のように理性を呑み込んでいった。
其の様な憤りを募らせていく過程で我には一つの考えが漠然と浮かぶ。
此の旅が終わり心臓を取り戻した暁には、魔竜国を出て放浪の旅に出よう──────────と。
……………………………………………………………………………………ん
「お前ら〜、新しいクラスメート紹介するぞ〜。静かにしろ〜」
俺はそんな声によって微睡みの中から醒めた。背中に冷や汗がじっとりと滲み出ているのを嫌でも感じる。この冷や汗はとんでもない悪夢を見てしまったせいで出たのだろう。その悪夢とは具体的に言うなら昔の真っ暗で、イタい記憶で、中学の時のどうしようもない恥ずかしい思い出で、いわゆる黒歴史ってヤツ。忘れよう忘れようと強く思っても、たかだか半年そこらじゃ十五歳の灰色に染まる大脳皮質からは、どうやったってあのトラウマを洗い流すことは出来ないらしい。
若いってのは中々に残酷だ。
私立欅ヶ丘学園高等部在学、俺こと黒崎司は入学してからもう一ヶ月も経っているのにこれといった友人も作れず、いつものように朝のHRまでの暇な時間を使い、惰眠を貪っていた。
黒板の上の方に掛けられている時計の針を見れば、いつの間にやらHR時間を指しており、これまたいつの間にやら一年B組担任の田中夏愛先生が教壇に立っている。どうやらさっきの悪夢から俺を気だるく救ってくれた女神のような声は田中先生のものだったらしい。そんな面白味のない、当たり前と言えば当たり前の現実ぶりに俺は軽く落胆してしまった。女神なんて幻想の中の存在でしかないと理解してから半年も経つのに。
現実も中々に残酷だ。
そんな若さと現実の厳しさに絶望している俺とは裏腹に教室の中は賑やかで騒々しい。このクラス、つまり一年B組の連中は他の3クラスであるA組、C組、D組と比べるのも馬鹿らしくなるほど活気があり、常に和気藹々としていて常軌を逸してるレベルでうるさい。ぶっちゃけ、異常。そんな喧騒の権化みたいな奴らを空に漂い浮かぶシャボン玉のように、ふわふわとした話し方で田中先生が指揮を執っているというのは、初めて見る人には大変すごいことのように映るのだろうが、ただ単に超マイペースで天然な姿勢を崩さないだけだと俺は思う。
まぁ、それもある意味では凄いことなんだけど……。
「し・か・も、ただの転入生じゃないぞ〜。なんと外国から来た子で〜す」
「どこのですかー?」
「それは今から本人の口から言ってもらいます〜」
「えーっ、けちー!! ヒントぐらいくれたっていいじゃん、なっちー先生」
「はいはい、いくらでも罵ってもらって結構ですよ〜。さぁ、もう入ってきていいよ〜」
田中先生が生徒たちのヤジを軽快に受け流しながら廊下の方に声を掛ける。すると引き戸のざらざらとした半透明の窓にうっすらと現れた人影が柳のように揺れたと同時、静かに戸が開かれて──────
俺は時間の流れが遅くなるのを感じた。
それはあまりにも遅く感じるので、まだ夢の中にいるかのような気分になった。もしかして白昼夢というものを見ているのだろうか。……そんなまさか。高校入学前に中学時代の記憶と共にそういう妄想や幻想にふける悪癖は葬り去ろうと決意したはずだ。
なのに、まだ俺は何かを期待しているのか?
教室内は今までの喧騒が嘘だったかのように静まり返って、唯一聴こえるのは壁に掛けてある時計の秒針の音だけになった。
時間が引き延ばされているのか、感覚が鋭敏になっているのか、そんなことを考える暇もなく、華麗に、ゆっくりと一人の女生徒が時間の流れに遡上してるかのように教室へと入ってくる。それらの視覚情報を受け取った俺の脳味噌は、この時に自分がある種のスローモーション現象の真っ只中にいるのだと理解した。(これは後で知ったことなのだがこのような事象をタキサイキア現象と言うらしい)
教室に入ってきた女生徒はありえないくらい、今ある現実と乖離されている存在と言えた。次元が違うと喩えてもいいかもしれなかった。触れたくても触れられないような感じ。そんな彼女は古びた校舎に新しい風を吹かしながら、薄汚れた白い壁を鮮やかな朱色に染め教壇を目指して歩いていく。
最初に目についたのは赤毛の長い髪で、これが教室の壁を朱色に染めあげて見えた素因に間違いなかった。手入れが行き届いているのか、満遍なくラメでも入っているかのような輝きを放つ艶が美しい。次に目につくのは容姿端麗な横顔で、そのフォルムは凄腕の彫刻家が人生をかけて彫り上げた芸術作品としか言いようがなく、眺めることすらおこがましく感じた。そして最後は碧い双眸。まるで朝の陽光に照らされて緑に光り輝くアレキサンドライトそのもののようだった。
女生徒が教壇にて歩みを止める。
「はい、自己紹介お願いね〜」
田中先生の呑気な言葉に小さく頷くと女生徒はこちら側に赤みがかった残像をなびかしながらくるっと背を向け、色白の細く長い指でチョークを持ち、黒板に自分の名前らしき日本語を流麗に書き走らせていく。そして彼女が横にずれ動きながら板書する事で、その鮮やかな赤い後ろ姿により隠されていた文字が悠然と一文字ずつ現れた。
紅野 エル
優雅な線で端正に書かれたその文字には不思議な魅力が溢れており、魔法陣に書かれるルーン文字のような妖艶さとでもいうべきオーラを放っていた。
名前を書き終えた彼女はこちら側に向き直ると、呆けている俺を横目に教室のクラスメート全員を見渡してから明朗快活とした声を皆にしっかりと聞こえるようにハキハキと発した。
「私の名前は
彼女が小さな頭をしゅっと下げて、もう一度上げる。容姿だけではなく自己紹介ですらスマートに済ませた彼女に圧倒され、教室の中は先程よりもさらなる静寂に包まれた。
その不安な空気に耐えられなくなったのか、彼女の顔が少し翳り、ぽつりと、
「あれ? また私、失敗したかな……」
直後、そんな彼女の呟きを吹き飛ばす歓声が教室を越えて学園中に響き渡った。誇張でもなんでもなく俺の左横にある、風に舞う青葉をその長方形の枠の中に収めた窓がガタガタと震えたのだから音圧は相当なものだった。
「めちゃくちゃ美人〜〜っ!! 鼻も高くて、まつ毛も長くて、肌も真っ白で人形みた─い。羨ましい─なー」
「スゲーかわいんすけど!! Fooooooooo──────!! 天使───────っ!!」
「神様ぁ……あぅ、ありが、とう…………っ!! うぅ…………っ」
教室の中は喧々囂々。
「お前ら、うっさいぞ〜。紅野さんの席は〜……黒崎くんの後ろ空いてるから、そこね。黒崎くん空き教室から余ってる机持ってきて〜」
両耳を人差し指で塞ぎながら先生がさらりと俺に指示を出してくる。
「あ、はい」
それに何とか返事して席を立ち上がると、
「私も一緒に行きます」
前から歩いてきた紅野さんが鞄を後ろの棚に置きながら言ってきた。
「いいよ、俺が持ってくるからさ」
「ううん、自分の机なんだもん自分で運ぶよ。だから案内、お願いしていいかな?」
手を合わせてお願いしてくる紅野さんに、俺はついドキっとしてしまった。
何だ? この胸の高鳴りは。もしかして心臓が悪いのだろうか。あぁ、きっとそうだ。そうに違いない。帰りに行こうかな、病院。仮に行くとするならこの症状は何科を受診すればいいんだろうか? 循環器内科? 心臓血管外科? それとも精神科かな?
そんなことはどうでもいいから言葉を返せよ、と胸中で自分に発破をかけ、
「そういうことなら……」
と、突飛な方向にいってしまった思考をなんとか元あった場所へと戻し、紅野さんの考えを尊重することにした。
案内人としての役目を果たそうと廊下へ出て二人、肩を並べて歩き始めると、後ろの一年B組教室からは誹謗中傷まがいの暴言と煽り、嘆きの入り混じった罵詈雑言がこれでもかと俺の背中へ叩きつけるように浴びせられた。
「うらやましーっ!!」
「くそぉ! なんであんな奴が。この俺の方が優しくエスコートできるのにぃ」
「なっちー先生、今からでも僕を黒崎くんと代わらせてください!」
「おい、黒崎ー! 手出すんじゃねぇーぞ!!」
「そーだ、そーだ」
「陰キャ〜〜!!」
なんともまぁ元気なクラスだこと。
「ごめんね。なんか……」紅野さんが申し訳なく言う。
「全然、紅野さんが謝ることじゃないよ。ウチのクラスはみんな血気盛んなんだ」
「アハハ、それは退屈しなさそうだね」
困り顔で謝罪をする紅野さんに他愛ない冗談で返すとすぐに笑顔になったので、なんと表情筋の優れている人なのだろうかと感心してしまった。
そうやって紅野さんと軽い会話をしながら目指している空き教室はまたの名を余裕教室と言い、B組教室を出て右へ別クラスの教室を素通りし、真っ直ぐに行って階段を挟んだ突き当たりの右側にひっそりと存在する。昨今は少子化によって教室の空きが徐々に増えているらしいのだが、そういう問題をうちの学校では授業内容によってクラスを分けた際の別教室として存分に有効活用することで解決していた。いわゆる、一人間としては感心はすれど一生徒としてはあまり嬉しくない、というやつだ。
そんなあまり嬉しくない目的の場所に到着すると、空き教室は朝なのにも関わらず、薄暗く、寂しさを感じさせた。それはカーテンを閉めっぱなしにしてるせいもあるのだろうが、普通の教室と比べ、机の数が半分ぐらいになってるのも大きな要因を占めているのだろうと思う。
すると早速、後ろの方にある比較的綺麗な机と椅子を適当に見繕って紅野さんが待ち上げだす。それを見て俺は何か手伝わないといけないと思い立ち、提案を投げかけた。
「椅子だけでも持とうか? なんか申し訳ない気持ちになるからさ」
「いいよ、いいよ。軽いし大丈夫っ!」
笑みを絶やさずに応える姿に気圧されて結局、俺は何も手伝えず、申し訳ない気持ちを抱えながら紅野さんに机と椅子を運ばせたままB組の教室に戻った。教室に入る俺達を大仰にうるさく歓迎してくるクラス連中を無視して窓側の後ろ隅にある俺の席の後ろに運んできた机を置き、二人揃ってそれぞれの席に着くと、
「じゃあ、全員席に着いたことだし出席とるよ〜」
田中先生の緩やかな出欠確認が始まった。
HRが終わりチャイムが鳴ると同時、俺の後ろにある紅野さんの席周りに人混みが発生しはじめた。それもそうだろう。あれだけの美人を活気溢れるクラス連中が放っておけるわけがない。男女双方、混ざりに混ざりあって騒然としながら紅野さんを囲むのを見て、騒がしいのが苦手な俺は仕方なく次のチャイムが鳴るまで廊下にでも出て時間を潰そうと思い、自分の席から立ち上がり離れる。すると、直ぐに人間が作る壁が並び立って俺の席は視認できなくなった。
授業開始前には俺の席は無事でいられるのだろうか。
「ねぇ、あのお祭り騒ぎは何なの?」
居場所を失い廊下に出ると、隣のC組教室からB組の騒ぎを伺うように出てきた短い黒髪の小柄な女子生徒が話しかけてきた。
遥とは家が隣同士で小さい頃からの幼馴染でもある。
「転入生が入ってきたんだよ。しかも、とびっきりの美人が」
「ふーん、もしかして、さっき司と一緒に廊下歩いてた人?」
「うん。見てたのか?」
「そりゃあ、ホームルームだったし。うちのクラス、みんな見てたよ。すごく目立ってた」
「マジか。あんまり目立ちたくないのにな」
廊下の壁に体を預けて、美人転入生のオーラに引き寄せられてできた人垣で隠れた自分の席がある場所を上の空で眺めていると、不意に脳の奥底に閉ざしたはずの暗黒な記憶がフラッシュバックした。
中学生の頃、俺は病に侵されていた。
世間ではその思春期特有の病のことを「厨二病」と言うらしく、人によっては大人ぶりたくてブラックコーヒーを飲んだり、洋楽を聴いてると他人に吹聴したり、タバコや酒をやるといった非行に走ったりするなど、実に多種多様かつ複雑怪奇で十人十色に及ぶ。そして、そんな不安定だった精神が成長と共に安定し、あの頃の自分はおかしかったんだ、と先に挙げた恥ずかしい言動たちを頭の中でダンボール箱に詰めて押し入れの隅の方に寄せ隠した、忘れ去りたい記憶というものを多くの人達は「黒歴史」と呼称し、誰しもが持っているに違いない。
俺にとって、中学三年間の全ての記憶がそれに該当する。
厨二病なんて今どき珍しくもないし、笑い飛ばせばいいじゃないかと第三者らは思うだろう。しかし、俺の場合はかなりの重症で笑い話にすらできないことばかりで、もっと言うならそれしかないのだ。
思い出したくもないが具体例を挙げれば、木製の掃除用具入れから箒を持ち出して「我の名はブラックブラッドブレード略してトライブッッッ!! 我が剣の餌食になりたい者はかかってくるがよい。今宵の
そんなパンドラの箱である暗黒記憶を開けてしまい、大量の涙が溢れ出そうな男の肩を横で小突いてくる小さな存在によって俺はなんとか現実に引き戻された。
「もー、また妄想の世界いってたでしょ。チャイム、鳴ったよ」
そう言い残して遥が自分のクラスに戻っていく。その小さな後ろ姿を見て俺は嫌な記憶から気を取り直し、人が疎らに散りその姿を確認できるようになった自分の席に戻ることにした。
一時限目の授業が終わると、すぐさま紅野さんの周りには数人の取り巻きが集まって尋問とも言えるぐらいの質問攻めが始まった。その様子はまるで餌に群がる鯉のようであり、必死の形相でひたすら口をぱくぱくとさせて質問をするだけの生き物と化している。そんな人達からの質問を一人ひとり丁寧に明るく対応していく彼女を俺はただただ凄いなと思うばかりだった。
昼休みになってもその勢いは留まることを知らず、ゆっくり飯も食えないと俺が困り果てていると、会話の途中なのにもかかわらず唐突に、「私、自分の席に戻るねー」「また次の休み時間に話そう」「ごめんねぇ……」と次々に紅野さんの周りの人だかりが霧散しだした。当然、彼女は何が起こっているのか全く分からず色んな表情を顔に浮かび上がらせている。
……お気の毒に。
そのクラス連中がとった不可解な行動の理由を嫌というほど一番よく理解っていたのは誰であろうこの俺である。なに心配することはないさ。また一人、被害者が増えるだけのことだ。
そんな諦観の念を抱く俺の真横に、一つの人影がかけている眼鏡を光らせながら颯爽とそれでいて泥濘のように湿潤な気配をまとって現れた。そして────、
「オレの名はガード・オブ・レジェンズッ! ブラック・ブラッド・ブレード略称をトライブ、此処で逢ったが悠久の刻!! 貴様を討ち堕とさせてもらおうぞ!!」
頭痛が痛いという二重表現は、この時のためにあるのだろうと思った。
