第2話

「馬鹿みたい」


 そう一言呟いたっきり俯いて黙りこくってしまった七緒を見て、さすがに何か察したらしい。薫は一度咳払いし「……すみません。僕ばかりが話すぎました」 と見当違いな謝罪をよこしてきた。


「……そういえば、ここのカフェですが」

 そうあからさまに話題を変える。 


「一時期、ヘルシーでフォトジェニックなスムージでバズってましたよね。味は正直コンビニのそれと大差ありませんが、インスタ映え重視の見た目が呼び水となったというところでしょうか」


 七緒はゆっくり視線を上げた。

 これまで魅力的で、見つめるたび胸が高鳴っていた恋人は、もういない。

 薫の前には数種類のスムージーが、どれも一口ずつ手をつけられた状態で置かれている。


「この程度ならうちのラウンジでも提供できそうです。まあ、スムージーの装飾や店内インテリアは参考になりそうですから、足を伸ばした甲斐がありました」

「……人を振る時すら、そのためだけには来てくれないんですね」

「え?」


 小さく呟いた七緒の言葉を、薫が聞き返そうとした時だ。


「あったり前じゃん。あのネルアジュールの総支配人が、そんな暇なわけないんだからさ」


 七緒にとっては聞き馴染みのある―――ひどく、聞き馴染みのある声が耳に飛び込んでくる。


「……詩音」


 ぎくりと、向かいに座っている薫の顔色が変わった。

 それを見た七緒は、これ以上下がりようもないと思っていた自分の体温が、そこから更に冷え切っていくのを感じた。


(………―――ああ。そういうこと)


