15.小鳥

 夜半、ロニは眠れなかった。

眠らねばならない。だが、どうにも色々気になって眠れない。マイルズ達は大丈夫だろうか……今にも、ファウストが襲ってこないか……こういうときは無理に寝ようとしても眠れない。栄養がてら、温かい物でも飲もうと起き上がり、窓辺の月明かりに置いた植木鉢に据えてあるルーシャを起こさぬよう、そっと部屋を出た。

すると、通り掛かったレンの部屋も静かに開いた。

「……レンさん?」

まさか、一人で行く気かと焦ったが、目元を擦りながら出てきたのはエトだった。

「あ、エトか。トイレかい?」

ロニがそちらを指さすと、彼は首を振った。

手に指で書いてくれた内容によると、どうも同じ悩みらしい。部屋をちらりと覗くと、レンは横になっていて、見張りとして同伴してもらったノーラも窓際のクッションに丸まっている。

「じゃあ、僕と下で温かいものでも飲もうか」

ジェスチャー混じりに言うと、彼はにこりとして付いてきた。

キッチンでミルクを温めると、ロニはカップを二つ持ち、いつものように店の一角に座った。薄暗い中、仄かにランプを灯すと、浮かび上がる素朴な香水屋の香りがふわりとのぼるようだ。年季の入った床や棚、あちこちに植えられた植物、ハーブが浸されたガラス瓶、色とりどりの香水瓶――珍しい物が多いのか、エトは不思議そうに店内を見渡した。

〈今日は大変だったものね。大丈夫かい?〉

持ってきたメモに書くと、少年はミルクを飲みながら頷いた。

〈どきどきしてるけど、此処に来られて嬉しいよ。みんな優しい〉

〈君がそう思うなら、良かった〉

その不遇な生い立ちは、レンが眠っていた間に聞いた。耳が聴こえない彼は、本来ならば助けられる立場なのに、不当な差別を受け、随分と粗雑な扱いを受けたらしい。彼の耳に掛かっている魔法はイレーネでも解析できず、ノーラ同様、今世に新しく出現した魔法ではないかと見ていた。

〈お兄さん、本当に魔法使いじゃないの?〉

手袋に覆われた片手を見て言う少年に、ロニは苦笑して首を振った。

〈僕は只の司書だよ。今は皆の助けになりたくて、手伝いをしているだけ〉

〈いいなあ。僕も使えたらいいのに〉

そういえば、魔法使いになりたいと言っていた少年に、ロニは首を傾げた。

〈エトはどうして、魔法使いになりたいの?〉

〈強くなりたいんだ。僕をいじめた奴らに仕返ししてやりたいから〉

「仕返し……そうかあ……」

天井を仰ぎ、ロニはちょっと考えてから、メモに書いた。

〈実は僕もね、人をいじめた事があるんだ〉

エトは驚いた顔をした。ばつが悪そうに笑う目の前の青年は、控えめに見ても逆の立場にしか見えない。

〈お兄さんは逆に見えるよ〉

正直な意見に、ロニは声を立てて笑った。

〈だよね。でも、本当だ。僕はうまくいかなくて、イライラした感情を他人にぶつけたことがある。あのときは、喧嘩ばっかりしてたっけ〉

〈強かった?〉

〈強かったとも。相当なワルだった〉

〈信じられないなあ〉

疑う眼差しの少年に、弱そうな青年は愉快そうに笑うと、首を振った。

〈僕は強かったけど、今のいじめられそうな僕の方が好きなんだ。たとえ、いじめられても、乱暴者の僕には戻りたくない。君はどう思う?〉

〈うーん……前のお兄さんは想像もつかないけど、今のお兄さんは良い人だと思う。乱暴者より良いと思うよ〉

〈ありがとう。君もとっても良い子だと思うよ。人を攻撃する人には、成ってほしくないな〉

少年はちょっと困ったように眉を潜めた。

〈でも、僕……強くなりたいよ。レンお兄さんみたいに〉

〈レンさんも、いじめられた人なんだ。君ぐらいの歳より前から、沢山、大勢に、毎日……〉

〈あんなに凄い魔法使いなのに?〉

〈そうだよ。僕は、彼のような人を放っておけないんだ。自分が傷付けた人たちも、傷付けた僕のことも思い出すから〉

少年はカップを両手で包み、神妙な顔をした。

〈レンお兄さんも、怖かったのかな〉

〈そうだと思う。レンさんは、塔で会った男を見て、怯えていなかったかい?〉

問い掛けに、少年は考える顔をしていたが頷いた。

〈怖がっていたかも。怒っていたようにも見えたけど、僕、あの顔知ってる。たぶん、いじめられてる時の僕と同じ。悔しいけれど、怖くて、怖いけど、むかついてて……〉

そこまで書いて、少年は顔を上げた。ロニがにこりと笑う。少年は湖水のような目をしばし見つめて、頷いた。気付いた顔だった。

〈そうなんだね。わかったよ、お兄さん〉

〈すごいや。やっぱり君は賢い子だよ、エト。誰かをいじめる力なんか、ちっとも強くない。浅はかで、みにくい力なんだ。そんなもの手に入れたって、君が損をするだけだ〉

〈うん……〉

理解しつつも、いじめられることの恐怖やもどかしさは容易くぬぐえないのだろう、迷いのある顔に、ロニは言った。

〈僕にはね、乱暴になっても、ずっと一緒に居てくれた友達が居たんだ。そいつは時々、僕をつついて言った。「お前は一人じゃないぜ」って。同じことを、賢い妹も言ってくれたんだ。「兄さんは一人じゃないのよ」って。あの頃の僕は一人でも構わないと思っていた筈だけど、本当は不安で不安で、とても怖かったんだ。二人がわかっていてくれて、傍に居てくれたから、僕は今の僕になれたんだ〉

