第16話 隷属
葛川クミの人生は『隷属』の一言に尽きる。誰かに逆らうことができず、言いなりになってしまう性分だ。生まれ持ったその性質は幼少期ではプラスに作用し、両親の望み通りの良い子に育った。幼稚園でも運良く恵まれた環境に身を置いていた。
だが、小学校に上がると事態は一変する。クミの性質を本能的に理解したクラスメイトたちは彼女を都合よく扱った。持ち物を奪うのは茶飯事で、掃除当番を押し付けたり、窓ガラスを割ってしまえば犯人としてクミが名乗り出るように強要された。
矛盾した命令も多く、それらを同時に受け付けたクミは酷い混乱に苛まれる。その解消方法として選んだのは『より強い者の命令に従う』だった。上位の命令がクミの中では優先される。どうやって上位を決めるのかはクミ本人だが基準は曖昧だ。
家の中であれば母よりも父の命令に、クラスの中であればカーストの上位に……といった具合に。
こうしてクミは致命的に自分を失ったまま中学・高校と進学した。
学年が上がる毎に学友たちからの命令はエスカレートし、クミはストレスの捌け口として扱われる。
そして高校1年の時、現金を持ってくるようにクラスメイトから命令されたクミは父の財布に手をつけているところを母に目撃され、事情を話すように命令される。勿論、その命令にも素直に応えた。娘が暴力や恫喝に晒されていることをようやく知った両親は(あくまで親の前では従順な良い子で居続けた)、学校へ対応を迫った。
教諭らが調査を開始すると犯人の生徒たちは激怒し、クミに「死ね」と命令する。恐怖や葛藤はあったが、このとき初めてクミは自分の意志で行動する。他人の言いなりになって生きる自分に限界を感じていたのだ。
クミの意志はI沢高校に伝わる信じ難い怪談に惹かれた。
中庭にある『異岩』は、この周辺に人が住むよりも前からあったという。破砕しようとしたが工事の度に人死が出て不吉とされたため撤去できず、それを避けるように校舎が建てられたという。そんな大岩に向かって身を投げれば『新しい生』を獲得できるというのだ。
実際に、その怪談を信じたと思しき生徒たちが何人も屋上から飛び降り自殺している。
密かに死体を解剖したのがバレて警察に逮捕されそうになった生徒、病気を苦にした生徒、いじめをしているのがバレた生徒、逆にいじめから他人を庇って追い詰められた生徒、妊娠して堕児を迫られた生徒……知っているだけで5人だ。
彼女らは果たして『新しい生』を得られたのだろうか。
屋上は当然のように施錠されていたが、事前に鍵を盗み出したクミは午後の授業をサボタージュした。
校舎の一番上にある四角く切り取られた穴からは『異岩』を見下ろせる。以前は、しめ縄がされていたそうだが自然に切れてしまって撤去されたらしい。小さな祠はあったが手入れはされていなかった。
穴のフチに立ったクミは不思議と気分が落ちついている。
その日は風が気持ちよく、雲が流れて、よく晴れていた。
よくよく考えればアニメでも小説でも死んだ主人公が他の世界に転生するなんて、よくある話だ。『新しい生を得る』のは怪談でなく、この時代にはありふれた空想なのである。
さらに「死ね」というのは命令であるが、それはクミが選んだ行動による結果に過ぎない。結果が同じでも身投げというプロセスを選んだのは自分だ。そのささやかな反抗心に快感を覚え、クミは6人目となるべく屋上から飛び降りた。
宙を漂う感覚はほんの一瞬で、頭を下にして岩へとぶつかる。衝撃で頭蓋が割れて脳が潰されるのが分かった。思考は一瞬で汚濁に塗れたけど、生の実感はなかなか消えない。身体は地面に叩きつけられ、内臓が破裂した音が耳の中に伝わってくる。
誰もクミの自殺に気付かなかった。授業中で廊下に出ている者がいなかったからだ。その間、クミはまだ生きていたのに。
薄れゆく意識が感じたのは幸福ではなく無限に続く痛覚である。
快感と後悔が入り混じり、クミの意識は細く途切れた。その先には暗闇が永遠に続く。
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
だが次に目が覚めたとき、クミは身体のどこにも痛みを感じなくなっていた。『異岩』に背を預ける形で座り込み、ぼんやりした頭で周囲を見回す。中庭にいることは確かだけど、昇降口の向こうが妙に明るく見えた。
「あなた、大丈夫?」
誰かがクミに声をかける。
知らない女子生徒が目の前にいた。I沢高校の制服である。
「あれ……?」
「えっとね、私は江崎エリ。ここはI沢高校の校舎なんだけど、様子がおかしくて……」
状況が把握できないまま、クミは調理実習室へ連れて行かれた。
そこには白衣を着た女子生徒もいた。江崎エリと名乗った女子生徒は「他にも誰かいるかもしれない」と校舎を見回りに出る。
クミは何も覚えていない。自殺したことも、どうしてそうしようと考えたのかも。
ただ生来の『隷属』体質だけが残り、その後に現れた『より強い者』である三戸部ミカの命令に従うようになった。
それから真壁マリアが死に、その屍肉を喰らい、新見ニィナが殺される。
廊下にはエリの血痕が点々と残っていて、調理実習室へと続いていた。
その部屋はマリアの解体に使われたので二度と入りたいとは思えなかった。けれど命令だから仕方ない。
扉は開いたままになっていたので、そっと中を覗き込む。
血の道の先ではエリがいた。こちらの背を向けて倒れている。どうやら出血で力尽きたらしい。周囲には赤い水溜りができていた。
警戒を解かず、クミは調理実習室へと入る。手の届く範囲にカラの鍋があったので、それをエリに向かって投げつけた。頭に当たったがピクリとも動かず、床の落ちた鍋からは空っぽの金属音が響く。
「あはは、ははは……」
死んでいる。
腹に包丁が刺さったのだから当然だろう。
近付いたクミは血溜まりに踏み入った。白い上履きが赤い色を吸い上げていく。
と、その瞬間。
死体と思われたエリが急に起き上がった。ギラついた目はケモノじみていて、迫力に屈したクミは咄嗟に動けなかった。
エリが少ない動きで抱き付いてきたかと思うとクミの背中には鋭い痛みが走る。
「あああああっ!!」
刺されたと思い込んだクミはパニックになってエリを突き飛ばし、慌てて背中を触った。しかし血は出ていない。確かな痛痒だけが残っている。走って逃げ出そうとしたが足がもつれて転び、どうにか立ち上がって調理室の壁際まで後退した。
「あなたも人喰いなんでしょ……?」
凄むエリは全身が真っ赤に染まっていた。肩も、スカートも、変色して違う学校の制服に見えてしまう。無感情で冷たい目がクミに突き刺さると同時に、意識が混濁してきた。立っていることができずにその場に尻餅をついてしまう。
ここでようやく、自分が何に刺されたのか理解した。エリの手には注射器が握られていたのである。
「死んでると思った? 鍋に残ってた血を床に撒いただけ。あんたたちが食べた人間の血を」
「あ、あ、あっ……」
「注射器もそう。あの女が役に立つなんてね」
床を引っ掻きながら進もうとした。
その手をエリは踵で踏み抜いて止める。情けない悲鳴が調理室内に響き、そのあとは嗚咽だけが残った。
このとき彼女は『より強い者』となる。泣きながらクミは言葉を紡ぐ。ただただ恐怖から逃れたかった。それだけのために。
「め、命令してください…… そうすればなんでしますから……」
「大人しく殺されなさい、人喰いめ」
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