神の慈悲なくばⅦ 〜Dominus Vobiscum〜
吉村杏
In Their Death They Were Not Divided.
1-1
俺はそいつに飛びかかった。
狼の姿で。
耳の先からしっぽの端まで完璧な狼だっていうのに、俺の牙と爪ははじき返された。まるで、目に見えない巨大なポリカーボネート製の
そいつは悠々とそこに立っていた。
すごく背が高くて全身黒ずくめで――四つ足で目線が低くなっているせいで顔は見えない。
けどとにかくイヤな感じだった。
それでもあきらめるワケにはいかなかった。数歩しか離れてない俺のうしろにはクリスがいて、お祈りをしてるからだ。なんて言ってるのかはわからなかったが、ダニーの家で耳にしたのと似たようなカンジの。今度こそ、今度こそ俺がクリスを守らなけりゃ、クリスは――
俺は体を低くして、もう一度飛んだ。
が、またダメだった。爪の先がかすりもしないうちに、雷にでも打たれたみたいな衝撃が走って地面に転がる。起き上がろうとするけど、体が痺れて起き上がれない。手足が棒みたいに突っ張っている。
急に気温が下がって、吐いた息が白い霧みたいにあたりに漂う。
「もういい。もういいよ、やめるんだ、ディーン」
目の前にクリスの黒い靴があった。
クリスはしゃがみこんで、俺の頭を
「これ以上お前が傷つくことはない」
妙にやさしい声だった。クリスの手が俺を撫でている。小さな子供にするみたいに。
「……けど」俺はなんとか目を上げ、舌を出して喘いだ。なにか言わないと。なにか言わないと、そのままクリスが行っちまうような気がして。
「お前は自分の愛する人、お前を愛してくれる人をみつけなさい。そしてその人とよく話し合って――ふたりのあいだにでも、養子でも――お前が望んでいたような家族をつくりなさい」
俺の心臓はぎゅっと痛んだ。――ああ、それこそ俺の望んでいたことだったはずなのに。
「――でも、でも俺はあんたと」
狼の口じゃうまくしゃべれない。
「私にはできない」
クリスは微笑んだ。ステンドグラスの天使みたいに透明な笑顔だった。魂――ってもんがあるとすれば――のこもっていないような。
「俺、――俺あんたを愛してるんだ」
クリスにどう思われようが、必死で、俺は口走っていた。「だから」
「私もお前を愛しているよ」
微笑みを貼りつけたまま、クリスはまた俺の頭を撫でて、キスした。飼い犬にするみたいに。
「だから、お前には幸せになってもらいたいんだ。私は責任を果たさなければならない」
責任? なんの――
クリスはそっと俺の頭をおろした。
今すぐ飛び起きなきゃと思うのに、役立たずの俺の手足はケイレンするばかりで全然思うとおりにならない。
立ち上がったクリスの、黒いスータンの裾が視界に入る。
嫌だ、行かないでと言った
俺は唯一自由になる目だけを動かして、クリスの姿を追った。
クリスの向かっていく先にいたのは、……ニックだった。
上から下まで真っ黒なスーツで……幅の広い、リボンみたいに見える黒いネクタイをしてるのだけがいつもと違っていた。
あったり前のことだけど、やつは俺のことなんか見ちゃいなかった。ただ、じっとクリスがやってくるのを見つめている。でもそれは勝ち誇ったような
クリスはやつの左に並んだ。その顔にはまだあの奇妙な微笑みがうかんでいる。ニックは――まったくやつらしくなく――少したじろいだように見えた。
そのとき俺は、ふたりのうしろに大きな黒いしみみたいなものがあるのに気づいた。人の形に見えるが、なんだかうすぼんやりしている。ニックの影かと思ったが、吸血鬼に影なんてないはずだし、やつよりさらに大きかった。
そいつがなにか言った。ように聞こえた。気のせい――だったのかもしれない。どっちにしても俺にはわからない言葉だった。
黒い影はクリスのほうにすうっと寄って、ささやいた。
「――
クリスはまっすぐニックを見て、答えた。
影は今度はニックに向かって、ぶつぶつつぶやいた。
(殺してやる、絶対殺してやる)
叫ぶ代わりに俺は唸った。狼の喉からはもう人間の言葉は出てこなかった。
なにやってんのか知らねえが、クリスになにかしてみろ、この世の果てまでテメエを追いかけてってゼッタイ殺してやる、その生ッ
ニックの野郎はなにも答えなかった。どころか、目の前のクリスが悪魔だって気づいたとでもいうみたいに、陰気な灰色の目を見開いて半歩後ずさった。やつの顔色は死人を通り越して、幽霊みたいだった。
「ノーランさん」クリスが半歩踏み出した。
その姿は悪魔なんかじゃなかった。
声はいつも聞いてるみたいにおだやかだったし、やさしいピンク色の唇の両端はちょっぴり上がっていた。長い金色のまつげにふちどられた、吸い込まれそうなほど深い蒼い瞳がゆっくりと何度かまばたきするのさえ見えた。
(やめろ、ダメだ、どうしてそんな目でそいつを見るんだ――クソ!)
ニックは蒼白になった唇をひらいて、死にかけている魚みたいに喘いだ。
そのまま息が詰まって死んじまえと俺は願った。やつが吸血鬼でさえなけりゃ、とっくにくたばっててトーゼンなんだ。
「私の愛と忠実のしるしとして――」
そう言うのとほぼ同時に、クリスは左手をスータンの襟元につっこんで、シャツごとボタンを引きちぎるようにして、いつかみたいに真っ白い首筋をさらした。
頭のてっぺんから足の先まで一気に氷のように冷たい感覚が走り抜けて、次には地獄の炎に包まれたみたいに熱くなった。
「~~~~~‼」俺は吠えた。
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神の慈悲なくばⅦ 〜Dominus Vobiscum〜 吉村杏 @a-yoshimura
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