案の定、紅野さんは小さな口を少しだけ開けてポカーンとしながら目の前で何が起こっているんだという顔でこちらを見ている。遠巻きの生徒達は「またか」と、いつものように無視を決め込むつもりらしい。まったく、素晴らしいと賞賛したくなるほど早くて正しい判断だ。できることなら俺だってそうしたい。でも、それは俺にはできないんだよな。こいつとは何べん切っても結ばれる、切り離せない腐れ縁というものがあるからな。
「如何した、決闘では名乗りをしなければならぬと申したのは貴様ではなかったか? 疾く名を言わぬか!!」
全身が萎んでいくような深い深い溜め息しか出ない。
この空気を全く読まないうえに俺の平穏な高校デビューを破壊した……いや、破壊しつくした忌まわしきコイツの名は、ガード・オブ・レジェンズもとい本名、森下嵐と言い、中学の時のクラスメートで俺がかつてトライブという名を語っていた頃の良きライバルだったらしい男。らしい、と言うのはそれぞれが自分の作った設定で話をし合っていたため世界観に微妙なずれがあり、会話は全く噛み合っておらず、俺はコイツをライバルと認識してなかったから。なのに何故かコイツにとって俺は好敵手と書いてライバルと読むみたいな関係ということになっていた。
「森下、お前とは縁を切ったはずだ。俺はお前に二度と関わりたくないね」
「オレ達はかつてクレーの地下洞窟に住む魔物バジリスク・ナダルを共に倒した仲だったが、貴様はオレの妹を惨殺した。確かに妹は敵国の密偵ではあった、しかし! 其れは拐かされたからに過ぎん! オレは貴様を許すことなど出来ない、たった一人の身内を殺した貴様をな!!」
やっぱり話は噛み合わない。
いや、噛み合わないどころかこちらの話を聞こうともしていないし、会話にすらなっていない。だがしかし、どこかの有名テニス選手を元にしたであろう架空ダンジョン名を恥ずかしげもなく叫んでいるだけなのにその一挙一動には鬼気迫るものがあった。こいつ役者にでもなった方がいいんじゃないか? アカデミー賞の大賞は受賞確実だろう。
そんなまったくもってどうしようもない奴だが、俺はコイツの対処の仕方を長い付き合いのおかげで心得ていた。それは実にシンプルな方法で、
時計を指して一言。
「チャイム、鳴るぞ」
すると、あっという間にガード・オブ・レジェンズこと森下嵐は自分の教室へと走り去っていった。昔のヤツなら今の手は通じなかっただろうが、アイツも今や高校生。いつまでもバカをしていられなくなる年齢になった。周囲から取り残される不安、補習、進路問題etc……。俺も一歩間違えていたら、あんな風になっていたのかと思うと怖気が立ってくるというものだ。
奴の退場により徐々にクラスの活気が戻り始めていく中で、あんな奴でも立派に大人の階段を上っていくんだなと感慨にふけっていると、呆気にとられていた紅野さんが開いていた口をわなわなと動かし始めて大きな碧い瞳を一段と輝かせて俺に訪ねてきた。
「ねぇ、もしかしてアニメとか好きなの?」
「えぇ!?」
驚きのあまり声が大きめに出てしまった。恥ずい。取り繕おうと言葉を急いで結ぶ。
「う、うん。す、好きだよ。……えーと、もしかして紅野さんも?」
「うんっ! だから、日本に来たんだよ!」
と、紅野さんは俺の手を両手で包み取りブンブンと上下に振る。その白い手のすべすべとした柔らかな感触に健全な男子高校生が耐えられるはずがなく、顔が熱く赤くなっていくのが自分でも分かった。
ぴきっ。
────ダメだ。
一ヶ月、ろくに人と会話もしてないのに、この刺激は余りにも良くない。
────やめろ。やめてくれ。
赤い激流は、生きている限り留まることを知らない。
────それ以上は、マズイ。
イメージとしてはマグマがグツグツと火山から吹き出る感覚に近いそれは俺の顔の中心にじんわりと集まってきて…………
ヤバい、なんか出る!!
ぽたっ。
紅野の机に真紅の液体が二粒ほど滴る。
「きゃっ! ……え? 鼻血が出てるよ!?」
紅野さんは慌ててスカートのポケットから取り出したまだ開けてもいない新品のティッシュを手渡してくる。それを受け取り、急いで鼻をかんで穴に詰め入れながら俺は心の中でありったけの感謝をしたくなった。
まず初めにこんなみっともない俺にティッシュを差し出してくれた素敵な紅野さんに、
そして、
ありがとうガードオブレジェンズ、ありがとう日本のサブカルチャーよ──────と。
放課後になった。
机の中の物をとりあえず全部、スクールバッグに適当に詰め込む。外は真っ赤な太陽が沈み、空を赤くしては窓から染み込んできて教室までも朱に彩っていた。そんな見慣れたはずのなんてことない光景が、今日に限ってやけに俺の心を動かす。これがエモいという情緒なのだろうか。
もちろん、地球の自転や土地や教室の位置が変わったわけじゃない。仮に掃除をした影響によって机の位置がいつもよりも微妙にずれ、奇跡的な反射をした陽光が教室にある種の黄金比を生み出したとしても、今感じているこの気持ちには到底及ばないだろう。なぜならばそれは空間が変わったからではなく俺の心が変化したからで、もっと具体的に言うなら紅野エリという同志と出会えたからだ。クラスでひとり孤立し一ヶ月間、自堕落で怠惰的な日常を過ごしていた俺に唯一、なんの偏見もなく対等に接してくれる存在が現れたのだ。
そんな素晴らしい出会いのあった今日という日を記念日として残さなければいけないような気がして、俺がスマホで教室の写真を撮っては削除しを繰り返しながら苦心していると、教室後ろの出入口にいつの間にか立っていた遥と目が合った。
「何してるの?」
「今日という特別な日をスマホの中に収めたいんだ。見て分からないのか?」
「……そんなの分かるわけないじゃん」
「そうか、それは残念」パシャ。
「いや、パシャじゃなくて、早く帰ろうよ。電車乗り遅れるよ」
「わかった、わかった。そう焦んなって。ゆっくり帰ろう」
結局、イマイチにしか撮れなかった画像を確認した後、スマホをズボンのポケットに滑り込ませ、教科書類で想像以上に重くなったスクールバッグを肩に掛けながら遥の元へと歩いていく。
廊下に出ると暖色の空間が広がって昼間よりも窮屈な印象を与えており、運動部の掛け声と遠くから聴こえるカラスの鳴き声が木霊していた。
遥とはいつも一緒に帰るようにしている。それは幼馴染で家が隣同士ということもあるが、それ以上に家まで電車で一時間半という距離を女の子ひとりでは帰せないと思っているからだ。────建前上では。
本意は別だ。なんでそんな家から電車で一時間半もかかる距離を二人して通うことになったのか、この話の重要な点はここにある。
どういう事かと言うと遥と俺は昔からの口約束で同じ高校に行くことを決めていたのだが、それなのに俺は自分本位な理由で進学する学校を無理やり勝手に一人で選んだのだ。ここでいう自分本位な理由というのが、勉学に励むためだとか、部活に集中するためだとか、そういうご立派な理由であったのなら俺もここまで負い目を感じることもなかっただろうし、そうであって欲しかった。
しかし残念ながらその自分本位な理由はあまりにも酷く脆弱なもので、それは────自分の黒歴史を誰も知らない場所に逃げたい。そのためにできるだけ遠くの高校へ、しかも念を押して私立の高校に進学しよう。そしたら一から普通の人間として再出発できるだろう────という、俺の軟弱さが悪い方向に表出した進路決定理由なのだった。
だというのに、なんと遥は律儀にも口約束でしかなかったはずの「同じ高校へ進学する」を守り、俺についてきて欅ヶ丘学園に入学してしまった。まぁ、なぜかよりにもよって森下も金魚の糞みたいにセットでついて来たが……。
取り敢えずそうして俺は遥に対して負い目を感じるようになり、その償いのかわりとして登下校時に用心棒さながらの付き添いをすると固く誓ったのだ。────結局、この決意も独りよがりなものでしかないのに。
遥に今日あったことを話し聞かせながら駅に着いた。俺が話をする間、遥はずっと真顔でしか反応を返さないので変な違和感を抱いたが、プラットホームに足を踏み入れた際の目を刺す眩しい西日により、そんなものは撹拌されて霧消してしまった。
プラットホームには人はあまりおらず、数分も経たぬうちに定刻通り停車した電車に二人して乗り込み、直ぐに空いている座席へと並んで腰を掛けた。右を見れば遥は俺の隣にてバッグを膝の上に乗せて座っている。
「やけに嬉しそうだね」
遥が俺の目線の下から上目を光らせ、話しかけてきた。
「そんなことないさ」
咄嗟に誤魔化すが、
「いーや、絶対転入生と仲良くなったからでしょ」
さすが幼馴染、バレてら。それを向こうに気取られないようとしてぶっきらぼうに言葉を返す。
「遥には関係ないじゃん」
「それは、そうだけど……で、でも…………」
「でも?」
走る電車内に架線を支える電柱の影が落ちて同じテンポを刻みながら明滅を繰り返す中、次の言葉を待つ俺。すると突然、
「あぁ、もういい! 自分で考えなよ!!」
膝枕していたカバンを勢いよく叩き潰して、こちらに向けていた顔を反対側に背ける遥。
「何だよ、それ」
俺は訳がわからず独りごちる。
それ以降、無言が続き、険悪とまではいなくても空気は重さを増してしまった。電車の線路を踏む音だけが耳に残響し、足元に目を落とせば俺の運動靴には遥の影が斜めに寄りかかっていた。
最近、遥とはなにかと衝突することが多くなってきた。それは小さい軋轢が解消されないまま長引いてしまい、憤懣が積み重なっているからだろう。どっちかが謝れば済む話なのだろうけど謝るほど悪いことをした訳でもないし、された訳でもないのでどちらからも謝れずにいるのだ。
そうして関係が拗れたままの二人を乗せた電車はゆっくりと動きを止めた。どうやら目的の駅に停車したらしい。俺達は電車を降りてホームを足早に歩き駅を後にする。俺は遥の後ろを黙って俯いたままついていく。遥の揺れ動く影を眺めながら歩いていると、いつの間にか家に辿り着いてしまった。
空が二人の関係をわざと真似して嘲笑うかのように薄明るい中をそれぞれが自分の家の門扉を抜け、玄関ドア前まで歩く。
────これが最後のチャンスだぞ。
心の中で一滴の雫が水面に落ちて波紋が徐々に広がっていくように、何か、何か言わなければいけない、そんな気が強まって、
「また、明日」
なんとかその言葉だけを捻り出し、遥に投げかける。
「……………………うん」
消え入りそうなぐらいの小さい声が返ってきて、そのまま遥は家へと姿を消してしまった。
その姿を見て言葉を呑んでしまった俺は、大丈夫、返事があるということは明日になれば元通りになっているだろうと心の中で自分に言い聞かせ、掛けていた鍵を開けて誰もいない家に上がった──────────。
■■■
私、紅野エリは魔法使いだ。
先祖代々から母方の家系が生粋の魔法使いで、その脈々と続いてきた遺伝子が私の中にはある。魔法使いの血は絶やしてはいけないらしく、魔術の素養が少しでもあるのなら地獄のように苦しい鍛錬をしなくちゃいけない。
ぶっちゃけ、私は今どき魔法使いなんて時代遅れだと思う。ナンセンスの極み、そのものでしかないし。なのにママは私に魔術を教え込んだ。それはもう狂気を感じるくらい基礎から応用まで、埃まみれで紙もシミだらけ穴だらけな古い魔導書に書かれてること全部、家の離れにある石造りの暗い地下空間で朝から夜まで寝る間も惜しんで叩き込まれた。拒絶しても泣き喚いても休みなく毎日続けるのだ。
ああいうのをいわゆる毒親と呼ぶのだろう。
一般人であるパパの血を強く引いていたら今頃は普通の生活が私を待っていたんだろうけど、純正な魔女であるママの血をこれでもかと受け継いでしまった私には苦しい魔術鍛錬の日々が待っていたのだ。そんな下限を下回るくらいの低いモチベーションで嫌々やっていたにも拘らず、魔術がメキメキと上達していったときは自分の中に流れる魔女の血に絶望し恐怖した。
────普通の女の子になりたかったよ。
だから、私は躊躇なく家出をすることを決めた。
私はパパに相談をして、協力させることに成功し、そして具体的な計画を練ってくれたパパに諸々の責任とママの怒りを全部押し付ける事にしてママに許可なく出国した。ごめんね、パパ。
旅路は飛行機の乗り継ぎなどもあり約二十時間かかるけど、家にいる精神的苦痛に比べれば座席の床ずれによるお尻のヒリヒリとした痛みなんかさしたる問題ではないし、それに初めての一人旅ということもあり興奮してて、あっという間に二十時間という時は過ぎていった。雲の絨毯が水平線の向こうまで敷き詰められた空を窓の外から見下ろしながら読書に勤しむ、そんなフライトが終わり、日本に降り立ったときは感動のあまり泣きそうになった。
まぁ、流石に涙を流すことはなかったけどね。
日本を目的地に選んだのは、パパが日本人という事もあり日本語を第三言語として習得していたのもあるけど、やっぱり一番の理由はアニメーションだろう。
厳しい鍛錬の後は嫌というほどくたくたになって何も手につかなくなるけど、ベッドの上でスマホを見る事は簡単にできるので、鍛錬終わりの余った時間にスマホを見る生活を続けていると、自然と日本のアニメ文化の存在を知り、晴天の霹靂のごとき運命の出会いを果たしてしまった私は日本語が理解出来たことも相まって、どっぷりとその沼にハマっていくことになった。アニメを見る時間は私にとっては心の安らぎであり至福のひとときなのだ。
今ではアニメ声優のプロフィール、来歴、出演作などの情報を調べるのが密かな趣味となっているほどで、次は監督とかアニメーターの情報なども知りたいとか思ったり思わなかったり……。
まぁ、そんなこんなで日本に到着した私は、エリ大地に立つ!! ぐらいの軽い感じで学園、役所での手続きを無事に終え、すっかり楽勝モードになっていて、
「学校に初登校するまでは観光でもしておこうかな。行きたい聖地も沢山あるしね」
そういうことで私は喧騒の街へ希望と待望と願望を胸に抱いて駆り出した。
──────────────────失敗した。
なんでこんな単純な事を忘れてたんだろう。人生は山もあれば谷もあるという事を。
それはそれは有意義な聖地巡礼の帰り、私が住むことになった築九年の賃貸アパートの部屋にソイツは出現した。
春とはいえども自慢の長髪がじんわりと蒸れるぐらいに蒸し暑く、空もまだ明るい午後十六時三十分。玄関でスニーカーを脱ぎ、多種多様なアニメグッズが詰まった紙袋、そして財布と化粧ポーチが入ったブランド物の黒いショルダーバックを何もないダークブラウンのフローリング材の床に置いた瞬間、視界の端で四センチ大の黒い物体が新幹線並みの速度で私の後方に駆けていった。
何だあれは?