 その反応だけで、七緒には十分すぎるほどだった。今までいくらでも、これと同じ反応は見てきたのだから。


 心底、心が凪いでいる時でよかった。

 彼のことが好きで好きでたまらなかった今朝までの自分なら、このに会わせることなんて絶対耐えられなかった。

 七緒自身、会うのはもう十数年ぶりだ。


「……久しぶりだね。詩音しおん。いつアメリカから帰ってきたの?」

「2ヶ月くらい前かな〜?それまでもちょくちょく日本には来てたよ」


 にこっと笑うのは年の離れた可愛い妹。

 艶やかなショートボブが彼女が首を傾げると一緒にさらりと甘い香りを放つ。


「ねえ、あれ、モデルのShionじゃない??」

「うそ!何でこんなとこに……!?」

「ちょっと待って可愛すぎっ」


 聞き慣れた囁き声に手を振って応じつつ、詩音は軽やかにこちらへ駆け寄ってくる。次の瞬間、彼女が腰掛けたのは薫の膝の上であった。

「は」

 絶句している薫を見て、詩音はけらけら声をあげて笑う。


「薫さん久しぶり〜!おげんき?春の撮影ぶりだね!」

「………降りてください」

「やーだよん!だって椅子二つしかないんだもん!」

「持って来させればいいでしょう!」


「……二人のご関係は?」

 七緒は頬に微笑を乗せながら尋ねた。

 その七緒に顔を向けた詩音は、まるでいたぶる獲物を見つけたような嫌な笑顔を浮かべる。


「……薫さん、言ってなかったんだぁ」

 詩音は、今度は薫の首に腕を巻きつけて続けた。プロモデルとして国内外で活躍している彼女が、自らの魅せ方を心得ているのは当然だった。


「私、ネルアジュールのアンバサダーに起用されたの。あらゆる広告媒体で、彼のホテルの魅力を伝えるのが私の仕事。薫さんがCEOに推してくれたんだって」


 ね、薫さん。と詩音が美しい顔を近づける。

 七緒はゆっくりと薫に視線を向けた。


「……どうして、私に、相談してくれなかったんですか」


 一拍置いて、薫は答えた。七緒から目を逸らして。


「あなたには関係のないことだからです」


 それが彼の答えだ。

 七緒は鞄から財布を取り出すと、たん、と二人の目の前に千円札を置いて腰を上げた。


「それじゃあ薫さん。今までありがとうございました」

「……え?」

「帰ります」


 一瞬呆然とした薫は、すぐに顔を険しくする。


「ちょっと待ってください。妙な勘ぐりはしないでいただきたい。彼女と私は、特別親しい関係ではありません!」


 一時は動揺をあらわにした薫だが、すぐに冷静さを取り戻して七緒に告げた。さすが一流ホテル「総」支配人。立て直しが早い。


「それにまだ話は」

「薫さん」


 七緒はまっすぐ、立てた人差し指を彼の目の前に突き出した。

 これまで見たこともない七緒の冷たい眼差し。有無を言わせぬその迫力に、薫は思わず口を閉ざした。


「―――ひとつ。」


 七緒の声は、夜の海のように静かで澄んでいた。


「私は、たいていのことは笑って許せるけど、浮気だけは絶対に許せないの」


 こんな七緒の声を、薫は聞いたことはない。話し方も普段とは違う。

 薫の中の彼女はいつだってたおやかに語り、春の日差しのように暖かく笑っていた。

 しかしそんな七緒はもういない。


「う、浮気なんて」

「知らないの? 詩音そのこ、身体を許した男性の膝にしか乗らないの」


 みるみると青ざめていく薫の横で、七緒はさっさと身支度を始めている。

「ねえ? お猿さんみたいでしょ」

「あはっ、お姉ちゃんってばひど〜い!」

 詩音は痛くも痒くもなさそうにけらけら笑う。


「それからもう一つ」


 七緒は二本立てた指を下に向け、スムージーのグラスの下に差し込まれていたコースターを彼の前に滑らせた。


「ここのスムージーの人気の秘訣は、見た目だけじゃない」

「………は?」

「よく見て」


 視線を落とした薫が、初めて気が付いたように目を見開く。

 コースターにはつたない字で購入者への感謝の言葉が記されていた。一枚一枚手書きの文字で、末尾は「しおさい学園くだものファーム」と結ばれていた。


 この界隈で商売をしていて、その農園の名前を知らない人はいない。


「しおさい学園は支援学級の生徒が通う学校よ」

「支援学級……」

 七緒の言葉に、薫の切れ長の目が広がった。


「ここで作られているスムージーは全部、学園の子ども達が一年中、やさしさと愛を込めて育てた果物と野菜でできてる。だからこんなに美味しいの。だからこんなに、たくさんの人が愛したくなる」


 薫の瞳がたしかに揺れたのを七緒は見た気がしたが、もう、後ろ髪を引かれることはない。

 終わりだ。


「一口味見しただけで全部知った気になる、あなたなんかに、何も語る資格はない」

「七緒さん、待って」

 

 歩き出そうとした七緒は、ふと足元が目に入った。

 綺麗めなパンプスは、かつて薫が七緒に贈ったものだ。


 七緒はパンプスから足を引き抜くと、思いっきり振りかぶり、それを薫目掛けて投げつけた。それは見事薫の額を捉えたらしい。

 椅子ごとひっくり返った薫に向け、七緒ははっきりと言い放った。


「さよなら。薫さん」






 道中どうやって帰ったのかはあまり覚えていない。

 靴は履いていないし、ストッキングは破けてビリビリだし、さぞかし人目をひいたろう。覚えていないのは幸いだ。

 気付けば、七緒は尾道の駅へ降り立っていた。

 歩道橋を渡り、波の音に背中を押されながら、入り組んだ細い道に足を踏み入れる。

 その途端、七緒は急な懐かしさに襲われた。


 小学生の時。よくこの階段で転んで膝を擦りむいた。そうしたら、泣き声を聞きつけて角の家のおばちゃんが駆け出してきてくれたっけ。

 あっちの坂道にはいつも見知った猫がいて、七緒にだけはおでこの真ん中を撫でさせてくれた。

 初めてこの街に来た時のことも覚えてる。

 緊張でガチガチで、いつもより数段強面だった父と、新しい土地に不安でたまらなかった母と七緒に、町の人たちは言ったんだ。


「東京から、ようけ来てくれたなぁ。疲れたやろ」

「なんか困ったことがあったらなんでも言えよ」

「あんたたちのおかげで、尾道はまた人をもてなす町になれるけんなぁ」


 どの顔も、心の底からあたたかくなるような笑顔だった。


 視線の先に「とと屋」の暖簾のれん提灯ちょうちんを見つけた時にはすでに、七緒の顔は涙にまみれていた。


(――最悪、さいあくさいあくっ)


 ぬぐってもぬぐっても溢れてくる涙を、こらえることは諦める。

 これは失恋の涙ではない。

 悔しくて悔しくて、止まらない。

 長い眠りから、目が覚めたような思いだった。


『――あなたとお付き合いしつつ、もし需要が高そうならあの民宿を取り壊し、瀬戸内海をコンセプトにしたリゾートホテルに作り替えようと提案するつもりでした』


 そんなこと、させてたまるか。

 ここがどんな思いで守られているかも知らないで。


「………もう、誰にも頼らない……」


 滲んだ視界の向こうに、ぼんやりと明かりの灯る「とと屋」が見える。

 築100年の木造の古民家は木のかおりで満ちていている。

 確かに古い。

 でも、それでいい。


 雨が降ると、「とと屋」の窓格子はどこか甘いかおりを放った。

 風がよく通るのは、建築当時の間取りだからだ。

 部屋のすみずみに行き渡る穏やかな潮騒。

 星の降る夜は、父がこしらえた天窓をあけて夜に浸る。


 髪を振り解いて振り返る。

 目の前には、瀬戸内海と芸予諸島の島々が、茜色の夕焼けに染まって輝いていた。


「もう、誰にも、わださない」



 心の底から湧き起こるまま、手の甲で強く涙を拭って、七緒は吠えるように叫んだ。


「とと屋は、私が守ってみせる」


 声が夕焼け空に響く。

 言うや、身をひるがえして勢いよく店に飛び込んだ。


「な、七緒あんたどうしたのその顔!」

「七緒ちゃん!?なんじゃなんじゃ一体」

「なんでもない!ただいま!」


 慌てふためく母親や、何事かと騒ぐ常連客に迎えられながら、七緒の失恋の痛みは、今や強い決意に塗り替えられていた。








「………――――まずい。惚れた」


 涙に塗れた声で誓った声を、まさか自分以外の誰かに聞かれているなどとは思いもせずに。

 

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