〈僕には、お兄さんみたいな人は誰も居ないや〉

切ない言葉を書き留めた少年に、ロニはにっこり笑った。

〈僕が成るよ。一緒にミルクで乾杯して夜更かしした友達だ、一人になんかしない〉

〈本当?〉

〈本当。でも、僕だけじゃなくていいんだ。君はこれからもっと沢山の人と出会って、沢山の人を好きになればいい。この町だけでも、色んな人が居る……君を好きになる人も居るよ〉

ちょっと恥ずかしそうに少年は笑った。

〈ありがとう、お兄さん。僕は魔法使いにはなりたいけれど、人をいじめるんじゃなくて、助ける魔法使いになるよ。レンお兄さんみたいに〉

〈それは素晴らしいや。きっと成れる〉

カップを掲げると、彼は同じように掲げて微笑んだ。



 夜が明けるや否や、ロニは跳ね起きた。

部屋を飛び出ると、レンの寝室をノックし、殆ど返事と同時に開け放つ。彼は今しがた起き上がった所だったか、プライバシーも何も無い家人に驚いた顔をしたが、怒り出すことはなかった。

「お、おはようございます……」

扉を開けた勢いから一転、すごすごと引っ込みながら尻すぼみの挨拶をしたロニに、レンもどぎまぎした顔で応えた。

「おはようございます……早いですね」

「……全くだ。騒がしいのう」

見張りの為に窓辺のクッションで寝入っていたノーラの方が不機嫌そうにあくびをし、同じベッドで寝ていたエトが眠そうに目を擦ったので、ロニはそそくさと廊下へ引き下がった。

身支度を済ませて階下に行くと、これまた気合が行動に出ているリシェが朝食の準備をしていた。この娘の行動力は大したもので、昨夜は夕食の席で両親にここ数日間の兄の奇行を説明し、先祖の名まで利用して危険を報せた。それを聞き入れる両親も両親だが……既にイレーネを始め、ノーラにルーシャまで現れては、もはや信じる信じないも無いのだろう。もともと、素朴で穏やかな二人である。あまり危険なことはしないように、と理解したのかしていないのか分からない注意をしただけで、兄妹の行動を咎めなかった。

「おはよう、リシェ。手伝うよ」

「おはよう……兄さん」

湯を沸かしながら振り向いた妹の面持ちは、少し元気がないようだった。

「マイルズとイレーネさん、夜の内に戻らなかったの……大丈夫かしら……」

「大丈夫だよ、きっと。マイルズは上手くやる。イレーネは僕が言うまでもないさ」

安請け合いに聞こえたか、上目に見てくる妹にロニはなるべく明るく笑った。

「何か有ったら、イレーネが沢山魔法を使うはず。そしたら、僕はこんな風に起きられないよ」

「うん……そうね。私たちも頑張らなくちゃ」

昨夜のロニと全く同じことを言うリシェに笑い掛け、二人はせっせと食事を準備した。珍しく、両親よりが起き出すよりも早い食卓の顔ぶれは随分若い。最年少のエトは早起きには慣れているらしく、リシェ自慢のふわふわのパンケーキを喜んでくれた。その少年を、パンケーキをくわえたままのカエル王は指差した。

「そ奴も連れて行った方が良い」

意外な指名に、ロニとレンが驚いた。

「ど、どうして?」

「隣町に使われた魔法の正体がわからぬ以上、影響を受けなかったそ奴は貴重だ。役に立つやもしれぬ」

二人の青年は不安そうだったが、カエルの指名を受けた少年は嬉しそうだった。

「小僧は『風』を持っておる。マイルズと同じだが、奴とは違う『風』だ。ひょっとすると、ひょっとするかもしれん」

「え……どういうこと?」

「まあ、役に立てばわかろう」

もったいつける王は不確か故か、それ以上の説明はしなかった。

食事が済むや、カエル入りの小麦袋と、発掘されたぼろぼろの本を入れた鞄を持った妙な司書は、スカートを勇ましく翻してルーシャの植木鉢を持った妹と、思い詰めた顔付きの青年と、彼と手を繋いだ少年を引き連れて、早朝の図書館の扉を開いた。