もしかしてママの使い魔?
いや、魔力は感じない。ということは生き物なのか? だけど嫌な感じがする。こう、生理的に無理な嫌悪感というか、硬い拳銃の銃口を後頭部に突きつけられているかのような、冷たい緊張感。アイルランドでは感じることのなかった気配だ。カサカサと鳥肌が立つ音を立てながらソイツは部屋の中をさも自分の居場所のように彷徨いており、背中に感じる汗に黒い嫌悪の気配が混じり、泥水となって流れているかのような感覚が私の全身を駆け巡る。
これ以上、この空気を感じたくなかった。
早くこの得体の知れない存在を目視しなければ、安心は得られないだろう、そう思い至ると私は勇気を振り絞り、思いっきり後ろに振り向いて未知の生物の姿を確認した。
白い壁に小さな黒いシミのようなナニか。
目に入ったソレには、黒く鈍い光沢を放つボディに六本の脚が生えてピクピク動く長い触覚が備なわっていて、
「これ、ダメだ…………」
しっかりと目視してしまったが故に、私の中にある何かがプツンと音を立てて切れ──────
それから先の記憶はない。
ただ、あの未知の生物が私の部屋に存在しているという事実が我慢できなかった事だけは憶えている。
未知との生物と遭遇し格闘すること二十分余り、その存在の気配が無くなったことに気がついた時には部屋の中は牛柄のように黒く焼け焦げていた。
そう、魔法を使ってしまったのだ。
秘匿にしなければならないのに無意識に使ってしまった。しかも、こんな些細な出来事で。
────────これが、私の日本生活初にして人生最大の失敗。
ほどなくして異変を感じ取った隣人が通報したことにより、大家のおばさんが血相を変えながらアパートに駆けつけてきた。大家さんは部屋を一瞥し、私を見つけるなり鬼の形相で怒鳴りつけてくる。
私は謝った。誠心誠意、視界が渦を巻いてぐるぐる回るくらい頭を下げて謝った。頭の中は真っ白で何も考えられなかった。その後、何とか大家さんの怒りが収まる頃には私の頭も話し合いができるぐらいには整理されていて、流石に部屋の中に現れた黒光りする謎生物と相対し、驚愕のあまり無我夢中で魔法を使って焼き尽くした、なんて言えるはずもなく、料理をしていた際の火の消し忘れという嘘をつくことにした。料理なんかたいしてできっこないのに。
かなり無理がある言い訳なので大家さんは訝しんではいたが、私のこれでもかという必死な顔を見て諦めたのか一応、納得はしてくれた。
「ふぅ……分かったわ…………。でも、学校には連絡をしますから」
どくん。
それは、まずい。
脳裏にパパの言葉がよぎる。
────問題は起こすなよ。もし起きた場合、お母さんを頼らないといけなくなるからな。
「ダメですっ!! それだけは、ダメですっ!!」
私は着古しのだぼだぼなスラックスパンツにあるポケットから携帯を取り出そうとする大家さんの腕をめちゃくちゃに掴んで制止する。
「何言ってるの!? 一人暮らしで保護者もいないのに、どうやって責任とるのよ!?」
「弁償しますからっ!!」
「え!?」
「敷金はもちろん返さなくていいですし、私が部屋の修理費を出しますっ!! だから大事にだけはしないでくれませんか?」
「で、でも…………修理するとなると結構な金額になるし、それに大家としては……」
「お金は父に振り込んでもらってありますから、お願いします……っ!!」
数分間の押し問答の末、私の圧に押し負けた大家さんは剣呑な顔をつくりながらも渋々、了承してくれた。良かった。何とか大事にはならずに済みそうだ。そう胸を撫で下ろすと、ある一つの懸念が生まれ落ちた。
それはここでの生活を安寧に送れるかどうかということだ。大家さんの懐柔には成功こそしたが、アパートの隣人や近所の人達が今日の出来事をどう捉えているか分からない。噂が広まれば遅かれ早かれ学校側に連絡がいく。それじゃ本末転倒だ。ママが日本に飛んで来て問題の一切合切を片付け、私をアイルランドに連れ戻してしまう。なら私がすることは一つしかなかった。正直言ってかなり無茶苦茶だけれど、ママが来日する恐怖よりは全然マシだ。
私は舌を噛み切るぐらいの覚悟を決めて大家さんを見定める。
「大家さん、最後にもう一つお願いしていいですか?」
「えぇ……? これ以上、何があるって言うの?」
私のことをすっかり恐れてしまって大家さんの顔は引き攣っていた。やっぱりこれじゃ、穏やかにここでの生活はできないだろう。
私は一呼吸置いて落ち着きながら言葉を紡ぐ。
「私はここを出ていきます。だから、どうか私の事を他の人達には黙ってて貰えませんか? 隣の部屋の人や学校の先生とかに。心配しなくても、ちゃんと修理費は出しますので」
言った。勇気を振り絞ってすらすらと自分の意思を伝えた。だけど、
「それは流石に…………無理。駄目よ。私だって貸主以前に大人としての責任があるの。十五の子供、ましてや女の子を一人にして追い出すなんてこと、絶対できない」
「大丈夫ですよ。日本まで一人で来ましたし、お金も十分ありますから、すぐ別の住居を探しますよ。学校の方には私から伝えますから」
「いいやダメ。その、わがままは通せません」
何回も交渉をして粘ったが大家さんは首を縦に振らない。それはやはり責任者としての面子や沽券に関わるからだろう。このご時世、大人になればなるほど社会の厳しい視線や逆風を浴びたくはないのだ。こうなっては大人というものは是が非でも動かない。
足下のアスファルトの黒は薄くなっていく空により青みがかって、西に沈んでいく太陽の光が建物の影の色を濃くしていき、その中で私という存在はあやふやになっていくような気がした。
……仕方ない。
そして私の中に真っ黒な渦が、巻き始めた。
────あの手を使うしかない。
私が最も得意で、私が最も苦手なもの。
────────魔法だ。
「なら大家さん。私の人差し指を見てください」
人差し指を立てて戸惑う大家さんの眼前にかざす。
「……何をするつもり?」
暗闇の中にある小さな光を捕らえるイメージで身体の奥底に感じる熱を引き出す。この熱こそが魔力。魔力とはいわば特殊な生命エネルギーの事で魔法はこのエネルギーを出力しながら呪文詠唱することで発動できる。
私は
『────我を信じること疑わず、迷いの螺旋より逸脱せし虚ろを、其の身に宿して眠れ────』
これは対象の相手を催眠状態にし、術者の暗示にかかりやすくする魔法だ。理屈としては「相手の思考を全て無にし、そこに一つの情報を与え、その情報を軸にして一度無くした様々な考えを再構築していく」という大掛かりなもので、かなりの高難易度な魔法らしい。これは私の捉え方だけれど、完成された長方形のパズルを分解した後、まっさらになった長方形の枠の中に存在しなかった全く別のピースを置き、それを起点として分解されたパズルのピースを組み換えて元の長方形に戻すようなものだ。でも、そうなると隙間だらけのちぐはぐなパズルが完成することになる。この隙間をどれだけ大きく作らないようにするかが術者の腕の見せどころと言えるだろう。魔術にもセンスは必要なのだ。
そんな術にかかった大家さんは目を虚ろにしながら「分かったわ」の一言を残して近隣住民に事情を話すため、ふらふらとした足取りで私の側から離れていく。これで大家さんの脳内では、私が問題を起こした事で修理費を払うことになったまま、火事の責任を取ってアパートを出ていくことを了承した────というものに書き換わったはずだ。
どうせ催眠魔法を使うのならなぜ修理費を払うままにしたのかといえば、それは催眠魔法の書き換え内容に無理があったり矛盾があると効果が薄まるというのもあるが、やはり一番の大きな理由は責任を取るということになるだろうか。自分のした事は自分でかたをつける。これは私のポリシーであり、生き様だ。ズルをして生きるのは嫌いだから。
溜め息ひとつ、そして思案。
残る問題は学園関係者への辻褄合わせをどうするかだ。大家さんは今ので大丈夫だとしても学園側には私の住所は知られている。これじゃ意味がない。後々バレてしまう。なにか手を考えなくてはいけない。すると、みぞおちの奥の方で何かが蠢く感覚がすると同時に私の頭上には私と同じ姿をした白い翼の天使と黒い羽の悪魔が楽しそうに仲良く、ぐるぐるとメリーゴーラウンドのように回りながら顕れた。
何かを耳元まで下りて来て呟いてくる。
──また、魔法使おうよ。
私の姿をした悪魔が囁く。
────使っちゃいなよ、魔法。
天使も囁く。
──────使うか、魔法。
私はそう決めた。
それから私は権謀術数をめぐらせ催眠魔法を駆使して様々な学園関係者をその魔力で酔わせた。担任の先生はもちろん、禿頭の教頭や、おでこにシワが何筋も刻まれた校長も容赦なく手にかけた。
これがママにバレた暁に私はこの世に留まれるだろうか。
そんな嫌な想像をしないよう努めて数日経ち、胸を高鳴らせながら初登校日を迎えて、自己紹介を無事に終えると親切なクラスメートの男の子に運ぶのを手伝ってもらった席に腰を下ろした。
その後はクラス中の人達から質問攻めにあい、その質問ひとつひとつに答えるのはなかなか大変だった。けれど嬉しかったし、みんな明るくて元気でとてもいい人達ばかりだった。でも、アニメの話にはあまり興味無さそうな感じで私は少し残念に思ってしまった。
アニメって凄く面白くて素晴らしいのに……。
そして来日はじめての昼休みになり、集まってきたみんなと話してるとなぜか突然、私の周りから人が離れだした。私が何か悪いこと言っちゃたのかなと黙考していると、
「オレの名はガード・オブ・レジェンズッ! ブラック・ブラッド・ブレード略称をトライブ、此処で逢ったが悠久の刻!! 貴様を討ち堕とさせてもらおうぞ!!」
いきなり、そんな大声が私の鼓膜を振るわせた。
目の前では机運びを手伝ってくれた黒崎……くん? に別のクラスの眼鏡をかけた男子がなにかアニメのセリフみたいなものを大袈裟な手振りとセットで語りかけている。話を聞いてみると、どうやら黒崎くんが彼の妹を殺したというシリアスな話をしているらしい。でも、黒崎くんはかなり険しい顔をしてる。ものすごく嫌そう。すると、黒崎くんが時計を指し示して一言、
「チャイム、鳴るぞ」とだけ言うと眼鏡をかけた彼は一目散に教室を出ていってしまった。
私は走り去った彼を目で追うために回した首を前に戻し、溜め息をついている黒崎くんを見やる。
もしかしたら……。
私は問いかける。
「ねぇ、もしかしてアニメとか好きなの?」
「えぇ!?」と驚く黒崎くん。その次に出てくる言葉を私はワクワクしながら待つ。黒崎くんが緊張の面持ちで口を開く。
「う、うん、好きだよ。…………もしかして紅野さんも?」
その返答を聞いて私はものすごく嬉しくなった。彼の手まで取ってブンブン振りながら喜んじゃった。ちょっと、はしたなかったかな?
まぁ、ともあれ前の席の黒崎くんはアニメが好きということですぐに仲良くなった。見ているアニメのジャンルもほぼ丸被りだった。
「俺はね、やっぱり伝説の五話のライブシーンかな。最初のドラムの音に心を奪われたよ」
「わかるよ。でも私はねー、タイトル回収からの特殊エンディングがかかる八話が大好きだな」
「あの話も良かったよね」
そうやってなぜか鼻血が出たので血が出ないよう鼻にティッシュを詰めた黒崎くんと好きなアニメのことについて話してると、私は誰かの視線を感じた。ものすご〜く重い気配がする右方向へ瞳を動かすと教室入口から黒色のミディアムヘアをした背が低い女子生徒がこちら側へ向けて邪念を放ちながら覗き込んでいた。とんでもない怒気を含んだ顔をしている。もしかしてあれが日本のデーモンっていう鬼?
