第26話
沈黙の空気。二人は、少し前までの『定位置』という名の距離を保っていた。何かしないといけないと思った僕は部屋の中に入って、机に向かう。僕の鼓動の早さはピークに達していた。最近の僕には、帰ってきたすぐに机に向かうことなんて、全く無いのに。僕は宿題を取り出しながら、沈黙を打ち破ろうと声を振り絞る。至って冷静を装いながら。
「今日は、何の用?」
窓の外を向いていた楓は僕の方を向く。その視線を背に、僕はノートを開く。
「特に…。家にいても暇だし…」
「ふ〜ん…」
僕の気のないような返事で会話が終わろうとした時、楓が再び口を開く。
「ねえ…マスリリスに私がいるって、いつ知ったの…?」
つい数秒前までのフワフワした雰囲気のないストレートな声が響く。僕は机に向かったまま答える。
「アイドルの特番にマスリリスが出てたのをちょうど見たんだよ…」
「でも、私がいるって気づいたのは好きになった後なんだよね?」
「うん…」
会話の主導権は奪われていた。
「じゃあ、なんで好きになったの? マスリリスを。」
「……………」
自分の部屋なのに、自分の部屋じゃないような冷たい空気が流れている。僕は一人熱くなっているのかもしれない。でも、ここで伝えないと後悔するような気がして。僕は口を動かし始めた。
「部活ができなくなった時、ちょうど見つけて… かっこいいなって思って… 興味持ったんだよ…」
「そう…」
楓から返ってきた言葉はこれだけだった。もしかすると、楓は怒っているのかもしれない。でも、今の僕にはそのようには感じられなかった。楓に認めてもらえたような。全部、許されたような気がした。僕はマスリリスからたくさんのことをもらった。そして、楓からも。全部伝えたい。楓に。全部の感謝を。
「部活できなくなって時間ができたから、イベントにも行って。カッコ良すぎて、どんどん好きになっていっちゃって。それに、イベントで新しい友達なんかもできちゃって。でも、楓を見つけた時はビックリしたよ。特番で自己紹介した時! 立ち姿が似てるなって思ってたら、好きな食べ物がクッキー! しかも、幼馴染のお母さんが作るクッキーが好きだなんて絶対楓だって思ったよ!」
僕は楓の方に向き直して、大きな身振り手振りとともに熱く語っていた。しかし、僕の熱はすぐに後悔という冷たい感情に変わっていった。
「うん…」
楓は俯いたまま、ぼそっと呟いた。僕は言い過ぎてしまったのかもしれない。後悔という感情は、僕の頭に上っていた熱を、凍てつく水のように一気に覚ました。残ったのは、恥ずかしさという残響だけ。向かい合っているのに、合うことのない二人の目線。外の風景を映す窓は、もうすぐ真っ暗になろうとしている。僕には、楓が用もなく僕の部屋に来たとは思えなかった。でも、僕には、なぜ来たのかは分からない。いや、分かりたくなかったのかもしれない。
「夕食できたよ!」
二人の沈黙は、一階からの母さんの声で破られた。僕はどことなく立ち上がり、俯いている楓に手を差し出した。
「行こ……」
僕は楓に手を差し伸べた。触れようとした指先は、まるで冷たい壁に阻まれたかのように空を切る。楓は僕からの助けなど見向きもせず、自分の力だけで立ち上がった。
彼女はそのまま、僕の存在を無視するようにドアを開け、部屋から出ていった。
『バタン』静かに閉ざされたドアの音だけが、やけに響く。一人残された部屋は、いつもより空間が引き延ばされたように広く感じる。窓の外はとっくに夜の闇に沈み、電気を消した部屋はもう、深い孤独を映すように真っ暗だ。僕の手のひらには、触れられなかった楓の温度が、冷たい残像となって残っていた。
「ご馳走様でした!」
「ご馳走様でした…」
二人の目の前の食器は空っぽになっている。
「久しぶりに楓ちゃんに食べてもらえて嬉しいわ! お仕事についても聞けたし!」
夕食中、母さんは楓に仕事について、質問の嵐。楓はおろおろしている僕を横目に、当たり障りなく大人の対応をしていた。
母さんが満足そうにダイニングテーブルの椅子から腰を上げた時、楓が呟いた。
「あれ…? スマホがない…」
楓はポケットの中を探しているが見当たらない。
「僕の部屋に置いてきたんじゃない?」
僕はそう言いながら腰を上げ、二人は自分の部屋に向かった。
薄暗い階段を上り、部屋のドアを開ける。部屋の中心に置いてある小さなテーブルの上、僕の見たことないスマホが置いてある。おそらく楓のスマホだろう。
「あったよ!」
僕がそう言ってスマホを持ち上げた時、そのスマホの画面がついた。
『ねえ、大丈夫?』
そのスマホに表示されていた通知にはそう書いてあった。そして、壁紙は僕には馴染み深いマスリリスのロゴ。