絶対に、今日中に見つける――できれば、開館する前に。

職務上の都合を含めた決意を胸に、ロニは『鳥籠』の本を広げた。マダム・フリーゼに許されて入った早朝の館内には、職員さえ居ない為、いつにも増して静かだった。

念のため、レンに本の鳥に触れてもらったが、これといった変化は見られなかった。

「気になっていたのですが」

思案顔でレンが指差したのは、女王の石像の片手に居る小鳥だ。

「イレーネ様は、生前の女王は小鳥を焼かぬよう触れるのを避けていたと仰っていましたが……これはむしろ、燃やすことを示唆しているのではありませんか?」

「それって……つまり……?」

「この本を燃やしたら何か起きるのでは、と」

「だ、ダメ! これが『灰の魔法』の本だとしたら、大変です!」

ロニが本を引き寄せて悲鳴を上げると、リシェも首を傾げた。

「でも……兄さん、この本……魔法書グリモワールっていうより、絵ばっかりよ。レンさんが持ってるノトリアも、そんなことないし……『灰の魔法使い』さんは絵が上手なの?」

皆がノーラを振り返ると、彼は首を振った。

「あ奴が絵なんぞ描いたのは見たことがない。ついでに、芸術をたしなんだり小鳥を可愛がるような男でもなかったぞ。怒りん坊のディルクの方が、動植物には寛大で親切だった」

「では、これが『灰』を封じたものである可能性は低いですね」

「駄目ですってば! 手掛かりが消えたら困ります!」

「良い。やってみよ。不味そうなら私が消してやる」

あろうことか、火気厳禁の図書館で火を使おうとするのを司書がハラハラと見守る中、レンは本に手を翳した。微かに、その手が震えていた。

――何度も、その手で本を……

不意に、レンの手をロニの手が上からぎゅっと掴んだ。

「な……なんでしょうか?」

驚いた顔に対し、勢い任せだった男はハッとして頬を引きつらせた。彼がレディなら、頬打たれても仕方ない行動だ。

「ち、違うんです……! なんか、心細そうに見えたので、つい……!」

否定はしたが、正反対にいっそうレンの手を握り締めてロニは言った。

「い、一緒にやらせて下さい! お願いします!」

レンは驚き半分の面映そうな顔をしたが、熱かったら離すようにと断って目を閉じた。刹那、本は眩い炎に包まれた。兄妹とエトが目を瞠り、ルーシャが慌てて葉に隠れるが、不思議なことに、焼けた匂いはせず、焦げた煙も上がらない。それなのに本はひたすらに燃え、やがて表紙が――内側から何かに押されるようにもぞもぞと浮き始めた。気付いたレンが、火を止め、血相変えてロニの手を引っ張った。

「離れて!」

彼が叫んだ時、本はすうっと炎を飲み込み、勢いよく開いた。全員が息を呑む。

瞬間、本から無数の小鳥が一斉に飛び立った。

バラバラバラと風で捲れるように勝手に動く本のページから、次から次へと溢れ出んばかりに羽ばたく。描かれていた鳥かを確かめる余裕もない――虹色の花びらが舞うように、彼らはぶつかる様子も無く、あらかじめ決まっていたらしい軌道を飛び、ある者は天井へ、ある者は窓枠へ、ある者は本棚の隙間へ、更にある者はなんと床へと飛び、複雑な装飾の一部へとすり抜けるように飛び込んで消えた。

「……マリアンヌ……大層なものを造ったものだ……」

ノーラが掠れた声で言う頃には、ロニやリシェにもわかった。

館内装飾に過ぎないと思っていた――いや、一度は魔法の存在を疑ったそこ此処の彫りものや絵――否、陣形から、不思議な者たちが顔を覗かせていた。無意識にリシェがロニの腕に掴まり、エトがレンにしがみつく傍らを、羽の生えた何かがすうっと飛び去り、赤い火を纏った蜥蜴とかげらしきものがするするっと柱を渡る。奥では長い角の生えた馬が優美な姿を闊歩させ、階段には宝石みたいな目をした美しい乙女が座っていた。そんな者たちが目に付くだけでも十、二十、三十……更に数えるのが難しい程度に溢れてきている。

「……まったく、我が女王らしい……派手なことだ」

呆れとも感心ともつかぬ調子でカエルが呟くと、ようやく我に返ったロニが振り向いた。

「ノーラ、これって……」

「この図書館自体がこやつらを呼び出す陣形だったのだ。各々の持つ魔法を魔法書グリモワールと捉えるならば、”図書館”の名にも相応しい――それにしても、一度にこれ程の者を呼び出すとは、だいぶ手の込んだ仕掛けだ。ふむ、小鳥を介することで術者の負担を減らすのか……式はディルクが書いたのだろうな。面白いのう」

「感心してる場合じゃないよ、ノーラ……! こんなの誰かに見られたら大騒ぎになる……!」

ロニの言葉の途中、リシェが盛大な悲鳴を上げた。

何事かと思った一同の手前、その脚に体を擦り付けたのは銀灰色の猫だった。

「フ……フランソワじゃない! もう、おどかさないでよ……!」

文句を言いながら猫を抱え上げたリシェに、この異常事態をちっとも怖がっていない彼はごろごろと喉を鳴らした。ノーラは追い掛けて来たケダモノを見て嫌そうな顔をしたが、今日のネズミ捕り長はカエルを捕る気は無いようだった。

