16
「我野君?」
「あ、おはよう樋橋さん」
「おはよう。 ——じゃなくて、何で入り口の方に戻ってるの? 学校は反対の方向だけど、もしかして場所忘れちゃったとか?」
8時10分。歩道橋の往復を繰り返すヒバナは、すれ違うように蕨と出会った。学校のある方角と真逆の方へ歩いていくヒバナに朝の挨拶を交わしつつそう言葉をかけて、蕨は人の波に逆らうように戻っていくヒバナの手を取って、小学校のある方向へと引っ張っていった。
「よくよく考えたら我野君はレベル3都市ツバキに来てまだ日が浅いもんね。新しい土地に慣れてないから道に迷ったんだよねきっと。大丈夫、私がちゃんと案内してあげるからね」
「あ、いやちょっと僕忘れ物を——」
取りに戻る。そう言おうとした矢先、ヒバナは何かおぞましい気配を近くに感じ取り、その場に立ち止まって動きを止めた。しかしヒバナとは違い霊感のない人々にとっては些細な事に過ぎないようだった。
「あれ? 何か急に冷たい風みたいなのが吹いたような気が……」
「風って、ここはアクリル板に覆われた歩道橋よ? 気のせいでしょ?」
明らかに何か不吉な予感がして急に足を止めたヒバナに一瞬だけ疑いの目を向ける蕨だったが、すぐに気を取り直して動かずにいるヒバナの手を、綱引きのように両手で腰を引きながら強引に連れて行こうと引っ張る。しかし蕨の力では到底動かすこともできず、最終的に怒鳴ろうとヒバナの顔を見た蕨は、明らかに普通ではない雰囲気の変化、見た目の変化に驚き固まった。
「え? ……わ、我野君。何なのその目は」
女の子に見間違えるほど大きく潤んだ瞳をしたヒバナの目は全く違う物になっていた。
明るい場所にいる猫の目と同じように、細く縦長になった瞳孔は白く変色した角膜色素のせいで目立ち、色濃く充血した血管が瞼の縁から根を張るように浮き出ていた。霊視を行っている間、ヒバナはそのような瞳をしていた。
常軌を逸した同級生の変化が飲みこめず、ただ黙って歩道橋のアクリル板を見つめるだけのヒバナに、蕨は恐怖を感じ身震いしていた。
「感じる」
「え?」
「ここにいる何者かの強い憎しみや恨みといった負の感情を感じる。そしてこれは、黒井家にあった健司さんの遺影から感じ取れた負のエネルギーとほぼ同じだよ。死ぬ以前から、今現在に至るまで誰かに対して強い憎しみを抱きながら彷徨っている」
「——な、何で君がそんな事をわかるのかはこの際置いておいて、それはつまりここに健司さんがいるって事だよね? じゃあやっぱり転落事故を起こした犯人は……。 ど、どうしよう我野君。もし前みたいに誰かがまた転落する事になったら」
ヒバナは怨霊の存在を周囲に知られないようにと小声で蕨の耳元に囁くようにそう教え、それを聞いた蕨は益々恐怖を感じてヒバナにしがみついたが、これはヒバナにとっては計算外の結果となった。
早朝という明るい時間に多くの人々と行動を共にすれば恐怖心も薄れるだろう。今この状況ならば怨霊が近くにいる事を教えても平常心を保ったまま登校してくれるだろうとヒバナは考えていたが、完全に裏目に出る結果となった。しっかり者で大人びていても所詮は純粋な小学生なのだ。
「——仕方ない。樋橋さん、とりあえず僕と一緒に学校まで行こう。僕が近くにいれば、少なくとも樋橋さんが霊障に巻き込まれることはない」
「ど、どうして? っていうか霊障って何?」
「教えない。教えてあげられないけど信じてほしい。一方的な言い分かもしれないけど、今はそれしか言えないんだ。僕を信じて、普段と変わらない態度で歩道橋を渡ってほしい」
「う……うん。要は普段通りに登下校すればいいって事だよね。頑張ってみる」
ギュッと手を握りながら並んで小学校へ向かって歩き出した2人の小学生。はたから見れば仲睦まじい友達、あるいは初々しいカップルが一緒に登校しているという微笑ましい光景だろうが、蕨の胸中はそんな平和的な解釈で片付けられるような穏やかなものではなかった。
早く学校についてほしい。早くこの歩道橋から離れたい。ヒバナの指示通りに従い、平常心を装いつつ頭の中では理性と焦燥感とが葛藤を繰り広げて気が気ではなかった。
やがて学校の校門前へと続く歩道橋の出口が見えたその時、蕨は肝心なことを思い出して「あ!!」っと声をあげた。
「どうしたの?」
「大変! ミミちゃん……
「柏田さんって樋橋さんと仲がいい女の子の事?」
「そうだった。あの子、歩道橋の入り口から少し離れた細い路地で偶然見つけた野良猫の為に牛乳を買いに行ってたの。『あげてから行くから先に行ってて』って言ってたの思い出した。こんな危ない歩道橋を、ミミちゃん1人で渡らせるわけにはいかないよ!」
「あ! ちょ、ちょっと!!」
強く握りしめていたヒバナの手を解き、入り口の方へ踵を返して走っていった。先程までは自分の身の安全だけを考えていた蕨だったが、友達が危険な目に遭うかもしれないと判断すると自分の保身よりも友人を第一に考えて体が勝手に動く人物なのだろうと、ヒバナは楽観的に蕨という人間を分析していた。