「どうしたの?」
黒崎くんが私の様子を見て不安げな顔をしていた。
「ちょっとごめんね。用事ができちゃった、私」
「え?」
きょとんとする黒崎くんへ、いつもの癖で両手を合わせて謝りながら教室のドアから頭を出しているデーモン……じゃなくて謎の女子生徒の元へ向かうことにした。
「えーと、名前を教えてもらっていいかな?」
鍵が掛かっているのでそもそも開けられない屋上へのドアには立ち入り禁止の張り紙が貼ってあって、そんな鈍く銀色に輝くドア一枚しかない閑散で寂しい踊り場に私と彼女は二人、向かい合って立つ。私的には教室前の廊下でも良かったのだが、どうやら彼女は二人きりで誰にも聞かれずに静かな場所で話をしたかったらしく、この場所を選んだようだった。
「私はC組の芦屋遥」
そんな芦屋遥と名乗った少女は私を凝然と見据えて、やにわに名乗った。そんな彼女の見据えてくる目には憎悪の色が混濁と渦を巻いていた。
「わ、私は紅野エルって言います。よ、よろしくねっ」
そんな彼女に名乗り返してから友好の証として握手をしようと手を前に出すが、その手を見向きもせず彼女……芦屋さんは唸り声のような低いトーンをした声で言葉を吐く。
「貴女は司と仲良さそうに話してたけど、どういうつもり?」
「え?」
自分でも驚くぐらい間抜けな声が出た。
「だからさ、司と仲良くなってなにをしようとしてるの?」
戸惑う私に芦屋さんは噛み砕いて、また問いかけてくるが、改めて聞かれても理解はできない。相手の意図や聞きたいワードが全くと言っていいほどわからなかった。
「えっと、よく分からないんだけど……」
「だからぁ! 司の事どういう風に見てるのって訊いてるのっ!!」
「ど、どういう風にって言われても、ただのクラスメートだとしか……。そう言う貴方こそ、黒崎くんとはどういう関係なの?」
「私は司の幼馴染!!」
……あぁ、なるほどね。
この目の前で今にも噴火しそうなくらい顔を真っ赤にしてる黒髪の女の子は、黒崎くんの事が好きなんだ。それで黒崎くんと仲良く会話してた私にやきもち焼いて、さっきからずっと感情的になっているんだ。
そう思うと、話を理解するまで鬼のように映って見えていた彼女は全然普通の恋する女の子で、なんだかとても可愛く思えてきた。飼い主を取られて不機嫌にワンワン吠えてくる犬みたい。
だから、つい私は芦屋さんの小さい頭を撫でてしまった。
これは理性で抑えられるものじゃなかった。
「なな、なにするのっ!? あなたっ、あ、あ、頭おかしいんじゃない!!?」
当然、撫でられていた手を払って頭を両手で防御しながら縮こまる芦屋さん。そりゃあそうするよね。馬鹿にされてると思われても仕方ないよ。
「ご、こめん! つい可愛いなと思って頭撫でたくなっちゃって」
自分でも意味のわからない謝罪をする。
「美人だからって調子に乗っちゃって──っ!!!!」
とうとう堪忍袋の緒が切れた芦屋さんが吠えながら威嚇してくるドーベルマンさながらの剣幕で向かってきた。私は一瞬、驚いたけど頭一つぶん身長が違うとやっぱり力の差というものが物理的にしろ無自覚にしろ出てしまい、芦屋さんの小さい肩に両手をつっかえ棒のようにして乗せるだけでいとも簡単に抑えることに成功してしまった。それでも負けじと前に踏み出そうとして芦屋さんは身体に力を込めてくる。そんな芦屋さんの目尻には涙らしき輝きが見てとれた。とっくに憎悪の色は無くなってキレイで純真無垢な恋する少女の目をしていた。
流石に気が引けた。
それで両腕の力を緩めると芦屋さんは急に支えのひとつを失って結果的に私の胸の中に顔をうずめることになり、自然と抱き合う形になった。彼女のフローラルな髪の匂いが鼻を掠める。
少しの間。
そのまま時間が止まったかのように二人して狭い踊り場で寄り添いながら立つ。まるでライバル関係の二人が最後の決着をつけるかのような雰囲気が踊り場に流れた。すると冷静さを取り戻したのかすっかり大人しくなった芦屋さんは私からから離れ、
「もういいっ! ……勝手にすればっ!!」
そう言い捨てて階段を下りていった。
私は彼女の後ろ姿が見えなくなっても、階下の方を見下ろし立ち竦んでしまう。そのまま数分間は身動きが取れずにいた。やがて授業開始五分前の予鈴が鳴りだすと私はふと我に返り、すぐにクラスへと戻った。
来日して最初の放課後になった。
夕暮れに赤く染まる、タイルで舗装された帰り道をひとり歩きながら私は考える。無事に一日を問題なく過ごせた。やり通せた。けれど懸念の一つである学校生活は何とかなるとしても別のさらに大きな懸念の一つである、住む場所がないという私の頭を悩ませる問題について。新たに賃貸を探したくても火事の修理費等により、お金はあるようでないようなものだ。お金は日常生活の必要最低限な額に、お小遣いをプラスしたものを全額として約一年分もの額をパパが口座に振り込んでくれている。その限られた額の中でやりくりをしていくというのが、パパが娘である私の家出を手伝う条件の一つでもある。お金の使い方、大切さを覚えて欲しいというパパなりの考えがあるのだろう。────けれどパパ、残念ながら私は早々に窮地へ立たされています。
赤い空を眺めて、これからの不安を多分に抱えながら私は立ち止まり、目を閉じて深呼吸。
よし、と気持ちを新たに目を開けて歩き始めると、人通りが少ない交差点で信号を渡れないでいる腰の曲がったお婆さんがいた。そのお婆さんの隣で次の青信号を待っていると近くにある茶色の廃墟アパートが視界に入り、私は嫌気が差した。ほどなくして青信号になりお婆さんが渡るのを手助けした別れ際、お礼として飴玉を貰った。包みには黒砂糖味と印刷されている。その飴を変な味だなと思って舐めながら先ほど見えた場末の廃墟アパートまで歩いていき、辿り着くときにはすっかり口の中にあった飴は溶けてなくなっていた。そして周りに人がいないかきょろきょろ確認してから、錆びついて軋む鉄の門扉をゆっくり開き仄暗い建物の中に立ち入る。
今やここが私の住処なのだ。
ねずみ色の床には大小様々な瓦礫、空き缶やビニール袋のごみ類が雑然と散らばり、壁にはおびただしい亀裂が入り、入ってない壁を探す方が難しいぐらい。天井にある蛍光灯は殆ど割れ果てて埃まみれで汚く、割れていない蛍光灯を見つけても電気なんかもちろん通っていないため何の役にも立たない。なんとみすぼらしいんだろうか。建物内の片隅には瓦礫を取り除いた跡があり、そこには何も知らなかった頃のアニメグッズ類が紙袋に入って物寂しく壁に立てかけてあった。
そんな廃墟に、おろしたての制服姿で私はひとり立ち尽くす。
外はまだ薄明るい。その明かりに誘われ、本来なら窓があるであろう長方形の額縁に虚しさと孤独と静寂を背中に感じながらゆっくりと近寄り、何の変哲もない退屈な空を仰ぎ見た。
涙が零れそうだった。
■■■
いつもの事と相も変わらず友人のいない教室に入る。だがそんなことはどうだっていい。昨日から俺の日常は一ヶ月遅れの春を迎えたのだ。俺は悠然と机に鞄を置き傲然と席に座る。それと同時に後ろを振り向けば、
「ねぇ、アイルランドの料理には何があるの?」
「エルちゃんて英語もペラペラなの?」
「え──!? お化粧してないのー? こんなに綺麗でキメ細やかなのに? 羨ましいなー。このっ、このっ!」
「すごく日本語上手だよね……え? お父さん学者さんなの!? あぁ〜だからか。もう遺伝子からして頭がいいんだ」
昨日と相も変わらないクラスの人間で形成された壁がそこにはあり、それを見て俺だけでなくクラス連中にとっても新しい春が来ているのだという事を否が応にも理解せざるを得なかった。世界というものは俺一人を中心に回ってはいないのだった。
正面に向き直り黒板を見て、肩の力を抜きながら軽めの溜め息をつく。大丈夫、話す機会はこれからいくらでもあるさ。幸いなことにクラス連中の中にはアニメの話を出来るやつは数少ない。ほとんどが運動部の推薦で入学したいわゆる陽キャと呼ばれる輩だ。仲を深められるアドバンテージは充分、俺にある。昨日、話した限りでは彼女はかなりのアニメオタクだ。そんな彼女の趣味に合わせられる奴などこのクラスにはいないと、自分に言い聞かせて俺は安心を得る。
だが、それは束の間の一瞬の内に瓦解する安心だった。
教室の引き戸に他クラスで構成された烏合の衆が揺れ動いているのにふと気づいた数瞬後に、しまったと思った。俺の脳内計算では一年B組の38人だけしか頭数に入れておらず、他クラス合計160人を計上から見落としていたのだ。それと同時に学校は三年制ということも頭から欠落していた。そうだ、学園には生徒が約600名在学しているのだった。競争相手のあまりの多さに俺は驚嘆し焦燥した。質が高くても圧倒的な数の前では、そんなのは瑣々たるものでしかないことは誰しもが思考することではないのか。
後悔の念に駆られている俺が嫉妬心に塗れた視線を出入口に向け続けていると、唐突に打って変わって群衆が統制のとれた動きを始めだした。
そんな摩訶不思議な光景の
いつものように飽きもせず、相も変わらず朝っぱらから病を抱え、どうしようもない衝動のままに行動を開始したヤツが来たという事だ。
そう、
──────ガードオブレジェンズもとい森下嵐が。
案の定、その本名の通りに嵐のような大袈裟な動きでバレリーナのように回転しながら、一般生徒が自動ドアが開くかのごとく避ける事で出来たゲートを通過し、俺の傍らにて森下は停止した。もちろん周りを囲んでいた人垣も紅野さんだけを残して無くなっている。つまり周辺1メートルの空間は俺、森下、紅野さんの三人しか存在しないトライアングル均衡状態になったということだ。
少しの間。
「フハハハハッ! トライブッ!! 此度こそ勝負をして貰うぞ」
森下は三竦みの拮抗を崩し、大声で捲し立てる。
「其の首に一体、どれ程の懸賞金が懸けられていると思うておるのだ。十億コッパーだぞ。オレから逃げ果せたところで貴様の首を狙う者は浜の真砂の数程おる。金銭に目が眩んだ下賎な者共に無惨に殺されるだけであろう。なれば、今此処でオレとの決着をつけるのが貴様にとってもオレにとっても花と散れるというものだ」
鳥肌が立った。
軽い目眩もする。
それは、ただ単に羞恥心の欠けらも無い森下を遠く眺めている外野からの視線により恥辱を受けたことで起こった精神的反応か、もしくは過去の自分が森下と重なり合って見え、忘れようとしているトラウマが蘇り、まるで俺自身が恥をかいているかのような気分になったことで引き起こされた身体的反応なのかもしれなかった。まぁ何にしても、とてもとても嫌なことに変わりはなかった。
すると、
「ねぇ、ガードオブレジェンズさん? えっと、黒崎君の友達……じゃなくて復讐相手? でいいのかな。私は紅野エルって言うんだけど、よろしくねっ!」
森下に手を差し出す笑顔の紅野さん。なんと握手を求めているらしい。絶対よした方がいいのにと思っていると、差し出された白いしなやかな手を見て森下は明らかに動揺をしはじめた。俺を見て、紅野さんを見て、もう一度俺を見る。どうやら俺に助けを求めているらしい。だから俺は顎をしゃくって握手を返せと促す。
「う、うん……」
今までの気迫はどこ吹く風という気弱な返事とともに握手を返すガードオブレジェンズさん。
凄い。紅野さんの明朗快活オーラは森下に罹った重篤な病でさえ浄化してしまうのか。やり場に困ってこちらに泳がせた森下の瞳と俺の瞳がかち合った。
にやぁ。
俺は嘲笑うかのように口角を上げ、にやにやと顔をほころばすと、その反応を見て森下は顔を赤くし、握っていた紅野さんの手を丁寧にゆっくりと振り解いたかと思えば、来たときよりも速い足取りで教室から出ていった。よっぽど今の醜態を俺に晒したのが恥ずかしかったのだろう。俺はその有り様があまりにも愉快で笑ってしまいそうだった。それというのも、これまでの奇行の方を恥ずかしいと思わない、あいつのズレ具合があまりにもおかしかったからである。
「あらら、行っちゃった……」
紅野さんは残念そうに呟く。
あぁ、何故この人はどんな人間に対しても平等に、対等に接することができるんだろうか。なんて素晴らしく綺麗な人なんだろう。
────だけど、
それじゃ、みんなからどんな目で見られるか分かったもんじゃない。
正直言って森下と紅野さんは相性は悪くないだろうし、森下だって根っからのオタクだから話が弾むことは間違いなしだ。ただ、オタクとは無縁の陽キャひしめくこのクラスで上手くやっていくにはアイツとはある程度の距離感で接さなければならないと俺はそう思う。
素直に綺麗なまま、人間関係とは築けないものだ。
余計なお節介だとは思いつつも、
「あんまり、あいつと仲良くしない方がいいよ」
「ん、なんで?」
「周りの反応を見てたら分かると思うけど、あいつ嫌われてるんだよ。ここの連中にさ」
「え、そうなんだ」
紅野さんは教室を見渡す。クラスの奴らはひそひそと何やら悪い噂話をしているらしい。当然、話の主題は森下のことだろう。
「でもさ……」
紅野さんは俺の方に顔を戻したかと思えば、俺の目をしっかりと見据えて端然と、そして怒気を含んだ笑顔で、こう言い放った。
「私、そういうの嫌いだから」
一時限目の授業が終わり、休み時間になった。
俺はなんて馬鹿なことをしたのだろうと思う。余計なお世話というのは分かっていたはずなのに、なぜかあんなことを口走ってしまった。その結果、授業中ずっと紅野さんに話しかけずらくなって後ろが向けなくなり、それでも気になって無駄に緊張して耐えられなくなって、チャイムが鳴ったと同時に廊下へと避難した。窓枠が付いている方の壁にもたれかかって窓の向こう、空に浮かぶ雲を眺める。
「はぁ……」
今日はやけに溜め息が出る日だな。そう思いたそがれていると、朝の出来事が回想された。
今思えば朝からついてない日だった。
昨日のことを引きずって、遥とは朝から一回も目を合わせなかった。もちろん約束事である登校は一緒にした。が、全く会話はなかったし、こちら側から顔を背けてるしで重苦しく、どんよりとした嫌な通学だった。電車内がそれなりに混んでいたから何とか暇を潰せたが、あれが空いていたと想像するとストレスで胃に穴が開きそうだ。
そんな俺を白い雲は舐めるように見下ろして、ゆっくりと流れている。
ほどなくして予鈴が鳴った。
教室にとぼとぼと戻り自分の席に着いて物理基礎と書かれた教科書を適当にぱらぱらと開き眺めながら授業のチャイムが鳴るのを待つことにすると、紅野さんが申し訳なさそうに、
「ごめん、消しゴムの予備とかってある? 廃きょ……コホン、家に忘れちゃってさ」
と俺の肩を指でとんとんと叩きながら話しかけてきた。
俺は鼓動が早鐘を打ち始めるのを感じた。
「え? あ、うん。あるよ」
慌てて前に向き直り机の上にあった筆箱を漁り、すぐに予備の消しゴムは探り見つけたのだが、恥ずかしさを誤魔化そうとわざと探しているふりをして時間をかけた。そうして気分がなんとか落ち着いてから、とっくに手中に収めていた消しゴムを紅野さんが差し出す掌に乗せて渡す。
「ありがとっ!」
さらに鼓動が増す感覚。
お礼を言う紅野さんの笑顔を見て、そこで二つの疑問が浮かんだ。
なぜ、紅野さんは隣の席の女子生徒に頼らなかったのか?
