尾道民宿裏噺〜道後老舗旅館の若様にはご用心〜
岡田遥@書籍発売中
第1話
高学歴、高身長、高収入。と、世に広く伝わる3Kをあまねくクリアし、さらに仕事もできて顔もいいときたら、世の女性たちは当然放っておかない。私、ーー七緒の恋人は、まさしくそういう男性だった。
「七緒さん、今日はお呼び立てしてしまってすみません。少し痩せましたか?だめですよ、忙しくても食事はきちんと摂らないと」
「薫さんこそ、最近お忙しいって聞いたのに……会いにきてくれるなんて嬉しいです」
ふふ、と口元に手を当てて上品に笑う。
正直に言おう。こんな素敵な男性が自分の恋人であることを、七緒は少なからず自慢に思っていた。小中高と、恋とは無縁、どころか気の強さから「男女」と揶揄されてきた青春時代を思えば、目を見張るほどの大進歩である。
薫の知的な眼差しも、どことなく冷たさを感じさせる顔立ちも、七緒の目から見ればとろけるほどに魅力的だった。
だから二月ぶりの逢瀬で、まさかこんなことを打ち明けられようとは思いもしなかったのだ。
「結論から言いますが、あなたとの交際は『市場調査』だったんです。あなた自身を心から愛していたわけじゃない」
「…………えっ」
「もともと釣り合いも取れていませんでしたし、このあたりで一つ、関係を精算しませんか」
三十一歳。結婚適齢期やや超過。
七緒はうっかり剥げかけた淑女の仮面を、慌てて顔に貼り付け直した。
「……ごめんなさい、薫さん。今なんておっしゃいました?私ったら、よく聞き取れなくて」
(………まさか。幻聴よね?)
溺愛されていた――とは言わずとも、憎からず思われていると信じ込んでいた恋人から、あなたとの交際は市場調査だったと告げられることなど、そうそうあっていいはずがない。そうだ。あってはいけない。
しかも、周囲の友人たちの結婚ラッシュなんかとっくに落ち着き、なんならベイビーラッシュが到来し始めているこのタイミングで。
「ですから、あなたとの関係を精算しにきた、と言いました」
一つため息をつきながら、恋人――元恋人、佐久間 薫は、細縁の眼鏡を、人差し指の第二関節でくいと上に押し上げた。
神経質な彼らしい、七緒が好きだった仕草の一つ。
透き通るような中性的な美貌は、こうしてただ椅子に座しているだけでも周囲の女性達の視線をほしいままにしている。
それは、七緒が彼と出会った五年前から何も変わらない。
――ネル アジュール 東京ベイホテル。
銀座エリアの一等地に位置し、総客室数は102部屋。広々とした客室と落ち着いた色調、洗練された調度品でまとめたエレガントで快適な空間が売りの高級ホテルは、専用のバー、専任のコンシェルジュ、ジャグジーや屋内プールなどあらゆる需要に合わせた屋内施設が併設されていることでも有名である。
そのホテルの若き支配人が、彼、佐久間薫だった。
対する七緒は、広島の港町、尾道にある小さな民宿「とと屋」の一人娘。
客入りはほどほど。
展望はマル。
エレガントというよりも庶民的。
そんな宿屋の娘と彼が釣り合っているかといわれれば、そんなのは誰に聞くまでもなくNOだ。しかし、それでも彼の隣に並んでも恥ずかしくないよう、七緒はこれまで必死の努力を重ねてきた。
港町育ちの快活さは押し隠し、薫の一歩後ろを歩く淑やかさを心掛けた。
たびたび薫はホテル経営に関する愚痴をこぼしたが、そういう時は思うところがあっても口にせず、ただ同調するにとどめた。
一度彼に助言めいたことをして、「申し訳ないが、君に経営の難しさは分からない。変に口を出さないでください」 とすげなくあしらわれたことがあったからだ。
けれど、その時だって七緒は、彼に申し訳ないとは思えど不満に思うことなどなかった。
薫のホテルが抱える従業員の数を思えば、彼が神経質になってしまうのも当然だからだ。
それに、薫は七緒が暗い顔で何かを思い悩んでいた時は、必ずと言っていいほどそれに気付き、真剣な表情で相談に乗ってくれた。
七緒と宿のことを真摯に考えてくれた。
だから七緒は、彼をずっと支えていきたい、何か彼の力になりたいと、心から思うようになっていたのだ。
「この店、前から気になっていたんですよね」
呆然と混乱した脳内を整理している七緒の前で、薫は大判のメニューを開く。
季節野菜のスムージーと福山産ピオーネがベースの限定スムージー、一体どちらがコスパがいいか脳内算盤を弾いているらしい。
そのあっけらかんとした様子に、七緒はくらくら眩暈がするのを堪えながら、テーブルクロスのミシン目に視線を落とした。
(それが、まさか、別れたいと思われていたなんて)
震える指先を握り込む。
もともと連絡は多く取り合う方ではなかった。お互い仕事で忙しくしていたし、時々電話で声を聞いた時も、出張で東京に出向いた時も、彼が来てくれた時も、薫はいつも通りの態度だった。
「……あの、ごめんなさい。私、ちっとも気が付かなくて……」
ぐっと滲む涙を堪えていれば、薫は呆れたように短いため息をつく。
「年甲斐もなく泣かないでください。少女でもあるまいし。こういう話は、もっとフラットにしましょう」
七緒は静かに息を呑んだ。
薫の目はとっくにこちらから外されている。
こんなに突き放されるほど彼の心が離れていたことに、本気で気が付かなかった自分が信じられなかった。