「ありがとう。」
僕は手を伸ばしてきた楓にスマホを渡しながら話し始める。やっぱり、楓に何かあったんだ。アイドルを続けられないような大きなことが。こんなにマスリリスのことが好きなのに。
「やっぱり、アイドルって大変なんだね。ファンになってよく分かったよ。」
受け取った楓はその通知を見ると、画面を見せないように両手で抱え込むように画面を見せないように胸に押し当てる。
「楓は嫌だったかもしれないけど、僕、マスリリスのファンなんだよ。もしかしたら、楓の力になれるかも…」
僕は、ただ楓の力になりたい一心だった。僕の持つ精一杯の優しい声で、救いを求めるように手を差し伸べた。しかし、僕の言葉を遮ったのは、楓の冷たく、氷のように張り詰めた声だった。
「蒼に分かる訳無い!」
楓は泣いていた。その声は震えて、何かに怯えているように。
「どれだけ頑張っても認められない… もう何のために頑張ってるか分からないよ…」
楓は僕に背を向けた。その小さな背中は、自分を大きく見せようと必死でもがいている。その小さな背中は、僕の知らない、ずっと重たく、巨大な世界を背負っている。楓は、僕を避けるように歩き出した。
「待って!」
僕は咄嗟に声が出た。ここで言わないと、また離れ離れになる気がして。僕の身体は決心というお守りが無くても動き出した。
「僕は楓の力になりたい。それはマスリリスのファンだからじゃない。楓だから……。楓の力になりたい!」
楓の足は止まっていた。でも、楓は振り向かない。そして、その足はそのまま歩き出す。僕は全て出し尽くした抜け殻のように立ちすくんでいた。
「あれ?もう帰るの?」
リビングから母さんの声が聞こえる。僕の足は、その声でようやく動き始め、楓を追った。
「お邪魔しました……」
楓は母に短く礼を告げると、僕に背を向けたまま玄関のドアを開け、飛び出した。外は、先ほどの小風が、容赦ない冷たい雨へと変わっていた。雨は地面を叩きつけるように強く降っている。
僕は楓の後を追い、ためらうことなくドアをくぐり、一歩踏み出した。視界いっぱいに映るのは、雨に濡れながらも、ひたすら前だけを見て走る楓の小さな背中。自分だけの殻に閉じこもるように、たった数メートル先の隣の自分の家へと。
その背中を追おうとした僕の足は、激しく降りしきる雨に自分の無力さを縫い付けられたように動かない。肌を刺すような冷たさが、僕の決意を試すように全身を打つ。どうしたらいいのか、その答えは、冷たい雨粒と一緒に、僕の思考から流れ落ちていく。僕は、ただ激しい雨に打たれながら、逃げられてしまった玄関の前で、立ち尽くしていた。
「風邪ひくよ。お風呂入れたから、入っちゃって。」
玄関の中から母さんの冷静な声が聞こえた。でも、今の僕に何ができるのか。嫌われてしまっては何もできない。どこがいけなかったのか。地面を叩く大きな雨粒は、僕を急かすように打ち付ける。どうにかしなければいけない。考えようとしても頭の中は失態と後悔の言葉が乱れ、一気に叫び始める。耳をつんざくような高音と心をズシリと押しつぶす低音が僕の思考の邪魔をする。その声々に埋もれた解決の糸口は見つからない。僕を張り詰めていたその糸はぷつりと切れる音がした。その瞬間、その糸口と共にその音々は姿を消した。僕の心には、解決できない問題という名の残響が静かにこだましていた。
「…うん」
僕は母さんに返事をしながら、家に入った。
「楓ちゃん、元気にするんでしょ!」
母さんはリビングに入ろうとする僕の背中を、後ろから迷いなくバシっと叩いて言った。
「……………」
僕は答えられなかった。自信がなかった。頭では決心できている。しかし、また距離ができてしまった。前回と同じ、冷たい亀裂が僕たちを遠ざける。僕にはそう感じたから。
「あの時の過ちを繰り返してはいけない…」
『前の僕にはできなかったこと』。二度と同じ過ちは繰り返さない。僕は、震える指先でスマホを取り出し、楓にLINEを送った。
『ごめん。』
たったこれだけ。この言葉さえ。あの時、この言葉さえ言えていれば。今まで降り積もった後悔が一気に溢れ出る。楓に届かなくてもいい。ただ知ってほしい。殻の外で、背中の殻に私の体重を預け、気長に座り込んで待っているということを。
あれだけ強く降っていた雨はもう止んでいる。僕の心の中は整理されていないけれど、今日はここで一区切りつけなければ。僕は、その小さな一歩の重さを抱えたまま、布団に入った。
スマホが鳴った時には、僕は夢の中にいた。
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