第6話 身分社会

 よくスクール・カーストというが、昭和の時代頃まではその残滓があったと思う。

 ローカルな話であるが、私の実家がある新潟県中越地区は上杉家が米沢に移封された時に残留した家臣団の街であった。


 上杉家は米沢に移転しても、公文書で越後のことをずっと「本国越後」と呼んでいたという。家臣団の近しいところは米沢に行き、一部は越後に残留して御館様の帰還を待つという立場だったようだ


 はて、京都の人で「帝の御帰還を待つ」と言ってた人は昭和の時代にはまだたくさんいたが、今はどうなのだろう。

 実家は祖先の代から関東管領上杉家の帰りを長く待っていた。

 そのため家臣団は武士だから、ヒエラルキーが存在する。

 その家を「屋号」と呼ぶ習慣が現在でもあり、「〇〇右衛門」「⚫⚫左右衛門」とその家を呼ぶのである。この「衛門」の後にランクの高い武士は「殿」「様」を付けて呼ぶ習慣が現在でもあり、殿、様が、つく家は中流以上であり、つかない家とは武士階級の身分が低い、違うというものだった。

私の実家は没落して分裂した形になっていてつかない家だったようだが、分裂前はそうではなかったらしい。

 戒名が比較的高い地位のものがついていた。武士は食わねど高楊枝である。没落貴族みたいなものだ。

だから、武士階級の高い身分との結婚などはなかったという。

 同じくらいのランク同士で結婚していたらしく、武士階級はまさにカースト制度を単純化したようなものである。


 江戸時代はこの武士階級は売買されていたという話がある。株という。

下級武士は身分を金持ちに売ったのである。


 有名なのは、勝海舟であり、祖先は新潟県柏崎市の庄屋の家に生まれた盲目の米山検校であり、検校は目が見えないハンデを負うため金貸し業の免許を得ることができた。

 それで財をなした米山検校は武士階級の株を買って武士になったわけである。それが勝海舟の祖先。


 階級も金次第だった時代というわけ。


 身分の違う同士の結婚はない。ただ明治の初め頃まで日本は一夫多妻制であった。一夫一婦制になったのは明治時代。明治天皇は一夫多妻で、大正天皇から一夫一婦制になった。明治天皇には側室が何人かいた。

 西園寺公望は正式な結婚をしておらず、婚外子が多数いた。

 一夫一婦制になっても、旧民法では妾の規定があった。愛人を持つのが合法である。渋沢栄一もそうであろう。結婚のご祝儀に使わないとかはフェイクである

 昭和の時代頃まで、一定の財力のある人は愛人がいるというのは普通のようにあった。

 地方の建設会社の社長くらいなら愛人がいたものである。(隠語で「2号さん」とか言ったものである)


 そういう時代背景があつた。週刊誌では不倫を叩くが、不倫は「倫理に反する」という意味で、愛人を持つことが倫理に反すると叩かれるようになったのは50年も経っていない話である。

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