「まあ、騒々しくて敵わんか。一旦落ち着かせよう」

カエルは上を見据え、空を旋回しながら舞っていた薄羽の小さな者に声をかけた。

「おい! そこのシルフ! クイードだろう! こちらに参れ!」

鋭い呼び掛けに、トンボのような薄羽を付けた者が振り向いた。一見、子供のように見えるが、ルーシャよりも小さく、本当にトンボ程に小さい。その肌は全体に透けるような白とも水色とも、或いは藤色ともつかぬ色が揺らめき、短く見える髪の先は空気に溶け、どこまでが実体なのか判別し難い。それはふわっと舞い降りてくると、朧だった輪郭が急にわかりやすくなり、白っぽい衣を纏っているのがわかった。背で忙しく動く羽根は紙ほど薄いガラス細工のようにクリアな輝きを撒いた。

リシェが、「妖精だわ……」と小さく呟くのが聞こえた。クイードと呼ばれた彼は、カエルの上で茶目っ気のある空色の目をくりくりさせた。

「おやおや、誰かと思えばノーラ・マーナ様じゃあないですか。お元気そうですね。最近、面白い話は有りませんか?」

「うむ。お前も息災のようだが、今は世間話をしておる時間が無い。お主、いま誰に呼ばれたかわかっておるか?」

「マリアンヌ様かと思いましたけど……?」

言われて気付いたらしい妖精は、レンの方をじろじろと見て、小首を傾げたが何も言わず、続いてロニの方を見た。引き気味の青年の手前、瞬間移動するように至近距離で飛びながら眺め回し、何度も首を捻った。

「こちらは――ディルク様……ですよね? なんか雰囲気変わりました?」

またその話か、と思ったロニが何か言う前にノーラが口を挟んだ。

「そ奴はディルクではないし、我が女王はもうこの世にはおらぬ」

「えっ⁉ じゃ、こんなに大勢を一度に誰が呼んだんです?」

「強いて言えばマリアンヌだ。――だが、その力を行使したのは彼女ではない。そこに居る子孫だ」

「へえ〜……子孫! お子さんでもなく? 人間は本当に早逝ですねえ……」

軽薄な調子だが、ちょっぴり寂しそうに言う妖精にノーラは言った。

「クイード、仲間と共に皆を落ち着かせてくれ。用のある者は一度下がらせよ」

「はーい。お安い御用です!」

妖精は軽やかな返事を残し、流れ星が下から飛ぶような速さで飛び上がると、呼び付けた仲間と共に各所へと飛び去った。

「……ノーラが居て、本当に良かったよ……」

腰が抜けそうになっているロニが呻くと、リシェがかくかく頷いた。辺りの光景にただただ目を奪われているエトの傍で、レンはノーラを見下ろした。

「ノーラ様……貴方様は本当に水妖なのですか? 本当は、もっと高位の……――」

カエルは王冠をちょいちょいやりながら、鼻で笑ったようだった。

「レンよ、私は偉大なるカエルの水妖だ。それで良いのだ。その時の私が一番、我が女王に誇れる私である故にな」

「……」

レンが思惑有りげにカエルを見つめる中、クイードは彗星のように光の尾を引いて戻ってきた。

「ノーラ様、皆、お召しになられた方々に会いたいそうです。こちらに集めて宜しいですか」

「わかった。なるべく静かにな」

やがて、そぞろにやって来た彼らが周囲に集まった。それはまるで、物語の中身が一堂に介した様だ。ペガサスや妖精など種族の想像が付く者も居れば、黒く大きな狼や狐のようなもの、小さなリスのようなもの、二種以上の動物が合体したような何者か分からない者も居た。

「凄いわ……」

階段の所に座って、フランソワを膝に乗せたリシェが呟いた。

さながら、王座から見下ろすようなそこで、ロニも隣で頷いた。レンやエトは静かにしていたが、彼らも十二分に驚いているようだ。唯一、冷静なノーラがよく通る声で呼びかけた。

「皆の中に、この契約について詳しいものはおらぬか」

ざわざわと森が揺れるようなざわめきの後、その声は響いた。その言葉は人語を話しているわけではなさそうだったが、直接心に語るように意味が流れ込んできた。

〈――私が存じている、ノーラ・マーナ〉

雷鳴か地響きのような声に、兄妹がすくみ上がり、音とは別の伝え方である為か、エトもびっくりする中、群衆の中から居ると思わなかった巨体が急に現れ出た。生きた鉄のように全身を頑健な鱗に覆われたそれは、どう見ても竜だ。その身は天井にゆうに届き、翼は広いロビーが狭く見える程大きい。

