第22話

僕の部屋は楓の部屋から見える。ということは、僕の部屋から楓の部屋が見えるということ。楓が働いていると知ってから、自分の部屋に戻ると楓の部屋の状況を窓越しに確認することが日課になっていた。マスリリスが売れ始めてから、楓の部屋は電気がついていないことが目に見えて増えていった。忙しくしているのだろう。マスリリスのファンである僕には、全く不思議には感じなかった。



そんな日々が続いてきた中で、あの日を迎える。

その日から、隣の家の様子は確実に変わった。そして、僕の謎は確信に変わった。



今日も特に何も成長していないまま、一日が終わっていく。時刻は十時を回ろうとしている。僕は自分の部屋に戻ろうと、リビングを出た。


『今日は一体、何をしていたのだろう…』


寝る準備ができた僕は、プチ反省会をしながら階段を登る。階段にあるライトは、僕が踏み外さないように煌々と輝いている。階段を登り終えると、階段を照らしてくれていたライトを自分で消して、部屋に入る。夕食に呼ばれて以来、戻っていなかった僕の部屋は真っ暗になっていた。僕の部屋の電気のスイッチは部屋の入り口近くにあるが、電気はつけない。部屋に帰ってきても、今日はもうベッドに入るだけ。電気をつけると消すのが面倒になるので、いつも電気はつけない。カーテンの閉まっていない窓から入ってくる月明かりを頼りに、僕はスマホを充電器に挿して、カーテンを閉めようと窓に近づく。


「やっぱり、最近部屋によく居るな…」


窓から見える楓の部屋は、カーテンの隙間から光が漏れていた。無数の光の中でも、確かな存在を示している。夜は、自分の存在を隠す場所も、示す場所もたくさんある。夜というのは複雑で単純だ。僕は光から目を背けるようにカーテンを閉めた。


「………………」


僕は何も言わずベッドに入る。しかし、心の中は騒がしいまま。





『休業』の二文字を消そうとしても、頭の中に浮かんでくる。楓はなんで休業したのか。楓は体調を崩してしまっただけなのか。それとも、心に傷を負ってしまったのか。アイドルが嫌いになってしまったのか。それでも、僕には何もできない。こんな近くにいるのに。


気づくと僕は部屋を飛び出していた。



『ピーンポーン』



その聞き覚えのある甲高いインターホンの音で僕は正気を取り戻した。


僕はこんな夜に何をやっているんだ。服装だってパジャマに一枚羽織っただけ。十分、変な奴だ。でも、僕はインターホンを押してしまった。

そんな後悔をしていると、インターホンの向こうから、僕の母さんと同じくらいの大人の女の人の声がする。


「はい…? ……蒼ちゃん? すぐ行くわね!」


その声は楓のお母さんだ。楓のお母さんとは、いつ以来だろう。とても警戒されたのは、声色で分かったが、気づいてもらえてよかった。


扉が開くと、まだスーツ姿の楓のお母さんが立っていた。まだ仕事から帰ってきて、あまり時間が立っていなかったのだろう。申し訳ないことをしてしまったという罪悪感が心を蝕んでいく。


「久しぶりね! どうしたの? こんな夜遅くに…?」


こんな無礼者にも、楓のお母さんは僕に優しく声をかける。楓によく似ている優しい声は、ギリギリ動いている僕の頭にしっかり届いた。


「あの…夜遅くにごめんなさい…楓…いますか?」


ここで帰ったらもっと変な奴だ。勇気を振り絞って言葉を紡ぎ出す。


「楓?」

「……はい…」


僕の自信のないか弱い返事を聞いた楓のお母さんは、何かを悟ったかのように言葉を続ける。


「楓、呼んでくるわね。」


楓のお母さんはこれ以上、何も聞かず楓を呼びに行った。僕は拳を強く握ったまま、その場に立っている。




もし楓が仮面アイドルじゃなかったら、どうなるだろう。いや、そんなことはない。絶対そうだ。それにアイドルじゃなかったとしても、最近、部屋にいることが多くなったのは、事実だ。待てよ…今の僕、気持ち悪い? ストーカーみたいじゃない?