「そうだ。これを見てください」
薫から差し出されたのは、業界でも有名なラグジュアリー向けの旅行誌だ。
表紙をかざるのは確か松山で有名な老舗旅館。
「七緒さんは今、国内外の富裕層の注目が日本の――特に四国に集まっているのはご存知ですか?」
熱のある声でされた唐突すぎる問いかけに、七緒は力なく首を振る。
正直言って今はそんなことについて話している気分ではない。
一体自分のどこに非があったのか、そればかりが七緒の頭をぐるぐると回っていた。薫はそんな七緒の様子を気にもとめず、身振りを交えて説明を続ける。
「日本が観光立国として世界に認められて10年。ゴールデンルートと呼ばれた、いわゆる北海道、東京、京都、大阪、沖縄の五都市は行き飽きられました。そして次に彼らが目をつけたのが、食も観光資源も豊富な四国。私はあなたと出会った5年前から、この流れを読んでいました」
「……はぁ」
七緒が曖昧な返事を返すと、薫は今一度眼鏡を押し上げて強く言った。まるで出来の悪い生徒を前にした教師のようだ。
「しかし四国の目ぼしいエリアにはすでに他の大手ホテルが目をつけ土地の買い付けまで進めており、最も人気の高い松山道後は創業数百年の老舗旅館が幅を効かせている」
佐久間は苦々しい顔で表紙を数度叩いた。
「余談ですが、ここの当主が相当なキレ者でしてね……、正直私でも手を出したくない。一瞬で喰い散らかされるのが目に見えてますから、道後は狙えません。
――だからこそ〝尾道〟に目をつけたんです」
いつからか、得体の知れない嫌な予感が七緒の胸を占めていたが、それは唐突に、実態をなして七緒の前に突きつけられた。
「尾道は本州と四国を結ぶ重要な拠点です。新幹線の通る福山駅とのアクセスも悪くない。さらに、あなたのご実家『民宿 とと屋』は、立地・展望も申し分ない」
「……まさか、薫さん」
思わず漏らした七緒の声は、かすかに震えていた。
「初めから、うちの民宿を売却するつもりで、私に近づいたんですか」
問いかけてすぐ、七緒は自分の考えを首を振って打ち消した。そんなわけない。ありえない。無理やり浮かべた笑みを薫に向ける。
「ごめんなさい、そんなわけないですよね。だって、薫さん、忙しいのに……うちみたいな小さな民宿を売却するためだけに時間を使うなんて……、そんな馬鹿げたこと、するわけ」
「当然しますよ」
はっきりと告げられた言葉に、頭のなかが真っ白になる。
「今は価値がなくても、未来でなら価値を生みそうなものに投資する。ビジネスの基本です」
「………今のとと屋に、価値はないっていうんですか」
七緒がゆっくりと問いかける。
薫は失言に気付いたように口元を隠したが、しばらくの沈黙を経て、取り繕うのは無理だと判断したように再度語り始めた。
「古民家・民宿なんて今時流行りません。時代を先取りしなければ廃れるだけだと、僕は常々思ってました。ただ、立地だけは本当に素晴らしい。どんなに貧相でニワトリ小屋レベルでも、この立地だけで金が取れます」
「ニワトリ……って」
呆然としながら、七緒の脳裏に、かつてうちに招いた時の薫の様子が思い出される。
母や父に囲まれ、どこかくすぐったそうにしながら夕食を口に運ぶ薫は、きっと、うちを好いてくれているのだと思っていた。
「とと屋の利点はあくまで立地です。それを除いて、あそこに泊まりたいとは僕は思いません」
――――ピシャリと言い放たれた時、すっと、七緒の中の何かが冷えきった。
音もなく、何の前触れもなく、そこに確かにあったものが喪失したといってもいい。
「………実はいろいろ事情が変わりましてね」
重い空気を払拭するように、薫は話を変えた。
「あなたとお付き合いしつつ、もし需要が高そうならあの民宿を取り壊し、瀬戸内海をコンセプトにしたリゾートホテルに作り替える予定だったんです。でもそれもどうやら難しそうで……。というのも、実は先日『ネル アジュール東京ベイホテル』の総支配人に任命されましてね」
薫が胸元から引き出したのは革の名刺入れに入った一枚の名刺。見慣れたホテルのロゴが刻印されている。役職は、総支配人。
「この歳で前例のない快挙だそうですよ」
薫の声には隠しきれない誇らしげな色が乗っている。
「ですから、もう滅多にこちらには来れません。尾道からも手を引きます。それと――」
それからしばらく、薫は身振り手振りを交えながら七緒に語り続けた。支配人と総支配人ではどう仕事内容が変わるのかや、給与のことなど、七緒にとってはもはやどうでもいいことばかりだ。
(………最悪)
今彼女の心にあるのは、そればかり。
耳に残るのは、あの頃の、少し疲れた薫の声。
「……あなたに会いに来ましたよ。七緒さん」
就業後、東京から新幹線で三時間五十分。在来線で二十分。
この遠い距離をものともせずに会いに来てくれた。薫のその無茶が七緒に愛を錯覚させたのだ。
しかし薫にとって、そんな距離はさほど苦でなかったに違いない。
だって、こんなにも、七緒は彼にとって「仕事」の一部だったのだから。
「馬鹿みたい」
ぽきりと、心の折れる音がした。
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