「ゴフェル、お主も居たのか」

顔見知りらしい。ちっとも臆した様子のないカエルに、巨大な竜は頷いたようだ。

〈この契約は、女王マリアンヌが我らに魔法を預ける為のものだ〉

「ほう。さては、お主ら一人一人が魔法書を預かっておるのか」

〈そうだ。各々のやり方で持ち合わせている……女王は相応しい術者が現れたなら、各々の裁量にて委ねるようにと〉

「危なっかしい契約よのう……現在の権限は誰に委ねておるのだ?」

「優先順位を伺ってある。女王マリアンヌより始まり、ディルク・ソルベット、レン・グラスワンド――更に以下に続いている」

「そうか。我らの中に、名を連ねる者は居るか?」

〈ノーラ、お主の名もある。そちらの子孫らも。順位はお主が上だ〉

自分の名も有ると聞いたノーラはちょっと嬉しそうに王冠をいじり、頷いた。

「宜しい。ならば聞こう。ジェラルドの『灰』を預かったものは居るか?」

ジェラルドの名にレンが顔を上げ、皆が先程よりも大きくざわついた。明らかに恐れや畏怖のさざめきにロニやリシェが不安な顔をする中、クイードがふわふわ浮きながら気楽に言った。

「居ない様です、ノーラ様」

「まあ、そうであろうな。では、ディルクの魔法を預かった者は」

〈――フラクシヌス、エクセリシア、これへ〉

ゴフェルの呼び掛けに、辺りのものがすうっと引いた場所から進み出たのは、ロニが水妖のイメージを抱いていたウンディーネだろう――生きた水そのものの乙女と、ドリュアスの一族と思しき緑の葉を茂らせた乙女だ。二人とも水と葉で出来たドレスを纏ったような可憐な姿だが、背丈は人よりも遥かに大きい。それぞれの髪は地を引き摺るほど長く、フラクシヌスのそれは宝石のように光る小川のようで、エクセリシアのそれは花々が咲き乱れる花畑のようだ。

わたくしたちがお預かり致しました』

麗しい声を揃えた乙女らに、ノーラは頷いた。

「その魔法、子孫に受け継ぐは可能か?」

指差されたソルベット兄妹がどきりとする中、乙女らはおっとりと見つめてから、すぐに首を振った。

「残念ながら、お渡しできません」

「『根』は、人間には扱えません……」

「やはりそうか……ディルクは無茶をしておった故な」

カエルは顎を撫でると、頷いた。

「では、それを預かるお主らと子孫の契約は可能か?」

『はい。お望みとあらば……』

乙女らは頷いたが、少々言いづらそうに顔を見合せ、困った様に眉を寄せた。それを見たカエルがどっしり腕組みして言い添えた。

「術者として頼りないのは重々承知だ。どちらもお主らを顕現させる程の力はない。有事の為、そなたら別々に兄妹に鍵のみを預ける。それならどうだ?」

乙女らは丁寧に頭を下げた。

「鍛錬次第でございますが、それで宜しければ」

「使えるかは未知数ですが、お渡ししましょう」

「それで良い。フラクシヌスは兄に、エクセリシアは妹に授けよ」

『かしこまりました』

二人は流れるように歩み寄り、ぽかんとしているロニとリシェの二人の手を取った。

「偉大なる『花園の魔法使い』の子孫さま。私はフラクシヌスと申します。お名前をお聞かせ願えますか?」

水に触れているような感覚のフラクシヌスの手にどきどきしながらロニは答えた。

「ロナルド・ソルベットです……」

彼女はにこ、と微笑み、緊張した手に片手から雫を落とした。それは跳ねると同時に丸くなり、中に水が泡立つガラス玉のようになって落ち着いた。

リシェの方はルーシャの時同様、細長い形の種を託された。その時、エクセリシアはロニの傍らに有ったルーシャの鉢植えに気付いてはっとした。

「あら……もしや……ルドラクシャ様?」

気付かなかったといった様子の乙女は、少し緊張した様子で腰を折った。ルーシャは恥ずかしそうにちょっぴり顔を覗かせて頷いた。

「まあ……随分、小さな御姿で……」

労わる様な乙女の言葉に、少女は首を振った。

「……いいの。ロニ様のお役に立てれば……」

「ロニ……ロナルド様の? 左様でございましたか」

エクセリシアはロニの方を見てから、ルーシャへと視線を戻した。

「御姿を見なくなってより、皆と心配しておりましたが……良きあるじに巡り会えたのですね」

「……うん」

こくりと頷いた少女に「それはようございました」と微笑みかけたエクセリシアは、フラクシヌスと共にしずしずと下がっていった。

何やら夢を見ている心地で見送ったロニ達に対し、ノーラがパンと手を打った。

「では、皆の者――手続きを優先してすまなんだ。心して聞いてほしい」

その声に、カエルよりも明らかに立派な姿の者たちが、静かに耳を傾けた。

――このカエル、やはり只者では無いらしい。

「こちらに一人目の『灰』、ファウストが舞い戻った」

再び、周囲がざわめいた。

「奴は此処よりわずかに離れた地で生命をいじり、”まがい物”を作っておる。どう行動しようと、あれの目的は世界を灰にすことに相違あるまい。先の戦火より、お主らの一部が育てた世界を再び壊そうと画策しておる」