なぜ、わざわざ前の席の男子生徒である俺に頼ってきたのか?
そう考えだすと心が妙に浮き足立ってくる。
つまり紅野さんは俺のことを嫌いになったわけではなかったということだ。それどころか信頼している節さえあるじゃないか。
どんどんと訪れてくる安堵によって俺は頭が冴えてきた。
一時限目のあのどんよりとした気持ちは俺の自惚れさが招いた勘違いで、俺なんか紅野さんにとっては全然、特別な存在じゃないし気にしすぎだった。なら、どうしてあんな風に気にする癖がついたのか、そんなもの今の冴えまくっている俺の頭なら容易に理解できる。
────それは昔の黒歴史が俺を未だに呪縛しているからだ。
憑き物が取れたかのような納得。そろそろ俺があの黒歴史から解き放たれる日は近いのかもしれない。こんなに晴れやかな気分が今まであっただろうか。
いや、ない。
曇ってた頃の俺には見えなかった景色が今の俺にはみえる。それは、あの廊下で見上げた白い雲が漂っていた空の鮮やかな青。こんな気持ちになれたのも全て、紅野さんの浄化の力によるものなんだろうか。だとしたらなんて凄い力だ。
そう思い巡らせ浸っていると、
「どうしたの? にやにやして」
不思議そうに俺を見つめている紅野さん。
「いっ、いやぁ、何でもないよ! ハッハハ……」
「?」
紅野さんが首を傾げるのを最後に見届けて前を向けば、ちょうど授業開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
なんであの病の発作はいつもこんなに唐突なのだろうか。
なんで毎度毎度、俺のそばに来ては呪言のような妄想を語り聞かせるのだろうか。こっちがご丁寧に塩対応を決め込んでも全くお構いなし。これはもう、嫌がらせと言っても過言じゃないのではないだろうか。が、今となってはもう遅い。気づいたときには俺はクラス中の奴らにこいつの仲間の一員とみなされていたのだから。
──────この目の前で黙って突っ立ている森下嵐の仲間に。
「なんだよ。言いたいことがあるなら早く言えよ」
毎度お馴染みの恒例行事と化した森下の登場は昼休み時間で本日二回目の登場だった。紅野さんが教室に居ないのを見計らってやって来たのだろう。
弁当を一人つついていた俺は、お構いなしで声を出している馬鹿の唾が入らないよう、弁当にプラスチックでできた蓋をして両耳を手で塞ぎ、そうしてからいっとき経つのを待った。するといつの間にやら長い台詞を言い終わって森下はこちらを無言で上から凝視しており、そこにはいつもとは違った趣の気持ち悪さがあり、その沈黙に耐えられなくなって仕方なく話をしていいぞと促したのだ。
森下が一文字で結んでいた口を開く。
「今迄の話を聞いていたか?」
「いや?」
「…………フハハハハッ! ならば改めて告げよう」
威張り散らすかのように胸を張り、そこに右手を張り付けて声高らかに言葉を続ける森下。
「此処から東に一
せっかく聞く気になってもこれだ。とても同じ言語を使ってるとは思えない。傍から聞けば何かの呪文にしか聞こえないだろう。
だがしかし、こいつの放つ言葉を理解できてしまう俺。はぁ……、物凄く憂鬱で不愉快な気分だ。
つまり────『学園から東に約1.6キロ行ったところにある鳴神神社に最近、人魂がでるらしいから、これを一緒に確かめに行こう』と森下はこう言っているのだ。普通に言えっての。あと、どうでもいい事だが、なんでヤード・ポンド法なんだよ。そこは世界観設定として尺貫法だろ。
「オレの提言は貴様の耳に届いたか?」
ここは素直に返そう。
「あぁ……」
「善し! ならば本日の夕刻、神木ゼルコバーゼの下にて貴様を待つ。約定を守るは必然の事だ。必ずや赴けよ」
神木ゼルコバーゼとはおそらくケヤキの事だろう。たぶん学園の正門両脇に二本生えている内のどちらか片方で俺を待つと言っているのだ。
────行くわけねぇ。
「いや、行くとは言ってないぞ。勝手に決めるな」
「何だと?」
「俺にだっていろいろな用事があるんだ。なのに今日の放課後待ち合わせってのは急すぎるだろ。そこはせめて休日とか……」
「貴様が一度でも他日の約定を厳守した事があったか?」
「うっ……」
つい、先ほど蓋した弁当箱に目をそらす俺。
「何時も何時も、其の様に貴様は約定を破棄してきた。此度で何度目だ? オレは数えているぞ。八十三度目だ。…………貴様との決着を付けたいという、オレの唯一の願いを貴様は幾度となく無下にしてきた……っ! オレは許せないっ! 貴様を、貴様を……、貴様を…………っ!」
ヤバい。森下に変なスイッチが入った。
森下の声は潤んでおり、周りの生徒もその声を聞いてざわめきだす。いつもなら森下をそしっていた口からは森下に対する同情の色を帯びた言葉が漏れ、逆に俺を非難する声がぽつぽつと浮き出ていた。
やばい。
焦り始める俺の心。加速して引き伸ばされる時間。全身の毛穴から汗が吹き出る感覚。クラス中の非難してくる視線は中学のとき嫌というほど浴びまくったあらゆる軽蔑の眼差しを想起させ、トラウマが脳裏に駆け巡り、俺はそれを耐えることが出来ない。
だからだろう、勝手に小心者の口が動いてしまった。
「わ、わわ、分かった、わかった! 行けばいいんだろ? いけばっ」
あーぁ、言っちまったよ。
そんな投げやりな言の葉をしかと聞き取った森下は満足げな顔をして告げる。
「……フフフ、その言葉、今この場にて衆目を集め貴様を縛りつけたものとする。逃げれなくなったな。ここにいる全員が証人となるだろうさ」
心底嬉しいのか、堅苦しい喋り方がほんの少し柔和になり、いつものキャラが剥がれかかっているガードオブレジェンズさん。
「フフ、ハハッ! ハハハハッ! フハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
項垂れる俺を残し、森下は嬉々とした笑い声を上げながら教室を去っていった。廊下からの哄笑が尾を引くように残響し、教室内にいつもの活気が戻る中、頭を傾ぐ先にある食いかけの弁当箱に目を向ければ、プラスチック製の蓋の上で窓から差し込む光を反射してキラキラと奴の唾が照り輝いており、
「はあああああぁぁぁぁぁぁぁ────────────……………………」
今日一番の大きな溜め息が出た。
そうやって溜め息が尽きない一日は放課後になっても終わりを迎えることができず、俺はたった一人、約束を守るため校門を正面から見て右に生えているケヤキのすぐそばで森下が来るのを待つ。
ってゆーか、アイツの方が遅れるのかよ、と心の中でツッコミながら、戦前からあるらしいと風の噂で聞いた老樹にもたれかかって一息つく。周りを見やれば、列をなし三々五々と我が家へと向かう帰宅部、それとは逆に学校指定の緑のジャージ姿で西に沈む赤へ吸い込まれるように走り込みをしている様々な運動部など、大勢の人達で校門周辺は溢れていた。
そんな雑多な人混みのただ中に構えてある校門を眺めながら何故か今日に限って何も言わず先に帰ってしまった遥のことをふと考える。そういうことは今までもあったし、そんなに珍しいことでもないのだが、一言もなく帰るなんてことは今まで一度もなく、一人で帰るときは必ず何かしら連絡をよこしていたのに今回は無かった。
…………それほどまでに俺を避けてるってことか。
まぁ、無理もない話だ。中学の時から思春期特有の訳のわからない病に罹った馬鹿の世話をし、阿呆が自分可愛さで身勝手に選んだ進学先へと無理をしてまでついてきたのに、それを毎日一緒に通学すればいいだろうなどと甘い考えで責任から逃げていた卑怯者のことなんざ愛想が尽きて当然ってもんだ。俺だってそんな奴、幼馴染だろうが親友だろうが知人だろうが縁を切りたいと思うし。
「はふぅ~~…………」
無意識に溜め息をつこうとして、これ以上溜め息を出すのは絶対に嫌だと思い、無理して阻止しようと口を閉じた結果、鼻の方に空気が漏れて変な声が出てしまった。……恥ずかしい。
誰にも見られてないよなと周りを見回すと体を向けてた方向、生徒が往来する校門を挟んで、あちら側のケヤキで俺をずっと待っていたらしい奴とそいつが掛けているメガネのレンズ越しに目が合ってしまった。
もちろん、森下だ。
こちらに気づいたアイツはいつもの調子で人の波によりごった返している中を分け入り掻き分けては俺がいるケヤキの下まで蜘蛛を思い浮かばせる動きで到着した。その挙動はとても二足歩行を主とするホモ・サピエンスのそれとはまるで違う。人間なのかコイツは?
「ふぅ…………待たせたな」
台詞を言い終わった森下は呼吸を整えて格好をつけてはいるが見た目は黒縁の眼鏡をかけて、手にはスクールバックを持った、ただの一般男子高校生にしか見えない。先程の事を頭からキレイさっぱりに取り除けばだが。
森下の眼鏡に反射する西日が俺の目を刺す。
「別に待ってないけど」
「何を言うかと思えば、其のように恥じらうものでもあるまいに、此の、この」
もはや設定を忘れ、キャラもオリジナルも見失ったガードオブレジェンズでも森下嵐でもない眼鏡をかけただけの男子生徒が俺を片手で揺する。コイツ、誰?