どこからともなく湧いてきた不安は、僕を地獄へと突き落とす。その時、聞き馴染みのある声がした。


「どうしたの…こんな夜に…?」


そこに立っていたのは、蒼のよく知っている普通の楓だった。パジャマにカーディガンを羽織って、小首を傾げている楓の表情は不思議そうな顔をしている。嫌がられてないだけ、良かったのだろうか。それとも、疑問が嫌悪を大きく上回っているだけなのか。

二人の距離はおよそ二メートル。久しぶりすぎる二人だけの空間は、とても気まずい。楓の顔は見れない。それでも、なぜか安堵している僕がいる。


「あの…最近元気ない?……働いてるって聞いたし、最近よく部屋の電気ついてるし…」


僕の口は自然と動いたが、伝わりにくいグチャグチャな文章しか出てこない。言い終えた僕は、どんどん冷静になっていく。よく考えると、やっぱりストーカーである。よく考えれば、僕は楓に嫌われた身。こんなおせっかい、楓は望んでないんだ。返事の返ってこない沈黙の時間が過ぎて行くたび、逃げたくなる気持ちが溢れてくる。どうすればいいんだ。



「ウフッ…アハハハ…」



僕には想像していなかった笑い声が、楓の方から響いた。


「え?」


顔を上げるとそこには、口元を右手で覆い、左手でお腹を抱えながら、爆笑している楓がいた。


「…夜に部屋にいる事なんて、普通じゃない?…ウフッ…」


楓は爆笑を堪えながら楽しそうに言う。

僕は心配して来たのに、なんで笑われているのだろう。でも、言われて見れば、僕の考え過ぎだったのかもしれない。それに楓が笑顔なら。それでいい。


「そんなに笑わなくても…」


僕はそう呟きながら、赤くなってしまった頬を隠す。




それから、楓は一頻り笑った後、僕に話し始める。もちろん笑顔で。


「でも、元気が無かったのは正解。」


僕の楓から移った笑顔は一瞬陰りを見せる。


「えっ!」


僕の驚いた声にびっくりして楓は続ける。


「え? 元気が無いのが分かったから来たんじゃないの? でも…よく分かったね…」


そこに楓の満点の笑顔は無かった。僕は楓に何かあったと確信するが、それが何なのか僕には分からない。ただ、何か嫌なことを思い出させてしまった。


「ごめん…」

「なんで蒼が謝るの?」

「だって、こんな夜に…」


事情を何も知らない僕には、励ます権利などない。僕は、夜に急に訪れたことを棚に上げて謝った。でも、楓の悲しそうな顔は見たくない。けれど、僕には何もしてあげられることはない。僕は自分の無力さに、つくづく失望した。


「びっくりしたけど……嬉しかったよ…」


楓は少し微笑んでいるように見える。それは、僕に対しての強がりなのかもしれない。少しは楓の力になれたのか、それは楓にしか分からない。でも、僕は素直に楓の言葉を受け取ることにする。




「あのさ…次の土曜日空いている?どこか行こうよ。久しぶりに遊びに」


楓の力になりたい。僕はその一心だった。


「…いいよ!」


楓は少し考えてから誘いに承諾した。僕には楓が少し考えた理由がわかるが、今は知らなかったことにしよう。


「じゃあ、次の土曜日に!」

「あっ…うん…」


よし。これから準備することが山積みだ。楓を元気づけられるように。

僕は「じゃあね!」とだけ言って、背を向けて走り出す。



「蒼!」


楓の大きな声が、僕の背中に飛び掛かる。僕は慌てて足を止めて振り向いた。


「…今日はありがとう。次の土曜日、蒼ん家行くから!」


楓は少し恥ずかしそうに言った。距離の開いた僕に届く大きな声で。


「おう!」


僕はそれだけ言って走り出す。いつもは『おう!』なんて使わない。でも、急に出た言葉にしては、力強そうで良いな。呑気なことを考えながら、僕は力強く駆ける。秋の夜は少し涼しい。今の僕には、ぴったりだ。

僕が自分の家の玄関に着く頃、楓は玄関の外に出ていた。二人は手を軽く挙げて挨拶をし、同時にそれぞれの家に入った。

玄関は真っ暗だ。僕は母さんを起こさないように、ゆっくりと玄関の鍵を閉めて、自分の部屋に入る。僕の鼓動はまだ早い。今日はまだ寝られそうにないな。




その後、楓の家。

楓が家に入ると、お母さんがリビングから出てきた。


「蒼ちゃん、結構かっこいい所あるわね!」


お母さんは楓をおちょくるように言った。


「お母さん!」

「ごめんごめん。でも、もう言っておいた方がいいんじゃないの?」

「うん…」


楓は色々な感情が渦巻いた複雑な表情をして、自分の部屋へと入っていった。

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