今度は各々がガヤガヤと喋り始めた。断片的に、悪態や怯えのようなものがロニ達にも聞こえた。「生意気な」とか「元は人間の分際で」などという他に、「なんて恐ろしい」、「隠れなくては」などの言葉が入り混じる。

「お主らには直接関わりなき事。しかし、我が女王は今日こんにちの為に、お主らと約束を交わしたものと私は見る。我らの力は”まがい物”なぞに遅れは取らぬが、知っての通り、ファウストは不死だ。正面より戦おうと、瞬く間に蘇ろう。奴を封印、或いは行動不能にする為、誰ぞ、知恵の有る者はおらぬか?」

先程のざわめきより一転、今度は静まり返ってしまった。

何でも知っていそうなゴフェルさえ押し黙って首を垂れ、乙女らも困り顔を互いに見交わす。

「ふむ……では、ファウストが隣町で人心を操作しておるのだが、誰かこの魔法を見た者は?」

「あ、それなら僕が存じております、ノーラ様!」

ぴょんぴょん跳ねるように進み出て来たのは、ふさふさの尻尾を持ったリスだった。知っているリスより一回り以上は大きいが、それでも短い手や黒い目が愛らしい。

「ラタトスクか、お主の名は」

「カスタネアと申しますです」

ぺこぺこしたリスは、呼び出されずとも普段からこちらによく来ているらしい。

発言を許されるなり、彼はベラベラ喋り始めた。

「あの魔法は、ハーピーのお下品な”歌”でございます。ひと月ほど前は毎日のように歌っていてクソやかましかったのですが、僕がうるさいと申しても、奴らめ、全く無視しやがるのです……ええ、最近はだいぶ静かになりましたがね、あの妙な音を立てとる塔がございますでしょ……あれが代わりをしていまして、町の連中はすっかりおつむがイカレておるのです」

口の悪さが窺える可愛いリスの口上に、ロニやリシェがくすくす笑った。もともとそういう種族なのだろうか、ノーラもニヤニヤしながら頷いた。

「なるほど、お主の話は非常にわかりやすい。あの塔を壊せば、解決しそうか?」

「ええ、ええ、きっとそうです。僕も腹いせにぶっ壊してやろうかと、音を操作する場所に行きましたが、どうもおっかない者がウロウロしていてやめましたです」

「ほう、場所を突き止めるとはやるではないか。案内を頼めるか」

「あのやかましいのを止めて下さるならば喜んで」

「よし。ついでにもう一つ聞こう。此処に、ハーピーの歌を寄せ付けぬ子供が居る。こ奴の耳に掛かった魔法か、掛けた者に心当たりはないか見てくれ」

「なんと。そんな凄い御方がいらっしゃるので?」

示されたエトを、リスは興味深そうに眺め、周囲をトランポリンでも使う様に跳び回って小首を傾げていたが、不意に何かに驚いて跳び退いた。近くに立っていたレンの上着のポケットに大急ぎで飛び込んだリスは、顔だけ覗かせてノーラを見た。

「ノ……ノーラ様! この小僧っ子は何ですか!」

「何とは何だ」

「人間の姿ですが、人間じゃありませんよね? あ、いや、半分は人間かな?」

判然としない感想をはっきり言ったリスに、ロニ達は息を呑み、エトは訝しそうに周囲を見る。リスは冗談を言っている様ではなかった。

「お主にはそう見えるのだな。カスタネアよ、こ奴のような者を他に見たことは?」

「あ、有りませんよ……生まれてこの方、一度も……」

「宜しい。お主の意見は大変参考になった。下がっておれ」

リスはエトの方を見て小鼻をひくつかせていたが、ポケットからするりと抜け出ると、何処かに走って行った。レンがノトリアでエトと会話をするが、明言は避けたようだ。ノーラは思案顔で虚空を眺めていた。

〈――ノーラ・マーナ〉

ゴフェルだ。彼が喋る度に兄妹は驚いたが、その声は恐ろしいというよりは威厳に満ちていた。

〈我らは女王と約束した故、力は貸そう。しかし、そちらにはディルク程の術者は一人しかおらぬようだ。一人では全員の力を得るのは無理であろう〉

「うむ。元より無理とは思うておったことだ……お主らが自主的に力を貸すにしろ、こ奴らとの絆も弱い。故に、ファウストを止めるに最も可能性が高い力をと思った」

空中に寝転ぶようにしてふわふわ飛んでいるクイードが言った。

「ファウストが力技で倒せぬことは、先の戦いでわかっていますものねえ……そういや、ジェラルド様はどちらに?」

「ジェリーは来ておらぬ。死んどるのか、何処で油を売っておるのか知らんがな」

「アレ? そうなんですか? ちょっと前にお召しを受けましたけど」

『えっ!』

声をハモらせたのはロニとレンだ。さすがにもう二人目の名前がジェラルドだとは気付いている。ノーラはクイードに黒い目をすがめた。

「いつだ?」

「えーと……僕らとしちゃ最近ですが、人間の時間感覚だと……何百年前? いや、何十年前かなあ? 手紙を届けてほしいって言われまして。その前にも一回、いや、もう二回かそこら有ったかな? ノームに手紙を頼まれまして、鳥に渡しました。会うとあいつら、仕事や金品の話でうるさいから」