それを面倒臭く思った俺は、
「早く行くぞ。鳴神神社なんて行ったことねーんだからお前が案内しろよ」と言い、先を急がせた。
「そう、焦らずとも良い。時と言うものは誰に対しても平等なのだから、オレと貴様とで今、此の時を存分に分かち合おうではないか……って、話を聞かずに行くな!!」
返事も聞かずに歩き始めていた俺の後ろから届く奴の声へ対して肩越しに振り返って言い返す。
「俺とお前じゃ、時間の使い方が違うっての」
森下の目は眼鏡の反射により、ほとんど見えず、何を考えてるか伺い知れない。
「鳴神殿は其方ではないが」
「…………」
無言で森下のもとへと引き返した。
鳴神神社は学園から東へ1.6キロメートル先にあり、この辺りの地域の中では一番と言っていいほど影が薄く、寂しさを感じさせる狭小な神社だが、その歴史は古いらしく、室町時代に創建されたものだとインターネットに書いてあった。それと全くそのままの同じ内容を移動がてら森下から聞かされ、俺はすっかり覚えてしまい辟易した。
そして、神社があるとスマホの地図に表示されている場所に辿り着けば、そこには建物がないどころか境内も見当たらず、あるのは鳴神山という小山で、その山の正面と思われる場所に石でできた大きな鳥居が立っていた。どうやらその鳥居をくぐって階段を上ると境内が見えてくるらしい。
時刻は午後六時五十二分。
ここまで来るのに四十分もかかっていた。普通なら二十五分ぐらいの距離なのにだ。それはやはりというべきか、森下が道すがらコンビニで大好物のチョコミントアイスを買ったからで、そんなものを食いながら歩けば誰でも時間はかかるし、しかもアイスの足りなかった分の小銭まで俺が出すことになってしまった。
全くもって最悪である。
「お前、本当に返すんだろうな?」
「無論だ。オレは貴様と違い、約定は守る。必ずな」
俺は怪訝な顔をしながら薄暗い空を見上げる。太陽はとっくに西へと姿を隠し、東から夜の闇が忍び寄っている中、雲は逆光で真っ黒になりながら天空に浮いていた。
すると、
「いたたた……」
いつもうるさい大声の森下がとんでもなく小さな言葉を漏らす。
「どうした?」
俺は体調でも悪いのかと思って訊ねた。
「否、……何でもない」
腹をさすって尻を鳥居脇の石塀の角に押しつけながら強がるガードオブレジェンズ。
「……トイレか」
俺が冷めた目で見れば、森下は俯いて青ざめた顔をさらに下へ傾けて首肯する。こんなに弱ってるコイツを見るのは初めてかもしれない。
「はぁ、言わんこっちゃない。早く行ってこいよ。俺はここで待ってるから」
その言葉を聞き、森下は静かに緩慢な動作で石塀から離れ、右手を腹、左手をケツに配置し、内股になりながらトイレを目指して小走りで去っていった。俺はその様子を眺め、あいつも人間なんだなと呆れ返り、鳥居の柱にもたれかかってスマホでショート動画でも見ることにした。
────三十分。
この時間が何を意味するのかといえば、直近のスマホで確認した時刻から経過した時間であり、そしてアイスを早食いして腹を壊したアホが便所を捜し求めて姿を消してから流れ去った時間でもある。
遅い。
たかがトイレに行くだけで何をそんなに手間取るというのか。ざっと計算して移動に五分、所用に五分、帰還に五分、計十五分で終わるはずだ。だのにその倍、時間がかかっている。これは贔屓目に見ても異常だと言えるだろう。
スマホに表示される時刻は7:32。
空はとっくに闇に覆われ、目の前に敷かれた道路にはライトを照らした自動車たちが跋扈し、どこからともなく吹く生温い風が鳥居側の萌え木をざわざわと揺らす。
これ以上は待っていられない。
そう思った俺は、境内へ上がろうと決心した。
銀色の手すりが設けてある石段はやけに長くて傾斜がきつく、一分ぐらいかけて上がっていくと二基目の赤い鳥居が姿を段階的にあらわしだした。一呼吸置き、信号機の高さぐらいはあろうかという鳥居をくぐると境内の全体が見渡せるようになり、右から左へ目を動かせば、そこは明かりがないためかかなり暗く、辛うじて木々のシルエットと拝殿の形がうっすらと認識できる程度だった。
とても不気味だ。
どれだけ目を凝らせども、そこには吸い込まれるような闇しかなく、街の遠鳴りや枝葉の擦れる微かな音は唾を飲み込む音よりも小さく聞こえる。まるでこの場所自体が世界から隔離されているかのように……。
…………あれ?
この感覚、俺は前にも経験したことがあるぞ。
突如、急に生まれ出てたデジャヴの正体を突き止めようと脳が自然と働き、頭の中に白い壁を赤いものが覆う映像がモアレを起こしながら浮かんできた。そして連想ゲームのように次々と陽光が当たり輝くアレキサンドライトの碧、流星の軌跡のような鼻梁、上履きが床面を蹴る音や時計の秒針が刻む音、チョークが黒板の上を走る音、深緑色へ書かれた端然たる白い文字───────────
紅野 エル
そうか。
あの時の紅野さんと似てるんだ。
次元が違うかの如き、切り離された存在。
俺たちが過ごす世界とは別の空間にあるこの拝殿は、いつも何の変哲もない薄汚れた教室との共在に違和感を生みだしてしまう紅野さんと一体どう違うというのだろうか。
俺は胸をすく思いで息を吐いた。
なぜだか溜め息が尽きない今日一日のストレスがその吐いた息と一緒に流れていくような気持ちになった。一日の終わりとしてはキリがいいし、これでいいじゃないかと思ってしまう。
人魂の噂は結局のところ噂でしかなかったということで、もうこのまま帰ってしまおうか。森下には悪いが約束はちゃんと守ったわけだし、アイツのトイレが長いのだって悪いし、明日の学校で「先に帰ってすまなかった」と取り繕えばいいだろう。どうせいつも通り、性懲りもなく俺のとこまで来るんだろうしな。
目の前の闇間へ春風が後方から吹き渡り、俺の頬を掠めた。
────その風が幻覚だったのか予兆だったのか、それは今でも分からない。ただ、この後の出来事が俺の網膜にはまだしっかりと焼き付いている。
突然、
視界の片隅が真っ白になった。
一瞬のことで息を呑んだが、すぐにその現象が光によってもたらされたものだと悟った。人間というものは不思議なもので、そんな暗中模索の状況下でも光源を探し見つけようという好奇心が働くのか、俺も例に漏れず件の人魂かと思い、暗い境内の奥のさざめく木々の下、光があったと思しき参道外れの左隅に細め凝らした目を向ければ、そこにはまだ薄れゆく、灯火に近似した光が微かに残り、その傍らに、
人影が見えた。
女だ。
背の高さからして俺より低いし、髪も長くて線も細い。目がやっと闇に慣れてきたというのもあり、そのシルエットからまず女であることは間違いないだろうと確信した。まぁ、仮に女装した男だったとしても、こんな時間にこんな場所で火遊びみたいな事をしているのはどっちにしろかなりヤバいと思う。
どうする?
注意するか?
客観的に考慮すれば、それが正しい行為だと理解してはいるのだが、この場から離れたいというのが俺の主観的な感情だ。それでなくとも今日はいろいろ嫌なことが立て続けにあって、やっと、大小様々なしがらみから解放されて気分良く家に帰れると思ったのに。
だからだろうか、そう考えだしたら自然にここ最近の鬱憤が怒りへと変換されてふつふつと沸いてきた。
なぜ心機一転で遠方の高校に通学しているのに友人が一人も出来ないまま一ヶ月経ってんだよ。
どうして幼馴染みである遥とも仲違い起こして、うまくいってないんだよ。
大体、なんで俺はこんなところにいるんだよ。
これって誰のせい? シンプルに森下のせいか? それともクラス連中のせい? もしくは生まれ持った俺の運の悪さ? はたまた大局的に見て社会全体のせい? ──いや、そんな単純なもんじゃない。
悪いのは、目の前にいるアイツだ。
もっと具体的に言うなら俺は、今までずっと体制から外れた社会悪から目を逸らし、過去の自分の過ちからも目を背けて逃げ続け、それらのせいだと甘えては行動を起こさなかった自分に腹が立っているんだ。だからこそあの人影は、今の甲斐性なしな俺にとって超えるべき壁で、そういう存在なのだ。
そんな風に突き詰めて着地すれば、もうやる事は一つとばかりに、ほとんど八つ当たりとも取れる面責をあの人影に対してしてやろうと覚悟を決めて歩を進めだしたそのとき────────────
鮮烈な二度目の光。
闇を払い除けて広がっていく一面の白。
あまりの眩しさに一瞬、目を開けず視力を完全にシャットダウンされるが、その閉じた瞼の上からでも閃光は容赦なく貫通し、俺の頭の中を真っ白にした。
「な、なんだ!?」
俺は驚きのあまり声が勝手に漏れる。そしてその自分の声と一緒に人影の声も俺の耳に入ってきて、
『────灼熱の中にある数多なる煌めきよ、彷徨える焔よ、我の元にてその姿を形と成し、輝け────』
そんな厨二病100%の言葉を唱え、消えゆく残光に照らされて顕わになった人影の正体を見た。
その綺麗な横顔を俺は知っている。
それは紛うことなき、昨日転入してきたクラスメイト────紅野エルのものだった。
■■■
魔法嫌いの私には、小さい頃から虐待ともとれるママの教育により、毎晩、怠らずに魔術鍛練をするという日課というか、習慣というか、癖がついてしまっている。そんな事をする理由としては、厄介なことに魔術というものは日々、鍛練しないと腕が落ちてしまうからであり、そんな肌の手入れじゃないんだしと私は思うんだけれど、常に鍛練をしておかないと魔術行使した際、全身に筋肉痛のような痛みが発生するし、それだけならまだしも、魔力酔いというものまで併発してしまう。これがかなり辛い。過去に一度、鍛練をサボって魔術を使ったとき、運悪く女の子の日と重なって魔力酔いになり、とんでもなく酷い目にあった。あれは二度と経験したくない、本当に。
だから、日本に来ても鍛練は怠るべからず、の意識で私は現在、根城にしている廃墟のすぐ目と鼻の先にある日本の教会とも呼べる神社? で鍛練を開始しようと決めた。神社は人気もなく高台にあるため、魔術を行使するには最適な場所だった。特に高い場所というのがミソで、風の通りがよく、四方が開けている場所が魔術的には好都合なのだ。
魔術というものは白魔術と黒魔術に大きく分けられ、簡単に違いを説明するなら、白魔術は自身や自然の魔力を使う魔術で、黒魔術は悪魔の力を借りる魔術である。まぁ、二種類に分けられると言っても、ママの話によれば黒魔術は悪魔が減少していることで衰退の一途を辿っているらしく、現に私も悪魔なんて見た事もない。つまり、現在の魔法使い達は殆どが白魔術を用いているということになり、もちろん、私も多分に漏れず、自身や自然の魔力を利用する。
だけど人間の魔力量は有限で、とても燃費が悪い。それなら自然の……もっと大きく捉えるなら地球の魔力を使う方が魔術的には効率が良いという事になり、術者が周りを壁に囲われる廃墟じゃなく、自然と隣り合わせになれる神社が、魔術鍛練をする場としては好ましいのだ。
で、今晩も神社に来た。
空は真っ黒で、空気は生温い。
私は敷地の左奥にあたる、木製の建物と木々の間の狭い場所をいつものように陣取る。敷地は樹木で囲まれており、出入りは石で造られた階段ぐらいしかないため、万一、人が来てもすぐに気付ける。明かりがないから少し不安だけど、逆に考えば、だからこそ安心とも思う。こんな暗くて不気味なところ、誰も好き好んで来るはずがない。それに、ここ一週間、何もなかったんだから大丈夫だろう。手慣れたものだ。OK、OK。
──────この慢心がいけなかった。
私が
私は心臓が飛び出そうなぐらい、びっくりした。
そして、血の気が引いていく感覚を覚えながら慌てて音の聞こえた方を向けば、そこには、
人間の姿があった。
泡を食ったような表情で見つめてくる、炎に照らされ形がくっきりと浮かんだ、その顔を目で捉えて、私はさらなる混乱に陥る。
「く、くく、黒崎くんっ!?」
視界にはクラスメートで私の前の席である、黒崎司が立っていた。
■■■
「く、くく、黒崎くんっ!?」
彼女の驚いた声が俺の耳を軽めにつんざく。
彼女との距離は3メートル余り。周りを照らしていた炎はどこへやら、侵さられる闇の中で二人は佇立する。上半身が邪魔して何が燃えていたのか、しかと見て取れなかったが、彼女の手元に焔の灯りがあったのは間違いないだろう。
嘘だろ、と思う。
まさか、あの紅野さんが秩序から外れた社会悪で、俺が超えるべき存在の正体だったなんて。このショックは、どんな物差しでも測り知れるものではなかった。
「「ナ、ナニシテルノ?」」
二人して、まったく同じ台詞を片言でハモる。傍から見たなら、かなり滑稽な光景に映るのかもしれない。ぎくしゃくしながら、連続回避本能並の譲り合い精神で、それぞれ相手の話を促し合い、そして機先を制するように発言しだしたのは紅野さんの方だった。
「コホン……、見た?」
問いかける、紅野さん。
「な、なにを?」
しらばっくれる、俺。
「…………………………………………」
無言の二人。
いくら見つめ合っても、相手の考えていることなんて分かりっこないのに、言葉でしか相手に伝えられない関係なのに、彼女も、俺も、口を開かない。もうとっくに、どちらとも喋りだすタイミングを逃していた。
こんなの耐えられない。
…………逃げよう。
そう思い至った俺は、まず最初に自分が立っている今の位置を把握する。そして、後方にある石段までの距離を左右を囲んでいる木々の並びを背中の方まで伸ばすようなイメージをすることで測り、逃げの算段をざっと立てた。石段までは約10メートル。そこまで全速力で走って約五秒。階段は二段飛ばしで下れば、二十秒位だろうか。
────よし、いける。
右足に体重を傾けて乗せることで軸足とし、左足を少し浮せては無事に動くかの最終的な確認を行う間、ぶつかり合っている紅野さんの瞳は空の黒に染まり、表情はマネキンのように固まったまま微動だにしなかった。そんな外国の人形みたいな不気味さを恐ろしく感じることで滲み出た汗により、シャツが背中全面にぴたっと張り付いていた。
彼女に隙ができるのをただひたすら待つ。
汗が俺の見開いた目に流れ、滲みる。
すると一瞬、
紅野さんが俺を捉えて離さなかった目線を僅かに下へ向けた。
────今だっ!!
腰を少し落とし、地面を力強く蹴るための姿勢をとりながら石段がある方向へ身体を捻り向ける。それは半ばクラウチングスタートに近い体勢だった。そしてなるたけ思いっきり、右足の爪先に入れていた力を開放し、一目散に駆ける。全力だった。自己最速を叩き出す勢いで無我夢中で走った。だからだろうか、予想より早く鳥居を抜け石段まで到達した。
上から石段を見下ろすと、その傾斜が急であることを再度、認識してしまい、背筋がぞわりと凍りつく。下まで続く金属の手すりは、街の微光を反射して、一筋の光の線となっており、まるで音ゲーのロングノーツのようだった。
激しい鼓動の音が、びびって足が竦んでいる俺を急かす。早く行けよと鼓舞する。────覚悟を決めろ!!
