橙の経典
恵比寿達磨
序章 橙の称号を持つ者
日本のある地域にて丑の刻、1時から3時の間で数名の人達が山奥へ出向き、そのまま消息不明となる失踪事件が発生した。失踪事件の現場である県はこの事態を重く受け止めて警察に通報し、消息不明となった時刻に大勢の警察官が山の中を徘徊して回り、山の中に入っていない者達以外の全てが失踪したという結果となってしまった。
その時刻を避けた時間帯にヘリや警察犬を導入して捜査をするも発見できず、警察は山を立ち入り禁止とする処置を施して事件は未解決となった。今から30年前に起こった不可解な事件であるにもかかわらず、現在でもその山に立ち入る事は禁止され続けていた。
しかし30年後の今日、閉鎖されているにも拘らず丑の刻に一つの人影が、山の方へ吸い込まれるように入っていった。警察官が見守る中で、禁断の地へと足を踏み入れた者が現れたのだ。
「正直言って驚いたよ。我らのような裏社会の中でも特に異質と認識されている組織に、警察署長直々にご依頼をなさるとは。実存主義のあなた方は頑なに我らのような霊的存在を認めようとしないのに——」
「驚いたのはこちらも同じですよ。まさかあなたほどの方との密会場所が、こんな廃れた屋台だなんてね。確かに警察が幽霊の存在を認める事はないでしょう。というよりは大半の人々がそう思っています。しかしながら現実に不可解な事件が立て続けに発生し、その中には大勢の警察官をも巻き込まれている事例もあるのです。あなた方の力が、今の世の中には必要不可欠なのです」
「つまりは市民が犠牲になるだけにとどまっていた状況では動く必要もないが、同業者が巻き込まれた現状になって初めてお前さんの重い腰を上げたというわけか」
「その言い方はやめてください」
場所は変わり、繁華街の離れにポツンと建っている屋台に2名の客がラーメンを啜りながら、大勢の行き交う人の歩く音や話し声に紛れ、サンタのように顎を覆う白く整えられた顎鬚を生やした老人と中年の男が仕事と思わせる内容の話をしていた。
警察署長がこの一帯を記した地図を、自分の注文したラーメンをどけてテーブルの上に広げて見せ、問題となっている山を指差して説明をした。
「今から30年前に起こった失踪事件を覚えていますか?」
最初こそ不穏な空気の中で話を進めていた両者だったが、いざ本題に入った途端に、老人の醸し出す雰囲気、気配が一変した。
「あぁ……。 確か警察の威信にかけて解明して見せるとのたまいておきながら結局未解決事件として処理した上、我らに依頼しようとする人々、更にそれを斡旋しようとした者達を権力を行使して阻害したあの事件なら覚えておるよ」
積年の恨みとも聞き取れるような言い回しでそう言う老人を相手に、警察署長はあくまでも冷静に返答する。
「それはあくまでも前署長の判断によるものであり、私には一切関わりのない事です」
「まぁそうだろうな。その前署長とやらも世間では任期を満了して引退したという事になっているものの、本当は未解決事件として処理した事件の多さから無能として扱われ、結果的に警察への不信感を多くの国民が抱くきっかけを作ってしまった。警察の信頼を大きく損なわせた責任を取っての自主退職なんだからな」
冷静に物事を進めようとしていた警察署長だったが、隠し続けていた真実を知っていた事に驚きを隠せず、食い気味に老人を見つめながら尋ねる。
「——どうしてその真相を知っているのですか?」
「お前さんがそんな事を知る必要はない」
「警察内部の秘密情報の漏洩など、警察署長として黙って見過ごせるわけがない」
「警察署長ごときが余計な詮索はするな。そう言っているのだよ、わかったか若造」
警察でもヤクザでもない異質な圧を放つ老人の恐怖を目の当たりにして冷や汗を流しながらたじろぐ。しかし警察署長はあくまで平静を装う事を徹底し、そんな様子を見てか、老人はラーメンのどんぶりを一気に飲み干し、今度は警察署長にとって有益な情報を伝えた。
「本来なら我等陰陽組への依頼は、この契約書類に目を通し、親指の腹を少しだけ切り自らの血で捺印しなければならない。その一連の所作を経て契約を結ばれるのだが、今回に限ってはお前さんとの契約は必要ない」
ひらひらと懐から取り出し、たなびかせた契約書を見せながらそう説明し、必要ないと言ったと同時に再び懐に契約書をしまった。老人の意図が分からない警察署長は目を点にして事情を尋ねた。
「ど、どういうことですか? まさか警察との契約は結ばないとでもいうつもりなのですか!?」
「結論を急ぐな若造。 ——昨晩、この心霊事件の解決を望む者と契約を交わしている。事件が多発している丑の刻の今、既に陰陽組の隊員が山の中に入っている頃だろう。依頼を重複させられない以上、後から契約を結ぶことは出来ない。そういうことだ」
「一体誰が陰陽組の事を? ……いやそれ以前にどうやって陰陽組とコンタクトをとる事ができたんだ?」
「陰陽組との契約において、契約者の情報は口外しないことが定められている。とにかくお前さんは偏屈ジジイにラーメンを御馳走するだけで無駄になったという事だ。ご苦労様」
そう言って老人は伝票を警察署長の前にスッと差し出し、ゆっくりと立ち上がって屋台から出ようとしていた。それをすかさず警察署長が呼び止め、最後に気になっていた事を尋ねた。