ロニとレンがどちらからともなく顔を見合わせた。レンに名前を与えた者は手紙でそれを伝えて来た。リシェも目を瞬かせていた。ノームは、小鳥から手紙を受け取ったと言っていた。では、あの手紙の送り主は――……

「あ奴に会ったか?」

「いーえ、お召しは受けましたが、会っていません。ホラ、僕らやジェラルド様は、『おしゃべり日記』の仲間でしょ? あれは今、この図書館のレン様のお部屋に有るのですが、あれに書き込みが有ったのでやって来たまでです」

クイードによれば、どうやら、交換日記のようなものらしい。参加権限を持つ者がその本に新たに書き込むと、同じ参加者には察知できるという。二人目の『灰の魔法使い』はこの参加者で、旧時代の頃は他愛ない噂話を含め、よく書き込みを楽しんでいたらしい。恐らく、リシェがイレーネと共に通された部屋に有るのだろう。

「日記を通してやり取りをしたわけか。ジェリーめ、此処に来ておるな……?」

この場に居るかのようにカエルは辺りを見渡し、ふと、リシェの膝の上で香箱座りをしている銀灰色の猫に目を留めた。カエルが、猫をじっと見る。猫は金目を瞬かせ、眠そうな顔で見返す。きょとんとするリシェやロニが二者を交互に見る中、猫はゆったり尾を振りつつ、カエルは睨むようにしばし見合っていたが、カエルの方がフンと鼻を鳴らして目を逸らした。

「ま、これだけ騒げば気付かぬ筈がない。それで現われぬということは、奴にはやる気が無いか、もはや何の力も無い燃えカスなのであろ」

幾らか辛辣に言うカエルに対し、猫は呑気にあくびをした。

「さて、改めて考えねばならんが――……」

〈ノーラ・マーナよ、ひとつ良いか〉

不意に響いたその声はゴフェルに似ていたが、もっと猛獣じみた唸り声だった。

「なんだ、ペトクーザ」

声を上げたのは、やや離れた場所の床に優雅に身を横たえていた巨大な狼だ。人間なぞ丸呑みだろう大きさだが、色づき始めた麦のような淡い色をした毛並みは美しく、よく見ると、その太くしなやかな足は六本有るようだった。狼は琥珀そのもののような知性に溢れた目を、レンに据えていた。

〈我らを呼んだ『火』を持つのは、女王の血統と聞いたが誠か〉

「そうだ。お主も感じていよう」

〈だが、そ奴は我らの仲間を焼いた男でもある〉

低い指摘に、レンが表情を強張らせ、ロニが腰を浮かせた。ノーラが制止を促すように片手を伸べ、拍子にズレた王冠を直しながら言った。

「ペトクーザ、それは――」

「ノーラ様、私からお話しいたします」

カエルが何か言う前に、レンはエトをロニの方へ預け、狼の前に静かに歩み出た。

厳しい眼差しと鋭い爪と牙のある者の手前、片膝を付いて丁寧に頭を垂れる。

「豊穣の精霊・ペトクーザ様とお見受けいたします」

〈如何にも。そなたはレヴィン・ガンズと呼ばれていた人間だな?〉

「はい。今はレン・カンデラの名をお借りしています」

〈我が同胞、並びに縁ある者と繋がりし魔法書を、存じていよう〉

「はい。過去に私が焼いたものの中に、有ったかと」

〈素直に認めるは重畳である。だが、理解して尚の行為――たとえ女王の血筋といえど、火を弄びて罪なき者を焼く行為、容易に許すわけにはいかぬ〉

「仰る通りです。申し開きはございません」

〈ならば高貴なる血筋の者よ、我が牙の前に手足を差し出す覚悟はあるか〉

「はい。それで焼かれた者の心が慰められるのであれば――」

「ま、待ってッ‼」

急に大声を上げて立ち上がったのはロニだ。レンは振り返らなかったが、狼は怪訝な顔をしたようだった。

〈どうした、ディルクの子孫〉

「僕は……ロナルド・ソルベットです。……あの……彼は、自分の意志で貴方の仲間を焼いたわけじゃありません……! ファウストに騙されたんです! もう、アルス・ノトリアから罰も受けています!」

〈アルス・ノトリアだと?〉

怪訝そうに身を揺らした狼を見て、ノーラが言った。

「レン、足を見せろ」

反論を許さぬ語調に、レンが躊躇いがちにズボンの裾を捲り、土気色にべたりと汚れた包帯を外す。露出した大火傷――赤く醜く爛れたそれを見て、周囲からざわめきが起きた。エトは無論の事、リシェもそれほどとは知らなかったのだろう、驚いた顔をしている。ノーラが静かに言った。

「ペトクーザよ、豊穣を司り、土に関わる者と親しいお主の怒りは尤もだ。しかし、この男は生まれてこの方、ファウストの策謀に囚われて生きてきよった。そこのロニや私と出会わずにいたら、真実を知ることなく、三人目の『灰の魔法使い』となっていただろう」