俺はすぐさま手すりを握り、飛び降りるかのような勢いで、足元もろくに見えない階段を駆け下りる最初の一歩を踏み出す。下りていくうち、瞬きすることも、息をすることも、思考することも忘却の彼方へと消え、俺は石段を二段飛ばしで下ることだけをインプットされた生物と化した。
段を蹴る。着地。また跳躍。
右足が地面に刺さったかのような衝撃を受け、予定の二十秒きっかりで下の鳥居がある場所まで辿り着いた。だが、まだ安心はできない。俺には、家へ帰り着くまで息をつく暇など微塵もない。息なんかもうとっくに切れてしまって、もはや酸欠状態に近くあるが、決して足を休めはしない。
ただただ走る。
闇の中を走り続け、ネオンが燦然と輝く街へ逃げ込む。
俺は何も考えることができなかった──────。
第二章 交錯する二人
翌朝。
無事、帰路に着いた俺はあの後、すぐに二階にある自分の部屋のベッドに潜り込んで眠りについた。質の良い睡眠とは言えなかったが、目覚めたときには幾分か頭はスッキリしていた。
俺は昨夜の出来事を順序だてて整理する。
あれは、間違いなく紅野さんだった。
彼女があそこで何をしていたのか、俺にはてんでわかりはしない。が、火を扱っていたこと、これは確かだ。あの明かりはゆらゆらと揺れていたし、暖色だった。
そこで俺は嘆息し、思う。
…………学校に行きたくない。
学校に行って教室に入れば、紅野さんとは嫌でも顔を合わせることになる。それをどうにかして避けたい。ならどうするんだ? 学校を休むか? それとも我慢して行くのか? もしかしたら、紅野さんにだって弁明したいことがあるかもだろうし、俺が勘違いしているのかもしれないし、それに、ずっと不登校を決め込むわけにもいかない。
俺は熟考して、
「はぁ…………、いくかぁー……」
やむを得ず登校することにし、昨日できなかった教科書類や体操服の準備をしていると、やにわに家のインターフォンが鳴った。
瞬間、心臓が止まる。
凍りつく時間。
もう一度、家中に鳴り響くインターフォン。
その音で我に返った俺は室内モニターがある一階へ、転けつまろびつ階段を下り、恐る恐るモニターを覗き見る。そこに映っているのは、
前髪を整える遥だった。
「司、昨日ごめんね」
開口一番、謝罪。
遥は人がまばらにいる朝の揺れ動く電車内で俯きながら膝枕しているバックの上に乗せた手を見つめて謝りだした。今日も無言のまま登校するのかと思っていたから、俺は少し面食らう。
「い、いや、いいよ。別になんとも思ってないから……」
「…………ありがと」
ガタンゴトン。ガタンゴトン。ガタンゴトン。
二人は再び無言になった。俺の心はむずむずする。遥ばっかり謝ってずるいと思う。だから、
「俺の方こそ、なんかごめん……」
「え?」
俺の横顔に窺うような視線を向ける遥。
「だ、だからさ、俺が遥を怒らせたことは事実としてあるわけだし、俺も罪悪感がないかと言われたらないとも言いきれないし…………。だから、ごめん」
「…………」
返事のない遥の方を粛然と見る。
「いいよ、許す」
そこには朝日に照る、困り笑う顔があった。
「ハハ、変な顔」
「……お前だって、変な笑い顔だっつーの。……ったく」
「あー、ひどいんだぁ」
間。
「ふっ、くくく……」
「アハハハ」
俺達は久々に笑いあう。
きっと周りから変な目で見られていることだろう。しかし、そんなものお構いなしだった。
電車を降りても、二人は久しぶりの会話に花を咲かせて、学園の靴箱がある玄関で一緒に上履きに履き替え、教室前まで話し込んでから手を振って別れた。そして、清々しい気持ちを抱えて俺は自分のクラスに意気揚々と入る。そこで、
紅野さんと目が合った。
タキサイキア現象の再来。
心の中に渦巻く真っ黒な恐怖。
歩を進める足は鉄球でも引きずってるかのように重くのろいのに、動悸はどんどん激しくなって呼吸がままならない。紅野さんは俺から目を離さない。あれだけ表情筋の優れていたはずの顔は、今やどんな感情も浮かび上がらせない仮面へと化していた。
一歩一歩、着実に彼女との距離は縮まっていく。
そして、とうとう俺は自分の席へと至り着いた。
紅野さんのレーザーサイトはまだ俺を捉えている。
昨日までしていた挨拶は、当然あるはずもない。
俺は息を止めて、緩慢な動作で椅子を引き、着席する。この際、後ろはコンマ一秒たりとも見なかった。これが悪手だった。昔から妄想癖のある俺にとって、背後から感じる不可視のプレッシャーは蛇に睨まれた蛙どころの騒ぎじゃなく、いつ包丁で刺し殺されてもおかしくはないほどの強烈なリアリティのある不快感を持ったものだった。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
「お前ら〜、おはよ〜。ほら、そこの男子、早く座りなさ〜い。……まったく〜」
田中夏愛先生、登場。
その睡魔を誘う声色で俺は谷底に落ちていくような恐怖から救い出された。それは誇張でもなんでもない、紛うことなき天使の声であった。ありがとう、大天使なっちー。
だが、多少おさまっただけでプレッシャーの出どころである紅野さんは今もなお俺の真後ろに存在し続けて念を送ってきている。
故に我思う。今日一日ならびに、これからの学校生活をどのように過ごしていくかを真剣に、それこそ試験やら進路やらと同列に考えていかなければならない、と。
もしかしたら俺、この歳にして禿げるかもしれないな。
そんな嫌な想像をする苦悶男子生徒の肩を、なんの前触れもなく背後から雪女もびっくりの白い人差し指が二回、軽く叩いてきた。
「HRが終わったら、私と一緒に来て」
極限まで小さくされた囁きは俺の全身から血を急激に抜き取っていく。自分だけでなく世界までもが色を失っていく。今、自分の姿を鏡で見たら、全力を出し切って燃え尽きたどこぞの東洋太平洋チャンピオンボクサーのように真っ白になっているに違いない。
HRの時間はつつがなく進む。その中で田中先生が連絡事項をいくつか話しているが、俺の脳内では先程の紅野さんによる囁きが反芻しまくり、諸連絡を外部に追い払ってしまう。
誰でもいい、誰か助けてくれ。今からでも遅くはないから、俺をこの苦しみから解放してくれよ。幼少の頃、憧れた正義の味方達はどこにいるんだ? ここに救いを求める一介の学徒がいますよ。
そんな現実逃避むなしく、終わってくれるなと祈っていたHR時間も無情に終わりを迎え、終了を告げるチャイムが鳴った瞬間、紅野さんに俺は手首を掴まれて廊下まで引っ張られる。
「ちょ、ちょっと!」
「いいから、黙ってついてきて」
廊下に出れば、たちまち周りの男子生徒から羨望の眼差しが降り注ぎ、嫉妬や驚嘆の声を漏れ聞くが、俺の抱えている畏怖などそいつらには知るよしもなかった。
で、彼女に腕を引っ張られ最終的に行き着いた場所は、扉が一つだけある屋上階段の踊り場だった。人の気配も当然なく、埃も溜まっているような雰囲気など芥子粒ほどもない寂寥感漂う空間で、さっそく彼女が訊いてくる。
「昨日、私が何をしていたか見たこと詳しく話してみて」
「詳しくたって…………厨二病的なセリフを言いながら火遊びしてたくらいしか憶えてないよ」
「全部じゃん!」
「いや、途中からだよ!」
紅野さんは訝しむ。この男子は嘘をついていると、誤魔化そうとしていると信じてやまない目をしている。困ったものだ。
彼女は呟く。
「…………わかった」
何がわかったというのだろう?
「なら、私の人差し指を見て」
彼女は人差し指を突き立て、俺の目の前まで持ってくる。俺は中指を立てられたのかなと思ったので少し安堵するが、もしかしたら目を潰されるのではという危機感を瞬間的に抱き、体がこわばってしまう。それでも自然と視線は細長い指に向かってしまった。
「集中して指先を見つめて」
彼女の声が頭の中に直接、響いて、次に、
『────我を信じること疑わず、迷いの螺旋より逸脱せし虚ろを其の身に宿して眠れ────』
こってこての羞恥心の欠片もない厨二ゼリフが耳に残響した。
呪文を言い終わった本人は、それはそれは大変やりきったという満足気なドヤ顔をキメている。その顔を見てようやっと俺が感じていた疑念はある確信へと変わった。紅野さんは、あの森下と同じ、いやそれよりも遙か雲上の高みにいる埒外であり、比類がないヤバい人種である、ということに。
俺の中で紅野さん…………いや、紅野のヒエラルキーは急降下し、底辺にまで墜落した。
俺は光をなくした眼で紅野を見つめる。
「あ、アレ!? もも、もしかして効いてない?」
彼女はなぜだか本気で驚いているらしい。ここまで病に染っていると笑いを通り越して呆れるほかなかった。
「そろそろ、いいかな? 教室戻りたいんだけど」
俺は強気に出る。
「あ、え? ご、ごめん……」
狼狽する紅野。
彼女の横を通り過ぎ、俺は教室へ戻るため階段を降りていく。
当然とばかりにそれを許す彼女ではなかった。
「ちょっ、ちょっと待ってよ!!」
俺は階段の中腹で足を止め、彼女を肩越しに見上げる。
「……誰にも言わない?」
「言わないよ。そもそも、誰も信じてくれないだろうし」
「ホント?」
「うん」
「…………わかった」
弱った彼女の顔を見ていると正直、心が痛むが、厨二病罹患者を甘やかしてはいけないと、俺は身をもって知っている。だから容赦はしない。俺は再び階段を下り始め、教室を目指す。
それから紅野は一日中、俺のあとをつけだした。
四六時中、どこにいても彼女が視界の片隅におり、休み時間、昼休み、廊下、図書室、挙句の果てには男子トイレまで、あらゆる場所で見かけたし、何回も目が合った。その度、彼女は素知らぬ顔をして誤魔化そうとするが、それがあまりにも不出来な欺瞞で目も当てられなかった。「今日はいい天気だね」とか「あれ? 黒崎くん、偶然だね」とか、このレベルである。
そのせいか、俺はとんでもなく辟易してしまった。
森下が二人になったようなものだ。相手をするだけ無駄なのは自分でもわかっている、わかってはいるのだが、相手が女子ということで森下みたいに激しく突っぱねることが俺には出来ない。ある意味、森下よりタチが悪かった。
だから放課後、
「紅野さん、そこにいるのは分かってるんだよ」
麗らかな春の日差しにより、たんぽぽの生えた地面が暗く陰る誰もいない体育館裏で俺は背後にある真っ白な物置き小屋へと言葉をつい投げかけてしまった。すると行き場を失ったハムスターのように白い立方体の裏から彼女が姿を現した。俺は振り返り、そんな彼女にズバッと言う。
「何か言いたいことがあるなら聞くから、こっそりついてくるのやめてくんないかな」
よしゃ、言ってやたぞ。ざまぁみやがれ。
「……なら素直に聞くけど、黒崎くんって魔法使い?」
「は?」
こちらから許可しておいてなんだが、いきなり出てきた質問がこれでは、俺の反応も妥当というものだろう。
「なんの冗談?」
「冗談とかじゃなくて、本気なんだけど」
俺は頭が痛くなった。まるで三蔵法師の呪文によって緊箍児を締め付けられている孫悟空のような気分だ。
こちら側から見てとれる彼女の目は大マジで、陽光を照り返す碧眼の輝きには曇りなど全くなく、純粋無垢な美しさを放っている。その曇りなき眼を見つめていると、俺の決意はいとも簡単に萎縮し折れてしまった。だから、もう、やけっぱちで、
「なんでそう思ったの?」
相手の話に乗ることにした。
「昨日、貸してもらった消しゴム憶えてる?」
「え?」
昨日の記憶を辿ってみる。あった。
「うん、憶えてるよ」
「その消しゴムに、微かだけど魔力の残滓を感じたの」
俺は絶句した。
この悪夢は、いつまで続き、どうやったら覚めるんだろうか? 俺は、それが何よりも知りたかった。
「それにもう一つの理由として、私の催眠魔術がかからなかったこともあるんだけど、本当に黒崎くんは魔術師じゃないの?」
呆れ果ててしまって、返答しようにも唇の薄皮が膠で接着されたかのように開けず、喉が小さく鳴るばかりの俺。
「……その反応をみると、ほんとに違うみたいだね。黒崎くん自体には魔力をいっさい感じないし」
彼女が距離を詰めてきて、
「手、出して」
と言ってくるので、俺は好きにしてくれとばかりに右手を差し出した。紅野は真剣な眼差しで、その手を両掌で挟み、じっくり撫で回す。
俺はたまらなく恥ずかしかった。こんな状況を人に見られたなら、変な誤解をされるやもしれず、そうなればただでさえ馴染めていないクラスでさらに孤立してしまうだろう。
「よし」
何がよしなのか分からないが、飽きるように俺の手を解放する紅野。
「疑ってごめんね。今あったこと、全部忘れてもらうと嬉しんだけど……」
手を合わせて下から見上げてくる彼女を俺はとても卑怯だと思う。そんな懇願する仕草をされたら誰もが享受するに違いなかった。もちろん俺もだ。
「りょうかい」
そう返して、俺は人気のない体育館裏を後にする。
彼女もズルいし、俺も甘すぎる。
これにて、放課後の彼女との折衝は幕を閉じた。
──────はずだった。
学園から出て、遥と駅のプラットホームで帰りの電車を待っていると、20メートル離れた鉄柱に見覚えのある赤い長髪の翻るのが視界に入る。十中八九とは言わず、間違いなく紅野だろう。こんなところまでストーキングするとは……。
俺はいち早く無視することにし、遥と電車が来るのを待つ。紅野はもはや隠れる気もない頻度で遥と肩を並べる、こちら側を覗き見ている。
早く来ないかな電車。
「どうしたのさ。そんなソワソワして。変だよ?」
遥が怪訝な表情をして言う。
「んー、いや、まぁ……」