「待っていただきたい。疑うわけではないのですが、本当に事件が解決するのだろうか?」
すると体をゆっくりと警察署長の方へ向き直り、老人はハッキリと断言した。
「安心するといい。今回陰陽組から派遣した隊員は、色の称号を与えられた実力者だ。我らの組織において、称号を与えられる程の強力な霊能力者が解決のために山へ向かったのだ」
「色の称号……陰陽組と契約を結ぶための心得等を調べるうちに、あなた方の組員にも階級と呼ばれるものがあると知りました。総勢5千人もの組員の中で最も高位に君臨する、僅か7名の超一流の霊能力者に与えられる称号、それが色の称号と呼ばれるものだと記憶しています」
「……警察署長の特権によるセキュリティーアクセスで我々の極秘情報を盗み見たか? 本来なら重い罰則を与えるところだが、警察とは今後とも長い付き合いになる。今日の所は見逃すとしよう。今回は色の称号を与えられて間もない者に任せている。いわゆるデビュー戦というやつだ」
「後学のために教えていただきたい。その者は一体何者なのですか? そちらの定めた規律に則るのならば、契約を結んでいない私には教えても構わないのでしょう?」
それを聞いて呆気に取られた老人だったが、しばらく固まった後、ぷっと吹いた後で双方が出会ってから今までで見た事のないほがらかな笑みを浮かべた後、豪快に笑い声をあげた。そんな老人を尻目に、警察署長の方はというと、突然笑い出した老人を怪訝そうに見ていた。
「こりゃあ一本取られたわい。まぁよかろう、久方ぶりに笑わせてもらった褒美に教えてやろう。今回の任務に向かわせたのは
「じゅ……10歳!? バカな、2桁になったばかりの未成年、いや、子供を働かせるとは」
「そう、陰陽組始まって以来の秀才にして天才的霊能力者。このワシの姓を受け継ぐにふさわしい超人。その者の名は——」
再び失踪事件の舞台となった山の中へと場面は移る。人の手が施されない山の中は、手入れされることなく成長し続ける草木によって視界の確保さえ難しい密林状態となっている。満足に歩くことでさえ困難かつ足元も見えない山道を彷徨うように一人の小さな人影が奥へ奥へと進んでいった。
初めて訪れた山の中にも拘らず、臆することなく進んでいく姿はまるで、何者かに
ある程度進むと草木の一本すら生えていない沼地へと出た。常人なら足を止めるはずなのだが、それがどうしたと言わんばかりに人影は沼の中へと足を進ませ、やがて中心地に立って足を止めた。その場所は底なし沼で少しずつズブズブと沈んでいく事態となった。 ——いや、数多くの意思によって引きずり込まれていったのだ。
小さな人影に纏わりつくように半透明の無数の手が沼の中から無数に出現し、沼に入ったその者の体を掴み、底へと引きずり込もうとしていた。身動き1つ取れなかった原因はこの手が体に絡みついたせいだろう。にも拘らず一切の抵抗をせず、焦りを露わにしない人影の方が、半透明の手よりも不気味に、恐ろしく映っていた。
「——これか。歪んだ霊界の入り口」
虫すら警戒して近寄らない静寂な沼地の中心で、沈んでいく音に紛れて幼い子供の低い声がこだましたと思った矢先、首元まで沼の中に沈んだ人影が物凄い勢いで沼の中から上空へと飛び上がった。そしてすかさず腰に手を伸ばしてウエストバッグから五枚の札を取りだし、沼の方に向かって投げつけた。
沼を縁取るように札が貼りついた事を視認した人影は右手の人差し指を沼に向けて指差したその瞬間、先ほど投げた札が青白い炎をあげて燃え出し、炎と炎が互いに手を取り合うように線が引かれ、沼に蓋をするように五芒星の陣が浮かび上がった。
そして描かれたと同時に沼からおどろおどろしい叫び声が聞こえだした。「帰して」「出してくれ」「助けて」「苦しい」など、人などいるはずがない沼の奥底から老若男女様々な唸り声が無数に聞こえてきたのだ。
「行方不明者の霊魂が閉じ込められているのか。先に囚われし魂の浄霊を開始する」
草の生い茂る地面へと降り立った人影は、両手でOKのハンドサインを作り右手を胸の高さまで上げ、左手を腰の位置まで下げて沼に向けて突きだした。
「哀れな霊魂を
呪文のような言葉が発せられたと同時に、青白く輝く陣から天に向かって伸びる光柱が伸びだした。拡散せずまっすぐ上空へと噴出する間欠泉のような光が出現し、その光に乗って数多くの青白い光の玉が雲を突き抜けて上空、天へと旅立って行った。
それを阻止するかのように、沼の中から勢いよく飛び出てきた巨大な手のような泥まみれな物体が、身の毛もよだつ恐ろしい呻き声を発しながら光を捉えようと手を伸ばして蠢く。
それを遮るように太刀筋が一つ、伸びた手を両断するように横切り、沼の中に切り取られた手がドプンという音をあげて落ちた。
直径二十メートルはある沼の対岸に降り立った人影……少年は、その手に自身の身長以上に長い刀を持っていた。刃にこびり付いた泥をハンカチで拭き取り、沼より出現した泥まみれの何かに向かって切っ先を向けて豪語する。
「霊障の根源を視認。出雲ヒバナ、これより怨霊の除霊に移る」
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