芳美から話を聞いて黒井 健司に襲われる人物像として、息子と同年代で背丈の近い小学校高学年の男子、あるいはスイミングスクールの臨時講師を務めていた上原 泰志に容姿が似ている成人男性、この2人を思い描いていた。
大人の上原 泰志はおろか、上級生とは背丈も性別も違う蕨が狙われることはないだろうと高を括っていたのだ。
「あ、ワラビーちゃーん!」
「よかった、事故に遭わなかったみたいで安心したよミミちゃん。 ……てかワラビーちゃんはやめて——」
入り口の方から駆け足でこちらへと近づいてくる少数の人影が見え、その中にいる柏田 美海の姿を確認できた蕨は安堵したようにホッと息を吐きながら近づいていくがこの時、蕨が大穴の開いた場所を横切っている事など誰も気にもしなかっただろう。
枯れ果てた
唯一聞き取れた言葉は、「助ける」の一言のみだった。
咄嗟の出来事に理解が追い付かず、ようやく理解した時にはもう自分の体は歩道橋から外に放り出されている状況だった。歩道橋を歩いていた学生たちも、何が起こったのか状況が飲みこめず、ただ転落事件が発生した時にできた穴、その中に吸い込まれた少女を呆然と見ているしかできなかった。
あの時落ちた生徒と同じ目に遭う。地面に強く体を打ち付け、血の池を作る事になる。体が落ちる恐怖、想像を絶する痛みや苦しみが待ち受けている恐怖。最悪の場合、命を落としかねないアクシデントに泣き叫んで助けを呼ぼうとしたその矢先、またしても不可解な事態が発生して言葉を呑んだ。
上へと遠ざかっていく歩道橋から1人の人影が勢いよく飛び出てきたのだ。
「え?」
飛び出した瞬間には太陽から差し込む光の角度による影響で何者なのか視認することは出来なかったが、蕨の方へ近づくにつれてその人影がヒバナであることが判明した。
いつになく真剣な表情で飛び出たヒバナは風の抵抗をなるべく少なくするために、水泳選手がプールの中に飛び込むような体勢を彷彿とさせるような、ピンと体を伸ばして頭から落ちて蕨の下へと近づく。そしてヒバナが蕨へ手を差し伸ばし、その救いの手に縋りつくように蕨もまた手を伸ばす。互いに腕を伸ばし合って手をつなぎ合わせた時、引っ張り上げるように蕨の体を抱き寄せたヒバナはお姫様抱っこで蕨を抱きかかえる。
そしてまたしても蕨にとって不可解な出来事が発生した。強風が吹いているわけでもないのにヒバナの体が何かに乗ったのだ。
「え? ……えぇ!? い、一体何がどうなって——」
「黙って。喋ると舌を噛むよ」
不可解な出来事の連続で今目の前で起こっている全ての出来事を理解できずに目を回しながら混乱していた蕨だったが、そんな蕨の混乱など構わず、まるでスノーボードでなだらかな坂を滑るように空中を降りていき、道路の中心へと降り立った。結果的に蕨は転落した上級生の二の舞に、あるいはそれ以上のケガを負わずに済んだのだった。
幸いだったのは車が往来する時間のピークを過ぎていた事で、ヒバナ達が宙を滑り降りるように落ちてきた瞬間を目撃した車がなかった事だ。
しかし落下速度が緩和されているとはいえ路面を滑るほどの勢いのまま地面に降り立ったのだ。道路との摩擦によって靴底から火花と煙が発生し、ゴムの焼ける匂いがヒバナと蕨を包み込む。その刺激臭が気付け薬となったのか、理解が追い付かず頭から煙が出るほど混乱していた蕨の正気を取り戻させたようだった。
「臭ァ!! って……わ、我野君。だよね? これって一体何が起こったの?」
「よかったぁ。樋橋さんにケガが無くて安心したよ」
そう答えるヒバナは先ほど見せた真剣な表情から一変し、元の愛嬌ある柔和な表情に戻っていた。ヒバナと蕨が地面に降り立ってしばしの時間が流れ、頭上から騒ぎ声が聞こえだした。また大穴から子供が落下したと大勢の人が騒ぎ立て、歩道橋と地面との間にはかなりの距離があるにも拘らず、ドタドタと地鳴りのような足音が鳴り響いた。
自分達も同じように落ちてしまうかもしれない。そう思った学生たちが慌てて歩道橋から出ようと出口へむかっているのだろう。警察官が子供達をなだめる声もかすかに聞こえるが、歩道橋を踏み荒らす足音の大きさが呼びかけが徒労に終わる事を示唆していた。
「我野君、私……黒井君のお父さんに——」
「いきなり起こった不可解な出来事に驚いたでしょう? でも大丈夫、もう危害が及ぶことはないから安心して。今は気持ちを落ち着かせることだけ考えて」
「……」
黙ってコクンと頷く蕨をゆっくりと地面に下ろして宥めるように背中をさする。心臓の動悸を背中越しに感じ、よほど怖い思いをしたんだと実感した。
「あれ? よぉヒバナ。一体こんなところで何を……してらっしゃるのでしょうかね?」
最初から最後までずっと頭上を見上げながら女子生徒のパンツを妄想していた隆二は、ヒバナの靴底が削り取られる音とゴムの焼ける匂いでようやく2人が降りてきたことに気付いて声をかけてきた。
振り返ったヒバナの表情がどのようなものだったのかは分からないが、隆二の言葉が最後の方でか細くなり、小刻みに震えているような声となった事から、青年を震え上がらせるようなおぞましいものだっただろう。
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