気の抜けた相槌を打ちながら紅野の隠れている方向を横目に見やれば、彼女は若くてガラの悪い男にかまをかけられていた。後ろを向いていて彼女の表情は分からないが、とても困ってるに違いない。流石に助けないと駄目かなと思うと、丁度いいのか悪いのか微妙なタイミングで電車の姿がすぐ傍まで来ているのが目について俺はつい迷ってしまう。今、助けに行けば電車は過ぎ去って、紅野にストーカーされていることなど何も知らない遥にイヤな思いをさせるだろうし、だからといってクラスメートの女子が困っているのなら助けないと男の名が廃るってもんだし。そのクラスメートの女子がどんなに頭のおかしな奴であろうと一人の女子であることに変わりはないのだし……。
どうしたものか。
電車はもうホームに着く前。
もう一度、紅野のいる方を見る。
電車が着き、扉が開く。
「ちょっと、司? 何してんの? おーい」
かまをかけていた男が周りを挙動不審に見渡して、頭を掻きながらホームから立ち去っていくのが見えた。そして、赤い髪の彼女の姿はもうどこにも見当たらなかった。
「……もう! 早く行ってよねっ!」
背中を遥にどんっと強く押されて、俺は電車内にたたらを踏みながら乗車する。
「ぼけっとするのも、いい加減にしてよ。まったく」
「ん、すまん……」
扉が閉まり、電車はゆっくりと走り始めた。
俺はさっき見た事について考える。
彼女がホームにいなかったのは逃げるために走り去ったからで、あの男はあの瞬間まさに紅野を追いかけようとしてたのではないか。そう、考える。考えてしまう。俺はあの時、遥と紅野を天秤に掛けて遥の方をとったんじゃないのか。ならこれで良かったんじゃないのか。そう自分に言い聞かせないといたたまれない。そうだ、あれは彼女の自業自得なのだから、仕方──────
「!?」
いた。
紅野がいた。
偶々、眺めていた貫通扉の向こう側、俺達とは別の連結された車両の扉に彼女は背中を向け寄りかかって立っていた。鳥肌が立った。それはそう、まさに────戦慄。先程までの彼女に対する憂慮など頭の中から吹き飛んでしまうほどに俺は慄いた。まさか、このまま家までついてくる気なのか? 嘘だろ? 冗談じゃないぞ、と。
「司、どうしたの? 顔色悪いけど、もしかして酔った? 袋いる?」
「いや、大丈夫。酔ってない。酔ってないけど、それに限りなく近い状態ではある」
「はぁ?」
意味が分からないと言わんばかりの顔を作る幼馴染みのことなど気にしてなどいられなかった。
いくらなんでも家まで来るのは明らかに度を超えている。普通の人間のすることじゃない。やっぱり、あいつはヤバイ奴だと俺は改めて思い知る。
電車が目的の駅に着き、降車しても紅野の尾行は続き、俺が何とか遥の気を引きつつ歩き続ければ、とうとう家まであと五分で着いてしまう距離となっていた。本格的に策を講じないといけないのに俺は何もいいアイデアが思い浮かばず、焦燥して、どうにか考える時間をつくろうと不自然に歩を緩める。なのに、そんなもん知ったこっちゃない遥がせっつき、俺の歩行速度を後ろから押し出しては無理無体に上昇させた。
もう、家は目前に迫る。
後ろのストーカーの気配は、まだある。
もう、無理だ。
ここまで来て俺に何をどうしろというんだよ。どうしようもないだろ。ならどうにでもなれってもんだ。俺は考えることを放棄した。
すると案外、何事もなく遥とそれぞれの家の門扉前で到着した。
「また明日」
別れの挨拶を交わして遥が家へ入るのを待ち、姿が見えなくなったところで俺は後ろにある直立した電柱へと振り返る。
「紅野さん、もう出てきなよ」
「……バレてたか」
紅野が髪を耳にかけながら出現する。あの体たらくで、よくもまぁ格好つけれるものだ。しかし、それでも様になっているのだから、こちらも何も言えない。
「こんな所までついてくるなんて、いったい何を考えてるんだよ」
「それは、ごめん……」
怒れる俺に対して紅野は誠心誠意に頭を垂れて詫びる。だが、再び持ち上げた顔には意を決したような表情が浮かんでおり、次の言葉を続けた。
「でも、聞いて。黒崎くんと体育館裏で別れた後に、偶然これを見つけちゃったんだけどさ……」
彼女が紺色のスクールバッグに隠し持っていた黄土色の塊を取り出して俺に見せつけてくる。
「何、それ?」
「これは、
俺は頭を搔き、饒舌に話す彼女の声を遮るように、つい、
「あのさぁ! いい加減にしてよ。魔力がどうだの、魔術がどうだの、そんな存在もしないものをさ、さも当然あるかのように宣うのはやめろよ」
反発してしまう。語気は強まり、口から出る言葉には熱がこもって、自分でも止めることができないほど感情が溢れてきて、
「もう、俺はそういうのからは卒業して新しい人生を歩んでるんだ。いつまでも妄想に逃げるのはとっくにやめたんだよ。紅野さんがアニメの真似事をするのは個人の自由だからさ、咎めはしないけど、でも俺をその妄想に巻き込まないでくれよ!」
全部、ぶちまけた。
幼馴染みにすら打ち明けたことのない心情を洗いざらい紅野に叩きつけた。そこで、押し寄せた大波が引けば残るは沈静のみであるように、俺は冷静さを取り戻し、言いすぎてしまったと後悔する。
高純度の本心を真っ向から受けた彼女は、太陽を背負いながら凝然と俺を見据え、端麗な顔を憤慨の色に染めて、
「なら、魔法みせてあげる」
そう断言した。
それから紅野の提言によって俺は彼女を家にあげ、一階にあるダイニングにて話を聞くことになった。回転するダイニングチェアに彼女を座らせ、その対面のチェアに俺も腰を下ろす。
彼女はすこぶる不機嫌そうだった。
「本当は魔法のことは秘匿にしなくちゃいけないんだけど、黒崎くんにも関係のある話になってきちゃたし、簡単に話すね」
俺は面倒くさくなってダイニングテーブルの上に置いてある花柄の箸入れに目を落とす。その内、一輪の白い花の柄が窓から差し込む西日によって赤く染まって照り返っており、それを深く考えずに眺めていると紅野の話が静かに始まった。
「まず最初に簡単な説明をするけど、魔法、魔術というのは、火、水、土、風の四つの元素に分ける事ができるの。まぁ、魔術体系によって数は変わるけどね」
俺は洗脳されてる気がしてならないが、これ以上、彼女を刺激するとあとが怖いので、黙って話を聞くことに意をそそぐ。
「で、今回の、この操り人形を構成する物質が土だったこともあって、私は黒崎くんをつけ狙っているのが、土元素の魔術師と考えたの」
「つけ狙われてる? 俺が?」
「そう。その魔術師の目的が何かはわからないけど、黒崎くんを狙ってるのは確かだと思う」
理解不能。俺の脳味噌が、そう、エラーを吐く。
「だから、黒崎くんのあとをつけたの。私は別に黒崎くんに迷惑をかけるつもりはなくて、ただ、その魔術師の正体が何なのかを突き止めたかったの」
間。
「……でも迷惑をかけたのなら、もう、つきまとうのはやめる。……だけど、私が魔術師なのは妄想とかじゃないから信じて欲しいの」
間。
「……紅野さんは何元素なの?」
我知らず、俺は自然と口を開いて尋ねていた。そこで、自分の心がときめいているのを感じた。
俺の心には、まだ中学の頃の情熱が潜んでいたのだ。
「え? ……信じてくれるの?」
「信じるか、今はなんとも言えないけど、とりあえず紅野さんの話を聞いてみようと思ってね。見せてくれるんでしょ? 魔法」
「……ありがとう」
彼女の面差しは、いつもの穏やかなものになり、心機一転、身を乗り出して俺の問いに答える。
「私の元素は、火」
それを聞き、俺は境内の一幕を思い返す。
「じゃあ、神社の火の正体って魔法によるものだったんだ」
「うん」
数々の疑問の答えが解明されていき、何だか段々と面白くなってくる。
「あれは、
もう、嘘でもいい。そう思う。俺はとっくに彼女の話に腹を空かせた野良犬の如く食らいついていた。
「手、出してみて」
そう言われた通りに俺が手を出すと、彼女はその開かれた手の五本の指へ、親指には親指、人差し指には人差し指と、自分の五指の先端をそれぞれの指へ重ね合わせて、
「今から魔力を放出するから、集中して感じとって」
「俺でも感じとれるもんなの? それ」
「魔力ってのは、いわばエネルギーだからね。生きとし生けるものなら、誰だって感じとれるはずだよ。もしかしたら、ちょっと痛むかも」
彼女の五指の先に力が少し入るのを感じる。俺も魔力を感じとるために集中しようとするのだが、誰もいない自分の家のダイニングで美少女クラスメイトと二人っきりで指をくっつけあっているという、この状況に妙な気を起こしてしまい、つい顔がニマニマしそうになる。それを隠そうと俺が唇を内側に巻き込もうとした、そのとき、五本の指先に熱が伝わるのを感じた。
それは、とても熱く、斥力がはたらいていて、まるで彼女の指から磁場のようなものがつくられ、磁力を発生させているようだった。
そんな不思議な感覚に呆然とし俺は言葉を失う。
「どう? 感じる?」
「う、うん……」
「この放出された魔力を呪文によって変換させる術のことを魔術って言うの」
彼女はくっつけていた指を離し、
「信じてくれた?」
そう、俺に訊く。
しかし、俺はまだ信じきれないでいた。なにかトリックがあるのかもしれないと信じてやまなかった。なのに指先には先ほどの斥力のはたらきが微かに残っていて、とても変な気分。
「……し、信じるよ」
「ふぅ、よかった」
紅野は安堵の息を漏らす。
彼女の髪は夕焼けでより一層、赤みを増し、妖艶な光沢が端正な輪郭をさらに強調している。
なにもかもが赤で埋めつくされる空間で、俺は紅野の言うことを信じるか、信じないか未だに逡巡し、言葉を探そうとしてもみつけだせない。紅いダイニングには、どこからか聞こえてくる下校中の中学生達の賑々しい声が反響するばかりだった。
こういう空気は大の苦手だ。昔からいかんとも形容しがたい焦燥感が襲ってきてしまう。だが、こういうときの対処法を俺は知っている。それは空気を変えれば少しは気が紛れて落ち着けるということだ。
視線を紅野より下に落とし、テーブルの上に何も乗ってないことを今更ながら気付いた俺は、このことを利用しようと機転を利かせ、
「な、なにか飲み物、出すね。」
彼女へと飲み物を持っていくために返事も聞かずに座っていた椅子を回転させて、そそくさと席を離れ、ダイニングと隣接するキッチンの食器棚横にある冷蔵庫まで移動する。
よーし、気分が落ち着いてきた。ストレスが緩和されていく感覚のなんと素晴らしきことか。
冷蔵庫を開ける。
「えーと、お茶と水、野菜ジュース、サイダー、どれがいい?」
俺は冷蔵庫に入っていた飲料物を左から順に列挙し、紅野に訊ねた。
──────カサッ。
ん?
────────────カサッ、カサ。
なんだ?
何かが食器棚と冷蔵庫の狭い隙間から急に飛び出してきた。高速移動するソレは左に曲がるや否や、減速過程をすっとばして、ニュートンさんもびっくり仰天の緊急停止をした。
凝視するまでもないソレは、別名を蜚(あぶらむし)。日本に生息する数、およそ236億匹。どこの家庭にも一度は出現したことのある焦げ茶、もしくは黒の嫌われ者、厄介者であり、あらゆる害虫の頂点に君臨するキングオブ害虫。
要するに、ゴキブリだった。
どっから侵入してきたんだコイツ。排水溝か? 換気扇か? それとも干してある洗濯物を取り込んだ時に付着していたのかな? まぁ、どうでもいいか。処せばいいだけだし。
俺は断罪を決行する意を固め、開けていた冷蔵庫をゆっくりと閉め、相手に気取られないよう、慎重に動き──────
「あっ!」
気づかれた!!
しかも、よりにもよって紅野の方に駆けていきやがった。
紅野に危険を知らせなければ。
「紅野さん! そっちにゴキブリが!!」
「えっ!?」
彼女は俺の大音声に驚いて、新幹線並みの速度で突進してくるゴキブリを碧い瞳に捉えた。
「いやっ、いや、いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや────────────っ!!!」
紅野は、びくっと腰を少し浮きあげたかと思いきや、回転チェアの座面の上に爪立ち、右足をダイニングテーブルの上に堂々と乗せて、ホラー映画ばりの悲鳴を上げる。いやいや、大袈裟な。
そんな事どうだっていい漆黒のスピードスターは、お構いなしに
「ひぃ──────っ!」
しかし、今の彼女にとって痛覚など、たわいもないものでしかなく、すぐさま、お尻をつけたまま後ずさり始める。が、壁により無情にもその勢いは制止され、バタバタとする足は空を蹴るだけだった。
まさか、彼女がゴキブリ苦手だったなんて。
大騒動の渦中にありながら、俺は脳天気にも思う。ないものねだりの極致で完璧超人の紅野エルにも弱点があったのだ。彼女だって人であるのだから、当たり前と言えば当たり前なんだけれども。
────仕方ない。
紅野さん、俺が始末するから、じっとしてて────────そう、俺が呼びかけようとしたとき、
大気が振動しながら、熱風が巻き起こった。
部屋中の温度が急上昇し、俺の全身を包み込んだ。まるで夏場の海にて肌を焼かれているかのような灼熱が紅野を中心に据えて集中し渦を巻く。彼女が引き起こした現象ということは一目瞭然だった。
『────灼熱の中にある数多なる煌めきよ、彷徨える焔よ、我の元にてその姿を形と成し輝け────』
このフレーズはあの時の!!
俺が想起する間に、紅野が前に突き出す開かれた右の掌にはハンドボール大の火玉が浮かんでおり、部屋中を灼熱色に染めあげた。あらゆる物が影を伸ばし、ダイニングが現代アートへと様変わりする中で俺は思う。
……ウソだろ、ホントだったのかよ?
まったくもって情けない話だ。
あれだけ彼女が
そこで俺は、ようやっと彼女が魔法使いであることを受け容れた。
魔法使いは日常に潜んでいる!! @kawasemiaska
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