狼はノーラの声に耳を傾けながら、頭を下げたままのレンを静かに見つめた。

「ぺ……ペトクーザ様……お願いです、レンさんを許してあげて下さい……! 彼はたった一人で、ずっと苦しんできたんです……! お願いします!」

平伏せんばかりに頭を下げるロニを狼は眺め、どこか呆れたように言った。

〈ロナルドよ、ディルクは斯様に頭は下げなんだぞ〉

「僕は、ご先祖様とは違います……魔法使いじゃないし、凄いところなんてちっとも無い凡夫です。だけど、それが誰かの為になるのなら、頭なんか幾らでも下げます……!」

狼は顎を引くように首を引き、愚かな者でも見下すような目をした。

〈無能ならば尚のこと。頭を下げて済むと思うな、弱き子孫よ。我が尋問に割って入るならば、肩代わりする程の覚悟が有ろうな?〉

これには思わず青くなるロニに対し、レンがサッと顔を上げた。

「ペトクーザ様……彼は関係有りません!」

鋭い声を発した罪人を狼が睨んだ。周囲が嫌な予感に緊張した時だった。

「お待ちを、ペトクーザ……」

おずおずと響いたのは、小さな声だった。ロニが傍らを見下ろす。植木鉢に植わった小さな樹木から、少女が顔を覗かせていた。目は潤み、肩はきゅっとすぼめている。

〈そなた、ルーシャではないか。何用か?〉

「彼を、許してあげて下さい……」

小さいが、はっきりした言葉に、狼は驚いた様子で目を見開いた。

〈何を言う。そなたの世界も、焼かれたのでは――〉

「……そうです。私も、その方を罪人つみびととして憎み、恐れました。……で、でも、ルーシャを助けてくれたのは、ロニさまとノーラさま、そして、その人です」

レンが信じ難いものを見る目で振り向いた。ルーシャはその灰色をこわごわ見返し、狼を見た。

「いま、私の世界は息を吹き返しました……彼とノーラさまが恐ろしい『火』を消し、ロニさまが『水』をくれたから……」

当初、あれほどレンを恐れていた少女の健気な言葉に、ロニがその傍に屈んだ。

「ありがとう……ルーシャ」

少女はにこ、と気弱にはにかみ、尚も狼に向き合った。

「私、助けてくれたロニさまの力になりたい……お願い、ペトクーザ……ロニさまのお願いを、聞いてあげて……!」

精一杯の懇願に続くように、ロニは改めて頭を下げた。レンは床についた拳を握り締め、懺悔するように平伏している。狼はその様子をじっと見下ろした。どれほどそうしていたか、誰もが息を潜めて沈黙する中、彼は厳かに呟いた。

〈……高位精霊を手懐ける凡夫か〉

その呟きはひどく小さかったが、次に響いた声は忌々しそうでもあった。

〈ロナルド、凡夫といえどそなたは確かにディルクの子孫……容易く他者にひれ伏すな。”レン”も楽にいたせ〉

二人の青年が窺う様に顔を上げると、狼は大儀そうに尾を緩やかに振り、つんとそっぽを向いた。

〈わかった。親しき者とノーラの顔を立て、この場は収めよう……双方、二度は無いと心得よ〉

「……ありがとうございます……」

レンは改めて丁寧に頭を下げ、ロニはさっきの話を聞いていたのか疑わしいほどペコペコし、ルーシャの小さな手と嬉しそうにタッチした。

〈ノーラ、何をニヤニヤしておるのだ?〉

やり場が無いのか、苛立たしそうに噛みついた狼に対し、カエルはにやけたままロニ達を見ていた。その視線の先では、戻って来たレンにエトが飛びつき、兄妹やルーシャがにこにこして迎えている。

「いや、お主が声を上げたのは良い事だと思うたまでだ。レンに対し、わだかまりの有る者は他にも居よう……禍根を残したままでは後々、面倒だ」

〈よく言うわ。これで収まらねば、そなたはイレーネを呼んだに決まっておる〉

「フッフッフ、わかっておいてあの態度とはお主もなかなかの道化ではないか。しかし、ルーシャが申したことは事実だ。ロニは案外、化けるかもしれぬ」

〈化けてもらわねば困る。奴は自分に懐いた精霊が何者か知らぬのだろう?〉

「私も知らん。故に放置した。あ奴らが勝手に親しくなっただけだ」

〈……そなたらしいやり方だ、ノーラ〉

呆れ顔をした様子の狼が身を引いたとき、ロニがひょいと手を上げた。

「あの、ノーラ、ちょっといい?」

「なんだ、ロニ」

ロニは鞄から、慎重に”それ”を取り出した。

「これを……元に戻せる人は居ないかな?」

差し出したのは、朽ちた本……二人目の『灰の魔法使い』が書いた本だった。

「駄目かもしれないけど、これで、ファウストを騙せないかと思って……」

誠実な目で言う策略に、ノーラがにやりと笑った。

「興味深い話だ。詳しく聞かせろ、ロニ」

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